投稿日 : 2019.10.11
【BETTER DAYS】若き天才たちの実験場 “ベターデイズ・レーベル” が起こした奇跡
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2018年1月29日の記事を再掲
かつてこれほど自由で独創的なジャズ系レーベルがあっただろうか? 1977年に設立され、日本のクロスオーバー/フュージョン・ミュージックをリードしていた伝説的レーベルBETTER DAYS(ベターデイズ)である。
レコード会社「日本コロムビア」内に発足した同レーベルは、1986年に実質的な活動を停止したが、現在も、特に海外での評価は高く、多くの作品が再発。この動きに呼応するように、レーベル設立40周年を記念したライブや、過去作のリイシュー、新譜の制作も活発化している。
そうした諸作品の解説などを数多く手がけ「BETTER DAYSは、本邦クロスオーバー・ミュージック史における最重要レーベルのひとつ」と語るのは、音楽ライターの熊谷美広氏。そんな熊谷氏を聞き手に迎え、現BETTER DAYSの担当プロデューサーである日本コロムビアの野村均氏を直撃。
今だから話せる「あの頃のBETTER DAYS」秘話……訊いてきました。
坂本龍一ソロデビューの経緯
熊谷 まずはレーベル発足時の話をお訊ききしたいんですが、そもそも、どんな経緯でスタートしたのでしょうか?
野村 レーベルとして最初のリリースは1977年8月。久保田麻琴と夕焼け楽団の『ラッキー・オールド・サン』が第1弾作品です。ちょうど、夕焼け楽団がコロムビアに移籍してきて、久保田さんと当時の担当ディレクターが相談して「アーティストのためのレーベルを作ろう」ということになったんです。
熊谷 レーベル誕生のきっかけは久保田麻琴さんだったんですね。
野村 久保田さんって、ブルースとかハワイアンなど、幅広く音楽がお好きでしょ。それで、ポール・バターフィールドのバンド名から“Better Days”というレーベル名を付けて、レーベル・ロゴはちょっとトロピカルなものになって。
熊谷 なるほど。そこにも久保田さんの個性が反映されていたんですね。確かに初期のラベルは、トロピカルな雰囲気でした。でも、あのデザインは途中で変わりますよね。
野村 はい。レーベル発足から3年ほど経った頃、渡辺香津美の楽曲「ユニコーン」〈『TO CHI KA』(1980年)収録曲〉に、日立とのCFタイアップが決定したんです。そのタイミングで露出の機会も増えるという思惑もあり、トロピカルなロゴは(ジャズ系に)ちょっとそぐわないだろうから、もうちょっとソリッドなデザインにしようということになって。それで太陽のロゴになったようです。
熊谷 そうだったんですね。とはいえ、レーベル発足直後からジャズ系の作品はリリースされていますよね。
野村 そうですね。久保田さんの次にリリースしたのが渡辺香津美の『Olive’s Step』(1977年)なんですが、あの作品はジャズ担当者が、レーベルを借りる形で作ったんです。これを契機にBETTER DAYSでジャズ系の作品を出すようになりました。
熊谷 渡辺香津美さんの『Olive’s Step』には坂本龍一さんも参加していたから、その流れで坂本さんのデビューアルバム『千のナイフ』(1978年)へと続いていくわけですね。
深夜に始まるスタジオ・セッション
野村 坂本龍一の『千のナイフ』レコーディング当時、赤坂(東京都港区)にあったコロムビアのスタジオが、夜の12時から朝まで自由に使えていたらしいんです。そこで坂本さん香津美さん、仲間のミュージシャンたちが夜な夜な集まってきて、自由に、セッション感覚でやりたい音楽をやっていた。それでできたのが、『千のナイフ』なんだそうです。山下達郎さんがカスタネットで入ったりしていますね(笑)。
熊谷 『千のナイフ』の初回リリースはあまり売れなかったという伝説がありますね。
野村 当時の担当ディレクターの話では、初回アナログLPは400枚しか出なかったって言ってましたね。ちなみに『千のナイフ』のリリース(78年10月)の1か月後に、YMOのファースト・アルバムが発売(78年11月)されるんです。つまり教授は、ソロとYMOとを同じ仲間で並行してやっていたんですね。その後YMOがブレイクして、『千のナイフ』も一気にヒット作になりました。
熊谷 私は、渡辺香津美『Olive’s Step』と坂本龍一『千のナイフ』が、フュージョン系レーベルとしてのBETTER DAYSの土台を作ったというイメージを持っているんですが、当時、レーベルとしての「サウンド的な方針」みたいなものはあったのでしょうか?
野村 そこはアーティストに委ねている部分が大きかったと思いますね。その頃のジャズ担当のディレクターは、赤坂のスタジオで(ミュージシャンに)自由にやらせていたようですし。みんなほとんど新人みたいなものだったし、当時はまだ認知されていなかったジャンルでしたから。まあ、当時はまったく売れなくて、周りからはボロクソに言われたみたいですけどね(笑)。
熊谷 のちに「フュージョンの聖地」となる六本木ピットイン(注1)もオープンが1977年ですから、日本のクロスオーバー/フュージョンブームの始まりとも言えるタイミングだったのかもしれませんね。
注1:ジャズの老舗ライブハウス「新宿ピットイン」の姉妹店として、1977年8月25日に東京・六本木にオープン。同年10月にリー・リトナー&ジェントル・ソウツが出演。この大盛況がきっかけとなりフュージョン・ミュージックを中心としたライブハウスへと発展。その後は渡辺香津美、坂本龍一、村上“ポンタ”秀一、矢野顕子、山下達郎、吉田美奈子など当時の若手ミュージシャンたちや、ラリー・カールトン、ステップスなどの海外のアーティストも数多く出演。さまざまなチャレンジを展開し、日本のフュージョン・シーンのホームグラウンド的存在になっていった。2004年7月に閉店。
ジャズとテクノとJポップが融合
野村 六本木ピットインのオープンは1977年8月25日なんですけど、奇しくもベターデイズ第1弾作品『ラッキー・オールド・サン』のリリースと同じ日なんです。
熊谷 それはすごい符合ですね。当時、ピットインや赤坂のコロムビア・スタジオなどで、ミュージシャンたちがさまざまな実験を繰り返していて、そこには若き日の渡辺香津美さんや坂本龍一さん、矢野顕子さんたちがいた。それがやがて「フュージョンとテクノとJポップ」が融合するという、ある意味、日本の音楽シーンにおけるエポック・メイキングなプロジェクト『KYLYN』(1979年)などに繋がっていくわけですね。
野村 そうですね。渡辺香津美さんの『KYLYN』もまた、坂本(龍一)さんや(高橋)ユキヒロさんというYMOメンバーと、向井滋春さんや本多俊之さんのようなジャズ系メンバーが混在していますね。
熊谷 その後、ステップスや24丁目バンドといった、海外アーティストの作品制作も始まりますけど、それはどういった経緯で?
野村 24丁目バンドについては、ニューヨークで活躍していたベースの中村照夫氏からのつながりで、当時、マサチューセッツ州立大で教鞭をとり、マックス・ローチやアーチー・シェップとも親しい小澤善雄氏のコーディネートで実現しました。コロムビアの第1回PCM録音が渡辺香津美の『ロンサム・キャット』(1977年)なんですが、翌年の第2回録音にあたって、当時隆盛だったフュージョン色のあるアーティストとしてハイラム・ブロックが候補になったんです。このオファーに「リーダー・アルバムは不可だがバンドでの録音なら可能」ということで決まったのが24丁目バンドだそうです。
熊谷 知らなかった…。そんな経緯があったんですね。ステップスに関しては?
野村 ステップスは、渡辺香津美の『TO CHI KA』(1980年)がきっかけです。当時、坂本龍一のマネージャーだった生田朗さん(注2)が「マイク・マイニエリが渡辺香津美に興味を持っているようだ」という話を聞きつけてきて、マイクのマネージャーにコンタクトを取ったんです。それでマイクは『TO CHI KA』に参加することになるんですが、その後『TO CHI KA』の発売ツアーで来日したマイク・マイニエリから、当時ブレッカー兄弟が経営にかかわっていたニューヨークのクラブ、7thアヴェニュー・サウスでやっているリハーサル・バンドの話を聞き、日本ツアーと録音の話が持ち上がったと聞いています。
注2:生田 朗(いくた あきら) 音楽プロデューサー、コーディネーター。山下洋輔や坂本龍一、大貫妙子のマネージャーを経て独立。プロデユーサーとして清水靖晃や渡辺香津美の作品をはじめ、YMO作品のマネジメントやコーディネートを手がける。映画『ラストエンペラー』(1987年)に医者役で出演も。88年8月、メキシコで交通事故に遭い死去。
熊谷 なるほど。BETTER DAYS作品でいちばんヒットしたのって、やっぱり渡辺香津美さんの『TO CHI KA』ですか? 当時、香津美さんご自身が出演したテレビCM(注3)が話題になって、15万枚のヒットだったと聞きますが。
注3:日立製作所のオーディオブランド「Lo-D(ローディ)」の製品コマーシャルに渡辺香津美の楽曲「UNICORN」(アルバム『TO CHI KA』収録)が採用され、渡辺本人も同CMに出演した。
野村 ちょっと正確な数字はわからないですけど、『TO CHI KA』は記録的なヒット作品でしたね。
海外からのオファーが連日殺到
熊谷 BETTER DAYSのすごいところは、ジャンルを超越したり、それまでの音楽の常識を覆すような画期的なサウンドをクリエイトしていた日本のグループに「レコーディングの機会」を与えていたことだと思います。ダンスリー、ムクワジュ・アンサンブル、マライア、カラード・ミュージック、Wha-ha-haなどは、まさに日本でしか生まれない、オリジナリティあふれるグループだったと思いますよ。
野村 当時BETTER DAYSのコンセプトは、アーティストが自由に、やりたいことができる環境作りをして、発表の場を与える、ということだったそうです。だからジャンルもバラバラだし、たぶん人でつながっていたんでしょうね。坂本教授がいたから、彼とつながりがあったダンスリーをやってみたり。カラード・ミュージックも、当時はYMOファミリーだった橋本一子さんからつながっているし。
熊谷 近年、海外の評価も高くなっていっているそうですね。
野村 海外からの音源使用のオファーは、毎日のようにあります。いちばん多いのは清水靖晃さんの『案山子』(1982年)ですね。2番目がムクワジュ・アンサンブルの『ムクワジュ・ファースト』(1981年)。これは久石譲さんがプロデュースしていることもあると思います。次いで『カラード・ミュージック』(1981年)ですね。この3作品が圧倒的に多い。あと、マライアの『うたかたの日々』(1982年)も海外の人気は高いです。
熊谷 どれも独創的な作品ですね。このラインナップを見ると、やはりBETTER DAYSは世界的にみてもユニークで、日本の音楽シーンに大きな影響を与えたレーベルだったことを実感します。
「ジャンル不問」の自由なスピリット
野村 メジャー・レーベルですけど、スピリットはインディペンデントという、当時のヴァージン(注4)あたりに近かったのかもしれませんね。
注4:Virgin Records。1972年、リチャード・ブランソンらによって設立。最初の発売『チューブラー・ベルズ/マイク・オールドフィールド』(1973)が大ヒットを記録。その後、タンジェリン・ドリーム、セックス・ピストルズ、カルチャー・クラブ、スティーヴ・ウィンウッド、ジェネシスなど多様なアーティストの作品を次々とリリースし、ポップシーンの重要レーベルに発展。かつて坂本龍一も在籍(89〜91年)。92年にEMIに売却。
熊谷 確かに! そうですね。あと、アイランド(注5)とか。
注5:Island Records。1959年にジャマイカで設立。もとはレゲエのレーベルだったが、ロンドンにイギリス法人を構え、キング・クリムゾンやエマーソン・レイク&パーマーの作品も扱う。70年代にボブ・マーリーを世界的なアーティストへと成長させ、その後もスティーヴ・ウィンウッド、トム・ウェイツ、エルヴィス・コステロ、U2など、数多くのビッグ・アーティストの作品を手がけた。89年にポリグラム(現ユニバーサルミュージック)傘下に入る。
野村 個人的には、クレプスキュール(注6)とか、チェリー・レッド(注7)のようなレーベルだったのかな……とも思いますね。クレプスキュールなんて、出している作品のジャンルがバラバラだったじゃないですか。
注6: Les Disques Du Crépuscule。1981年にベルギーで設立されたレーベル。アンテナ、アンナ・ドミノ、ドゥルッティ・コラムなどの作品を世界的にヒットさせ、80年代のネオ・アコ・ブームの先駆け的存在となった。
注7:Cherry Red Records。1971年にロンドンで設立されたレーベル。84年にデビューしたエヴリシング・バット・ザ・ガールのヒットにより、日本ではネオ・アコ系のレーベルとして知られている。ほか、モノクローム・セット、マリン・ガールズ などの作品をリリース。
熊谷 アンテナなんかも、クレプスキュールですよね。
野村 アンナ・ドミノやドゥルッティ・コラムがいたり。
熊谷 そういわれると、インディペンデントという表現が、いちばんしっくりきますね。余談ですが、80年代初頭のクレプスキュール作品の帯には、YMOメンバーの推薦文が載ってたりしてました。そんなところにも近似性を感じますね。
野村 推薦文の話ついでに言うと、大野えりさんの『Talk Of The Town』(1983年)のライナーノートは、村上春樹さんが書いてるんですよ。
熊谷 ええ!? そうなんですか? やはりBETTER DAYSは、知れば知るほど面白い。ほんとうに画期的なレーベルだったので、今後さらに認知と再評価が拡がってほしいですね。
野村 40周年を機に、今後もライブやリイシューを企画していますので、この機会にぜひBETTER DAYSの魅力に触れていただきたいと思っています。