連載「証言で綴る日本のジャズ3」 はじめに
ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズシーンを支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場する“証言者”はピアニスト/作曲家の大野雄二。『ルパン三世』をはじめ、数多くの映画音楽やテレビ番組、CM音楽などを手がけてきた作曲家として広く知られる人物だが、60年代から現在にいたるまでの「ジャズ・ピアニストとしての功績」も偉大である。
ピアニスト・作曲家。1941年5月30日、静岡県熱海市生まれ。高校時代にジャズを独学で学ぶ。大学時代にプロ・デビュー。藤家虹二クインテットを経て、66年に白木秀雄クインテットに参加。そのころから自身のトリオや日野皓正らとの活動も開始し、日野皓正カルテットが67年に吹き込んだ『アローン・アローン・アンド・アローン』に参加。60年後半から作曲家としてCM制作のほか、『犬神家の一族』(76年)、『人間の証明』(77年)など、テレビや映画音楽を多数手がける。77年からは『ルパン三世』の音楽を担当。90年代に入ってジャズ・ピアニストとしての活動を再開。2006年からはYuji Ohno & Lupintic Fiveを結成し、2016年にはメンバー編成を新たに、Yuji Ohno & Lupintic Sixを結成。精力的な作品リリースを続け、都内ジャズクラブから全国ホール公演、ライブ・ハウス、ロックフェスまで積極的に活動中。
最初の音楽体験
——生まれた場所と生年月日をお聞かせください。
1941年5月30日、静岡県熱海市生まれです。
——実家はどのようなお仕事を?
大野屋(注1)という旅館をやっていて。小学校六年の2学期までは地元の学校。小田原の中学に行くため、六年の2学期から3学期は小田原の小学校で、そのあとは小田原の第一中学、小田原一中(その後、城山中学と名称が変わる)に通ってた。
(注1)37年に「瑞雲荘大野屋」としてオープン。300名収容のローマ風呂などを備え、60年に法人化。80年に本館を増改築、87年に旧館を建て替え、現在はクリアックス傘下伊東園ホテルズ系「伊東園リゾート」のひとつとして営業。
——そこへは熱海から通って?
電車で30分くらい。
——慶応に行かれるのはどの時点で?
高校から。場所は日吉だったから、徐々に都心に近づいていったことになるね(笑)。
——それで大学は三田ですものね。
そう。
——音楽との出会いは?
小さいときから音楽は嫌いじゃなかった。特化してなにが好きってことはないし、音楽教育を受けたわけでもない。普通の子供として、ラジオで流れてくる音楽を聴いて。昭和16年生まれだから、戦争が終わって4歳とか5歳。日本が負けて突然自由になって、ラジオでアメリカのポップスがやたらに入ってきた。民謡や歌謡曲みたいなものしかないときに、どっちかといえばアメリカから入ってくる音楽が好きだった記憶はあるかな。
——それは小学校に入る前後。
入ってちょっとしたころ。
——洋楽ということですね。
うん、洋楽志向だった気はするね。
——楽器は、最初からピアノだったんですか?
姉がピアノを習っていたんで、自分もちょっとやってみたいなと思って先生に習ったのがきっかけ。だけど習うことがつまらなくて(笑)、すぐ辞めちゃったという。
——それがいくつぐらいのとき?
小学校二年とか。バイエルが30番くらいのときに、「もう、習うのはヤダ」。小学校六年くらいで違う先生にもう一度習ったんだけど、やっぱりダメ。だからピアノはほとんど独学。
——それでも家にあったピアノを弾いていた?
触っていた程度だから、テクニックがつくような弾き方じゃないけど。
——ラジオから流れてくる音楽に合わせるとかは?
メロディぐらいは弾いたかもしれないけど、サウンド感覚がぜんぜんないから、遊びでいじっていた程度だよ。
——ジャズはまだ先の話で。
それがほんとに面白いんだけど、東京に近づけば近づくほど、不思議なことにジャズと出会っていく。中学の二年かな? 友だちが「公民館にジャズが来る」。それが南里文雄(tp)さんのディキシーランド・ジャズとモダン・ジャズのバンドだった。前座が土田真弘(まさひろ)さんというアルト・サックスのひとのバンドで。南里さんのバンドはディキシーだからやたら楽しくて「ウワー」となるけど、その前にやった聴いたこともなければ理解もできない音が「カッコいいな」と。なぜかモダン・ジャズのバンドに引っかかって。
ディキシー的なものはラジオでもたまにかかっていたんだけど、ごく普通の時間にモダン・ジャズはまず聞けなかった。ただぼくはスウィング・ジャズだったり、ディキシーなど、なにかジャズ系のものが好きだったみたいだね。だけど中学のときにそのモダン・ジャズに出会って、「ウン?」と思ったのがのちに繋がっていく。
ジャズを演奏し始めたころ
——そのあとは?
高校に入って、一年の秋の日吉祭(文化祭)が決定的瞬間。模擬店にジャズ喫茶があって、そこに生バンドが出ていて。
——それは慶応高校のバンド?
高校生と、大学からお手伝いで来てたひとたち。ぼくはジャズが好きだったけど、聴くもので、やるなんてとんでもないと思っていた。ところが、同じ高校生でもやっているひとがいたんで、「やってもいいんだ!」と衝撃が走ったんだ。そこからだよ。
——やるといったって、どういうふうに始めたんですか?
やるというか、直感的に「あ、見つけた」という感じ。同級生で後にNHKのアナウンサーになる明石勇(注2)がいて。彼は中学のときにブラスバンドでクラリネットを吹いていた。彼も当時ちょっとなにかを吹いてみたい気持ちがあったんだろうね。それで「やりたいな」と思ったときに、実力云々ではなく、なんとなく4、5人が集まってきた。
(注2)明石勇(アナウンサー 1941年~)64年にNHK入局。主に報道担当のアナウンサーとして活躍。ラジオ『午後のロータリー』『NHKニュースワイド』の土曜日キャスターなどを歴任。定年退職後は『ラジオ深夜便』日曜担当アンカーを担当。
当たり前だけどアドリブもできないし、なにかそれらしい形でやるのにもう少しひとを集めようと思っていろいろやって、勝手に「ジュニア・ライト・ミュージック」というグループを始めたんだ。
——それ、大学にある「ライト・ミュージック・ソサエティ」のジュニア・バンドという意味じゃなかったんですか?
自分たちで勝手に名乗ってたんだ。下手だけど、ナイン・ピースぐらいかな? ちょうど売ってる譜面があったんでそれをやってみたら、下手でも譜面に書いてある音を吹けばそれなりになるってことがわかって「これは楽しい」。でもそれとは関係なく、そのころのぼくはモダン・ジャズの魅力に憑りつかれて、ジャズ喫茶通いになる。
当時、渋谷にウエスト・コースト・ジャズがよくかかる「デュエット」があって。東京駅の八重洲南口には「ママ」があって。ここはどちらかといえばイースト・コースト・ジャズがかかっている。休みの日は、開店とほぼ同時に行って、60円ぐらいのホット・ミルク1杯で夕方まで。
——それでも、ジャズのピアノを弾く、たとえばコードを押さえるだけでも知識がなければたいへんでしょ?
好きだったのがソニー・クラーク(p)で、そういうひとが出始めのころだよ。「こういう音を弾きたい」と思うけど、自分が想像して弾いたら単純な「ドミソ」になっちゃう。テープレコーダーをガチャっと何回も巻き戻して、「こうかな?」って徹夜して実際に弾き続けて、朝方ぐらいにようやく似た音になってくる(笑)。そういうところから始めた。
——慶応はジャズが盛んですから、友人に教えてもらったりとかは?
ラッキーだったのが、大学生で上手いひとたちに教えてもらえたこと。あのころの慶応はすごくレヴェルが高かった。「ライト(ミュージック・ソサエティ)」にはアドリブができるひとは、あまりいなかったけど。文連に公認されていない、勝手にやってるひとたちの中に上手いひとがいっぱいいて。
——大学に入ったころにはそこそこ弾けるようになって。
うん、ファイヴ・ブラザーズというバンドで演奏していたあたりかな。NHKの教育テレビに『若い広場』という番組があって、二年か三年のときに出たことがある。ファイヴ・ブラザーズは伝統的なバンドで、文化系の公認された活動ではなくて、自発的にやってたバンド。歴代から、いまだに続いている。
——ファイヴ・ブラザーズはどんなサウンド?
アルト・サックスとトランペットの2管で。バンドのテーマ曲は〈ファイヴ・ブラザーズ〉(注3)。だけどウエスト・コースト・ジャズではなく、チャーリー・パーカー(as)とディジー・ガレスピー(tp)がやってたみたいなビバップのバンド。始まったころはウエスト・コースト・ジャズが全盛だったから、ボブ・ブルックマイヤーみたいなヴァルヴ・トロンボーンとスタン・ゲッツみたいなテナー・サックスのバンドでウエスト・コースト・ジャズを演奏してた。ぼくは「ライト」にも入っていたけど、ファイヴ・ブラザーズはアドリブができるバンドだったから、面白かった。
(注3)47年にジェリー・マリガン(bs)がウディ・ハーマン・オーケストラ(セカンド・ハード)のサックス・セクションをフィーチャーするために書いた曲。
——「ライト」ではアドリブがあまりできない?
ピアノはいてもいなくてもほとんど同じなの。フルバンドならドラムやラッパが面白い。ピアノがソロを弾くのは、カウント・ベイシー(p)の〈ワン・オクロック・ジャンプ〉の頭くらいだし、〈茶色の小瓶〉だって4小節くらいしかない。そうしたらサックスのソリ(合奏)になっちゃう。
——アドリブはどうやって?
最初はデタラメから。小節の勘定ができないから、「8小節やりました」という感覚がわからない。コードだってよくわかっていないんだから。だけど、勝手にソニー・クラークみたいなことを弾いて。いまになってよかったのかなと思うのが、コピーしたものをそのまま弾くんじゃなくて、デタラメでもいいから12小節、ブルースみたいなものを弾く。そう思ってやっていたら、なんとなく12小節の感覚がわかるようになった。
そこからコピーをいっぱいしていくと、次第に〈クール・ストラッティン〉のワン・コーラス目はこういうソロをしてるんだ、2コーラス目はこうだって。ミディアム・テンポぐらいのブルースは、同じアドリブだったらそれなりに上手く弾けるぐらいになる。そういうことから始めて、イヤというほどコピーして。ソニー・クラークそっくりになりたい、トミー・フラナガンそっくりになりたいと思ってズーッとやってた。
——理論はまったくわからずに。
そう、合っているかどうかはわからない。レコードでやっているひとのをコピーしているんだから、間違ったことはやってないだろうと。
プロ・デビューしたころ
——佐藤允彦(p)さんとは高校の同級生。交流は?
彼がいたことは大きかった。佐藤君は高校二年でプロでやっていた。ビックリしたけど、プロとして年齢に関係なく「やっていいんだ」ってことの生き証人みたいなひとだから。
——佐藤さんから教わったことは?
すごく影響を受けた。だって、その時点でやたら上手いんだから(笑)。
——高校でジャズに開眼して、そのまま慶応の大学に行かれる。プロというか、ライヴ・ハウスなどで演奏することは大学時代からやっていたんですか?
大学一年の夏休みに初めてトラを頼まれて。横浜の「トリス・クラブ」。夜の7時から朝4時ぐらいまで、7、8ステージあるようなところで。「リッキー中山(ds)とアイヴィー6」というバンドがあって、そのバンドに頼まれてね。ところがみんなで店に行く途中、乗っていたバスが交通事故に遭っちゃった。横浜に着く寸前のなんとか橋。坂を登って降りるときにオートバイが来て、それを避けようとして、バスがひっくり返った。ブレーキを踏みながらカーヴを切ったけど、「ああッ」という間に転倒して。
ぼくは真ん中の席にいたから、上からひとが落ちてきて、頭にコブができただけでよかったけど。いちばん下のひとは、夏だったから窓を開けていたもんで、コンクリートに打ちつけて、腕を擦りむいて、血だらけ。昔のバンは椅子が外れるようになってたから、ひとは落ちてくるし、椅子も落ちてくる(笑)。そういうときって、横転して何秒かはわからないけどしばらくは誰も喋らなくて、誰かが「大丈夫か?」というと、急にみんなゴソゴソし出すんだよね。
怪我しててもライブはやらなきゃいけないから、みんな病院から包帯して戻ってきて、とりあえず演奏できるひとだけでもやれと。管楽器が3人ぐらいいて、けっこう人数の多いバンドだったしね。ぼくは学生だったから、「こんなことがあったから、大野君は電車のある時間に帰っていいよ」といわれて、桜木町から東横線で帰った覚えがある。それがプロのひとと初めて正式にお店で演奏したときの話。
——その日だけのトラで?
そう。そのうちにキャバレーだけど、新宿の「クインビー」とか、渋谷のなんとかとか。たいしたところじゃないけど、バンドはビッグバンドで、ピアノはいればいいみたいな仕事。そういうところでトラでやっているうちに、なんとなくプロのミュージシャンと知り合いになるでしょ。その中でも多少ランクの上のひとと知り合いになっていると、「そこそこいいピアノがいるぞ」みたいな。それでコンボからも声がかかりはじめて、だんだん広がっていく。
——最初に入った有名なバンドは?
大学四年のときに入った藤家虹二(cl)さんのバンド。これは就職先として、親を説得するためという理由もあった。うちの親は保守的だったんで、「バンドでやる」なんていったら許してもらえなかったから。そのころはゴリゴリのモダン・ジャズをやっていたんで、「スウィングのバンドかよ」という印象も少しあったけど、藤家さんは藝大を出ている立派なミュージシャン。それに演奏もキャバレーとかではやらなくて、コンサートが中心みたいなこともあって、説得力が増すでしょ。それで藤家さんのバンドに1年いた。
——就職はしないでプロのミュージシャンになろうと思っていたんですね。
いや、「なろう」じゃなくて、成績が悪いから、それしかできなかった(笑)。
——藤家さんのバンドに入ったいきさつは?
これも面白い。ピアノの渋谷毅さんが藤家さんのところにちょっとだけいたことがあったんだけど、渋谷さんが当時、どういうわけか、ぼくが仕事をしているといつもそばにいたんだ。それで渋谷さんが辞めるタイミングで、藤家さんが「誰かいないか?」となったときに、渋谷さんがぼくのことを話してくれて。そのころの藤家さんはスウィングのバンドだけどモダン・ジャズにちょっと興味を持っていて、リズム・セクションにモダン・ジャズ系のひとを入れたかったから、ちょうどよかった。
——ほかのメンバーは?
青山さんというドラムと福島さんというベースで、あとはヴァイブのクインテット。ヴァイブとクラリネットはスウィング系で、リズム・セクションがモダン系。
——どんな曲をやっていたか、覚えていますか?
当然、ベニー・グッドマン(cl)。メインはスウィング・ジャズの有名な曲で。
——ピアノはスウィング風に弾くんですか?
自分の中ではいちばんスウィング・ジャズ的なつもりで。モダン・スウィングかな。
——藤家さんもそういう路線を狙って。
藤家さんはそういうリズム・セクションとやることで、自分も教えてもらいたかったみたい。当時でいうとハード・バップみたいなものをね。
——そのころの藤家さんは労音(全国勤労者音楽協議会)や民音(民主音楽協会)の仕事が大半?
そういうのばっかり。大阪に1週間いたりとかね。労音が全盛期ですから。
——それで1年やられて次は?
1年フリー。「トラの大野」といわれるくらいね。ある程度は稼がないといけないから、とりあえずトラで行くけど、空いてる日はタダでもいいから、好きなジャズがやれるところに行っていた。
——有名なミュージシャンのバンドでもやりましたか?
あまりないけど、あのころは中村八大(注4)さんがまだ「サンボア」という銀座のお店でピアノを弾いていた。ほとんど休んでたと思うけど(笑)。
(注4)中村八大(p、作曲家 1931~92年) 高校時代から活動し、53年にジョージ川口(ds)、松本英彦(ts)、小野満(b)とビッグ・フォアを結成。50年代末からは歌謡曲の作曲家に転身。〈上を向いて歩こう〉〈こんにちは赤ちゃん〉〈遠くへ行きたい〉〈明日があるさ〉など、日本を代表するヒット曲の数々を残した。
——作曲家になっていた時代ですね。
でも、一応中村八大トリオがあって、そこには何回か行ったことがある。
——中村八大トリオだけど大野さんがトラで(笑)。
中村八大さんはほとんど弾いてなかったんじゃないかな(笑)。そのころ、たまたま新宿の歌舞伎町のおっかないところに「タロー」というジャズ喫茶があって。最初は「タロー」じゃなくて「乗合馬車」という名前でやってた。そこに入り浸って、店主のタロー(秋山太郎)ちゃんがとてもいいひとで、理解があって、それでトリオで出るようになった。
——メンバーは?
稲葉(國光)さんがベースで、ドラムは入れ替わってたけど、ヒマなときはまだ下手くそだった日野元彦とか。
日野皓正カルテット誕生
——それが日野皓正カルテットのリズム・セクションになる。
日野君ともしょっちゅう一緒にやってた。もうちょっと経つと、白木秀雄(ds)さんのバンドに入って、そこで日野君と一緒になる。
——そのあと、日野皓正カルテットができる。そのトリオですが、やっぱりソニー・クラーク風?
もうちょっと変わっていったかもしれない。ソニー・クラーク、いってみればバド・パウエル(p)スクールだけど、「それがいいな」と思ってずっとやってた。日本は真似でいいから、真似事の最前線にいないと非国民みたいにいわれる。そうなっていくのでだんだんイヤになってきた。
そのころはアメリカのジャズが変わってきて、ぼくもハービー・ハンコック(p)とかを目標にしていた。最近のハービーは好きじゃないけど、出始めの彼はものすごく好きで。シカゴから出てきて、ブルーノートでアルバムを出しているころはよかった。それともうひとりはマッコイ・タイナー(p)。どっちといわれればマッコイのほうが好きだったね。
——ビル・エヴァンス(p)には興味がなかった?
ちょっとカッコいいとは思ったけど、ぼくは黒くないとダメ。ブルーノートを妙に軽く使われると腹が立つタイプだから。こうやるとブルースっぽくなるよ、みたいなのはイヤ。
——トラの1年が終わって、白木秀雄さんのバンドに入る。
これは、日野君が先に入っていたから。
——大野さんは世良譲(p)さんの後任として白木さんのバンドに入られた。
そうそう。
——村岡建(たける)(ts)さんも入っていた?
建君は日野君といたけど、ぼくが入るときに辞めたの。代わりに入ってきたのが稲垣次郎(ts)さん。白木さんのバンドはけっこうヒマで、コンサートを月に7回くらいしかやらない。ナベプロに入っていたから、仕事はコンサートだけ。社長の渡辺晋さんが元ミュージシャンだから、リスペクトがすごくあるしね。当時ナベプロが扱っていたジャズ・バンドは白木さんと松本英彦(ts)さんのバンドだけ。好きなことをやっていいバンドだった。
松本さんのバンドはあのころでいうとジョン・コルトレーン(ts)のようなことをやってて。オマスズ(鈴木勲)(b)がいて、ジョージ大塚(ds)がいて、菅野(邦彦)(p)さんでしょ。で、ぼくら(白木秀雄クインテット)は2管編成だから、ハード・バップをやって。仕事的でこんな気負わず気ままにやれることはなかった。
——ヒマなときはなにをしていたんですか?
親方を抜いて、親方の代わりに元彦を入れると同じようなバンドになっちゃう。
——それで日野皓正カルテットができるんですね。
そういうこと。
日野君もぼくも休みだし、稲葉さんも休みだから、あとはドラムさえいればカルテットになる。トコ(日野元彦)も仕事があまりなかったから。
——白木さんのバンドにいた時代に日野さんの『アローン・アローン・アンド・アローン』(タクト)が吹き込まれた(67年)。ぼくも観に行きましたが、「タロー」なんかでライヴもやって。
トリオが好きだったから、日野君なしのトリオも並行してやっていた。
——日野さんのバンドは、レギュラー・バンドという感覚ではなかったんですね。
白木さんのバンドのメンバーだから。ドラマーがジョージ大塚のときもあったし。
——日野さんのバンドからはそのうちに抜けて、大野さんのあとがコルゲン(鈴木宏昌)(p)さん。コルゲンさんも慶応。
ぼくより1年上。彼は学校で活動してないんですよ。「ライト」にちょっとだけ入ってたらしいけど。不遇の時代があったようで、辞めて、外のひととやってた。だから学生のころはぜんぜん知らなかった。コルゲンさんはあとで知ったの。
——佐藤允彦さんに聞きましたが、大野さんは佐藤さんと同じ曜日の「ジャズ・ギャラリー8」にレギュラーで出ていた。
火曜日ね。午後の部と夜の部。
——大野さんは夜の部?
いや、佐藤君と交代で。ただしベースとドラムは同じ稲葉さんと小津(昌彦)さん。稲葉さんと小津さんは芦野宏(vo)さんのシャンソン・バンドを、メケメケっていうピアノのひととトリオでやっていて、ふたりとも同じ日が休みなの。「ジャズ・ギャラリー8」の火曜日は、夜の部だとお客さんの入りがいいから、佐藤君と公平に分けてやってた。昼の部の日なら、夜は「タロー」でもやる。だから1日で5ステージぐらい(笑)。「タロー」が終わったあと、夜中にやってた「マックス・ホール」でもやると、1日で9ステージぐらい。ヘトヘトだけど楽しかったな。
——「銀巴里」には出ていない。
観に行ったことはあるけど、出ていない。インテリジェンス感があって、音楽の趣旨があんまり合わなかった。実験室みたいな感じで、スウィングするとかじゃないから。
——あのころは「ジャズ・ギャラリー8」があって、「タロー」があって、少しあとに「ピットイン」ができます。「ピットイン」でもやってましたよね。
やってたね。でも「ピットイン」はそれほどやってない。新宿は「タロー」が多かった。
——日野さんにだんだん人気が出てくるじゃないですか。大野さんがいたころは、日野さんがもうブームになっていましたか?
別格のトランペッターだったけど、まだじゃないかな。変ないい方だけど、ジャズについてわけのわかんないひとでも日野皓正を知っている時代にはまだなっていなかった。
——ジャズの世界では有名だったけど。
そりゃそうだよ。だってあんなにキッチリとアドリブができるひと、ほかにいなかったんだから。
——日野さんの存在はダントツでしたか。
うん、ダントツ。
CMから映画音楽の世界に転身
——日野さんのバンドを辞めたあと、日野さんはスターになっていきましたが、大野さんはどういうことをされていたんですか?
いろいろ理由があって、そのころは悩んでいた時期。だんだん外タレが来るようになってきたでしょ。ステージでは難しいことをやっているひと(外タレ)が、そこらに出ている日本人と一緒に演奏すると、トラディショナルなことがやたら上手いのがわかる。それにすごくショックを受けて。こいつらぜんぶキッチリ基礎をやってからこっちの方向にいったんだな、と。
自分のことを考えたら、そういうことすらまともにできていない。一緒にやってみて、昔に戻んなきゃダメだって、反省をした。もう一度ビバップとか、そういうことをキッチリやり直そうと。でもそれをやっているうちに、そういうチマチマした世界で生きていることがイヤになってきた。
そのときにたまたま「CMの音楽をやらないか」という話がきたんだ。CMはジャズとは逆で制約だらけの世界だから、好き勝手にはやれない。ぜんぶ制限される世界でやったことがなかったから、「これ面白いな」と思ってハマった。そのうち作曲家になっちゃった。
——CMを始めたのはいつごろから?
ちょっとずつ始めたのが67、8年からかな。
——日野さんのバンドをやってたか、辞めたころ。
でも、最初は年に2本とかそんなものだよ。だからまだピアニストで。70年ごろになると、それで食べていけるかどうかギリギリの状態で、ピアノはまだちょっとは弾いていたけど、決別する気はあった。
——スタジオ・ミュージシャンはやりましたか?
やっていたね。あのころは映画音楽とかを書くジャズのひとが多かったんだ。三保敬太郎(p)さん、八木正生(p)さん。前田憲男(p)さんとか。そういうひとの音楽は、ジャズを知っているひとを使ったほうが便利でしょ。そのころの映画は2本立てだから。2本目の、スターがB級の映画はだいたい三保さんとかがやってた。それによく呼ばれて。
——まだ映画音楽は書いていない時代ですね。映画の音楽を書くようになるのは、市川崑さんの『犬神家の一族』(注5)が最初ですか?
そう。
(注5)横溝正史作による同名の長編推理小説「金田一耕助シリーズ」の映画化作品で、公開は76年。製作は角川春樹事務所、配給は東宝、監督は市川崑、主演は石坂浩二。
——それはどういう経緯で?
その前からドラマの音楽は書いていた。角川さんには、作曲をやってる有名なひとは使いたくないところがあって。監督が市川さんだから、そこは押さえてあるので、音楽は無名のほうがインパクトがあると思ったんじゃない? テレビで注目され始めたころだったから、「こういうひとが面白いんじゃないか」と。
——それが映画音楽の1作目。主役の石坂浩二(注6)さんとも慶応の同級生で。
高校から一緒だけど、この映画にぼくが関わるのとは無関係。ぼくはジャズをやっていたでしょ。その周辺の友だちが武藤君(石坂浩二)の友だちで。だから知ってはいたけど、ただそれだけのことで。そのころの彼は派手なひとじゃなくて、普通の高校生。石坂浩二が武藤君と気がつくのはずいぶんあとの話で。石坂というひとが役者でいることは知っていたけど、それが武藤平吉だったというんでビックリした(笑)。
(注6)石坂浩二(俳優 1941年~)67年『泥棒たちの舞踏会』で浅利慶太にスカウトされ劇団四季入団。映画では76年の『犬神家の一族』に金田一耕助役で主演し、当たり役に。映画・テレビに多数出演し、司会業もこなす。
知ったのはコマーシャルの仕事繋がり。石坂浩二は「テキサス・バー」とか、明治製菓のコマーシャルをたくさんやっていた。ぼくも明治製菓のCMをやることになって。当時の明治製菓は、春に問屋さんを集めて「今年の新製品」を紹介するイヴェントをやっていた。製品のCMを書いていたから呼ばれて行ったら、ナレーションを石坂浩二がやっていた。そのときに初めて「武藤平吉が石坂浩二だったのか」と。それが『犬神家の一族』でまた会った。
——CMをやり、テレビや映画の音楽もやり。そういうときでもたまにはジャズ・ピアニストとして……
いや、ぜんぜん。当時はもう、戻りたくないと思っていた。
好きなプロデューサーとピアニスト
——大野さんの仕事は音楽プロデューサー的でもあります。クリード・テイラー(注7)が大きな存在だとか。
あのひとはジャズをやたら愛している。そのために誤解される部分があって。商売的な音を出しすぎるといわれているけど、ぼくはそうは思わない。結果としてそういうものも出してるけど、ジャズを広めたいがため、そのひとをもっとビッグ・ネームにするために、そういう作品も出す。ウエス・モンゴメリー(g)にしても、そうでしょ。
(注7)クリード・テイラー(レコード・プロデューサー 1929年~)いくつかのレコード会社を経て、ABCパラマウントに入社。60年に同社のジャズ専門レーベル、インパルス・レコードを発足。61年ヴァーヴ・レコードに移籍。67年A&Mレコード内でCTIレコードをスタート、70年に自社のCreed Taylor Incorporatedを設立し、CTIを独立させ、74年にCTIの傍系レーベルとしてKUDUをスタート。
もっというと、すごく若いころからディレクターをやってきた。ベツレヘムから始まって、ほとんど1年とか2年でレコード会社を転々としていく。それで最終的に自分の会社(CTI)を作る。その間に、アルバイトでコーラス・グループのランバート・ヘンドリックス&ロスで多重録音をやってたりする。彼はインパルスの立ち上げにも関わって、すぐに辞めちゃうけど、コルトレーンの『アフリカ/ブラス』とかも作って。
ものすごく頑張ってるけど、最終的に「ちょっとコマーシャル」といわれてしまう。ジャズが好きなひとから見るとそうかもしれないけど、ミュージシャンひとりひとりがもっとビッグネームになってもらいたいと思ってやっている。中にはこんなことやらなきゃいいのに、という変なアルバムもありますよ。KUDUもそうだけど、すごくいい作品が何枚かはある。だから、クリード・テイラーは先生だと思っている。大好きだよ。ボサノヴァを広めたのもクリード・テイラーだしね。
——『ゲッツ/ジルベルト』(ヴァーヴ)とか、そうですものね。
クリード・テイラーと比較できるひとはトミー・リピューマ(注8)。悪くいうわけじゃないけど、おいしいところを持っていっちゃう。クリード・テイラーが畑を耕して、ちょっといいものにしたあと、お金を儲けているのはトミー・リピューマなの。彼は別にジャズ好きじゃない。シティ・ミュージックという程度にジャズは好きだけど、そのくらい。
(注8)トミー・リピューマ(レコード・プロデューサー 1936~2017年)68年のブルー・サム・レコードを出発点にさまざまなレーベルで活躍。マイルス・デイヴィス(tp)、ポール・マッカートニー、ジョージ・ベンソン、ダイアナ・クラール(vo p)など、数多くのアーティストをプロデュースし、幾度もグラミー賞を受賞。
——クリード・テイラーは純粋にジャズから入ったひとで、トミー・リピューマはワン・オブ・ゼムの中にジャズもある。ジョージ・ベンソン(g)なんかクリード・テイラーが人気者にしたら、トミー・リピューマが契約してスーパースターにしちゃった。
2番打者ぐらいのひとを4番打者にしてしまう才能がトミー・リピューマにはある。そういうことでいうなら、特筆すべきはプレスティッジのボブ・ワインストック(注9)。このひとは、もう本当にジャズ好き。プレスティッジにはロクなアルバムしかないというひともいるけど、それはジャム・セッションが多いから。あのひともジャズ好きだから、計画を立ててアルバムを作ろうなんて思っていない。いいひとを集めて、なにか聴きたい。それで1曲が長いからアルバムが出せなくなっちゃう。いちばんいい例がレッド・ガーランド(p)。
(注9)ボブ・ワインストック(レコード・プロデューサー 1928~2006年)49年にプレスティッジ・レコードを設立し、マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーンなどの名盤を多数制作。71年に全カタログをファンタジーに売却し、フロリダで執筆活動に専念。87年に小説『フロム・スープ・トゥ・スープ』を発表。
ワインストックのあとを受け継いだエズモンド・エドワーズ(注10)。あのひとも素晴らしい仕事をした。ジャズが大好きで、進歩的なものもやってるし。ぼく、ピアニストとしてソニー・クラークやトミー・フラナガンが大好きといってるけど、世界でいちばん好きなのがレッド・ガーランド。それは、90年にもう一度聴き直して、そう思った。
(注10)エズモンド・エドワーズ(レコード・プロデューサー 1927~2007年)60年代前半にプレスティッジ作品、ラムゼイ・ルイスの『ジ・イン・クラウド』(アーゴ)などを手がけた。75年にインパルスに迎えられ、キース・ジャレット(p)などの作品を制作。その後、ロサンゼルスでフリーのプロデューサーとしてブラック・コンテンポラリー作品などを手がける。
——それまでは、それほどではなかった。
うん、だからガーランドに謝りたくなった(笑)。それまではウイントン・ケリー(p)も好きだったけど、ちゃんと聴いたらウイントン・ケリーはまだ子供だなと思った。ノリがね。ウイントン・ケリーって「スウィングしてるだろ〜」みたいな感じで弾くんだ。レッド・ガーランドはリズムの上に乗っかっているから、大人。それとラムゼイ・ルイス(p)。日本のピアニストはだいたいラムゼイ・ルイスが好きじゃないけど、ぼくは大好きだよ。
——ブルースの上手いひとが好きなんですね。
リチャード・ティー(p)とかね。ラムゼイ・ルイスは「ラムゼイ」というジャンルにしないとダメ。そう思って聴かないといけない。どこの派閥に入るかみたいなことをいうから、あのひとは変なことになっちゃう。あとは8割嫌いで2割が大好きなのがアーマド・ジャマル(p)。大っ嫌い。でも、2が8より大きい。それにナット・キング・コール(p/vo)とかカウント・ベイシーも好き。
——ホレス・シルヴァー(p)はどうですか?
左手がうるさいけど(笑)、大好き。やたら夢中になりました。自分がどういう血でできているかというと、すごく上にバド・パウエルがいるけど、このひとから脱却しているひとが好きなの。レッド・ガーランドは完璧に脱却している。トミー・フラナガンは脱却できなかった。そういうことでいうとエロール・ガーナー(p)も大好き。それで、レッド・ガーランドとアーマッド・ジャマルとラムゼイ・ルイスを足して、割って、自分の比率にしたのがぼくのピアノ。
——話は変わりますが、ソニア・ローザ(vo)も大野さんには大事な存在。
彼女は「ジャンク」という銀座のジャズクラブが出合わせてくれた贈りものだよ(笑)。渡辺貞夫(as)さんがブラジルに行ったときに知り合ったかなにかで、無計画に日本に来ちゃったらしい。
——それで、彼女が日本で吹き込んだアルバム『センシティヴ・サウンド・オブ・ソニア・ローザ』(東芝エキスプレス)(注11)に2曲で貞夫さんが入っているんだ。
ぼくが「ジャンク」によく出ていたときに、店のオーナーが「ブラジルから来たばかりで言葉も話せないし、音楽のこともなにもわからない。歌は上手いけど、このひとには誰も伴奏ができない」といわれて。半音キーが違うギターを弾いていて、「そのキー、なに?」と聞いても「わからない」と。でも彼女の歌を聴いて、調べて、〈イパネマの娘〉とか、2曲ぐらいやったんだ。キーが半音違うから、やたら難しい曲になっちゃったけど(笑)。でも弾いてあげたら、割と気が合って。
(注11)日本におけるデビュー作。渡辺貞夫カルテットが〈イパネマの娘〉〈トリステサ〉で参加。アレンジは渡辺貞夫(2曲)、鈴木邦彦(3曲)、馬飼野俊一(3曲)、ソニア・ローザ(3曲)、鵜崎康一(1曲)。
ソニアからは「本場のボサノヴァってぜんぜん違う」ということを教わった。彼女は息をぜんぶ裏でする。ネイティヴの歌い方なんだろうね。それから、エリス・レジーナ(vo)とかのいちばん新しいレコードも持っていて、そういうのを真っ先に聴かせてくれる。聴いてみると、アレンジのセンスが強力によくて。ソニアのおかげでブラジル音楽にハマったんだ。
——「ヴォイス・オブ・大野雄二」みたいな存在。
そうだね。レコーディングで、この感じだったらソニアが合うかな? というときは歌ってもらってた。彼女は能力がすごかったから。
再びジャズ・ピアニストに、そして『ルパン三世』
——作曲家の大野さんがまたジャズを演奏するようになったきっかけは?
これがまた面白い。昔、一緒にやってた岡山和義というドラマーから電話がかかってきて、「年に一度でいいから一緒にやりましょうよ。最近のひととやるのはつまらない」「もうやってないから弾けない」といったら、「とにかく1回でもいいから」としつこく電話をしてくる。それで下手にはなってるけど、1回やったんです。お客の前でずっと弾いていなかったでしょ。ひとはいるけど、スタジオで弾いても聴きに来てくれたひとじゃない。聴きに来てくれるひとがいるって、こんなに楽しかったんだ。昔の気持ちが甦っちゃった。
——それがいつごろの話?
90年代になって。だから20年近くはやってなかったことになるね。
——その間、家でちょっと弾いてみるとかはあったんですか?
フュージョン的なピアノは弾いてたけど、ハード・バップ的なピアノは弾いてない。
——フュージョン的な作品は70年代中盤以降に何枚も出しています(注12)。
いまは両方が弾けるようになったけど、フュージョンは解釈の仕方がジャズとは違う。もっとイージーな感じで弾かないと。ジャズをやっているひとはツー・ファイヴ(注13)みたいなコード進行にとらわれがちだから、それを修正しながら弾いていた。
(注12)『マイ・リトル・エンジェル』(76年 RVC)、『永遠のヒーロー』(77年 CBSソニー)、『SPACE KID』(78年 同)、『COSMOS』(81年 同)、『LIFETIDE』(82年 invitation)、『フルコース』(83年 同)
(注13)ダイアトニック・コードの2番目のコードから5番目のコードに進むコード進行。ジャズやスタンダード曲で用いられることが多い。
——フュージョンはよく聴いていた。
イヤっていうほど聴いたね。
——CMを作る上での参考にも?
フュージョンだけじゃなくて、フレンチ・ポップス、スペイン・ポップス……なかなかスペイン・ポップスは聴くひとがいない(笑)。あとはイタリアン・ポップスとか。これね、ぜんぶちょっとずつ違うの。スペインのポップスにはフラメンコの要素があるし、イタリアのにはカンツォーネがある。フランスはリズム感が「おフランス」なんだ(笑)。アメリカとは違う。フランス人はほかのものに対して軽蔑感があるというか、「アメリカに憧れてはいるけど、オレは違うぞ」みたいに装いたい。言葉がわかっていても、喋れないフリをするとか、あるでしょ。
そのときにソウル・ミュージックもイヤっていうほど好きになった。モータウンなら、最初のころじゃなくて、ちょっと都会的なサウンドになってからのマーヴィン・ゲイとか。フィリー(フィラデルフィア)・ソウルもカッコいいと思った。ソウルにはジャズの要素があるからぴったりで。
——そういう音楽が、曲を書く上でのヒントになった。
すごくなったね。
——気になっていたバンドはあったんですか?
誰々のバンドというより、デイヴ・グルーシン(key)がプロデュースしているリー・リトナー(g)のバンドがカッコいいとかね。デイヴ・グルーシンは使うミュージシャンでも白人と黒人のバランスがものすごく上手い。重要なところにはチャック・レイニー(elb)とかの黒人を使う。そういうバンドが好きで。
——デイヴ・グルーシンは映画音楽の大家でもあります。
デイヴ・グルーシンは、自慢ができるくらい注目したのが早い。『卒業』(注14)の音楽が彼で、あの少し前から映画音楽をやっていた。テレビで観たのかな? 題名はわからないけど、「なんだろう? この音楽カッコいいな」と思ったら、デイヴ・グルーシンだった。最終的にハマったのが『コンドル』(注15)。
(注14)マイク・ニコルズ監督、ダスティン・ホフマン主演で67年にアメリカで制作された青春映画。原作はチャールズ・ウェッブによる同名小説。アメリカン・ニューシネマを代表する作品のひとつで、日本の公開は翌年。音楽はデイヴ・グルーシンが担当し、主題歌にサイモン&ガーファンクルの〈サウンド・オブ・サイレンス〉が用いられた。
(注15)75年のアメリカ映画。第48回「アカデミー賞」の〈編集賞〉候補。原作はジェイムズ・グレイディによる『コンドルの六日間』(Six Days of the Condor)。
——そのころ、モダン・ジャズのレコードは聴いていたんですか?
あまり聴いてない。それが「一緒にやろう」といわれて、90年代に激変する。それこそ銀座の「スウィング」とかそういう店でやったけど、自分の演奏がど下手で。昔、ちゃんとやってたから、「こんなピアノじゃ、お客さんに聴かせられないな」って。しょうがないから、90年代の途中から練習して。そのときイヤっていうほどジャズを聴き直した。ジャズはずっと好きなわけ。20年の空白期間を挟んだことで、もっとジャズを俯瞰で見られるようになって、聴き方がぜんぜん変わった。
——聴き続けてきたのとは違う。
価値観を一度否定しているからね。
——ジャズ・ピアニストとしてまた活動を始めて、CMや映画音楽を作り、『ルパン三世』(注16)が大当たりします。『ルパン三世』には自分の集大成みたいな思いがあるんですか?
仕事の中では特別だけど、そのときにこれがスペシャルだとは思わなかった。やたら忙しかったし。ただしなにをやってもOKの世界だから、自分には合っていると思う。世界中を飛び回るし、ジャズ的なものが合う。
(注16)モンキー・パンチ原作の漫画。『漫画アクション』67年8月10日号(創刊号)から69年5月22日号まで全94話連載。テレビは77年から80年にかけて放映された第2シリーズから、映画は78年公開の第1作 『ルパン三世 ルパンVS複製人間』から大野が音楽を担当。
——原作を見て、「これにはジャズ的なものを入れてもいいな」と思ったんですか?
まず思ったのは、「アニメ=子供の音楽」だけははやりたくないと。ちょっと背伸びをして聴いてもらいたい。背伸びをさせたところがよかったんだろうね。
——底辺を広げました。『ルパン三世』で何枚ぐらいアルバムを作りました?
コロムビア時代は3枚か4枚で、それをアレンジしていままで何枚も出している。
——そういうのを入れると50枚は超えている。それで、そこから独立して「ルパン・ジャズ」(注17)を始める。これからやりたいこと、目指していることはありますか?
目指す、という感覚はないね。ずっと自分が努力していけば、なにか違う音になるだろうなとしか思っていない。
(注17)『ルパン三世』の楽曲をジャズでカヴァーするユニット。最初はトリオだったが、現在はジャズの精鋭6人と結成した「大野雄二&ルパンティック・シックス」でも演奏。
——今日は子供のころからのお話をお聞かせいただきありがとうございました。
ぼくもなかなかそういうころの話はしないから楽しかったよ。
取材・文/小川隆夫
2017-12-23 Interview with 大野雄二 @ 麹町「バップ本社」