投稿日 : 2016.09.27 更新日 : 2021.06.04
3つの新世代ジャズ“好対照”が来日 「ライブで観たい」3つの理由
どうしても行きたいライブがある。プレストン・グラスゴウ・ロウ(Preston-Glasgow-Lowe)が初めて来日するのだ。
彼らは3人組のバンドなのだが、メンバーの名前が、そのままバンド名になっている。つまり、ブレストン(ギター)くんと、グラスゴウ(ベース)くんと、ロウ(ドラム)くんによるユニットだ。日本だとお笑いコンビにありがちな命名法だが、トリオになるとなかなかいない。この命名で成功した3人組は、たのきんトリオと…あとはもう、三菱東京UFJくらいではないか?
一応、海外のバンドで同様の命名パターンを考えてみると、やはり3人組はエマーソン・レイク・アンド・パーマーくらいしか思いつかない。ちなみに4人組だとアンダーソン・ブルーフォード・ウェイクマン・ハウ(イエス再結成後のバンド名)がいる。そこでひとつ気づいた。この「メンバーの名を並べただけ」の大物バンド2組は、ともにイギリスの、プログレッシブ・ロックのグループである。日本だと“お笑い芸人っぽい”命名パターンも、イギリスでは“プログレっぽい”重厚さがある、ということになるのか?
彼らプレストン・グラスゴウ・ロウ(以下、P-G-L)もまたイギリス出身。プログレッシブ・ロックではないが、彼らの奏でる“クロスオーバー・ジャズ”はきわめてプログレッシブ=先進的だ。
彼らのことをもっと知りたいのだが、いかんせん情報が少ない。なにしろ、今年7月にデビューアルバムを発表したばかりで、同作の高評とともに「ライブも凄いらしいぞ」という下馬評だけが飛び交っている状態。ちなみに、英国『ガーディアン』紙は、ギターのプレストンの「反射的かつ優美なタッチ」を、ジョン・マクラフリンやアラン・ホールズワースに喩え、和音のセンスはパット・メセニーを想起させる、といった旨の評を載せている。
さらに、6弦ベースを表情豊かに操るグラスゴウの力強さと繊細さに触れ「ギターとの対位法的な思慮深いアンサンブル」を激賞。ドラムのロウが刻むビートに対しても「ビリー・コブハムを彷彿とさせる」と称賛している。
こうした三者それぞれの技量の高さもさることながら、トリオとしての融合感は、無重力下で刻々とその形状を変化させる水塊を眺めるような面白さがある。そこは今回のデビュー作を聴けば十分に堪能できるのだが、「このライブが観たい」と掲題するからには、その意義を挙げておこう。
先述の英メディアの評に「対位法」というワードがあったが、ギターとベースの関係性を「観る」ことにP-G-L鑑賞の醍醐味はある。6弦ベースの高音域は、ギターの音域と重なる部分が大きいため、ときにギターが弾いてしかるべき旋律を、ベースが出していたりするのだ。
この対話的なスイッチを目視しながら味わうP-G-Lは、録音物では計り知ることのできない面白さと興奮がある。加えて、彼らの大きな見どころは、トルクフルな演奏と曲展開である。ドライブのさせ方というか、方法論が、アメリカの(近年の新世代ジャズ)バンドと根本的に違う。まったく異質のダイナミズムがそこにはあるのだ。
とはいえ、べつに「国籍」によるサウンドの傾向を論じたいわけではない。アメリカの新世代ジャズを引き合いに出したのは、じつはP-G-Lと、ほぼ同タイミングで「好対照」が来日するからだ。
米国勢が体現する「ビート」の原初的な意味
Billboard Live TOKYO(東京都港区)で行われる、P-G-Lの来日公演(東京10/5)の5日後、奇しくも同所でクリス・デイヴ & the Drumhedz(東京:10/10~11、大阪:10/13)の公演があるのだ。
先述のP-G-Lと好対照でありながら、この公演もまた「ライブの現場を観る」ことに大きな意義がある、どうせならP-G-Lと併せて観るべき演目である。好対照の理由は言うまでもなく彼らの出身国、ひいては血脈の違いである。さらに、その表現方法においても対照的だ。
すでに知名度抜群のクリス・デイヴは、今回「クリス・デイヴ & the Drumhedz」名義でのステージ。ドラム奏者が率いるグループだけに、ビートの面白さが肝である。ヒップホップとの関連性をさかんに取り沙汰される彼だが、同ユニットのこれまでの演奏を聴けば明らかなとおり、アメリカにおける、いわゆる「黒人音楽」の歴史を包括的に提示するスタイルが身上だ。
その最新の引用元が「ヒップホップ」というフォームであり、そうした分かりやすいポイントだけが際立ってしまうのだが、古くはラグタイムやブルースにまで着想を求め、ときにキャッチーにモダンジャズの名曲からも特定フレーズを引用してみせる。こうした複数のモチーフを、複数の異なるタイム感でシンクロさせる仕口は、いくつもの「時間」が同時に存在する、まるで「タイムトリップ」のメタファーである。「ビートとは何か」という根源的な問いを、凡百のドラマーとは違うアプローチで手弄るのがクリス・デイヴの音楽だ。
多くのジャズマンがそうであるように、彼もまたアフリカ系アメリカ人である。ジャズやブルースの歴史をここで詳しく説明するまでもないだろうが、要するに、奴隷としてアメリカに連行されたアフリカ人によって、そのルーツは形成された。無論そこには欧州文化との混交もあるが、奴隷労働を強いられた者たちの労働歌や慰みとして発展した経緯がある。
白人支配者たちもこれを彼らの娯楽として容認したが、当時の農場主たちは、奴隷の打楽器演奏を禁止している。遠く離れた仲間と交信したり、蜂起の合図として使用されることを恐れたからだ。つまり、当時の黒人たちにとって「ビート」とは、信仰や享楽のエレメントであり、同時に「言葉」なのである。この原初的な、そして当たり前の事実を、自身の最大の作風(あるいは表現の軸)に据えているのが、クリス・デイヴである。と、少なくとも筆者は考えている。
彼のドラミングは、まるでマリンバやヴィブラフォンの鍵盤を叩くかのようにカラフルで饒舌だ。微細な強弱の差を“叩き分ける”テクニックはつまり「語彙の豊かさ」である。同じく、細かく分割された打撃のタイミングもまた、多彩な「語り口」そのものだ。まるで遠い祖先と通信しているかのように、あるいは同好の士に語りかけるように、そして“自由”と連結する手立てであるかのように彼は奏でる。
驚くべき数の語彙と話法を駆使して、かつて没収された打楽器の、本当の力を、我々に見せてくれるのだ。クリスにとって、あのユニークなドラムセットは、語りたいことを発言したり、場合によってはラップしたり歌ったりするための「巨大なトーキングドラム装置」とも言えよう。これこそが“聴くべき”ではなく“観るべき”とした理由である。微細なスティック・コントロールやアタックの波動は、単なる“音量の大小”では説明できない、体感しないとわからないニュアンスがある。手紙や電話では伝わらない、会って話さないと伝わらないニュアンスもある、ということだ。
同様に、新世代ジャズを牽引する存在がもうひとり。カマシ・ワシントンである。彼も同じタイミングで来日公演(大阪:12/5、東京:12/6~8)を予定しているのだが、クリス・デイヴと同じく“アフリカン・アメリカンの歴史”に自覚的なサックス・プレイヤーだ。
すでに数多の著名ミュージシャンと共演を繰り返し、昨年発表したアルバム『The Epic』も大きな話題を呼んでいる。サウンド的には60~70年代に盛んに録音されたスピリチュアル・ジャズの系譜を受け継いでおり、ファラオ・サンダースやカルロス・ガーネットなどとの近似という意味では、ある種の伝統と様式に則ったオルタナティブ・ジャズである。加えて、彼の音楽は祝祭的あるいは儀礼的とでも言おうか、これまた本稿のテーマである、その「場」を体感することに大きな意義がある作風といえよう。また、クリス・デイヴが執拗に依拠する「ビート」にたいして、カマシ・ワシントンは「和声」を表現の主軸に置いている、という点においても両者は好対照だ。
図らずも同時期に来日する“新世代ジャズ”の三者が、興味深い好対照関係にあり、なおかつライブで満喫するにふさわしい作風であること。さらには、ジャズのルーツと進化をマクロに堪能できる機会が訪れたことを、本当に幸運に思う。
■Billboard Live
http://www.billboard-live.com/