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Column with 証言で綴る日本のジャズ 3 川崎 燎 第7話「ニューヨークへ」 川崎 燎 第7話「ニューヨークへ」

証言で綴る日本のジャズ 3 川崎 燎 第7話「ニューヨークへ」

COLUMN
INFORMATION

証言で綴る日本のジャズ3

川崎 燎

第7話
ニューヨークへ

 



——それでアメリカに行きますけど、最初はちょっと行って戻ってくるんですよね。

 73年の6月に、とにかく行くことにして。当時うちでよくやっていた麻雀仲間の彼女がフィラデルフィア出身で。その彼女の友人がピッツバーグにいて、「彼のところに行けば泊めてくれる」といわれて。

 それでニューヨークには親友に近いくらいの岸田恵士(ds)がいて、彼が中村照夫(b)さんとつき合っていたんです。ぼくは中村さんとは日本では会ってないんじゃないかな? 行く前にちょっと文通をしたのは覚えているけど。

 まずはロサンジェルスに着いて。親父は英語の先生だったけれど、ぼくは英語がチンプンカンプン。親父は横着して教えないし、親子では学べないんだよね(笑)。ロサンジェルスにはトランジットで1泊しかしなかったけれど、それでもなんとか「シェリーズ・マンホール」を見つけたんです。そうしたらそこにガボール・ザボ(g)が出ていて、彼を生で観ることができました。

 それからピッツバーグに行って、予定どおりそこに1週間くらいいて、次がニューヨーク。照夫さんはクイーンズだったかの一軒家に住んでいて、まずはそこに居候をさせてもらい、すぐ3人で仕事を始めたんです。

 照夫さんはニューヨークでデヴェロップした日本人ジャズ・ミュージシャンで、コネがたくさんあったから、ブロンクスやクイーンズ、それにマンハッタンには「ビルズ・プレイス」というジャズ・クラブがあったんで、そんなところで仕事を始めました。

 そのときに、たまたま照夫さんがジョー・リー・ウィルソン(vo)のバンドに入ったんですよ。それで「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル/ニューヨーク」に出演するというんで、「ギタリストが必要だから、お前、空いてるか?」となって。着いてから1週間くらいのうちに「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル」に出演したんです。今度はジョー・リー・ウィルソンに認められて、彼のバンドのレギュラーになって。1回目は3週間くらいしかいなかったから、これは2回目に来たときの話だけれど。

 照夫さんや恵士のおかげでいろいろ仕事があったから、これならなんとかなるかなと感じたんですね。彼らにしても一緒にやれるギタリストが必要だったし、そのバランスが取れたということかな。それでジョー・リー・ウィルソンとのコネができたんで、日本の生活を整理するため、一度帰ったんです。契約していた仕事もたくさんあったし。コンサートやテレビの出演とか、そういうのを全部やって、10月に戻ってきた。

 即、ジョー・リー・ウィルソンや照夫さんがやってた「ビルズ・プレイス」、あれは77丁目だったかな? そこで演奏を始めて。あと、ジョー・リー・ウィルソンのバンドではフィラデルフィアとかオハイオとかの地方の仕事があったし、彼を通してボンド・ストリートとブロードウェイの角にあったロフト・シーンでも仕事をするようになるんです。照夫さんはボビー・ハンフリー(fl)ともやってて、ぼくもそのバンドに引っ張られたから、レギュラーの仕事がけっこうできていました。

 住処は、最初に行ったときは恵士と一緒にイースト・ヴィレッジのアヴェニューAかな? そこに数週間住んで。そばに「ジャズ・ボート」というクラブがあって、ジョージ・ベンソンがよく出ていたんです。最初に行ったときの話ですけど、ジョージから「お前、ギターを持ってやりに来いよ」といわれて。そのときは彼とアール・クルーの2ギターだったけれど、ジョージはヒットが出る前だからお客さんがほとんどいない。ジョージは、ぼくに「こんなことをやってられないよ。やっぱり俺はラスヴェガスでやりたいし、歌もうたいたいし」みたいなことをいって。大ヒットした『ブリージン』(WB)(注30)はいつ出たのかな?

——76年ですね。

 だから、やっぱり3年ぐらい経ってようやく彼の念願は叶ったわけだよね。これは思い出のひとつだけど。

——それで一度日本に戻って、2回目はどのあたりに住んでいたんですか?

 最初は、トンプソン・ストリートにあった安永多陀志(ただし)君のアパート。スプリングとプリンス・ストリートの間、ソーホーですよね。彼はドラマーで、エルヴィン・ジョーンズのボーヤもやっていて。そのビルには増尾(好秋)も2階に住んでいたんです。安永君の部屋は5階にあって、ぼくは家賃の半分、65ドルを払うことにして、とりあえずそこに住まわせてもらいました。

 近くのボンド・ストリートはロフト・シーンの中心で、ライヴをやっているロフトが3つあったのかな。ジョー・リー・ウィルソンの「レディース・フォート」、サム・リヴァース(ts)の「スタジオ・リヴビー」、ラシッド・アリ(ds)の「スタジオ77」。それらがコミュニティみたいな感じで、ぼくは入り浸りで。

 やっていると、プレイヤーで面白いのがいっぱい遊びに来るんです。アーチー・シェップ(ts)、サニー・マレイ(ds)、ウディ・ショウ(tp)、ジャッキー・マクリーン(as)の息子のルネ・マクリーン(ts)とかね。そういうひとたちと共演する機会にも恵まれたし、ネットワークもできたし。「スタジオ77」にはレコーディングの設備があったから、ジョー・リー・ウィルソンのアルバムを作っています(注31)。

——ジョアン・ブラッキーン(p)とも早い時期から共演してますよね。

 しばらくして、安永君のアパートからマクドゥーガル・ストリートのアパートに移ったんです。その通りにあった「パンチートス」というメキシカン・レストランのとなりのビルで、ブリーカー・ストリートとウエスト・サードの間、ウエスト・ヴィレッジのど真中ですよね。

 ジョアンはアパート近くの「サーフメイド」という、ブリーカー・ストリートとトンプソン・ストリートの角にあった店で、ソロかベースとのデュオでやっていたんです。彼女はアート・ブレイキー(ds)やスタン・ゲッツ(ts)のバンドに入って忙しかったけど、ツアーがないときはそこで弾いていて。ジョアンのピアノが大好きだったんで、ぼくは飛び入りでやらせてもらっていたんです。仕事じゃなかったけど、2年くらいやっていたかな? それがのちに彼女とのレコード制作に繋がるわけ(注32)


第8話に続く

 
(注30)メンバー=ジョージ・ベンソン(g vo) ホルヘ・ダルト(key) ロニー・フォスター(key) フィル・アップチャーチ(g) ラルフ・マクドナルド(per) スタンリー・バンクス(b) ハーヴィー・メイソン(ds) クラウス・オガーマン(arr con) 76年1月6日〜8日 ハリウッドで録音

(注31)ジョー・リー・ウィルソン・アンド・ボンド・ストリート名義で吹き込まれた『What Would It Be Without You』(Survival Records)。メンバー=ジョー・リー・ウィルソン(vo) モンティ・ウォーターズ(as) 川崎燎(g)ロニー・ボイキンズ(b) ジョージ・アヴァロス(ds) ラシッド・アリ(conga) 75年8月31日 ニューヨークで録音

(注32)『Joanne Brackeen/Aft』(Timeless)と『Joanne Brackeen & Ryo Kawasaki/Trinkets and Things』(同)。前者のメンバー=ジョアン・ブラッキーン(p) 川崎燎(g) クリント・ヒューストン(b) 77年12月30日 ニューヨークで録音。後者のメンバー=ジョアン・ブラッキーン(p) 川崎燎(g) 78年8月13日 ニューヨークで録音

 

 

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小川隆夫
小川隆夫

1950年、東京生まれ。東京医科大学卒業後、81~83年のニューヨーク大学大学院留学中に、アート・ブレイキー、ウイントンとブランフォードのマルサリス兄弟などのミュージシャンをはじめ、主要なジャズ関係者と親交を深める。帰国後、整形外科医として働くかたわら、音楽(とくにジャズ)を中心にした評論、翻訳、インタヴュー、イヴェント・プロデュースを開始。レコード・プロデューサーとしても数多くの作品を制作。著書は『TALKIN’ジャズ×文学』(平野啓一郎との共著、平凡社)、『証言で綴る日本のジャズ』、『同 2』(駒草出版)、『マイルス・デイヴィスが語ったすべてのこと』(河出書房新社)、『マイルス・デイヴィスの真実』(講談社+α文庫)など多数。2016年にはマイルス・ミュージックにオマージュしたバンド、Selim Slive Elementzを結成。2017年8月にデビュー作を発表。