投稿日 : 2018.02.15 更新日 : 2021.09.03

【証言で綴る日本のジャズ】大野雄二|「やってもいいんだ」から始まったジャズの道

取材・文/小川隆夫

大野雄二 インタビュー

連載「証言で綴る日本のジャズ3」 はじめに

 ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズシーンを支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場する“証言者”はピアニスト/作曲家の大野雄二。『ルパン三世』をはじめ、数多くの映画音楽やテレビ番組、CM音楽などを手がけてきた作曲家として広く知られる人物だが、60年代から現在にいたるまでの「ジャズ・ピアニストとしての功績」も偉大である。

大野雄二/おおのゆうじ
ピアニスト・作曲家。1941年5月30日、静岡県熱海市生まれ。高校時代にジャズを独学で学ぶ。大学時代にプロ・デビュー。藤家虹二クインテットを経て、66年に白木秀雄クインテットに参加。そのころから自身のトリオや日野皓正らとの活動も開始し、日野皓正カルテットが67年に吹き込んだ『アローン・アローン・アンド・アローン』に参加。60年後半から作曲家としてCM制作のほか、『犬神家の一族』(76年)、『人間の証明』(77年)など、テレビや映画音楽を多数手がける。77年からは『ルパン三世』の音楽を担当。90年代に入ってジャズ・ピアニストとしての活動を再開。2006年からはYuji Ohno & Lupintic Fiveを結成し、2016年にはメンバー編成を新たに、Yuji Ohno & Lupintic Sixを結成。精力的な作品リリースを続け、都内ジャズクラブから全国ホール公演、ライブ・ハウス、ロックフェスまで積極的に活動中。

最初の音楽体験

——生まれた場所と生年月日をお聞かせください。

 1941年5月30日、静岡県熱海市生まれです。

——実家はどのようなお仕事を?

 大野屋(注1)という旅館をやっていて。小学校六年の2学期までは地元の学校。小田原の中学に行くため、六年の2学期から3学期は小田原の小学校で、そのあとは小田原の第一中学、小田原一中(その後、城山中学と名称が変わる)に通ってた。

(注1)37年に「瑞雲荘大野屋」としてオープン。300名収容のローマ風呂などを備え、60年に法人化。80年に本館を増改築、87年に旧館を建て替え、現在はクリアックス傘下伊東園ホテルズ系「伊東園リゾート」のひとつとして営業。

——そこへは熱海から通って?

 電車で30分くらい。

——慶応に行かれるのはどの時点で?

 高校から。場所は日吉だったから、徐々に都心に近づいていったことになるね(笑)。

——それで大学は三田ですものね。

 そう。

——音楽との出会いは?

 小さいときから音楽は嫌いじゃなかった。特化してなにが好きってことはないし、音楽教育を受けたわけでもない。普通の子供として、ラジオで流れてくる音楽を聴いて。昭和16年生まれだから、戦争が終わって4歳とか5歳。日本が負けて突然自由になって、ラジオでアメリカのポップスがやたらに入ってきた。民謡や歌謡曲みたいなものしかないときに、どっちかといえばアメリカから入ってくる音楽が好きだった記憶はあるかな。

——それは小学校に入る前後。

 入ってちょっとしたころ。

——洋楽ということですね。

 うん、洋楽志向だった気はするね。

——楽器は、最初からピアノだったんですか?

 姉がピアノを習っていたんで、自分もちょっとやってみたいなと思って先生に習ったのがきっかけ。だけど習うことがつまらなくて(笑)、すぐ辞めちゃったという。

——それがいくつぐらいのとき?

 小学校二年とか。バイエルが30番くらいのときに、「もう、習うのはヤダ」。小学校六年くらいで違う先生にもう一度習ったんだけど、やっぱりダメ。だからピアノはほとんど独学。

——それでも家にあったピアノを弾いていた?

 触っていた程度だから、テクニックがつくような弾き方じゃないけど。

——ラジオから流れてくる音楽に合わせるとかは?

 メロディぐらいは弾いたかもしれないけど、サウンド感覚がぜんぜんないから、遊びでいじっていた程度だよ。

——ジャズはまだ先の話で。

 それがほんとに面白いんだけど、東京に近づけば近づくほど、不思議なことにジャズと出会っていく。中学の二年かな? 友だちが「公民館にジャズが来る」。それが南里文雄(tp)さんのディキシーランド・ジャズとモダン・ジャズのバンドだった。前座が土田真弘(まさひろ)さんというアルト・サックスのひとのバンドで。南里さんのバンドはディキシーだからやたら楽しくて「ウワー」となるけど、その前にやった聴いたこともなければ理解もできない音が「カッコいいな」と。なぜかモダン・ジャズのバンドに引っかかって。

 ディキシー的なものはラジオでもたまにかかっていたんだけど、ごく普通の時間にモダン・ジャズはまず聞けなかった。ただぼくはスウィング・ジャズだったり、ディキシーなど、なにかジャズ系のものが好きだったみたいだね。だけど中学のときにそのモダン・ジャズに出会って、「ウン?」と思ったのがのちに繋がっていく。

ジャズを演奏し始めたころ

——そのあとは?

 高校に入って、一年の秋の日吉祭(文化祭)が決定的瞬間。模擬店にジャズ喫茶があって、そこに生バンドが出ていて。

——それは慶応高校のバンド?

 高校生と、大学からお手伝いで来てたひとたち。ぼくはジャズが好きだったけど、聴くもので、やるなんてとんでもないと思っていた。ところが、同じ高校生でもやっているひとがいたんで、「やってもいいんだ!」と衝撃が走ったんだ。そこからだよ。

——やるといったって、どういうふうに始めたんですか?

 やるというか、直感的に「あ、見つけた」という感じ。同級生で後にNHKのアナウンサーになる明石勇(注2)がいて。彼は中学のときにブラスバンドでクラリネットを吹いていた。彼も当時ちょっとなにかを吹いてみたい気持ちがあったんだろうね。それで「やりたいな」と思ったときに、実力云々ではなく、なんとなく4、5人が集まってきた。

(注2)明石勇(アナウンサー 1941年~)64年にNHK入局。主に報道担当のアナウンサーとして活躍。ラジオ『午後のロータリー』『NHKニュースワイド』の土曜日キャスターなどを歴任。定年退職後は『ラジオ深夜便』日曜担当アンカーを担当。

 当たり前だけどアドリブもできないし、なにかそれらしい形でやるのにもう少しひとを集めようと思っていろいろやって、勝手に「ジュニア・ライト・ミュージック」というグループを始めたんだ。

——それ、大学にある「ライト・ミュージック・ソサエティ」のジュニア・バンドという意味じゃなかったんですか?

自分たちで勝手に名乗ってたんだ。下手だけど、ナイン・ピースぐらいかな? ちょうど売ってる譜面があったんでそれをやってみたら、下手でも譜面に書いてある音を吹けばそれなりになるってことがわかって「これは楽しい」。でもそれとは関係なく、そのころのぼくはモダン・ジャズの魅力に憑りつかれて、ジャズ喫茶通いになる。

当時、渋谷にウエスト・コースト・ジャズがよくかかる「デュエット」があって。東京駅の八重洲南口には「ママ」があって。ここはどちらかといえばイースト・コースト・ジャズがかかっている。休みの日は、開店とほぼ同時に行って、60円ぐらいのホット・ミルク1杯で夕方まで。

——それでも、ジャズのピアノを弾く、たとえばコードを押さえるだけでも知識がなければたいへんでしょ?

好きだったのがソニー・クラーク(p)で、そういうひとが出始めのころだよ。「こういう音を弾きたい」と思うけど、自分が想像して弾いたら単純な「ドミソ」になっちゃう。テープレコーダーをガチャっと何回も巻き戻して、「こうかな?」って徹夜して実際に弾き続けて、朝方ぐらいにようやく似た音になってくる(笑)。そういうところから始めた。

——慶応はジャズが盛んですから、友人に教えてもらったりとかは?

ラッキーだったのが、大学生で上手いひとたちに教えてもらえたこと。あのころの慶応はすごくレヴェルが高かった。「ライト(ミュージック・ソサエティ)」にはアドリブができるひとは、あまりいなかったけど。文連に公認されていない、勝手にやってるひとたちの中に上手いひとがいっぱいいて。

——大学に入ったころにはそこそこ弾けるようになって。

うん、ファイヴ・ブラザーズというバンドで演奏していたあたりかな。NHKの教育テレビに『若い広場』という番組があって、二年か三年のときに出たことがある。ファイヴ・ブラザーズは伝統的なバンドで、文化系の公認された活動ではなくて、自発的にやってたバンド。歴代から、いまだに続いている。

——ファイヴ・ブラザーズはどんなサウンド?

 アルト・サックスとトランペットの2管で。バンドのテーマ曲は〈ファイヴ・ブラザーズ〉(注3)。だけどウエスト・コースト・ジャズではなく、チャーリー・パーカー(as)とディジー・ガレスピー(tp)がやってたみたいなビバップのバンド。始まったころはウエスト・コースト・ジャズが全盛だったから、ボブ・ブルックマイヤーみたいなヴァルヴ・トロンボーンとスタン・ゲッツみたいなテナー・サックスのバンドでウエスト・コースト・ジャズを演奏してた。ぼくは「ライト」にも入っていたけど、ファイヴ・ブラザーズはアドリブができるバンドだったから、面白かった。

(注3)47年にジェリー・マリガン(bs)がウディ・ハーマン・オーケストラ(セカンド・ハード)のサックス・セクションをフィーチャーするために書いた曲。

——「ライト」ではアドリブがあまりできない?

 ピアノはいてもいなくてもほとんど同じなの。フルバンドならドラムやラッパが面白い。ピアノがソロを弾くのは、カウント・ベイシー(p)の〈ワン・オクロック・ジャンプ〉の頭くらいだし、〈茶色の小瓶〉だって4小節くらいしかない。そうしたらサックスのソリ(合奏)になっちゃう。

——アドリブはどうやって?

 最初はデタラメから。小節の勘定ができないから、「8小節やりました」という感覚がわからない。コードだってよくわかっていないんだから。だけど、勝手にソニー・クラークみたいなことを弾いて。いまになってよかったのかなと思うのが、コピーしたものをそのまま弾くんじゃなくて、デタラメでもいいから12小節、ブルースみたいなものを弾く。そう思ってやっていたら、なんとなく12小節の感覚がわかるようになった。

 そこからコピーをいっぱいしていくと、次第に〈クール・ストラッティン〉のワン・コーラス目はこういうソロをしてるんだ、2コーラス目はこうだって。ミディアム・テンポぐらいのブルースは、同じアドリブだったらそれなりに上手く弾けるぐらいになる。そういうことから始めて、イヤというほどコピーして。ソニー・クラークそっくりになりたい、トミー・フラナガンそっくりになりたいと思ってズーッとやってた。

——理論はまったくわからずに。

 そう、合っているかどうかはわからない。レコードでやっているひとのをコピーしているんだから、間違ったことはやってないだろうと。

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