Arban

Arban

Column with 音楽/映画覚書
阿部和重
第12回『ジュラシック・パーク』

音楽/映画覚書 阿部和重

COLUMN
INFORMATION

音楽/映画覚書

第12回『ジュラシック・パーク』


 今回の編集部からの注文は「雨」である。梅雨時にあわせて、「印象的な雨のシーン」や「雨が重要な意味を持つ作品」をとりあげよ、というわけだ。ちなみに、これを書いている今も外は豪雨である。
 周知の通り、映画にとって雨というのは画面を活気づけたり物悲しく彩ったり緊迫感や恐怖感で満たしたりと、さまざまなシチュエーションの描写に活用できるたいへん有用な演出上の小道具である。自然現象としての雨に触れたことのない観客というのはほぼ皆無に近いだろうから、なんの説明もなく作中にぱらぱら降らせても物語展開の理解をさまたげず、映像面でもドラマの内容面でもリアリティーの範囲内で適切なアクセントの役割を果たしうる。劇中で雨が降れば役者の演技にもそれに応じた行動(傘をさしたり雨宿りしたり等々)が要請されるため、芝居に奥行きが出たり起伏が加わるなどして単調な印象を消しやすくなる。てなわけで、雨と映画は相性抜群なのだがそればかりでなく、降雨のシーンをいかに見せるかどんな演出をつけるかは映画作家の腕の見せどころでもあるから、古今東西諸々の作品ごとに該当場面を見比べてみるのも一興であろう。雨の演出になんのアイディアも持っていないような監督や製作者はさすがにちょっとどうかと思うので、まんいちそんな映画を見つけてしまったらレビューサイトなどでやさしく指摘してあげるとこの業界もいっそう活性化するかもしれない。
 今回選んだ1993年公開のスティーヴン・スピルバーグ監督作『ジュラシック・パーク』は、小道具としての雨の取り扱いにおいてお手本となるような一作である。まずはその「印象的な雨のシーン」を振りかえってみよう。
 それが見られるのは、パーク開業前の視察ツアー参加者六名が三人ずつにわかれて乗っている二台の自動運転車が、「ティラノサウルス区」で立ち往生してしまう夜の場面である。車がそこに着いたばかりのときはまだ青空だった。ティラノサウルスはいっこうに姿をあらわさず、餌でおびきよせるためにケージにつないだ山羊を地下から浮上させるが、めあての恐竜はやはり出てきてはくれない。
 そうした状況が描かれるなか、見のがしてはならぬのが、ジェフ・ゴールドブラム演ずる数学者がローラ・ダーン演ずる古植物学者に対しカオス理論を説明する際、プラスチックコップ入りの飲み水を手のひらに二度たらし、水滴がおなじ方向には流れおちないことを示すくだりである。これはパニックサスペンスの展開上、パーク計画の危険性の根拠として未来予測と自然管理の不可能性を説き、その不安感を観客に共有させるための物語上の手続きだが、それと同時に、この映画においては水=液体が特別重要な小道具であることをほのめかす描写にもなっている。どういうことか。
 恐竜復活のそもそものきっかけが血液=液体であることはすでに物語られている――恐竜の血を吸った蚊に樹液(これも液体)が降りかかってかたまり琥珀と化し、それが採掘されて絶滅種のDNAが採取され、クローンが生みだされるといった経緯だ。したがって、ティラノサウルス初登場の場面で液体が全面的に活かされるのは必然的であり、当然の演出であると言えよう。なお、映画前半の化石発掘調査場面でショットガンを地面にぶちこみ、地中にゆきわたる音波をたどることによって恐竜の骨が埋まっている位置を測定するという方法が紹介されているが、そこでもやはり化石に音の波動が降りかかっている――すなわち樹液も音波も上から〈降りかかるもの〉として描き出されることにより、ティラノサウルス登場場面での〈雨降り〉を予告していると言えるのである。
 自動運転車が「ティラノサウルス区」に到着してから日が暮れるまでのあいだ、作中ではいくつかのこまった事態が起こる。パーク設立者に不満を抱くシステムエンジニアがひそかに進める恐竜胚の横流しの悪だくみのせいで施設の電気系統が働かなくなり、自動運転車は立ち往生してしまい、視察ツアーは中止を余儀なくされるのだが、そんななか、パークの建設された中米の島への暴風雨の襲来も告げられる。
 ティラノサウルスはそろそろあらわれつつあるが、その前に別の場所で雨降りの洗礼を受けるのが、恐竜胚を盗みだしたあとのシステムエンジニアだ。スプレー缶に偽装した冷凍装置に恐竜胚をおさめ、豪雨のなかみずから車を運転して受け渡し場所へ向かうも、ぬかるみにタイヤをとられるなどしてなかなか先へ進めない。息も絶え絶えでずぶ濡れとなる巨漢のシステムエンジニアは、憎たらしく振る舞う小悪党ではあるものの、ここでは気の毒になるほど溺死寸前のような姿をさらす羽目となる。電気系統が落ちているため手動でゲートを開けねばならなくなるのもまったくの自業自得だが、それでも濡れ鼠となって焦りまくる彼の様子は少なからぬ切迫感を観客にもたらすだろう。そうしたサスペンスの醸成に、雨という小道具が貢献しているわけだ。
 そして場面が変わり、いよいよティラノサウルスが登場する。まずはパーク設立者の孫にあたる少年ティムが、車内で暗視カメラを発見しさっそくそれを装着する。自動運転車はフロントやリアウインドーやドアウインドーはもちろんルーフパネルにも無色のガラスがはめこまれていて外の景色が眺めやすいつくりになっており、映像上ではそこにぽつぽつくっついた雨の雫が目だつように写りこんでいる。つづく画面で車の窓ガラスに雨水がしたたりおちるさまが示されると、不穏な震動音の響きが重なり、車内に置かれたコップの水に波紋がひろがる――このコップの水の波紋がどのように撮られていたかを説き明かす記事が先頃ウェブで公開されたので、以下にリンクを張っておこう。
 「映画『ジュラシック・パーク』で恐竜の足音で揺れるコップの波紋はこういうトリックだった」
 危険の接近を伝える震動音や水の波紋のあと、雨の降りしきる外の模様を暗視カメラ越しに見たティムは、生き餌にされた山羊がいなくなっていることを知って戦慄する。注目すべきは次の展開だ――食い殺された山羊の残骸が車に〈降りかかる〉のである。車体には透明な雨滴と山羊の鮮血がともに付着する。見あげるとそこにはティラノサウルス――稲光がその姿を照らしだしている。
 震えがくるくらい見事な流れだが、ここからがさらに素晴らしい。ティムの姉のレックスが車内にあった懐中電灯をつけてSOSのように光線をあちこちに向けてみせる。車のルーフガラスに降りかかった雨滴にも光があたり、反射してきらきら光っている。ティラノサウルスは当然ながら懐中電灯の光線に反応し、子どもたちの乗る車を襲う。ルーフガラスが破壊されたあと、衝撃を受けた車は逆さまに転がってしまう。子どもたちと車はぬかるみに沈んでゆく。このまま助けられなかったらティムとレックスは泥に埋もれて化石になっていたかもしれないが、大人たちの機転によってとりあえずは救助されるというのがその後の展開だ。
 ちなみに、ぬかるみから助けだされた直後、間近にいるティラノサウルスを目にして絶叫する泥だらけの少女レックスをおさめたショットには心から感動させられる。あれを瞳に焼きつけるだけでも、『ジュラシック・パーク』を観る価値はあると筆者は思っている。
 それはともかく、雨降り場面のクライマックスは「ティラノサウルス区」のくだりではなく、システムエンジニアのエピソードのほうで描かれる。スリップ事故を起こした巨漢の小悪党は、大量の雨水が滝のように流れおちる斜面で四苦八苦していたところ、愛嬌のある見た目ながらも毒を吐いて襲ってくるディロフォサウルスと遭遇し、殺されてしまう。その際、恐竜胚をしまってあったスプレー缶は雨水の滝に流されてゆき、転がり落ちた先で今度は滝のような泥水が上から〈降りかかり〉、土のなかにどんどん埋まっていってしまうのだ。次の場面では雨はやんでいるから、雨降りにまつわるエピソード自体は幕引きとなっているが、〈降りかかる〉描写はなおも変奏されてゆくことを注記しておこう。
 かくして、採掘されて採取されたすえに復活した恐竜のDNAは、またもや地中深くに埋まってしまうという元の木阿弥的展開が成立する――かような元の木阿弥的展開は、『ジュラシック・パーク』の全篇をつらぬく形式的特徴となっている。それを可能にしたのが雨という小道具であり、スピルバーグをはじめとする製作陣の創意である。果たして今、これに比肩しうる雨の取り扱いが見られる映画は、どれだけ存在するのだろうか。



- 作品情報 -
タイトル:ジュラシック・パーク
メディア:DVD
レーベル:ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン
発売日:2006年4月6日
Amazon:
http://amzn.asia/49wA0v6

PROFILE

阿部和重
阿部和重

1968年 9月23日生まれ おとめ座
山形県東根市出身日本映画学校卒業
1994年「アメリカの夜」で第37回群像新人文学賞を受賞しデビュー。その後、『無情の世界』で第21回野間文芸新人賞、『シンセミア』で第15回伊藤整文学賞・第58回毎日出版文化賞をダブル受賞、『グランド・フィナーレ』で第132回芥川賞、『ピストルズ』で第46回谷崎潤一郎賞を受賞。近作に『□』(しかく)『Deluxe Edition』、『キャプテンサンダーボルト』(伊坂幸太郎氏との共著)がある。

写真:キベジュンイチロウ