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Column with 証言で綴る日本のジャズ3 康 芳夫 第4話「プロモーターの初仕事がソニー・ロリンズ」 康 芳夫 第4話「プロモーターの初仕事がソニー・ロリンズ」

証言で綴る日本のジャズ3 康 芳夫  第4話「プロモーターの初仕事がソニー・ロリンズ」

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証言で綴る日本のジャズ3

康 芳夫

第4話
プロモーターの初仕事がソニー・ロリンズ



プロモーターの初仕事がソニー・ロリンズ


——こういうイヴェントを成功させたところにプロデューサーの資質が認められます。
 
 「五月祭」を自分流に企画して成功させた経験が大きいですね。高校時代からひとをまとめたり動かしたりするのが好きでしたから。いろいろなひとの間を泳ぎ回って、ときにはさまざまなひとと駆け引きもする。それで無から有に物の形を整えていく。そんな仕事に魅力を感じていました。
 
——就職活動は?
 
 岩波映画と日活には受かっていたけど、直感的にいちばんぴったりだと思ったのが神彰(じんあきら)(注30)さんのアート・フレンド・アソシエーション(AFA)。
 
——映画会社を受けたということは、映画が好きだったんですか?
 
 そうそう。あと、講談社も一次試験は受かったのかな?
 
——どちらかといえば文科系の仕事がしたかった。
 
 もちろんそうです。
 
——それで、AFAに入社します(62年)。
 
 ぼくがプロモーターになったのも慎太郎のおかげですから。作家の有吉佐和子(注31)さんの旦那が神彰さんで、有吉さんと慎太郎が知り合いだったんで、彼から有吉さんを通じて神さんを紹介してもらったんです。初対面で神さんいわく、「君はなかなか面白そうだな。うちに東大出は企画部長ひとりしかおらんけど、いらっしゃい」。彼はそういうところがおおらかだった。
 
 それ以前に、神さんがアート・ブレイキー(61年)とホレス・シルヴァー(p)(62年)を呼んでいたのは知っていたんです。それでいきなり「君、ソニー・ロリンズ(ts)って知ってるか?」「もちろん知ってます。大ファンですから」。そうしたら、「それをやるから、契約書からなにから全部君がやれ。東大出なんだから英語は読めるんだろ」ですよ。それで契約書からやりました。
 
——神さんのところに入ったのは62年ですよね。そのころの日本で、プロモーターとか呼び屋さんの仕事は確立されたものだったんですか?
 
 音楽では、のちにビートルズを呼ぶ永島達司(注32)さんがいました。
 
——永島さんはもともと米軍のキャンプなんかの仕事でしょ。
 
 彼はロンドンで育っているからバイリンガル。なかなかの紳士でね。キャンプの出入りをやって、そこから発展していった。音楽専門ですよね。
 
——神さんはキャンプの仕事はやらなかった?
 
 いっさいやってないです。彼は満州浪人の最末端だから、あっちでウロウロしてたの。いわゆる一発屋ですよ。満州浪人は、全部じゃないけど、彼は典型的な一発屋なんです。
 
——根っからのプロモーターなんですね。
 
 なかなか面白い男でね。ぼくとは20歳は違わないかな(実際は15歳)? それで神さんは、永島さんとはまったく別で、サーカスも呼べば、ジャズもやる。なんでも来いで、最初に手がけたのがドン・コサック合唱団(56年)。ソヴィエトと日本の国交回復が56年ですから、その時代に、ボリショイ劇場バレエ団(57年)、レニングラード・フィルハーモニー交響楽団(58年)、ボリショイ・サーカス(58年)と立て続けに呼んで大成功しました。
 
——それで神さんはソ連と太いパイプができたんですね。
 
 ぼくも、その何年後かのボリショイ・サーカスをやりました(63年)。馬を何十頭、ゴリラ、それと大蛇とか(笑)。千駄ヶ谷の体育館でチンパンジーが屋上に逃げちゃうとかね。新聞社と組んでるから、興行成績はいいんですけど、たいへんな作業です。移動が夜中で、トラックを10台くらい連ねて、まるでキャラヴァン。いま、ぼくは映画俳優で映画に出てるけど、プロモーターに比べたら監督業は肉体的にはおもちゃですね。
 
——どういう経緯でロリンズをやることになったんですか?
 
 ぼくが会社に入ったときは、ロリンズとのコネクションがすでにできていたんです。
 
——交渉はロリンズのマネージャーと?
 
 当時、マイルスのコンサート・マネージャーでもあったジャック・ウィットモアと交渉しました。その前にホレス・シルヴァーを呼んでいたでしょ。そのときにウィットモアと繋がったんです。会社に入る前のことでいえば、ブレイキー、これが大ブレークしましてね。正月(61年)ですよ。「サンケイホール」ってあったでしょ、あそこで当時人気絶頂だった白木秀雄(ds)とドラム合戦をやるわけ。
 
 アート・ブレイキーとホレス・シルヴァーを呼んだのは神の直感で、あれが当たったんです。シルヴァーはプエルトリカンでラテン・フレイヴァーのいいピアノを弾くから、ぼくはとても好きでね。それで「もう一度どうしても来たい」といってきたけれど、ロリンズもあったし、マイルス・デイヴィス(tp)とか、ほかにも呼びたい候補がいろいろいたんで、呼ばなかったんです。
 
——契約書はどちらが用意するんですか?
 
 このときは向こうから送られてきました。
 
——その内容を康さんがチェックして。
 
 そうです。
 
——でも、契約書は使ってる言葉も法律の専門用語だし。
 
 だからそこらへんの国際弁護士に負けないくらい契約書については勉強して、ちゃんとやりました。このあと、独立してモハメッド・アリ(注33)も極東で初めて招聘しましたが、契約に関してはこのときの勉強と経験が役立っています。
 
——当時は連絡のやり取りもたいへんだったでしょ?
 
 そのときは主にテレックスでした。電話でもやりましたけど、電話だと通訳を使わないと細かいところまでできないから。面と向かって話すなら意思の疎通もできますが、相手の顔が見えない交渉は慣れていないと難しい。そのうちにそういうこともこなせるようになりましたけど。
 
——契約成立までにはどのくらいの時間がかかったんですか?
 
 ロリンズのときは半年くらいかな?
 
——それって時間がかかったほうですか?
 
 いや、短いです。たいした問題はなかったけど、強いていうならクスリの問題。彼はそれで雲隠れしていた時期がありますから(注34)。〈モリタート〉や〈セント・トーマス〉を吹き込むのがそのあとでしょ(56年)。
 
——日本への入国は問題がなかったんですか?
 
「問題がある」とはいわれていたけど、当時は法務省の審査が甘かったの。
 

 
——じゃ、ロリンズの来日は大きなトラブルもなく。
 
 そう。それで公演も大成功。ジャズが盛り上がって、ジャズ喫茶がいっぱいできたときだったし。
 
——そうとう儲かったんですか(笑)?
 
 いまのお金にしたら5千万くらいはいったかもしれない。
 
——それがロリンズの初来日。
 
 そう。そのときは来日記念にジャム・セッションをやったの。いまは東京駅の前に移った「丸ノ内ホテル」で。当時、あのホテルはちょっと奥にあったんだよね。彼、4時間吹きましたよ。前座が猪俣猛(ds)君と西條孝之介(ts)君のグループ。そのときの仕込みを全部やってくれたのが出井(いずい)君という、慶応で西條君なんかと同期のドラムスで、慶応のジャズ・クラブのマネージャーをやっていた男。銀座にあった「出井」という高級料理屋のドラ息子ですよ。
 
 
第5話(10月26日に掲載予定)に続く
 
 
(注30)神彰(興行師 1922~98年)54年アート・フレンド・アソシエーション(AFA)設立。ドン・コサック合唱団、ボリショイ・バレエ団、ボリショイ・サーカス、レニングラード・フィルハーモニー交響楽団などを招聘・興行。冷戦時の鉄のカーテンをこじ開けたことから〈赤い呼び屋〉と称される。62年作家の有吉佐和子と結婚するも、64年離婚。同年AFA倒産し、66年アート・ライフ設立。晩年は居酒屋チェーン「北の家族」を立ち上げた。
 
(注31)有吉佐和子(作家 1931~84年)日本の歴史や古典芸能から現代の社会問題まで広いテーマをカバーし、多数のベストセラー小説を発表した。代表作は『紀ノ川』(59年)、『華岡青洲の妻』(66年)、『恍惚の人』(72年)など。
 
(注32)永島達司(コンサート・プロモーター 1926~99年)父の赴任に伴い少年時代はニューヨークとロンドンですごし41年帰国。戦後アメリカ軍基地のクラブでフロア・マネージャーから出発し、57年協同企画(現在のキョードー東京)設立。ビートルズの日本公演(66年)を実現させるなど、外国人ミュージシャンの招聘に実績を残した。
 
(注33)モハメッド・アリ(ボクサー 1942~2016年)。本名はカシアス・クレイ。60年ローマ・オリンピックでボクシング・ライト・ヘヴィー級金メダル獲得。プロに転向し、64年ソニー・リストンを倒し、WBA・WBC統一世界ヘヴィー級王座獲得。その後イスラム教に改宗し、モハメッド・アリに改名。ヴェトナム戦争への徴兵を拒否したことで(最終的に無罪)王座をはく奪されるも、74年ジョージ・フォアマンを破り返り咲く。王座を3回奪取し防衛は19回。76年にはアントニオ猪木と異種格闘技戦も行なった。
 
(注34)最初の雲隠れ。このときは54年から55年にかけてシカゴで療養と練習を兼ねてシーンから姿を消していた。














 

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PROFILE

小川隆夫
小川隆夫

1950年、東京生まれ。東京医科大学卒業後、81~83年のニューヨーク大学大学院留学中に、アート・ブレイキー、ウイントンとブランフォードのマルサリス兄弟などのミュージシャンをはじめ、主要なジャズ関係者と親交を深める。帰国後、整形外科医として働くかたわら、音楽(とくにジャズ)を中心にした評論、翻訳、インタヴュー、イヴェント・プロデュースを開始。レコード・プロデューサーとしても数多くの作品を制作。著書は『TALKIN’ジャズ×文学』(平野啓一郎との共著、平凡社)、『証言で綴る日本のジャズ』、『同 2』(駒草出版)、『マイルス・デイヴィスが語ったすべてのこと』(河出書房新社)、『マイルス・デイヴィスの真実』(講談社+α文庫)など多数。2016年にはマイルス・ミュージックにオマージュしたバンド、Selim Slive Elementzを結成。2017年8月にデビュー作を発表。