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Interview with 小川 隆夫 “衝撃的著作を連発”の
ジャズ・ジャーナリストに訊く
前編
取材:ARBAN
撮影:天田 輔

小川 隆夫

INTERVIEW
INFORMATION

 



——医者としてのスタンスも理解できるんですけど、小川さんの取材や調査は、医者ではなく、まるで刑事を連想させるときがありますよ。

「いや、その疑り深さも、やっぱり医者なんですよ。例えばマイルスが『あのときは、こういう経緯で、この曲を演奏した』って言ってるけど、本当かな? と。まあ、本人が言うからには本当だろうとは思うけど、でも、聞くチャンスがあれば他の当事者にも『マイルスがこう言ってたけど本当にそう?』って聞くんです。そこで違う答えが出ても、別に悩む必要はない。両方書けばいいんだから。そういうスタンス」

——ことの虚実はさておき「当事者たちはこう言っている」という現実をまず揃えるわけですね。たとえそれぞれの言い分に食い違いがあっても、「食い違いがある」という現実を提示する。著書『マイルス・デイヴィスの真実』でも、そういうくだりがありますね。

「マイルスはこう言った。だけど本当かどうかわからない。そうするとサイドマンのハービー・ハンコックにも聞くし、他のサイドマンにも聞く。皆が同じこと言う場合もあるし、それぞれが違うことを言う場合もある。もちろん“印象”の面で食い違う場合もある。でも、それらは全部述べちゃった方がいい。で、あとの判断は読者の皆さんに任せます、と。それが僕の基本的な手法。だから、ひとつの出来事に対しても、できるだけいろんな人に話を聞くんです」

——その取材姿勢は、一昨年に刊行された『証言で綴る日本のジャズ』で炸裂していますね。あの本は、戦後の日本のジャズシーンを探る、という内容で、しかも当事者の証言を軸に構成されています。

「昔から、日本のミュージシャンの話を聞きたいと思ってはいたけれど、発表の場がなかった。発表する媒体も決まってないのに取材するのは申し訳ないから、ずっと心の中ではスタンバイしてたんです。で、あるときラジオ番組で扱えることになって、そこから始まったんですね。戦後のジャズって、僕は全く知らない世界だったから、進駐軍のシステムも何も知らないゼロの知識から聞くわけ。そこで得た知識を踏まえて、また次の人にも聞く。そういうことを繰り返して、積み重ねながら、完成させました。あの本は僕にとっての学習過程の歴史ストーリーでもあります」

——取材を進めるうちに、少しずつ人間関係や事実関係がわかってくる。それを読者も疑似体験できる、という作りですね。

「そう、僕の学習の過程が分かる。最初のうちは知識がないから質問内容も稚拙なんですよ。だんだん知識が増えてくると、おのずと『聞くべきこと』がわかってくる。だから実際にインタビューした順番に並べたわけ」

——あれは本当に優れたドキュメンタリーだと思います。私もあの時代の日本人ミュージシャンについては「伝説」でしか知らなかったので、驚きの連続でした。

「僕も当事者から話を聞いてゾクゾクしたよ。あの本では、基本的に70歳代後半から80代前半くらいの元気な人に聞いてるんだけど、じつはまだやりたいことがある。その次の世代まできちんと検証したいんだよね」

——なるほど。日本のジャズ・ミュージシャンを追った本としては、最新の著作『スリー・ブラインド・マイス コンプリート・ディスクガイド』も該当すると思います。こちらはディスクガイドですけど、図らずも、日本のジャズ・ミュージシャンたちがどんな表現をしてきたのかが浮き彫りになっている。

「スリー・ブラインド・マイスは、日本で最初のインディペンデントなジャズレーベル。その全作品を紹介した本ですね」

——そのひとつ前に出された本『ジャズメン死亡診断書』も非常に刺激的でした。こちらは「ジャズ・ミュージシャンの死」を扱った本ですが、以前に弊誌で書評を掲載させていただきました。

「読んだ! あれは嬉しい書評だったなぁ。あんな読み方をしてもらえるなんて、本当に嬉しかった」

——あの本の面白いところは、記者として求める「ファクト」と、医師として求める「エビデンス」が見事に両輪として機能している点です。そこで質問ですが、ファクトとは全く関係ない、音楽作品の“良し悪し”という“不確かな現実”に向き合わなければならないことがありますよね。

「それも大事なところですね。例えばソニー・ロリンズの『サキソフォン・コロッサス』は名盤であると言われているけど、その評判だけを鵜呑みにして『これは名盤である』と判断するのはおかしいよね」

——しかし、例えばいま小川さんに「これは素晴らしい演奏だ」と言われれば、私は自動的に「これは名演だ」と思ってしまうかもしれません。

「僕がいつも心しているのは『人が言ってることは参考にするけど信じない』ってこと。自分で耳で聴いて『これは名盤だ』と思えるならそれでいいんです。とにかく自分で確認しないと嫌なんだよね」

——さっき小川さんを「刑事みたい」と形容しましたが、違いましたね。まず純粋に「知りたい」という欲求があって、その欲求の源泉は、好奇心なんですよね、きっと。

「まあ、基本はファンだから。33歳でこういう仕事を始めるようになって、周りの人と比べたら、完全に遅れてきた新参者なわけ。とりあえず評論家にはなれないな、とは思ったけど、知識はあるよ、と。例えば、こういうことやる前から『俺はブルーノートには詳しい』という自負があった。どんな評論家にも負けない知識とデータを持っている。そういうファンがいてもいいんじゃないの、と」

 

“ジャズ鑑賞に没頭”と思いきや
ギタープレイに夢中の青年期



——小川さんが生まれたのは1950年ですよね。その頃の日本は、まだ大戦の名残もあり、また、高度経済成長に向かう時期でもあります。

「そうだね、まさにそんな時期。僕は渋谷で生まれ育って11歳のときに世田谷に引っ越すんだけど、自分の中に残っているいちばん古い記憶は、3歳とか4歳くらいの渋谷の風景ですね。あの頃の渋谷は、駅の周りにバラックがあって、東急百貨店もバラックの食料品売り場みたいなのが出発点。いまバスターミナルになっている場所は当時、無料の駐車場だった。砂利が敷いてあってね。父親は渋谷で医者をやってたので、いつもそこにクルマを停めてた記憶がある。真横に246(国道246号)あるでしょ、あれを僕ら子どもたちは“50メーター道路”って呼んでて、本当は50メートルもないと思うけど、それを横切って桜ヶ丘の幼稚園に行くのが、僕にとっては大冒険だった」

——いまの渋谷と比べると、のどかでのんびりしたイメージですけど、かなりワイルドな側面もあったのでは?

「駅の周りには傷痍軍人がいてね、脚を失って松葉杖をついていたり、盲導犬を連れていたり、スチールギター弾いてる人もいた。それから、火事場から持ってきたような炭だらけの万年筆を『本当は1500円するけど300円でいいよ』っていう物売りの人がいたり、バナナのたたき売りもいた。それが僕の子供時代。まあ、決して良い環境ではないね(笑)。だから、僕が小学5年生のときに、親父は世田谷に家を建てた。親父は渋谷で開業していたから、自宅から渋谷の医院まで通ってたけど、僕は中学も高校も世田谷の学校に通うんです」

——成城学園ですよね。

「そう。ところが僕が中学くらいになると、渋谷が繁華街になってきて。ゲームセンターに遊びに行くのが楽しくてね。学校の帰りに渋谷に寄っては補導されたりしてました(笑)」


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