投稿日 : 2018.02.15 更新日 : 2021.09.03
【証言で綴る日本のジャズ】大野雄二|「やってもいいんだ」から始まったジャズの道
取材・文/小川隆夫
CMから映画音楽の世界に転身
——日野さんのバンドを辞めたあと、日野さんはスターになっていきましたが、大野さんはどういうことをされていたんですか?
いろいろ理由があって、そのころは悩んでいた時期。だんだん外タレが来るようになってきたでしょ。ステージでは難しいことをやっているひと(外タレ)が、そこらに出ている日本人と一緒に演奏すると、トラディショナルなことがやたら上手いのがわかる。それにすごくショックを受けて。こいつらぜんぶキッチリ基礎をやってからこっちの方向にいったんだな、と。
自分のことを考えたら、そういうことすらまともにできていない。一緒にやってみて、昔に戻んなきゃダメだって、反省をした。もう一度ビバップとか、そういうことをキッチリやり直そうと。でもそれをやっているうちに、そういうチマチマした世界で生きていることがイヤになってきた。
そのときにたまたま「CMの音楽をやらないか」という話がきたんだ。CMはジャズとは逆で制約だらけの世界だから、好き勝手にはやれない。ぜんぶ制限される世界でやったことがなかったから、「これ面白いな」と思ってハマった。そのうち作曲家になっちゃった。
——CMを始めたのはいつごろから?
ちょっとずつ始めたのが67、8年からかな。
——日野さんのバンドをやってたか、辞めたころ。
でも、最初は年に2本とかそんなものだよ。だからまだピアニストで。70年ごろになると、それで食べていけるかどうかギリギリの状態で、ピアノはまだちょっとは弾いていたけど、決別する気はあった。
——スタジオ・ミュージシャンはやりましたか?
やっていたね。あのころは映画音楽とかを書くジャズのひとが多かったんだ。三保敬太郎(p)さん、八木正生(p)さん。前田憲男(p)さんとか。そういうひとの音楽は、ジャズを知っているひとを使ったほうが便利でしょ。そのころの映画は2本立てだから。2本目の、スターがB級の映画はだいたい三保さんとかがやってた。それによく呼ばれて。
——まだ映画音楽は書いていない時代ですね。映画の音楽を書くようになるのは、市川崑さんの『犬神家の一族』(注5)が最初ですか?
そう。
(注5)横溝正史作による同名の長編推理小説「金田一耕助シリーズ」の映画化作品で、公開は76年。製作は角川春樹事務所、配給は東宝、監督は市川崑、主演は石坂浩二。
——それはどういう経緯で?
その前からドラマの音楽は書いていた。角川さんには、作曲をやってる有名なひとは使いたくないところがあって。監督が市川さんだから、そこは押さえてあるので、音楽は無名のほうがインパクトがあると思ったんじゃない? テレビで注目され始めたころだったから、「こういうひとが面白いんじゃないか」と。
——それが映画音楽の1作目。主役の石坂浩二(注6)さんとも慶応の同級生で。
高校から一緒だけど、この映画にぼくが関わるのとは無関係。ぼくはジャズをやっていたでしょ。その周辺の友だちが武藤君(石坂浩二)の友だちで。だから知ってはいたけど、ただそれだけのことで。そのころの彼は派手なひとじゃなくて、普通の高校生。石坂浩二が武藤君と気がつくのはずいぶんあとの話で。石坂というひとが役者でいることは知っていたけど、それが武藤平吉だったというんでビックリした(笑)。
(注6)石坂浩二(俳優 1941年~)67年『泥棒たちの舞踏会』で浅利慶太にスカウトされ劇団四季入団。映画では76年の『犬神家の一族』に金田一耕助役で主演し、当たり役に。映画・テレビに多数出演し、司会業もこなす。
知ったのはコマーシャルの仕事繋がり。石坂浩二は「テキサス・バー」とか、明治製菓のコマーシャルをたくさんやっていた。ぼくも明治製菓のCMをやることになって。当時の明治製菓は、春に問屋さんを集めて「今年の新製品」を紹介するイヴェントをやっていた。製品のCMを書いていたから呼ばれて行ったら、ナレーションを石坂浩二がやっていた。そのときに初めて「武藤平吉が石坂浩二だったのか」と。それが『犬神家の一族』でまた会った。
——CMをやり、テレビや映画の音楽もやり。そういうときでもたまにはジャズ・ピアニストとして……
いや、ぜんぜん。当時はもう、戻りたくないと思っていた。
好きなプロデューサーとピアニスト
——大野さんの仕事は音楽プロデューサー的でもあります。クリード・テイラー(注7)が大きな存在だとか。
あのひとはジャズをやたら愛している。そのために誤解される部分があって。商売的な音を出しすぎるといわれているけど、ぼくはそうは思わない。結果としてそういうものも出してるけど、ジャズを広めたいがため、そのひとをもっとビッグ・ネームにするために、そういう作品も出す。ウエス・モンゴメリー(g)にしても、そうでしょ。
(注7)クリード・テイラー(レコード・プロデューサー 1929年~)いくつかのレコード会社を経て、ABCパラマウントに入社。60年に同社のジャズ専門レーベル、インパルス・レコードを発足。61年ヴァーヴ・レコードに移籍。67年A&Mレコード内でCTIレコードをスタート、70年に自社のCreed Taylor Incorporatedを設立し、CTIを独立させ、74年にCTIの傍系レーベルとしてKUDUをスタート。
もっというと、すごく若いころからディレクターをやってきた。ベツレヘムから始まって、ほとんど1年とか2年でレコード会社を転々としていく。それで最終的に自分の会社(CTI)を作る。その間に、アルバイトでコーラス・グループのランバート・ヘンドリックス&ロスで多重録音をやってたりする。彼はインパルスの立ち上げにも関わって、すぐに辞めちゃうけど、コルトレーンの『アフリカ/ブラス』とかも作って。
ものすごく頑張ってるけど、最終的に「ちょっとコマーシャル」といわれてしまう。ジャズが好きなひとから見るとそうかもしれないけど、ミュージシャンひとりひとりがもっとビッグネームになってもらいたいと思ってやっている。中にはこんなことやらなきゃいいのに、という変なアルバムもありますよ。KUDUもそうだけど、すごくいい作品が何枚かはある。だから、クリード・テイラーは先生だと思っている。大好きだよ。ボサノヴァを広めたのもクリード・テイラーだしね。
——『ゲッツ/ジルベルト』(ヴァーヴ)とか、そうですものね。
クリード・テイラーと比較できるひとはトミー・リピューマ(注8)。悪くいうわけじゃないけど、おいしいところを持っていっちゃう。クリード・テイラーが畑を耕して、ちょっといいものにしたあと、お金を儲けているのはトミー・リピューマなの。彼は別にジャズ好きじゃない。シティ・ミュージックという程度にジャズは好きだけど、そのくらい。
(注8)トミー・リピューマ(レコード・プロデューサー 1936~2017年)68年のブルー・サム・レコードを出発点にさまざまなレーベルで活躍。マイルス・デイヴィス(tp)、ポール・マッカートニー、ジョージ・ベンソン、ダイアナ・クラール(vo p)など、数多くのアーティストをプロデュースし、幾度もグラミー賞を受賞。
——クリード・テイラーは純粋にジャズから入ったひとで、トミー・リピューマはワン・オブ・ゼムの中にジャズもある。ジョージ・ベンソン(g)なんかクリード・テイラーが人気者にしたら、トミー・リピューマが契約してスーパースターにしちゃった。
2番打者ぐらいのひとを4番打者にしてしまう才能がトミー・リピューマにはある。そういうことでいうなら、特筆すべきはプレスティッジのボブ・ワインストック(注9)。このひとは、もう本当にジャズ好き。プレスティッジにはロクなアルバムしかないというひともいるけど、それはジャム・セッションが多いから。あのひともジャズ好きだから、計画を立ててアルバムを作ろうなんて思っていない。いいひとを集めて、なにか聴きたい。それで1曲が長いからアルバムが出せなくなっちゃう。いちばんいい例がレッド・ガーランド(p)。
(注9)ボブ・ワインストック(レコード・プロデューサー 1928~2006年)49年にプレスティッジ・レコードを設立し、マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーンなどの名盤を多数制作。71年に全カタログをファンタジーに売却し、フロリダで執筆活動に専念。87年に小説『フロム・スープ・トゥ・スープ』を発表。
ワインストックのあとを受け継いだエズモンド・エドワーズ(注10)。あのひとも素晴らしい仕事をした。ジャズが大好きで、進歩的なものもやってるし。ぼく、ピアニストとしてソニー・クラークやトミー・フラナガンが大好きといってるけど、世界でいちばん好きなのがレッド・ガーランド。それは、90年にもう一度聴き直して、そう思った。
(注10)エズモンド・エドワーズ(レコード・プロデューサー 1927~2007年)60年代前半にプレスティッジ作品、ラムゼイ・ルイスの『ジ・イン・クラウド』(アーゴ)などを手がけた。75年にインパルスに迎えられ、キース・ジャレット(p)などの作品を制作。その後、ロサンゼルスでフリーのプロデューサーとしてブラック・コンテンポラリー作品などを手がける。
——それまでは、それほどではなかった。
うん、だからガーランドに謝りたくなった(笑)。それまではウイントン・ケリー(p)も好きだったけど、ちゃんと聴いたらウイントン・ケリーはまだ子供だなと思った。ノリがね。ウイントン・ケリーって「スウィングしてるだろ〜」みたいな感じで弾くんだ。レッド・ガーランドはリズムの上に乗っかっているから、大人。それとラムゼイ・ルイス(p)。日本のピアニストはだいたいラムゼイ・ルイスが好きじゃないけど、ぼくは大好きだよ。
——ブルースの上手いひとが好きなんですね。
リチャード・ティー(p)とかね。ラムゼイ・ルイスは「ラムゼイ」というジャンルにしないとダメ。そう思って聴かないといけない。どこの派閥に入るかみたいなことをいうから、あのひとは変なことになっちゃう。あとは8割嫌いで2割が大好きなのがアーマド・ジャマル(p)。大っ嫌い。でも、2が8より大きい。それにナット・キング・コール(p/vo)とかカウント・ベイシーも好き。
——ホレス・シルヴァー(p)はどうですか?
左手がうるさいけど(笑)、大好き。やたら夢中になりました。自分がどういう血でできているかというと、すごく上にバド・パウエルがいるけど、このひとから脱却しているひとが好きなの。レッド・ガーランドは完璧に脱却している。トミー・フラナガンは脱却できなかった。そういうことでいうとエロール・ガーナー(p)も大好き。それで、レッド・ガーランドとアーマッド・ジャマルとラムゼイ・ルイスを足して、割って、自分の比率にしたのがぼくのピアノ。
——話は変わりますが、ソニア・ローザ(vo)も大野さんには大事な存在。
彼女は「ジャンク」という銀座のジャズクラブが出合わせてくれた贈りものだよ(笑)。渡辺貞夫(as)さんがブラジルに行ったときに知り合ったかなにかで、無計画に日本に来ちゃったらしい。
——それで、彼女が日本で吹き込んだアルバム『センシティヴ・サウンド・オブ・ソニア・ローザ』(東芝エキスプレス)(注11)に2曲で貞夫さんが入っているんだ。
ぼくが「ジャンク」によく出ていたときに、店のオーナーが「ブラジルから来たばかりで言葉も話せないし、音楽のこともなにもわからない。歌は上手いけど、このひとには誰も伴奏ができない」といわれて。半音キーが違うギターを弾いていて、「そのキー、なに?」と聞いても「わからない」と。でも彼女の歌を聴いて、調べて、〈イパネマの娘〉とか、2曲ぐらいやったんだ。キーが半音違うから、やたら難しい曲になっちゃったけど(笑)。でも弾いてあげたら、割と気が合って。
(注11)日本におけるデビュー作。渡辺貞夫カルテットが〈イパネマの娘〉〈トリステサ〉で参加。アレンジは渡辺貞夫(2曲)、鈴木邦彦(3曲)、馬飼野俊一(3曲)、ソニア・ローザ(3曲)、鵜崎康一(1曲)。
ソニアからは「本場のボサノヴァってぜんぜん違う」ということを教わった。彼女は息をぜんぶ裏でする。ネイティヴの歌い方なんだろうね。それから、エリス・レジーナ(vo)とかのいちばん新しいレコードも持っていて、そういうのを真っ先に聴かせてくれる。聴いてみると、アレンジのセンスが強力によくて。ソニアのおかげでブラジル音楽にハマったんだ。
——「ヴォイス・オブ・大野雄二」みたいな存在。
そうだね。レコーディングで、この感じだったらソニアが合うかな? というときは歌ってもらってた。彼女は能力がすごかったから。
再びジャズ・ピアニストに、そして『ルパン三世』
——作曲家の大野さんがまたジャズを演奏するようになったきっかけは?
これがまた面白い。昔、一緒にやってた岡山和義というドラマーから電話がかかってきて、「年に一度でいいから一緒にやりましょうよ。最近のひととやるのはつまらない」「もうやってないから弾けない」といったら、「とにかく1回でもいいから」としつこく電話をしてくる。それで下手にはなってるけど、1回やったんです。お客の前でずっと弾いていなかったでしょ。ひとはいるけど、スタジオで弾いても聴きに来てくれたひとじゃない。聴きに来てくれるひとがいるって、こんなに楽しかったんだ。昔の気持ちが甦っちゃった。
——それがいつごろの話?
90年代になって。だから20年近くはやってなかったことになるね。
——その間、家でちょっと弾いてみるとかはあったんですか?
フュージョン的なピアノは弾いてたけど、ハード・バップ的なピアノは弾いてない。
——フュージョン的な作品は70年代中盤以降に何枚も出しています(注12)。
いまは両方が弾けるようになったけど、フュージョンは解釈の仕方がジャズとは違う。もっとイージーな感じで弾かないと。ジャズをやっているひとはツー・ファイヴ(注13)みたいなコード進行にとらわれがちだから、それを修正しながら弾いていた。
(注12)『マイ・リトル・エンジェル』(76年 RVC)、『永遠のヒーロー』(77年 CBSソニー)、『SPACE KID』(78年 同)、『COSMOS』(81年 同)、『LIFETIDE』(82年 invitation)、『フルコース』(83年 同)
(注13)ダイアトニック・コードの2番目のコードから5番目のコードに進むコード進行。ジャズやスタンダード曲で用いられることが多い。
——フュージョンはよく聴いていた。
イヤっていうほど聴いたね。
——CMを作る上での参考にも?
フュージョンだけじゃなくて、フレンチ・ポップス、スペイン・ポップス……なかなかスペイン・ポップスは聴くひとがいない(笑)。あとはイタリアン・ポップスとか。これね、ぜんぶちょっとずつ違うの。スペインのポップスにはフラメンコの要素があるし、イタリアのにはカンツォーネがある。フランスはリズム感が「おフランス」なんだ(笑)。アメリカとは違う。フランス人はほかのものに対して軽蔑感があるというか、「アメリカに憧れてはいるけど、オレは違うぞ」みたいに装いたい。言葉がわかっていても、喋れないフリをするとか、あるでしょ。
そのときにソウル・ミュージックもイヤっていうほど好きになった。モータウンなら、最初のころじゃなくて、ちょっと都会的なサウンドになってからのマーヴィン・ゲイとか。フィリー(フィラデルフィア)・ソウルもカッコいいと思った。ソウルにはジャズの要素があるからぴったりで。
——そういう音楽が、曲を書く上でのヒントになった。
すごくなったね。
——気になっていたバンドはあったんですか?
誰々のバンドというより、デイヴ・グルーシン(key)がプロデュースしているリー・リトナー(g)のバンドがカッコいいとかね。デイヴ・グルーシンは使うミュージシャンでも白人と黒人のバランスがものすごく上手い。重要なところにはチャック・レイニー(elb)とかの黒人を使う。そういうバンドが好きで。
——デイヴ・グルーシンは映画音楽の大家でもあります。
デイヴ・グルーシンは、自慢ができるくらい注目したのが早い。『卒業』(注14)の音楽が彼で、あの少し前から映画音楽をやっていた。テレビで観たのかな? 題名はわからないけど、「なんだろう? この音楽カッコいいな」と思ったら、デイヴ・グルーシンだった。最終的にハマったのが『コンドル』(注15)。
(注14)マイク・ニコルズ監督、ダスティン・ホフマン主演で67年にアメリカで制作された青春映画。原作はチャールズ・ウェッブによる同名小説。アメリカン・ニューシネマを代表する作品のひとつで、日本の公開は翌年。音楽はデイヴ・グルーシンが担当し、主題歌にサイモン&ガーファンクルの〈サウンド・オブ・サイレンス〉が用いられた。
(注15)75年のアメリカ映画。第48回「アカデミー賞」の〈編集賞〉候補。原作はジェイムズ・グレイディによる『コンドルの六日間』(Six Days of the Condor)。
——そのころ、モダン・ジャズのレコードは聴いていたんですか?
あまり聴いてない。それが「一緒にやろう」といわれて、90年代に激変する。それこそ銀座の「スウィング」とかそういう店でやったけど、自分の演奏がど下手で。昔、ちゃんとやってたから、「こんなピアノじゃ、お客さんに聴かせられないな」って。しょうがないから、90年代の途中から練習して。そのときイヤっていうほどジャズを聴き直した。ジャズはずっと好きなわけ。20年の空白期間を挟んだことで、もっとジャズを俯瞰で見られるようになって、聴き方がぜんぜん変わった。
——聴き続けてきたのとは違う。
価値観を一度否定しているからね。
——ジャズ・ピアニストとしてまた活動を始めて、CMや映画音楽を作り、『ルパン三世』(注16)が大当たりします。『ルパン三世』には自分の集大成みたいな思いがあるんですか?
仕事の中では特別だけど、そのときにこれがスペシャルだとは思わなかった。やたら忙しかったし。ただしなにをやってもOKの世界だから、自分には合っていると思う。世界中を飛び回るし、ジャズ的なものが合う。
(注16)モンキー・パンチ原作の漫画。『漫画アクション』67年8月10日号(創刊号)から69年5月22日号まで全94話連載。テレビは77年から80年にかけて放映された第2シリーズから、映画は78年公開の第1作 『ルパン三世 ルパンVS複製人間』から大野が音楽を担当。
——原作を見て、「これにはジャズ的なものを入れてもいいな」と思ったんですか?
まず思ったのは、「アニメ=子供の音楽」だけははやりたくないと。ちょっと背伸びをして聴いてもらいたい。背伸びをさせたところがよかったんだろうね。
——底辺を広げました。『ルパン三世』で何枚ぐらいアルバムを作りました?
コロムビア時代は3枚か4枚で、それをアレンジしていままで何枚も出している。
——そういうのを入れると50枚は超えている。それで、そこから独立して「ルパン・ジャズ」(注17)を始める。これからやりたいこと、目指していることはありますか?
目指す、という感覚はないね。ずっと自分が努力していけば、なにか違う音になるだろうなとしか思っていない。
(注17)『ルパン三世』の楽曲をジャズでカヴァーするユニット。最初はトリオだったが、現在はジャズの精鋭6人と結成した「大野雄二&ルパンティック・シックス」でも演奏。
——今日は子供のころからのお話をお聞かせいただきありがとうございました。
ぼくもなかなかそういうころの話はしないから楽しかったよ。
取材・文/小川隆夫
2017-12-23 Interview with 大野雄二 @ 麹町「バップ本社」