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Interview with Paul Bradshaw “伝説の音楽誌”とともにレアグルーブと
ニュージャズの地平を拓いた編集者
取材:松浦俊夫
文:楠元伸哉
写真:則常智宏

Paul Bradshaw

INTERVIEW
INFORMATION

 セロニアス・モンクの名曲「ストレート・ノー・チェイサー(Straight, No Chaser)」。「ストレートでくれ。チェイサーはいらないよ」という酒を頼むときのセリフだ。チェイサーとは、バーボンなどの強い酒を飲むときに添えられる水(やソフトドリンク)のことだが、この「チェイサー(Chaser)」はアメリカとイギリスでは意味が違う。
 アメリカでは「強い酒の直後に飲む軽い飲み物」をチェイサーと呼ぶが、イギリスでは「弱い酒の後に飲む強い酒」のことを指す。つまりバーテンダーに「チェイサーをください」と頼むと、アメリカでは“水やソフトドリンク”が、イギリスでは“いま飲んでいる酒よりも強い酒”が出てくるわけだ。チェイサーとは、チェイス(chase=追いかける)ということなので、飲んだものを“追っかけて飲むもの”であれば、水でもアルコールでもチェイサーと呼んでいい。が、なぜ米英で逆の意味になったのかは不明だ。
 編集者のポール・ブラッドショウは英国人だが、自らが創刊する雑誌に、この曲名をつけた。のちに“90年代のジャズムーブメント”を牽引する音楽誌『ストレート・ノー・チェイサー』である。1988年の創刊なので、いまから28年前の話である。
「カテゴリーをまったく決めずに“いい音楽”だけを紹介したかった。ジャズもヒップホップも、アフリカ音楽もブラジル音楽も、セクションは関係なくすべて等価にね。この世界には素晴らしい音楽が点在している。僕たちがやっていたのは、その“点”を、線で結んでいくことだった。それが『ストレート・ノー・チェイサー』の目的であり、役目だ」
 同誌は88年の夏の号を皮切りに、季刊誌(隔月刊)のペースで発行され、やがて大きなムーブメントの中核を担う存在になる。
「88年当時、私はジャーナリストとして、おもに『NME』や『WIRE』という音楽雑誌で、ジャズについて書いていた。その頃、いくつかの出来事があって『ストレート・ノー・チェイサー』の構想が固まるんだけど、なかでも大きなきっかけは、DJのポール・マーフィーでした」
 ポール・マーフィーは、いわゆるレアグルーブの開祖のひとりとして知られるDJだ。彼はモダンジャズやラテンジャズ、ジャズファンクといった、古いジャズ系の音源や、ブラジル音楽やアフリカ音楽、あるいは、忘れ去られたファンクやソウルの楽曲に“ダンスミュージックとしての機能性”を見いだし、クラブの現場で盛んにプレイした。
「エレクトリック・ボールルームというクラブがあってね、当時の彼はそこでよくプレイしていたよ。1階は、ファンクやソウルがメインで、いわゆるダンスクラブとしてすごく有名だった。そこの2階に、新しくジャズルームというのができたんだ。その頃、僕が書いていた『NME』の方で、古いジャズやブラジル音楽を取り上げることになって、まずは実際にジャズルームをチェックしようと思って、現場に行ってみた」
 これを機に、彼は“その世界”に没入することになる。時はまさにレアグルーブや新たなジャズ・ムーブメントの夜明け前。ただごとではない何かを感じ取った彼は、ジャズルームに入り浸ることになる。
「あの頃、ポール・マーフィーと一緒にDJをやっていたのが、若き日のジャイルス・ピーターソンだった。その後、ポール・マーフィーがエレクトリック・ボールルームを辞めて、ジャイルス・ピーターソンがあとを継ぐことになるんだけど、その後もジャイルスはジャズルームを拠点に、積極的に“独自の”プレイを展開していった」



 こうした“新たなムーブメント”の萌芽に立ち会った彼は、決心した。このムーブメントや、知られざる素晴らしい音楽を紹介するメディアを作ろう、と。
「当時、こういった音楽シーンに対して、メジャーな雑誌や放送局はまったく興味を示さなかった。だから自分たちでやろうと考えた。このロンドンのシーンをもっと広めたかったし、この現象を、メディアとして発信しなければならないという使命感もあった。
ちょうどその頃、アップル社のマッキントッシュシリーズが性能を上げ、このマシンを使えば、インディペンデントな出版も可能だと直感したんだ。それで私は、アップル機を持っている友人を見つけて、彼と一緒に“マガジン”ではなく“ファンジン”。つまり、ファンが集うマガジンを作っていこう、ということになった」
 ファンはすぐに集まった。しかも世界中から。
「最初はクチコミで評判が上がっていって、そのうちアメリカや日本でも流通するようになった。そこから一気に波及して、いろんなところから連絡が来るようになった。アメリカのキングブリットから突然電話がかかってきたこともあったよ」
 “ジャズルームの衝撃”以来、自前のメディアづくりに奔走していたブラッドショウだったが、孤立無援の状況ではなかった。創刊と時を同じくしてACID JAZZレーベルが発足し、次いでTalkin’ Loud(1990年発足)レーベルもスタート。いわゆる“ジャズ系”の新興レーベルやミュージシャンが数多く出現し、その作風やスタンスを明確にし始めた時期でもあったのだ。
「Talkin’ Loudの発足は、大きな出来事だったよ。ジャズ系の可能性を拡げたということもあるけど、DJが既存のレコードをプレイするだけでなく、自分たちで音楽を作ってゆく。そういう動きも活性化されていった。私たちはそういうシーンを捉えることに必死で、周りを見る余裕もなかったね」
 周囲を見る余裕がなかった、とは“競合他誌をチェックする余裕がなかった”という意味も含まれている。このとき(90年代の初頭)には、すでにイギリスのみならず、北米でも類似の雑誌が刊行されていたが、彼はほとんど他誌をチェックしていなかったという。
「自分たちの周りの人間、自分たちのやるべきことにすごく集中していて、そんな余裕はなかったんだ。本当にクオリティの高い雑誌というものにこだわっていて、取り扱うテーマから、紙のクオリティに至るまで、徹底的に考えた。毎回自分たちで“何がいいか”を共有して、そこに変更も加えながら、良いものを作ってきた。もちろん、他の雑誌がやっていることも素晴らしいと思ってはいたけれど、自分たちとしては本当にいいものを作る、自分たちで作る。それしか考えてなかったね」
 そんななかでも、影響を受けた雑誌はあるという。それは日本の媒体だった。
「『スタジオボイス』のデザイン性の高さには、ものすごく影響を受けた。『ストレート・ノー・チェイサー』がパントーンのカラーを使うようになったのは、あの雑誌の影響なんだ。その頃から、デザインや写真の使い方やページのデザインを綿密に考えて本を作るようになった。それから、優秀なフォトグラファー、イラストレーターを起用することの重要性も理解したね」
 同誌のデザインは、当時『FACE』誌などでも活躍していた、デザイナーのSwiftyが担当。のちにSwiftyは、ジャズ系のレコードジャケットのデザインを数多く手がけることにもなった。また、こうしたデザイン面のこだわりに加え、記事制作の面でもっとも重視したのが「チャート」だったという。世界中のレアグルーブ&ダンス・ジャズ愛好家たち(おもにDJやミュージシャン)が、自分のラジオ番組のオンエアリストや、DJプレイ曲のリスト、最近聴いた(知った)おすすめ楽曲のリストなど、さまざまなチャートで紹介したのだ。
「日本人だと、UFOのメンバーや、沖野(修也)さん、竹村(延和)さんもDJチャートを送ってくれた。雑誌を買う人はすぐにチャートのページにいって、それをチェックする。それがみんなの習慣になっていった」
 90年代の幕が開けた頃になると、すでに日本にも『ストレート・ノー・チェイサー』の読者は一定数いて、筆者も六本木WAVEや青山ブックセンターで買っていた記憶がある。そこには日本のメディアではほとんど紹介されることがない日本人クリエイターの名前がたまに載っていて、不思議な気分になったものだ。
「個人的な意見だけど、日本とイギリスはものすごく似ていると思うよ。まず地理的な条件が似ている。海に囲まれた島国ということで、世界中からいろんなものが入ってくる。若い人たちの文化の発展の仕方もよく似ているなと思ったね。それから、当時の日本のチャートを見ていると、音的な好みもすごく似ていると感じた。日本もイギリスも同じ方向に向かっているんだ、という思いがあったね。だからこそ、日本で流通させる『ストレート・ノー・チェイサー』には日本語訳をつけたんだ。実際にはすごく大変で難しい作業だったけど、それだけの価値はあったと思っているよ」
 いつしか同誌は「震源地のロンドンで起きていること」だけを伝えるのではなく、ロンドンから波及した世界各地のシーンも紹介するようになる。同時に、シーンそのものに大きな影響と発展を与えるメデイアとしても存立した。
「まだインターネットも普及していない時代だったけど、グローバルに活躍していた実感があるね。皆が手探りでこのムーブメントを形成し、強固なものにしていく。シーンが醸成されてゆく感じも味わうことができたよ」
 以降、およそ20年にわたって『ストレート・ノー・チェイサー』は発刊され、2007年の夏の号を最後に休刊。いまはちょうどSwiftyのグラフィック本を制作中という彼だが、休刊から10年の時を経て再び、意欲を見せる。
「今後また『ストレート・ノー・チェイサー』」を出したいと思っている。最近のジャズシーンもすごく面白いからね。まずは現在の新しいシーンをいろいろ紹介しながら、過去のアーカイブと繋げていく。そういったものも出していきたいね。休刊中の10年間のシーンと、現在のシーンをきちんと結びつけて紹介する。それが自分たちの役目だと思っているよ」