投稿日 : 2016.10.27 更新日 : 2019.02.26

【カエターノ・ヴェローゾ】ブラジル大衆音楽史を刷新する 偉人カエターノの「衰えぬ創意」

取材・文/中原 仁 通訳/國安真奈 写真/鈴木健太(KENTA Inc)、Atsuko Tanaka

カエターノ・ヴェローゾ/インタビュー

74歳を迎えたいまもMPB(ブラジリアン・ポピュラー・ミュージック)を牽引し続け、国境もジャンルも越えて世界中の音楽家から尊敬を集めている真実のカリスマ、カエターノ・ヴェローゾが10月、11年ぶりに来日。東京・恵比寿ザ・ガーデンホールで3日間にわたって開催された「モントルー・ジャズ・フェスティバル・ジャパン 2016」の最終日のトリをつとめ、大阪公演も行なった。

4度目の来日を通じて初めてとなる “声とギター” の弾き語りによるソロ・パフォーマンス。フィナーレでは、オープニングアクトをつとめたサンバ新世代のミューズ、テレーザ・クリスチーナを迎えて共演した。

年齢を感じさせないどころか、以前よりもさらに甘美な色艶と暖かな包容力を増した歌声……、などと美辞麗句を書き並べても空しく響いてしまうけれど、何よりもカエターノ自身がリラックスして楽しみながら歌っている姿、それが最も印象的だった。彼が日本のオーディエンスの反応を心から喜び、日本の音響技術を「世界一」と絶賛していたこともお伝えしておこう。

このインタビューは、大阪公演と東京公演の間に行なった。カエターノは終始、穏やかな笑顔を絶やさずに応えてくれた上、最後には思わず飛び上がって叫びたくなってしまうぐらい嬉しい話も聞かせてくれた。

彼女はいつも26歳の女性のようだった…

——あなたは約7年間、バンダ・セー(Banda Cê)を率いて活動し、昨年からはジルベルト・ジルとのツアーを行なってきました。いま、こうしてソロでツアーを行なうことを決めた動機は?

「バンダ・セーで3枚、スタジオ録音のアルバムを作った後、次に何をやろうか考えていたら、ジルから2人でツアーしようと誘いを受けて昨年、ヨーロッパツアーを行なった。ジルとのプロジェクトが一段落したときに、私と同じプロダクションに所属するテレーザ・クリスチーナがリオで行なったショーを、アメリカのノンサッチ・レコードが気に入り、ライブ盤(CD、DVD)を出すことになった。彼女がニューヨークでプロモーションのショーを行なうにあたって、私も出演しないかと誘われ、テレーザのショーは素晴らしいギタリスト、カルリーニョス・セッチ・コルダスとのデュオなので、ならば私もソロでやろうと決めたんだ。今まであまり人前で歌って来なかった曲も含めて、私がさまざまな時代に作ったオリジナル曲を歌おうと。でも、あまり事前の練習はしなかった(笑)。というわけで、とてもシンプルな経緯だよ(笑)」

——今回のショーのレパートリーには、いくつか興味深い曲があります。まず「Esse cara(その男)」。女性の立場に基づいた歌詞の曲を、作者とは言え男性のあなたが歌うとき、あなたは女性の気持ちになりきって歌うのですか? それとも一種の演技として?

「まず話しておくと、これは私がロンドンに亡命していた70年代初め、妹のマリア・ベターニアに頼まれて、つまり彼女が歌うことを念頭に置いて作った曲だ。今回のツアーでどんな曲を歌うか考えたときに、最初に頭に浮かんだ曲のひとつでもある。さて、”彼は男。私はただの女”。この、曲の最後の歌詞を歌うとき、私は自分が女性と一体化することに喜びをおぼえる。女性の立場になって歌っているよ」

——バイーアを女性に例えて賛美した曲「Bahia, minha preta(私の黒いバイーア)」の歌詞に出てくる “Dona Lina”は……。

「リナ・ボ・バルディ(注:1914~1992。イタリアからブラジルに渡り、サンパウロ美術館などの設計を手がけた世界的な女性建築家)のことだ」

——昨年末から今年の3月まで、東京でリナ・ボ・バルディの展覧会が開催されて……。

「なんて素晴らしい!」

——会場に展示された彼女の軌跡の中に、バイーア現代美術館の館長をつとめていた50年代末から60年代前半、あなたをはじめバイーアの音楽家たちと交流があったと記されていました。どんな交流だったのですか?

「当時は直接会っていないんだ。彼女がバイーアに来た頃、私はまだ18歳ぐらいの少年で、彼女がバイーアで行なっていた仕事や新聞に寄稿した記事を通じてとても尊敬していた。初めて会ったのは、ずっと後のことだ。私のサンパウロでのショーを聴きにきて知り合い、彼女の家に招かれた。すでに70代だったがとても魅力的な女性で『私は今もスターリン主義者よ』と話し(笑)、ネイ・マトグロッソの大ファンだとも言っていた(笑)。美術から政治まで、いろんなことを話したよ。以来、とても親しくなった。つまり私とリナとの交流が始まったのは、彼女が晩年になってから。でも彼女はいつも26歳の女性のようだった」

来日公演のステージで…

——アルバム『トロピカリア』(1968年)で発表した、当時の軍事政権を比喩をこめて批判した曲「Enquanto seu lobo não vem(オオカミさんが来ないうちに)」を歌ったことは嬉しいサプライズでした。

「私にとってもそうだ(笑)」

——しかも「Odeio(憎悪)」に続いて歌いましたね。これは『トロピカリア』当時のブラジル社会と、現代のブラジル社会との間に、何か危険な共通項があるとの考えに基づいた曲順、選曲ですか?

「“Enquanto seu lobo não vem”は、トロピカリアの時代を象徴する曲として選んだ。“Odeio”に続いて歌ったのは、バンダ・セーで活動してきたことが今の私にも継続していることを、論理的に結ぶ曲という意図もある。実際に当時と今の政治的、社会的な状況が似ていると考えたわけではないけれど、君が指摘したような考え方も、ある一定のところまで出来ると思う。64年に軍事独裁政権がブラジルを支配した。私たちがトロピカリスタとして活動していた68年に、政府は軍政令第5号を発令して軍政に反対する政治家、大学教授、ジャーナリストたちを一斉に逮捕した(注:このときカエターノも逮捕され、のちにイギリスに亡命)。現代とは比較にならないほど酷い時代だったんだ。ただ当時も今も、保守勢力が利権を狙ってうごめいているという共通点はある。ジウマ(前大統領)の罷免について言えば、司法的には合意が得られていないし、政治的には、ジウマの罷免に動いた政治家たちがじつは司法から追われている容疑者でもある。だから当時と今が、ある部分、並行する時代であるとの考えは間違っていない」

——今回のワールドツアーには「Caetano apresenta Teresa(カエターノがテレーザを紹介する)」 というタイトルがついています。 テレーザがあなたと同じプロダクションに所属するよりも前の2008年、バンダ・セーが『zii e zie』を録音するにあたり、事前に新曲を発表するライブのシリーズを行ない、毎回いろんなゲストを迎えました。その一人がテレーザで、それが初共演だったと聞いています。彼女のどんなところが気に入ってゲストに迎えたのですか?

「今世紀のラパのライブシーンを代表するサンバ歌手として、テレーザに注目していた。彼女が自身のアルバムで、私がベターニアに提供した曲“Gema(宝石)”を録音したのを聴き、魅了された。それで彼女を招いて共演することを決め、『何を一緒に歌いたい?』と聞いたら『あなたの曲なら何でも』と(笑)。テレーザは私の曲をすべて知ってるんだ。私が歌詞を忘れてしまった曲ですら覚えている。私の曲だけでなく、ホベルト・カルロスの曲や、50年代から60年代のサンバも、当時のポップソングも知っている。アメリカの曲も私以上に知っている。ビートルズもマイケル・ジャクソンもスティーヴィー・ワンダーも、ヘビーメタルのバンドの曲まで。サンバの女性歌手がヘビーメタルを知ってるなんて!(笑)。こうして私たちは親しい友人になった」

——テレーザの他に、あなたが注目している最近の音楽、新世代の歌手やバンドは?

「ファンキ・カリオカにずっと注目している。リオのファヴェーラからサンパウロやブラジル各地に広まった。第一世代のミスター・カトラ(Mr.Catra)、新世代のアニッタ(Anitta)、ルヂミーラ(Ludmilla)など、創造性があって大好きだ」

——いま名前が出たアニッタが、リオ・オリンピックの開会式であなたとジルベルト・ジルと一緒に歌ったのは、あなたのレコメンドによるものだったという記事を読みました。

「私もその記事を読んだけれど、じつはよく覚えてないんだ(笑)。いやいや、事の成り行きはこうだ。オーガナイザーは当初、マリーザ・モンチを呼ぼうと考えた。しかしマリーザはロンドン・オリンピックの閉会式に出演していたので、繰り返しになるからと断ってきた。次に名前が出たのがイヴェッチ・サンガーロだ。イヴェッチは現代のブラジル音楽を代表する素晴らしい歌手だが、数年前、テレビの特別番組に私とジルと一緒に出演していて、同じことの繰り返しになってしまうので避けようということになった(注:イヴェッチはパラリンピックの閉会式に出演した)。こうした経緯の中、私がどの段階でアニッタの名前を挙げたかはハッキリしないが、私は彼女の歌が大好きで、彼女は今を感じさせる。まだ新人だ、高貴なMPBではない、といった反対の声もあったが結局、アニッタに決まったわけだ」

初孫が初めて送ったメールの内容

——先ほどの質問の続きです。ファンキ・カリオカの他には?

「バイーアのカーニバルの音楽も昔から大好きだ。最近はアルモニーア・ド・サンバ(Harmonia do Samba)や、ピシリーコ(Psirico)などバイーアのパゴーヂのバンドが面白い。ピシリーコは私が最も好きなバンドのひとつだ。よりソフィスティケートされた音楽の中では、まだあまり知られていない若手だが、チアゴ・アムード(Thiago Amud)を気に入っている。他にリオのバンド、トノ(Tono)、サンパウロのトゥリッパ・ルイス(Tulipa Ruiz)。サンパウロのラップも重要だ。ハシオナイス・MC’s(Racionais MC’s)、クリオーロ(Criolo)、エミシーダ(Emicida)。エミシーダは素晴らしい」

——モレーノをはじめ、あなたの3人の息子たちも音楽家として活動しています。19歳になる三男のトムが友人たちと組んだバンド、ドニカ(Dônica)のアルバムを聴きましたよ。リオの若者たちのバンドでありながら、ミナスの音楽の影響が強いことが印象的でした。

「そうだね。ミルトン・ナシメント、トニーニョ・オルタ、ベト・ゲヂスといったミナスの素晴らしい音楽家たちが、70年代から80年代のMPBやフュージョンに与えた影響はとても大きかった。ミナスの音楽に夢中になったリオの10代のロックバンド、という意味ではドニカが初めてだが、音楽的には自然なことだ。彼らは15、16歳の頃から私の家に集まって演奏し、ミルトンのアルバム『クルビ・ダ・エスキーナ』や70年代のプログレッシヴ・ロックを聴いていたよ。彼らは一人ひとり、複数の楽器を演奏する。キーボード奏者はドラムスも上手く、ベース奏者はギターも上手く、ドラマーはベースも上手い。メンバー同士で楽器の交換も出来るんだ。トムはバンドの作詞作曲の中心人物で、ガットギターを弾く。彼はいい声の持ち主で音程も良いのに、歌うことが好きではないんだ」

——次男のゼカはDJですね。

「DJだった。ゼカはエレクトロニカが大好きでテクノロジーに関心があり、キーボードを弾き、作曲を行ない、私と共作した曲もある(注:ガル・コスタが2015年のアルバム『エストラトスフェーリカ』で歌った「Você Me Deu」)。まだ本格的に音楽家として船出していないが、私はゼカと一緒にアルバムを作りたいと思ってるんだ。ゼカは私と、トムは私の妻のパウリーニャ(注:カエターノやテレーザのプロダクションの社長)と、そしてモレーノは彼の妻子と一緒に暮らしている(笑)。じつは昨日、モレーノの10歳の娘、つまり私の初孫が、生まれて初めて私にメールを送ってきたんだ。とても興味深い内容でね。彼女が通っている学校で私の曲『Gente(人々)』を歌うことになった。この曲は “Gente olha pro céu/Gente quer saber o um/Gente é o lugar/De se perguntar o um”(人は空を見上げる/人は、その○○を知りたい/人は場所だ/〇〇を問うための)という歌詞で始まる。彼女はメールで尋ねてきた。「おじいちゃん、歌詞の意味が分からない箇所があるの。”o um”って、何?」。いい質問だけれど(笑)、10歳の少女にどう説明するか、難しかった(笑)」(注:「um」は数字の「1」。「o um」は文法上は存在しないカエターノの造語)

——ここまでの話を聞いて、ふと思いつきました。ファミリーでアルバムを作るというアイディアはどうですか? かつてのカイミ・ファミリー(ドリヴァル・カイミ&ナナ、ドリ、ダニーロ)のように。

「じつはそれも考えていた。トムは正式にバンドを組む前、友人たちと演奏していた頃から曲を作って私に見せていた。ゼカが作る曲も印象的だ。モレーノは君も知ってるとおり、とても充実した活動をしている。君が制作したモレーノの『ソロ・イン・トーキョー』も大好きなアルバムだ。私がまた日本に来ることが出来るなら、次はぜひ、モレーノと一緒のショーをやりたいと思っている。モレーノと一緒に日本に来られることを願っているよ」