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Column with 証言で綴る日本のジャズ 3 川崎 燎 第5話「スタジオ・ミュージシャンに」 川崎 燎 第5話「スタジオ・ミュージシャンに」

証言で綴る日本のジャズ 3 川崎 燎 第5話「スタジオ・ミュージシャンに」

COLUMN
INFORMATION

証言で綴る日本のジャズ3

川崎 燎

第5話
スタジオ・ミュージシャンに

 



——71年に初リーダー作を吹き込みます。

 それは「オスカー」にポリドールのプロデューサーだかディレクターだかが観に来て、「レコードを作らないか?」といわれて、「いいですよ」。それで吹き込んだのが、前田憲男(p)さん編曲の『恋はフェニックス/イージーリスニング・ジャズ・ギター』。当時流行っていたバート・バカラックやビートルズの曲をジャズふうに演奏したものです。

——ウエス・モンゴメリー(g)のCTI路線ふうのレコードですね。

 はい。リズムはチンさんがベースでドラムスが村上寛、ピアノは大野雄二さん。前田さんが編曲したいろいろなアンサンブルや女性コーラスも入って。大学卒業の直前か直後、22歳のときかな? そのレコーディングがきっかけで、いろいろなスタジオ・セッションを斡旋するインペグ屋(注18)がぼくを発見して、スタジオ・ミュージシャンをやるようになるんです。前田さんの編曲した譜面を全部読んで、すんなりやってたから、「こいつはできるんじゃないか?」と。

——それでスタジオ・ミュージシャンになっていく。

 スタジオ・ミュージシャンのほうはたいへんで、毎日朝の9時から夜中の12時までやって。神谷重徳(g)というのがいて、彼も譜面が読めてギターが弾けたから、ふたりで年に1千万円稼ごうという競争を始めたんです(笑)。

——1千万は超えたんですか?

 いいところまではいったはずだけど、どうだったかな(笑)。

——スタジオ・ミュージシャンのギャラは時間給? どれとも曲単位?

 時間給だったと思います。スタート・ラインはワン・セッションが3千円くらい。有名になって人気が出てくるとダブル・スケールとかトリプル・スケールになるんです。トリプル・スケールになれば、一か所行くだけで1万円近くになる。

 30秒とか60秒とかのジングルやコマーシャルなら30分か1時間で終わるけど、歌謡曲やポップスの歌手、あるいはインストのカヴァー・アルバムなんかをやるときは丸半日とか1日かかることもありました。でも、普通は1〜2曲の仕事です。

 当時は5つくらいスタジオがあったのかな? 六本木にTSCがあって、アオイスタジオがあって、モウリスタジオがあって、それぞれのレコード会社のスタジオがあって。それらを朝から晩まで一日に五〜七か所ぐらい駆け回っていたんです。だから最低でも1日に数万円にはなっていたんじゃないかな? ひとりではできないからボーヤをふたり雇って、車を2台買って、先にセッティングしてもらって、ぼくは自転車で通う(笑)。

——先乗りで準備をしておいてもらうんですね。

 交通渋滞だから自転車のほうが早い(笑)。行くと、楽器がセットされていて。だから機材は全部2セットずつ持っていたんです。そういうことを2年くらいやっていたのかな? お金にはなるけど、それが本当に嫌になって、それがアメリカに行くいちばんの理由になったんです。「こんなことやってたらどうにもならない」というのと、アメリカから来るミュージシャン、ドラマーのロイ・ヘインズとかジャック・デジョネットとかエルヴィン・ジョーンズとかを観ると、ぜんぜん違うなと思ってね。これじや日本でいくらやってもラチが明かないというか、行き場所がないという境地に達したんです。

——でも、ライヴ活動もしてたでしょ?

 そのころは自分のバンドでね。最初はサイドマンから始めて、どこかの時点で自分のバンドを始めたんです。

——当時、ジャズが新しいスタイルに変わってきたじゃないですか。オーソドックスな4ビートから離れて、先ほど川崎さんが名前を挙げたラリー・コリエルやジョン・マクラフリンなんかが出てきて。そういう動きはどう感じていましたか?

 もともとぼくは4ビートの奏者じゃないんです。4ビートをどう演奏するかは学んだけれど、ロックやファンク的な音楽のほうが体質的に合っていた。スタジオ・ミュージシャンをやっているといろんな仕事が来るんです。「サンタナ(注19)みたいに弾いてくれ」とか、「ジミヘン(ジミ・ヘンドリックス)(注20)みたいに弾いてくれ」とか、ブラッド・スウェット&ティアーズ(注21)やシカゴ(注22)のカヴァーみたいのとか。

 そういうのをこなさないといけないから、レコードをたくさん聴いて、ブルースやロックのギタリストの演奏方法も学んだんです。同時に演歌のギターも弾けないといけない。フォーク・ギターで、ジョーン・バエズ(注23)のフィンガー・ピッキングみたいなものもやらなきゃいけないとか。だからスタジオでの経験はいろいろな奏法を学ぶ上ですごく役立ちました。

——サウンド・リミテッドやソウル・メディアで違和感なく演奏できていたのもそれが理由ですね。

 ジャズ・ロックやフュージョンがぼくのルーツで、ジム・ホールやケニー・バレルではないんです。プロで演奏活動を始めた当時は、ケニー・バレルやウエス・モンゴメリー、いちばんのフェイヴァリットはグラント・グリーンだったけれど、そういうひとにも影響は受けて、演奏していました。

 猪俣猛さんのサウンド・リミテッドと稲垣次郎さんのソウル・メディアでやっていた音楽は完全にジャズ・ロックでしたから。稲垣さんのところは佐藤允彦(p)さんが作編曲をしていて、猪俣さんのところは前田憲男(p)さんかな? そういうグループで『ヤング720』(注24)という朝のテレビ番組に毎日出ていたんです。ソウル・メディアは「ピットイン」にも出るようになって。だから日本を離れるまでのメインの仕事はジャズ・ロックでした。


第6話に続く

 

(注18)インスペクター(Inspector)の略で、ミュージシャンを手配する事務所や個人のこと。

(注19)カルロス・サンタナ(g)を中心にしたラテン・ロックのグループ。69年にレコード・デビューし、現在までに「ブラック・マジック・ウーマン」などヒット曲多数。

(注20)ジミ・ヘンドリックス(g 1942~70年)66年に渡英し、翌年、米・西海岸で開催された「モンタレー・ポップ・フェスティヴァル」で大評判を呼ぶ。ロック・ギター奏法に大きな変革をもたらしたものの、70年に薬物の過剰摂取で死去。

(注21)60年代後半から70年代にかけて活躍したアメリカのブラス・ロック・バンド。

(注22)ブラッド・スウェット&ティアーズと並び、ロックにブラスを取り入れたバンドの先駆的存在。69年にレコード・デビューし、現在も高い人気を維持している。

(注23)ジョーン・バエズ(vo 1941年~)59年の「ニューポート・フォーク・フェスティヴァル」で脚光を浴び、60年代初頭のフォークソング・リヴァイヴァルで中心的存在のひとりとして活躍。「ドナドナ」、「朝日のあたる家」など多数のヒット曲を持つ。

(注24)66年10月31日から71年4月3日まで毎週月〜土曜日の7時20分〜8時(のちに7時30分〜8時10分)に東京放送(TBS)(土曜のみ朝日放送)制作で放送された、トークと音楽が中心の若者向け情報番組.


 

 

PROFILE

小川隆夫
小川隆夫

1950年、東京生まれ。東京医科大学卒業後、81~83年のニューヨーク大学大学院留学中に、アート・ブレイキー、ウイントンとブランフォードのマルサリス兄弟などのミュージシャンをはじめ、主要なジャズ関係者と親交を深める。帰国後、整形外科医として働くかたわら、音楽(とくにジャズ)を中心にした評論、翻訳、インタヴュー、イヴェント・プロデュースを開始。レコード・プロデューサーとしても数多くの作品を制作。著書は『TALKIN’ジャズ×文学』(平野啓一郎との共著、平凡社)、『証言で綴る日本のジャズ』、『同 2』(駒草出版)、『マイルス・デイヴィスが語ったすべてのこと』(河出書房新社)、『マイルス・デイヴィスの真実』(講談社+α文庫)など多数。2016年にはマイルス・ミュージックにオマージュしたバンド、Selim Slive Elementzを結成。2017年8月にデビュー作を発表。