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Column with 証言で綴る日本のジャズ3 増尾好秋 第2話「大学一年で渡辺貞夫と共演」 増尾好秋 第2話「大学一年で渡辺貞夫と共演」

証言で綴る日本のジャズ3 増尾好秋 第2話「大学一年で渡辺貞夫と共演」

COLUMN
INFORMATION

証言で綴る日本のジャズ3

増尾好秋

第2話


大学一年で渡辺貞夫と共演

 

——増尾さんが部室で弾いているのを誰かが観て、「すごいのが入ってきた」と大騒ぎになって、みんなが聴きに来たそうですが。

 入学して普通はすぐクラブに入るでしょ。でもぼくは恥ずかしいというか、1か月ぐらい部室に行かなかったんです。それでひと気がなくなったころ(笑)、部室に行ったら先輩たちがいて、「なにか弾けよ」と。そうしたら、チンさんに「レコードから出てくるみたいな音がしてた」といわれました。それで部室にあったノートに、「すごいのが来た」と誰かが書いたから、大騒ぎになったんです。

——高校では学園祭でバンドを組んだとおっしゃいましたが、グループ活動はしていない?

 していません。ほかのひととちゃんとやるのも大学に入ってからです。

——タモリ(注7)さんが同級生。

 そうです。彼がこんなふうになるとは夢にも思わなかったけれど、頭がすごくよかった。ぼくの知ってるタモリはおとなしくて真面目で、静かで地味な存在。彼とはスクールバスで帰るときに、「昨日はロールキャベツを作った」とか(笑)、そんな話をしたことを覚えています。同級生のサックスでクラブのマネージャーをやっていた瓜坂(正臣)君が、タモリに「お前、司会やれ」となって、司会を始めたんです。

——司会のときは、おとなしいタモリさんが豹変するんですか?

 あのあたりから、のちのタモリが出始めたんじゃないかな?

——おとなしいのか、それとも面白いことをいうのが地か?

 両方あると思います。

——司会は大受けだった?

 だと思いますよ(笑)。

——トランペットも吹いて。

 吹いてはいたけど、まあまあだったから、「司会がいいんじゃない?」と。

60年代半ば。TBSホールで行われた「大学対抗バンド合戦」出場時の早稲田大学ジャズ研。この時のMCもタモリが務めた。
 

——渡辺貞夫さんとの出会いは?

 1年生の秋に、チンさんや先輩と銀座の「ジャズ・ギャラリー8」に佐藤允彦(p)さんを聴きに行ったんです。相倉久人(注8)さんが司会で、「昨日帰ってきた渡辺貞夫(as)が今晩演奏するから、よかったらそのままいてください」。貞夫さんのことは『スイングジャーナル』で知っていたけど、一度も聴いたことがない。それで夜まで待って、貞夫さんの演奏を聴いたら桁違いにすごかった。

 そのころになると、新宿の「タロー」とかに行って、日本人のギタリストなら小西徹さんとかね、そういうひとは聴いていました。でも、貞夫さんの演奏はいろんな意味で別格でした。

 それで、いまから考えてみると奇跡みたいな話ですけど、新宿で「J」というライヴ・ハウスをやっている幸田(注9)さん。幸田さんはチンさんと同級生で、アルト・サックスを吹いていたんです。

 貞夫さんがアメリカに留学する前の話です。そのころは留学がたいへんなことだったから、貞夫さんは家財道具をぜんぶ売って、それで行くと。自分のレコードも売っていて、それを幸田さんが買いに行ったんです(笑)。ですから、ちょっと顔見知りだった。

 早稲田は秋に「早稲田祭」があって、そこで「モダン・ジャズ研究会」がひと部屋借りて演奏するんです。幸田さんが「ジャズ・ギャラリー8」のあと、貞夫さんのところに行って「来てくれませんか?」と聞いたら、すごく気楽に「いいよ」といって、来てくれたんです。みんな「ええッ! 嘘だろ」ですよ。それで貞夫さんを迎えるためのバンドを作って。そのときはチンさんがピアノで、ぼくがギターで、ベースとドラムスが先輩で、そこに貞夫さんが入って演奏したんです。

1965年の秋。早稲田祭にて渡辺貞夫と演奏。
 
——〈別格〉の貞夫さんとやるのって、どういう気持ちでしたか?

 そりゃあもう必死です。

——曲はすでに決まっていた?

 決まってませんよ(笑)。ぼくらができそうな曲をやってくれたんだと思います。とにかく信じられない夢のようなことでした。こっちは大学の1年生ですし、そんなことがなければ貞夫さんと演奏できるなんて、まずないでしょ。それで、それから1年か2年したころかな? 貞夫さんのバンドに入ることになるけど、ぼくのことを認めてくれたのがそのときだったんです。

——貞夫さんのバンドに入る前にも何度か共演はしているんですか?

 トラ(エキストラ)で「ジャズ・ギャラリー8」に呼んでくれて、やりました。ピアノの誰か、前田憲男さんとか八木正生さんとか、いろんなピアノのひとが貞夫さんのバンドでやっていましたから、そのひとたちができないときに呼ばれたんだと思います。こっちは死ぬ思いでしたけど(笑)。


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(注7)タモリ(タレント・司会者 1945年~)本名は森田一義。大学卒業後、福岡に帰郷し、生命保険外交員、喫茶店の雇われマスター、ボウリング場の雇われ支配人を務める。山下洋輔(p)らにアドリブ芸を披露したのがきっかけでデビュー。82年に『笑っていいとも!』(フジテレビ)と『タモリ倶楽部』(テレビ朝日)の放送が始まり、人気者に。前者は放送期間31年6か月、放送回数8054回の大長寿番組となった。

(注8)相倉久人(音楽評論家 1931~2015年)【『第1集』の証言者】東京大学在学中から執筆開始。60年代は「銀巴里」や「ピットイン」、外タレ・コンサートの司会、山下洋輔(p)との交流などで知られる。70年代以降はロック評論家に転ずるも、近年はジャズの現場に戻り健筆をふるった。
 
(注9)バードマン幸田(「Jazz Spot J」店主 1945年~)本名は幸田稔。早稲田大学「モダン・ジャズ研究会」でサックス奏者として活躍。会社勤務後、78年にタモリなどジャズ研OBの共同出資で「Jazz Spot J」を開店、店主となる。




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PROFILE

小川隆夫
小川隆夫

1950年、東京生まれ。東京医科大学卒業後、81~83年のニューヨーク大学大学院留学中に、アート・ブレイキー、ウイントンとブランフォードのマルサリス兄弟などのミュージシャンをはじめ、主要なジャズ関係者と親交を深める。帰国後、整形外科医として働くかたわら、音楽(とくにジャズ)を中心にした評論、翻訳、インタヴュー、イヴェント・プロデュースを開始。レコード・プロデューサーとしても数多くの作品を制作。著書は『TALKIN’ジャズ×文学』(平野啓一郎との共著、平凡社)、『証言で綴る日本のジャズ』、『同 2』(駒草出版)、『マイルス・デイヴィスが語ったすべてのこと』(河出書房新社)、『マイルス・デイヴィスの真実』(講談社+α文庫)など多数。2016年にはマイルス・ミュージックにオマージュしたバンド、Selim Slive Elementzを結成。2017年8月にデビュー作を発表。