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Interview with 小川 隆夫 “衝撃的著作を連発”の
ジャズ・ジャーナリストに訊く
前編
取材:ARBAN
撮影:天田 輔

小川 隆夫

INTERVIEW
INFORMATION

 

——それが60年代の半ばですよね。東京オリンピックの開催で、街は活気づいていたと思うんですが。

「高校生になった頃には、ジャズ喫茶がいっぱいあったから、まず親父の診療所に行って、高校の制服を脱いで私服に着替えて、ジャズ喫茶に行く」

——その頃にはもうジャズに夢中だったんですか?

「ジャズもロックも好きでしたよ。中学の頃からアマチュアでバンドやってて、高校の頃にはセミプロみたいな状態になってましたね」

——楽器は?

「ギターです。クラシックギターをやっていたのもあるけど、中学の時にはすでにエレキギターを入手していたので」

——その時代に、中学生でエレキギターって、いなかったでしょ?

「いなかったね」

——どんなところでプレイしてたんですか

「ゴーゴーホールみたいなところ」

——今でいう、ディスコやクラブに相当する場所ですね。

「そう。年齢を偽って出演してました。あと、当時はまだ進駐軍のキャンプでも仕事があった。横須賀とかで。高校生の僕にとって、米軍基地でやるのは夢みたいな話でね。なんせ、そこはアメリカですから」

——まだ一度も、勉強の話が出ていませんが大丈夫ですか?(笑)。このあと「医大受験」が控えているはずなんですが。

「そうなんだよ(笑)。ちなみに、僕が通ってた学校は大学まであるから周囲は遊びまくってるわけ。当然、バンド仲間もそんな調子だから、勉強しなきゃいけないことはわかってるんだけど、したくない。しかも、バンドでプロになりたいって思ってたから」

——家族からのプレッシャーはなかったんですか?

「僕は4人兄弟の三番目なんですよ。上の二人は医者になる意思を見せてたけど、結局逃げちゃってね。で、弟は子供の頃から『医者にはならない』って宣言してたんだ。とはいえ、一人は医者になってくれないと困る、っていう親父の立場もあり……結局、僕の逃げ場がなくなって(笑)」

——仕方ない。やるか、と。

「でもね、勉強しないでバンドばっかりやってたんですよ。それで受験したら、当然まったくわからないわけ。問題が解けないレベルで、さすがにちょっと怖くなってきて」

 

バンド活動に没頭。そして
「弾く」から「聴く」への転向



——その頃、バンド仲間たちは音楽に夢中なんですよね。
「そう。僕だけつまらなくなっちゃって『しょうがねぇなぁ……勉強するか』って。一浪して最後の3〜4か月かな、必死になってやりました。もともと凝り性だから、ご飯食べる以外は勉強をやろう、みたいな感じになって」

——で、結果はどうだったんですか?

「その年、3校受けて3つとも受かりました。偏差値からいくと順天堂が一番上だったのかな。次は東邦大学の医学部。ところが僕が入ったのは東京医科大学」

——なぜですか⁉︎

「まず、順天堂は最初の二年間は千葉に行かなきゃいけない。しかもあそこは体育学部があって、寮生活で体育学部と医学部が同室になるんですよ。そんなのイジメられちゃうじゃないですか、俺みたいなナンパな奴が入ったら」

——なるほど。じゃ、東邦大の医学部は?

「あそこも同じく、最初の二年間は富士山の方に校舎があって寮生活。これも嫌だった。それに比べて、東京医大は新宿。最高じゃないか! と思って」

——ジャズ喫茶もライブハウスもいっぱいあるし。

「で、東京医大に入ったわけ。それでまたバンドをやろうと思って、昔の仲間がセミプロみたいになってたから、彼らに合流して。その頃は、いわゆる“70年安保”が落ち着いてちょっと能天気な時代になりつつあったから、そのゴーゴーホールみたいなダンスクラブは結構仕事があって、そういうところで演奏したりして、学校ほとんど行かなかった」

——ダメじゃないですか(笑)。

「うん、そんな感じで二年になって、二年の時もほとんど大学行かなかったんだけど進級できたんです。ただし、三年からは専門課程になるから、二年から三年に上がるのはハードルが高い。と、わかっていながらもバンドをずっとやってて、5月くらいになって進級は絶対無理だと感じた。バンドもやりたいし、どうしようかな? と。これで一生食っていけるほどの実力も才能もないって、わかってるんだけど、楽しいし、とりあえずやれば仕事もあるし小遣い稼ぎにはなるから、やっていたいわけですよ」

——で、結局どうしたんですか?

「1年間休学させてくれ、と。このまま中途半端にやってもどうせ留年しちゃうし、1年やったらきっぱり諦めるから、バンドをやりたいだけやらせてくれ!って親父に言ったわけ。で、仕方なくやらせてもらって」

——いよいよ本格的にロックバンドを?

「ロックもやってたけど、ジャズも勉強した。ジャズの学校みたいなところで理論を勉強したり。それでようやく理屈がわかってジャズのバンドを始めるんです。ホテルのラウンジとかピットインの朝の部とかに出たりしてね。かたや友達とはロックのバンドやって、その頃、日本のロックって結構盛り上がってきていて。グループサウンズの時代が終わって、日比谷の野外音楽堂なんかで春から秋にかけて毎週末ロックのコンサートがあって、そういうとこも出るようになって。だけど、これで食ってくわけにもいかないだろうな……と思いながらも、レコード会社のオーディションとか受けると受かっちゃったりしてね」

——プロデビューはしなかった?

「オーディションは受かったけど、結局それ以上先には行かなかった。怖くなってね。まぁ、やりたいことをやって自分としては納得いく1年だったし、親にきっぱりやめるって約束したから、ギターも倉庫にしまって。それから一生懸命“聴く”ようになったんです。それまでは楽器をやってレコードも集めてたんだけど、演奏をやめて、聴くことを専門にしようと」

——よくそんな決心がつきましたね。

「僕が育った時代がちょうどよかった。バンド活動する環境もあったし、そういう場もいっぱいあった。音楽的にはロックも好きだし、ジャズも好きだし、ソウルミュージックも好き。そういうのがごっちゃにできるフュージョンじゃないけど、刺激的で楽しいものがたくさん出現していたからね。僕にとってはピッタリの時代だった」

後編へ続く



小川 隆夫/Takao Ogawa 
1950年、東京生まれ。東京医科大学卒業後、81~83年のニューヨーク大学大学院留学中に、アート・ブレイキー、ウイントンとブランフォードのマルサリス兄弟などのミュージシャンをはじめ、主要なジャズ関係者と親交を深める。帰国後、整形外科医として働くかたわら、音楽(とくにジャズ)を中心にした評論、翻訳、インタヴュー、イヴェント・プロデュースを開始。レコード・プロデューサーとしても数多くの作品を制作。著書は『TALKIN’ジャズ×文学』(平野啓一郎との共著、平凡社)、『証言で綴る日本のジャズ』、『同 2』(駒草出版)、『マイルス・デイヴィスが語ったすべてのこと』(河出書房新社)、『マイルス・デイヴィスの真実』(講談社+α文庫)など多数。2016年にはマイルス・ミュージックにオマージュしたバンド、Selim Slive Elementzを結成。2017年8月にデビュー作を発表する。


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