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Column with 証言で綴る日本のジャズ 3 川崎 燎 第3話「バンド活動を開始」 川崎 燎 第3話「バンド活動を開始」

証言で綴る日本のジャズ 3 川崎 燎 第3話「バンド活動を開始」

COLUMN
INFORMATION

証言で綴る日本のジャズ3

川崎 燎

第3話
バンド活動を開始

 


——かたや、音楽にものめり込んでいきます。

 演奏を始めたのはウクレレが最初だけど、ギターに変わるのが13〜14歳で、中学のとき。誕生日かクリスマスか覚えてないけど、アコースティック・ギターを母がくれて。それで高校(青山学院高等部)に入ったら、OBの荒木一郎(注9)さんが開設した軽音楽部があったんで、そこに入って。

 そのころは高校をサボって、渋谷の百軒店(ひゃっけんだな)にあった「ありんこ」だとかのジャズ喫茶に入り浸るんです。店のひとがいろいろなアルバムをかけてくれて、ブラインドフォールド・テスト(注10)じゃないけど、誰の演奏かすぐわかるようになることも面白かった。そんなときに、ケニー・バレル(g)の『ミッドナイト・ブルー』(ブルーノート)(注11)が「ありんこ」で新譜でかかって。それを聴いて感動しちゃって、「これはエレキ・ギターを買わなくちゃいけない」となったんです。ただし、その前にシャドウズ(注12)とかの映画は観てたんですよ。

——クリフ・リチャードと共演した映画『太陽と遊ぼう!』とかがありましたよね。

 それそれ。それのギターがものすごくカッコよくて、「ああいうふうになりたい」というのもあったんです。ただそれが即ポップスやロックにいかず、エレキを弾くのは『ミッドナイト・ブルー』を聴いたのがきっかけで。グヤトーンだかテスコ(注13)だかは覚えてないけど、エレキを買って、わりとすぐ弾けるようになった。

——ヴェンチャーズやビートルズにはまったく興味がなかった?

 興味がないというか、なんていうかな? ぼくは込み入ったものが好きなんだよね。単純なのは面白くない(笑)

——軽音楽部ではどういう音楽をやっていたんですか?

 北村英治(cl)さんがやっていたような「バードランドの子守唄」やデイヴ・ブルーベック(p)の「テイク・ファイヴ」とか。「テイク・ファイヴ」が弾けるようになれば合格って感じで始まって。曲はスタンダードで、クラリネットが主体でした。

——軽音楽部にはいくつかバンドがあったんですか?

 メンバーはいるけど、演奏会をした記憶はないです。集まって、誰かがリーダーになってジャム・セッションをやっていたという、そんな感じ。

——川崎さんの世代だと、とくに青学あたりではカレッジ・フォークが大流行(おおはや)りだったと思うんですが、そちらに興味は?

 ぼくは、それ、覚えてないんです。

——もっぱらジャズ専門で。

 高校二年くらいのときに、卒業した先輩にクラリネット奏者がいて、名前は覚えていないけど、ぼくより五つくらい上だったのかな? そのひとが認めてくれて、「うちのバンドでやらないか?」。それが、実は新宿のヤクザのドラマーがバンド・リーダーで(笑)。ヤクザだから、神楽坂だとか池袋だとか銀座だとかのナイトクラブにコネがあるんです。そこがすごく面白かった。出し物はドサ回りの歌手とストリップ・ダンサーのふたつで。

——編成は?

 ドラムス、ベース、ギターと、あとはホーンがぼくの先輩。

——そのときのギャラは?

 ぜんぜん覚えていない。裏の楽屋でストリッパーが着替えたりするのと同じところにいたのは覚えているけど(笑)。

——でも、高校生にしてみればいいお小遣いになったんでしょうね。

 当時のギャラのスタンダード程度は出ていましたよ。6時ぐらいに行って、12時か1時ぐらいまでが拘束時間。開演するのが8時ぐらいだったかなあ? ぼくらは6時半とか7時ぐらいから始めるから、ワンセット目は好きなことをやっていい。そこでいろんなジャズの曲を学んだんですよ。それを高校二年から三年にかけて、1年くらいやっていたかもしれない。

——毎晩ですか?

 毎晩かな? 同時にラジオ部にも入って。学園祭でなにか展示しないといけないんで、トーン・ジェネレーターという回路を使って電子オルガンを作ったんです。銅板を切ってキーボードにして、接点によって違うピッチ(音程)が出るようにして。シンセサイザーのいちばんシンプルなヤツですね。

 そのころはステレオがなかったから、モノラルのテープレコーダーを2台使ってステレオ録音をすることもやりました。ふたつのヘッドがあって、その距離とヘッドの高さを工夫して、半分ずつ録音できるようにしたんです。ギターを練習するときにオーヴァーダブできないと困るんで、それが発端です。

——テープレコーダーも自作?

 テープレコーダーは作ってないです(笑)。ソニーかなにかの出来合いのヤツを改造して、2チャンネルで録音できるようにしました。でも距離が狂うと音がズレちゃうから、いつも同じ距離にして。

——それが高校生のとき。

 そうです。高校ではバスケット部にも入って……

——バスケット部にも入ってたんですか(笑)。多才ですね。

 バスケットボールは激しい運動だから、それがいい訓練になったと思います。青学を全周するマラソンとか、いろんな訓練を受けたんですよ。それがその後に役立っているというか。ゲーム自体も好きだったけどね。

——それは高校の3年間?

 いや中学から六年間。

——忙しかったですね(笑)。

 バスケット部の部長だった杉野というのがのちに赤井電機(注14)の部長だかなんだかになって、ぼくがあとでシンセサイザーとかをやるときに役立ったんです。赤井からサンプラーなんかを提供してもらえたから。それは80年代になってからの話ですけど。


第4話に続く

 
(注9)荒木一郎(俳優 歌手 1944年1月8日~)高校卒業後文学座所属で俳優業をスタート。66年に歌手デビュー。同年「空に星があるように」で〈第8回 日本レコード大賞・新人賞〉を受賞。80年代後半からは活動を大幅に減らしているが、2001年以降はときおりシンガーとしての活動も行なっている。また、アムウェイのディストリビューターとしても有名。

(注10)ジャズの曲を流して演奏者を当てる遊びのこと。

(注11)メンバー=ケニー・バレル(g) スタンリー・タレンタイン(ts) メイジャー・ホリー(b) ビル・イングリッシュ(ds) レイ・バレット(conga) 63年1月8日 ニュージャージーで録音

(注12)50年代から活動を開始し、歌手のクリフ・リチャードと組んだクリフ・リチャード&ザ・シャドウズとしてデビューしたイギリスのエレキ・バンド。

(注13)国産の楽器メーカー。
 
(注14)1946年に設立され2000年に倒産した音響・映像機器メーカー。ブランド名は、「アカイ」「AKAI」。


 
 

PROFILE

小川隆夫
小川隆夫

1950年、東京生まれ。東京医科大学卒業後、81~83年のニューヨーク大学大学院留学中に、アート・ブレイキー、ウイントンとブランフォードのマルサリス兄弟などのミュージシャンをはじめ、主要なジャズ関係者と親交を深める。帰国後、整形外科医として働くかたわら、音楽(とくにジャズ)を中心にした評論、翻訳、インタヴュー、イヴェント・プロデュースを開始。レコード・プロデューサーとしても数多くの作品を制作。著書は『TALKIN’ジャズ×文学』(平野啓一郎との共著、平凡社)、『証言で綴る日本のジャズ』、『同 2』(駒草出版)、『マイルス・デイヴィスが語ったすべてのこと』(河出書房新社)、『マイルス・デイヴィスの真実』(講談社+α文庫)など多数。2016年にはマイルス・ミュージックにオマージュしたバンド、Selim Slive Elementzを結成。2017年8月にデビュー作を発表。