Arban

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スガダイロー『独奏』
2016 02.28 sun.  @WWW
取材・文:富澤えいち
写真:則常智宏

スガダイロー『独奏』

REPORT
INFORMATION

 スガダイローは“勝負の人”である。これまでの経歴を見れば、山下洋輔や加藤真一、多田誠司といった日本のインプロヴィゼーション界を代表するアーティストと対峙するアルバムを何枚もリリース。ソロ名義でも“八番勝負”と題して曲ごとに“対戦相手”を入れ替える企画を成立させている。パーマネントとなっているスガダイロートリオを含めて、外的な刺激に対していかに柔軟な変化を示すことができるかというポジションにいる、というのが彼のこれまでのメイン・キャラクターだったと言える。
 ところが、2015年11月にリリースした『Suga Dairo / Solo Piano at Velvetsun』は、タイトルどおり彼が単身でピアノに向かうという“新境地を示すものとなり、それまでの“勝負の人”とは異なるニュアンスを発していた。以前のアルバムでもピアノのソロ演奏を収録したことはあったが、それはインタルード的な意味合いが強く、“格闘するジャズ・ピアニスト”というスガダイローがまとっていたイメージからすれば傍流の感が否めない。
 その一方で、個人的にスガダイローというピアノ弾きに対して、その破壊的で直感的という印象を与えるプレイ・スタイルの裏に、緻密に練り上げられたコンセプションと、それを具現できる高度なテクニックを兼ね備えた“ハイブリッドな才能”が見え隠れしていることが気になっていた。“対戦相手”のいないソロという方法論を選ぶことによって、そうした彼の潜在的な魅力が解禁されるのではないかという期待を高めてくれたのが、このピアノ・ソロのアルバムだった。そしてレコーディングという“閉じた世界”だけではなく、“開いた世界”でも解禁する意志があることを示そうというのが、当夜のステージということになる。
 会場に波の音が流れていたというのも、ソロならではの演出だった。それは、これから始まろうとする“ソロという新境地”を、少しクールダウンしながらジックリと味わってもらいたいという、ホストであるスガダイローの配慮に違いないからだ。開演を待つ観客のざわめきを中和するかのように流れていたその音源は、彼自身が七里ヶ浜まで出向いて収録している。つまり、ピアノを弾いていない空間にもスガダイローは存在していることを示し、それは彼が偶然より周到な計画を優先させる音楽家であることを意味する。
 インプロヴィゼーション、特に1960年代のフリー・ジャズを規範とするプレイ・スタイルでは、偶発によって得られる結果を優先させる風潮が強かった。一方で、20世紀末に世界的な風潮となった音響派では、テクスチャーの再構築といった方法論を軸に展開するインプロヴィゼーションが台頭し、その可能性を広げていく。スガダイローはフリー・ジャズの系譜に位置するジャズ・ピアニストであることを標榜しているが、その世界的な音響派の影響を受けずにいたはずはない。ということは、テクスチャーへのこだわりが表出するのは時間の問題だったはずだ。
 ステージは漆黒、そこに微かな光でぼんやりと照らし出されたピアノが浮かび上がる。そこへ、スガダイローが登場することで始まった。リズムの変化で曲が変わったことは意識できたが、基本的に演奏が途切れることがないまま50分の演奏。そして15分の休憩を挟んで後半もまた連続した40分の演奏という時系列のなかで、彼は“ひとり舞台”を演じ切った。
 共演者や偶発性という外的要因に拠らず、自分という内的なテクスチャーを再構築したスガダイローのこの“船出”は、インプロヴィゼーションの歴史に新たな大波を巻き起こすべく彼が仕組んだ“次なる勝負”の匂いがプンプン漂っていた。