連載「証言で綴る日本のジャズ3」 はじめに
ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズシーンを支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場する“証言者”はピアニストの山本剛。十代の頃に独学でジャズピアノを習得し、デビュー後は『ミスティ』をはじめヒット作を続々とリリース。海外のフェスティバル参加やテレビ番組の音楽を担当するなど、その活動は多岐にわたる。
ピアノ奏者。1948年3月23日、新潟県佐渡郡相川町(現・佐渡市)生まれ。67年にプロ入り。ミッキー・カーチスのザ・サムライズを振り出しに、同グループで欧州各国をツアー。 74年、スリー・ブラインド・マイスから出した『ミッドナイト・シュガー』でレコード・デビュー。続く『ミスティ』が大ヒットして人気者に。77年に「モンタレイ・ジャズ・フェスティヴァル」、79年に「モントルー・ジャズ・フェスティヴァル」に出演。その間にはニューヨーク生活も体験。前後して、来日した一流ミュージシャンとも多数共演し、国際的な名声を確立。豊かなスウィング感を伴ったブルージーで歌心満点のプレイはいまも多くのファンの心を虜にしている。
ジャズに目覚めたころ
——山ちゃん(山本剛)とはずいぶん古いよね。
いつからだろう?
——「ミスティ」(注1)がオープンしてすぐだから、45年近い? それはそれとして、生まれは新潟県の佐渡でしょ?
うん。佐渡で生まれたけど、佐渡はお袋の実家だから、産みに帰っただけ。
(注1)73年から82年まで六本木にあったジャズ・クラブ。それ以前は青山で営業していた。
——じゃあ、家はどこに?
新潟市。
——ピアノを始めたのはいつから?
ピアノは小学校の二、三年かな? やらされたんだよ。よくあるパターンで、「妹と一緒にお前も行け」って。
——妹さんとはいくつ違い?
3つかな。
——妹さんは音大に入るんでしょ?
あいつは国立音大(国立音楽大学)に入るの。
——最初はクラシックから……。
クラシックというか、バイエルね。それも半分で辞めたから。
——そのあともピアノは弾いていた?
あまり好きじゃなかったから、弾いてないんだよ。それで、トランペットをやったり。
——トランペットでなにをやってたの?
最初はトロンボーンをやって、唇が慣れてきたら、トランペットでいい音が出るようになった。それで、中学の終わりごろにブラスバンド部に入ったの。なんかのときは通りをパレードしたりね。譜面が読めないから、吹いてもらって覚える。それを高校でもやって。
——ピアノは弾いてなかった?
弾いてなかったけど、中学の謝恩会で歌の伴奏をやったのは覚えている。〈いつでも夢を〉(注2)とかを歌うヤツがいたんだね。ズンチャズンチャってコードだけ弾いて。
(注2)作詞が佐伯孝夫、作編曲が吉田正で、62年9月20日に日本ビクターから発売された橋幸夫と吉永小百合のデュエット曲。「第4回日本レコード大賞」で〈大賞〉受賞。累計売上は260万枚。
——ジャズに目覚めるのは?
高校になって、うちに下宿していたお兄さんが〈ダイアナ〉(注3)とかのいわゆるポップスのレコードをいろいろ持ってて、それを夜になると聴きに行ってたの。そうしたら突然アート・ブレイキー(ds)とザ・ジャズ・メッセンジャーズの〈ノー・プロブレム(危険な関係のブルース)〉(注4)を聴かされて。「なに、これ?」。それで「ピアノ、いいな」と思って、ピアノに目覚めたというか。それが高校の二、三年だね。自分の知っているピアノとは違うピアノがあると思ったのがそのとき。「バイエルだ、ツェルニーだ」じゃなくて、もっといいのがあるなと。それで、すぐにコピーを始めた。
(注3)57年に歌手のポール・アンカが自作自演したヒット曲。『ビルボード』誌「トップ100」では最高2位。のべ900万枚を売り上げた。
(注4)『アート・ブレイキーとザ・ジャズ・メッセンジャーズ/危険な関係』(フォンタナ)に収録。メンバー=アート・ブレイキー(ds) バルネ・ウィラン(ts) リー・モーガン(tp) ボビー・ティモンズ(p) ジミー・メリット(b) 1959年7月28、29日 ニューヨークで録音。
レコード針を落として、急いでピアノのところに行ってフレーズを拾うとかね(笑)。譜面が読めないから、コピーするしかない。いまみたいに情報も多くないし。せいぜいあって、『モダン・ジャズ・メモランダム』といったかな? 宇山恭平さんってギタリストが書いた楽譜集。それが700円だったかいくらかで、それを買って。キーがちょっと違ったりするけど、それにスタンダードが何曲か書いてあるから、それを見たりして。
コードはね、『コード表』があるんだよ。500円だったかな? 鍵盤が書いてあって、そこにドッツ(印)がついている。それで真ん中のドッツが半音下がるとマイナーだとか、ドッツの真ん中と上が下がるとディミニッシュだとか。なんでもそう考えればいいというようなことをやっていたのね。
学校で譜面を見てたら、サッカー部の小林というのが「ピアノを弾くのか? オレはドラムスを叩きたい」。そういうことがあって、小林のうちへ、中学校のときの友だちふたりと行って、カルテットを始めるの。そのうちクインテットになるけど。
それで月に2、3回、小林のうちに集まって練習する。そのころにバンドのスコアが売られるようになって、〈ドキシー〉とかの類いだよね。〈モリタート〉も出ていたかな? 何曲もなかったけど、サックスとピアノ・トリオとか、トランペットとピアノ・トリオとかで、それを練習して。
——アドリブはできるようになっていた?
アドリブはいい加減。小節の長さを頭の中で把握していないから、8小節ぐらいのエンディングを作って、〈モーニン〉なんか、それが出てきたらポンと止まるようになってる(笑)。フリー・ジャズと似てるよね。
——ソロはコード進行に則って?
どうだったかなあ(笑)。則ってるとは思うけどね。レコードを聴いても全曲はコピーできないから、雰囲気だけ真似して、いいところや自分の好きなところだけコピーする。それで、高校の謝恩会で「バンドをやらないか」といわれたんだよ。そうしたら、先輩が「どうやってるんだ?」。カラクリを教えてないから、「お前たちすごいな、あれ、ジャズだろ」なんて驚かれちゃって。
——その謝恩会って、先輩の卒業式ってことだよね。
そう。明訓高校(新潟明訓高等学校)。
——野球で有名な。
一番有名なのは漫画の『ドカベン』(注5)。
(注5)『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)に72年から81年まで連載された、水島新司の野球漫画。
——山ちゃんは野球はやらなかった?
オレはやってない(笑)。
——それで、受験して東京に。
日大(日本大学)を受けたら、教養学部は世田谷と三島に校舎があって、静岡とは書いてない。オレにしてみれば引っかけ問題みたいなもんだよ。日大だから、東京にあるとばかり思ってるじゃない。世田谷は東京の端だからみたいに考えて、三島に印をつけちゃった。それで静岡県の三島に1年いたけど、それもよかった。
——音楽はやってたの?
合唱部に入ったんだよ。
——似合わないなあ(笑)。
いや、部活には出ないで、終わったころに行って、ピアノばっかり弾いてたの。それで、校歌とかを弾いてると女の子が集まってくるんだよ。「山本君、ピアノ弾けるじゃない」。女の子が「あれ弾いて、これ弾いて」「知らないよ」というような感じで。
あとは下宿で、みんなは麻雀なんかをやってるけど、オレはステレオを持ち込んで、ジャズを聴いてた。そうしたら、周りのヤツもだんだん好きになってきて。三島時代はそういう感じ。それで東京に出て、経緯は覚えてないけど、すぐに仕事をやってたなあ。
——どういう音楽を?
ジャズを。
——じゃあ、ジャズ・ピアニストになっちゃったんだ。
まあねえ。
——どういうところで?
池袋の「JUN」(JUN CLUB)とか。
——洋服のVANジャケットとかJUNとかのJUNがやってたジャズ喫茶でしょ。
ジローさん(小原哲次郎)(ds)とかに誘われてね。
——その時点で、ジローさんとは知り合ってたんだ。
青山にあった時代の「ミスティ」にも行くようになって、そこで「ボーヤ、弾くか?」「はい」みたいなことをやっているうちに、声をかけてもらえるようになったんだよね。あそこがすごく勉強になった。オマさん(鈴木勲/b)は来るし、菊地のプーさん(菊地雅章/p)は来るし、不思議な場所だった。
ミッキー・カーチスのバンドでヨーロッパに
——ミッキー・カーチス(注6)さんのバンドに入るのがそのころ?
それはもう少しあと。飯倉に「ニコラス」ってあったじゃない。あそこに小さなハモンド・オルガンがあったんだよ。たまたま誰かにトラ(エキストラ)を頼まれて。そのときにお客さんで来てたのがミッキーのマネージャー。マイクというアメリカ人で、奥さんが日本人だから、赤坂の「ホテル・ニュージャパン」とかで日本語の漫才ができるくらい日本語がペラペラ。
(注6)ミッキー・カーチス(歌手、俳優 1938年~)日英混血の両親の長男。50年代末からロカビリー歌手として人気を集め、その後は司会や役者をこなし、67年にはミッキー・カーチスとザ・サムライズでヨーロッパ巡演。プログレッシヴ・ロックのバンドとして70年に帰国。以後も多彩な活動で現在にいたる。
彼に呼び止められたのが「ニコラス」。「なんでしょう?」「ヨーロッパに行かない?」。ヨーロッパなんて、そのころ誰でも行けるわけじゃない。「行きたいなあ」という気持ちはあったけど、「一晩考えさせてくれ」。それで、次の日に銀座の「ヤマハ」の前で待ち合わせて、「行きます」。日大紛争だったんだよ。渡りに船だと思って。
——それが二十歳のとき?
大学二年のとき。アンカレッジ経由で、まずはスイスに行くの。ところがアンカレッジでエンジンの調子が悪いって、飛行機から降ろされちゃった。待ってたけどぜんぜんダメ。ウエスタン航空に乗ったけど、今度は「凍ってて車輪が入らない」。「もう1回やってみる」とやったけど、「ダメだから1度引き返す」。それでも機長が「もう1回やる」と。そうしたらブーンって音がして、入ったんだよ。「ヤッホー」みたいな感じで、全員拍手(笑)。「さあ、飲んでくれ。みんなタダで出しちゃえ」みたいな。それでシアトルに行って、デンマークに行って、翌日チューリッヒ経由でジュネーヴ。宿泊先はモーテルで、それから音楽生活。
——編成は?
エレクトリック・ベースとギターとピアノとドラムス、それにミッキー。ミッキーはギターも弾くでしょ。曲によってはフルートも吹いて。
——それでポップスとかボサノヴァを?
それもやるけど、日本の曲とかビートルズとか、いろいろだね。ショウみたいにして作るから。
——どういうところで?
泊まっていたのはジュネーヴからけっこう離れたフェルネーってところで、そばにフランスの国境がある。国境を越えると、すぐのところに有名なカジノがあるの。小さな村だけど、毎日国境を越えて、そこの「カジノ・デ・ヴァン」でやってた。
——どのくらいの期間?
1か月くらいかな? そのあとはイギリスに行くの。ショウであちこちを回って、あとはテレビにも出たし。着物を着てさ。だから初めは着物を畳むのが下手だったけど、スッとできるようになっちゃった(笑)。
——日本から来たバンドということで。
バンドの名前がザ・サムライズだからね。ビートルズの曲とかもやるんだよ。あとは日本の民謡とか。「金毘羅船々、お池にはまってしゅらしゅしゅしゅ〜」とかね。それをオレが大正琴で弾くと、受けるわけだよ。でっかいナイト・クラブみたいなところで、そういうショウをやるバンドだったの。「ビートルズよりいい」とかいわれるんだから。
——じゃあ、向こうでけっこう話題になったんだ。
なってたみたいよ。マキシのパンタロンが流行ってたでしょ。イギリスの女の子はみんなマキシのパンタロンを履いてて。「サインしてくれ」って来るけど、でっかい女ばかりで、驚いちゃって、半分怖くてさ(笑)。「いいな」って感じはぜんぜんなかった。
——イギリスのあとは?
スイスに戻って。そのころまでに何回かホームシックにかかってたの。そのときはトンズラしたくて、「航空券を送ってくれ」って、家に電話したんだよね。「ダメだ、ダメだ」といわれてたけど、あるときお袋が『週刊新潮』かなにかの記事を見たんだよ。「ミッキー・カーチスのバンドはヨーロッパで貧困生活を送っている」「宿の下に流れている河で魚を釣って、それを食べている」みたいなことが書いてあったの。それで、「たいへん」となって、「これはお金を送らなきゃ」(笑)。日航(日本航空)に話をつけて。それで「カジノ・デ・ヴァン」の仕事が終わったある夜、車がないからヒッチハイクでジュネーヴまで着の身着のままで戻って、帰ってきた。
——「辞める」といって帰って来たの?
なにもいわないで。
——じゃあ、ピアノがいなくなってたいへんだったんじゃない?
ミッキーが帰って来たときに、「あのときはごめんなさい」って、すぐに電話を入れたんだよ。「ヤマか、バカヤロー。でも、いいよいいよ、終わったことだから」。それでまた会うようになった。
——ヨーロッパにはどのくらい?
半年ぐらいかな?
——給料はよかった?
微妙だね。1日で、タバコ代か手紙を出す切手代、そんなもんだよ。金回りもよくなかったんだろうけどね。それがあったからチケットを送ってもらったの。片道のチケットで来てるから帰れない。パスポートを取り上げられなかったからよかったけど。親父は「みんなはいるんだから、お前だけどうのこうのはダメだ」といってたけど、お袋が見た記事のおかげで帰ってこれた(笑)。
——ザ・サムライズはそのあとプログレ系のロック・バンドになったじゃない。
ハモンド・オルガンを買ってくれるっていってたけどね。オレが発つ日にハモンド・オルガンが着いているんだよ。
——そのままいたら山ちゃんもロック・ミュージシャンになってたね。
そのあとは、イギリスからジョンとかなんとかっていうキーボード奏者が来たみたい。
「ミスティ」で人気者に
——帰国したあとは?
米軍のキャンプやクラブで仕事を始めて。でもたいした仕事はないし。
——学校は?
休学届を出して、ヨーロッパに行って、そのまま。まだ紛争をやってたもの。親父から「学費を払えって催促が来たけど、どうしたらいい?」「休学だから払う必要なし」。だから、抹消されてるだろうけど、休学のまま終わっちゃった。
——「ミスティ」に出るようになったいきさつは?
ヴォーカルとコンガが森山浩二でベースが海野欣児、このひとは松岡直也(p)さんなんかとやってたラテンのひとで、この3人でコンガ・トリオを組んで、銀座の一流クラブとかでやってたの。あとは浩二とふたりで、オレがエレクトーンを弾いてデュエットとか。引っ張りだこだったんだよ。その仕事が終わると、夜中はアイ・ジョージ(注7)さんとか俳優とかがお客さんで来る青山の「仮面」でやって。
(注7)アイ・ジョージ(歌手、俳優 1933年~)本名は石松譲治。香港生まれで、父は日本人、母はスペイン人。59年トリオ・ロス・パンチョス(cho)の前座で注目され、〈硝子のジョニー〉(61年)、〈赤いグラス〉(65年)などがヒット。63年日本人初のニューヨーク「カーネギー・ホール」公演を行なう。
当時は「10万円プレイヤー」が憧れの的で、それくらい稼いでいた。そんなことをやってるうちに、「ミンゴス・ムジコ」や「O&O(オー・アンド・オー)」とかね、あのころは仕事が終わったあとに集まる場所があったんだよ。溜まり場みたいなね。それで、「ミスティ」にもよく行ってたの。仕事が終わって行くと、菅野(邦彦)(p)さんがいつも練習している。そのあと菅野さんが辞めて、レジー・ムーア(p)のトリオが入って。
——なんとなく覚えてる。全員が黒人のトリオでしょ? すぐに辞めちゃったけど。
そう。そのあとに、オーナーの三木(道朗)さんから話が来たんだよ。ところが、あそこのピアノはニューヨーク・スタインウェイでしょ。あれが弾きこなせない。ヤマハなんかだったらパアッと弾けるけど、ニューヨーク・スタインウェイは鍵盤が重くて、ぜんぜん違う。じゃじゃ馬みたいに跳ね返されちゃう。
——それはスタインウェイの特徴?
ニューヨーク・スタインウェイのね。いまはわかんないけど、昔のはそうだった。でも、音がぜんぜんいい。それで弾けないから恥ずかしくて、1週間くらいで「辞めよう」と思った。オクちゃんて覚えてない? オクちゃんが、「ヤマは練習もしないで、なんだ?」って秋田弁でいうんだよ。「それもそうだな」と思って、毎日3時ぐらいに行って、練習をするようにした。「ミスティ」には1月(74年)に入ったんだよね。寒いからって、「ミスティ」の加藤さんが石油ストーヴをそばに置いてくれて、それで練習したんだから。20日間くらいやってたら手が慣れてきて、それからは問題なく弾けるようになった。
——やっぱり、あのピアノはいい?
いいピアノだった。あのころ、ニューヨーク・スタインウェイはあそこに1台と、壊れて使えないのがNHKに1台、それぐらいしかなかったんだから。
——「ミスティ」のは、ニューヨークから飛行機で運んできたでしょ。
JAL(日本航空)に三木さんの友だちで慶應(慶應義塾大学)の後輩かな? 野崎さんというひとがいたんだよ。「開店に間に合わないから、飛行機で運べ」って。先輩だから文句をいわせずに、運ばせたらしい。それで地下の店に運び込めないって、できてた壁を壊して、やっと入れたんだから。
——あのピアノ、まだあるんだよね。
お兄さんの会社、三木プーリ(注8)にね。オレも弾きに行こうかなと思ってるけど。
(注8)三木プーリ株式会社。創業が39年で、事業内容は伝動機器の開発・製造・販売。
——「ミスティ」には毎日出てたの?
メンバーをジローさんと福井(五十雄)(b)ちゃんで固定して、日曜日以外は毎日。それで、歌手は曜日で違うの。ペコ(伊藤君子)ちゃんもいいかなと思って、「世界貿易センタービル」で歌ってたから、話をして、入れて。あとは安田南でしょ。歌手は動いていたけど、トリオのメンバーは変わっていない。それで、旅にもあまり出してくれないから。
——だからずっと東京にいたんだ。
三木さんに「ミスティに来て、入ったとたんに地下からいつも同じ音が聴こえてこないと意味がない」「お前がいつも弾いていることがいいんだから、旅はダメだ」といわれてたからね。ずいぶん経って、やっと「旅に出ていいよ」といわれるようになった。
——最初のころはほとんど「ミスティ」でしか山ちゃんのピアノは聴けなかった。
でも、仕事が終わってからあちこちに遊びに行ってたし、夜中にみんなが「ミスティ」にも集まってきたし。
——外タレも来てたね。
「ミスティに行ってみろ」って、みんないわれてたみたい。そういう店がほかになかったからね。みんな来て、盛り上がってた。いろんなひととやったり、聴いたりがいい勉強になったよね。
——「ミスティ」で歌伴の腕も磨いたでしょ。
そうだけど、その前から森山浩二とやってたから歌伴は苦手じゃなかった。
スリー・ブラインド・マイスから次々とアルバムを発表
——それで、いよいよスリー・ブラインド・マイス(TBM)。
「ミスティ」のころに「やらないか?」という話がきたの。
——藤井武(注9)さんから?
オレの噂を聞いたというか、「ミスティ」のお客さんというか、店に来てたんだよね。あと、ジローさんがTBMでやってたから、そういうのもあったと思うけど。でかい声で「イエイ」とかいってるのが藤井さんだった(笑)。
(注9)藤井武(レコード・プロデューサー 1941年~)【『第1集』の証言者】70年スリー・ブラインド・マイス設立(2014年倒産)。約140枚のアルバムを制作。63年録音の音源『銀巴里セッション』を紹介したことも功績のひとつ。
——最初のアルバムが『ミッドナイト・シュガー』(注10)。藤井さんにいわせると、「山本剛はバラードとブルースだけを聴けばいい」となるけど、実際にそういわれたの?
いわれはしなかったけど、「ブルースを入れよう」という話はあったね。というか、オレがスロー・ブルースをやりたかったんだよ。フィニアス・ニューボーン・ジュニア(p)がやってたブルースとか、アンドレ・プレヴィン(p)のライオンのジャケット(コンテンポラリー盤『キング・サイズ!』)に入っていたブルース。あんなのを聴いてたから、これはそのイメージ。〈アイム・ア・フール・トゥ・ウォント・ユー〉はビリー・ホリデイ(vo)の『レディ・イン・サテン』(コロムビア)を聴いてて、それがあったから。
(注10)山本の初レコーディングにして初リーダー作。『スイングジャーナル』誌の74年度「ジャズ・ディスク大賞」〈最優秀録音賞 第3位〉。メンバー=山本剛(p) 福井五十雄(b) 小原哲次郎(ds) 1974年3月1日 東京で録音
——いつもやってた曲ばかり?
「ミスティ」でやってたと思う。初めてのスタジオ録音だから、いろんなことがあったかもしれないけど、あまり覚えてない。
——山ちゃんはめったにサイドマンをやらないよね。
なんでだろう? 森山浩二のときは3人が集まってドンて感じだったし。
——「ミスティ」以降は基本的にリーダーでしょ。
頼まれてやることはあったけど、そうだね。自分がリーダーならやりたい曲をやればいいから気楽でいい。ふと思い出した曲をバッとやるから、メンバーには「なにやるの?」というのはあるかもしれない。だけど、黙ってやっちゃう。
——このころは「ミスティ」の専属だから、「ピットイン」や「ジャンク」とかのジャズ喫茶にはあまり出ていなかった。
「ピットイン」はたまにやったかな?
——「ミスティ」に行っても、いない日があったからね。
毎日やってるから、気持ちの中にいろんなものが溜まってくる。ジローさんと福井ちゃんは、「オレはお前の伴奏をしてるんじゃない」というし。そんなこんなで「辞める」となって。夜は飲んでるから、「わかった。じゃあ、明日の昼間に会おう」。昼間に「ミスティ」のそばで会って、話をして。そんなに嫌なら仕方がないんで、「いままでお世話になりました、ありがとう。でも代わりを探さなきゃいけないから、1か月くれ」。
それで大隅(寿男)(ds)ちゃんと大由(だいよし)彰(b)さんになるけど、大由さんは横浜の「ストーク・クラブ」に出てたから、そこに行って、「ミスティに来てくれないかな?」。店の看板ベースだった大由さんを引っ張ったから、「ストーク・クラブ」には悪いことしたけどね。そのことは重々わかった上で「来てくれないか?」と。それで、第2期が始まった。
——大由さんのベースが豪快で、これでまたガーンときた。
ああいうベースは世界でひとりだね。
——それで、これは覚えてる? 「5デイズ・イン・ジャズ」(注11)のライヴ盤(注12)。
オマさん(cello)とやってるんだよね。それで、和田直(すなお)(g)さんが入って。よく覚えてる。TBMの看板のひとたちを集めたコンサートでしょ。ジョージ大塚(ds)さんとかね。
(注11)TBMが74年から始めたコンサート(77年に終了)。連日複数のアーティストが出演し、実況録音盤もいくつか発売された。
(注12)デビュー作から25日後に録音された『鈴木勲&和田直+山本剛トリオ・ジョージ大塚クインテット+2/ナウズ・ザ・タイム』のこと。メンバー(A面)=山本剛(p) 福井五十雄(b) 小原哲次郎(ds) 鈴木勲(cello) 和田直(g) (B面)ジョージ大塚(ds) 植松孝夫(ts) 山口真文(ts) 大徳俊幸(elp) 古野光昭(b) 大友義雄(as) 森剣治(as) 1974年3月26日 東京「日本都市センター・ホール」でライヴ録音
——それで次が『ミスティ』(注13)。
これは、アレンジなりなんなりをいろいろ考えたんだよ。
(注13)『ナウズ・ザ・タイム』と同時に発売された2作目。これで人気に火がついた。『スイングジャーナル』誌の74年度「ジャズ・ディスク大賞」〈最優秀録音賞〉。メンバー=山本剛(p) 福井五十雄(b) 小原哲次郎(ds) 1974年8月7日 東京で録音
——すごいなあと思うのは、いまだに〈ミスティ〉を弾いてて、それこそ何千回ってやってるでしょ。毎回、違うんだよね。そのアイディアがすごい。
いやいや(笑)。その日の気分で演奏するから。決まったことをやってると自分が煮詰まるじゃない。アバウトなところしかないから、却っていいんだよ。その日の流れを決めてじゃなくて、ブルースをやって、それから考えようって感じなの。だから、慣れているひとじゃないとサイドは務まらない。
——なにかフレーズを弾きながら、そのうちにメロディが出てくるスタイルだよね。
それに慌てふためいちゃうひととはできない。いまは香川(裕史)(b)がいるし、大隅ちゃんは昔から一緒にやっているし。
『ミスティ』の大ヒットで人気者に
——影響を受けたのがエロール・ガーナー(p)とか。
ほかにもレッド・ガーランド(p)やザ・スリー・サウンズのジーン・ハリス(p)とかボビー・ティモンズ(p)とか。
——バックビートを強調してスウィングするピアニストが好きなんだ。
そうだね。マッコイ・タイナー(p)も好きだけど、自分の中に取り入れる音とは違う。だから、あまり器用じゃなくてよかった。譜面が読めて、書いてあるものをバリバリ弾いたり、誰のコードでも弾けちゃうとか、そういうのがないから。自分の音で特徴が出せるんで、却ってよかった。
——山ちゃんの魅力は間(ま)だよね。
それはわからないけど、どっちにしろ誰かとおんなじに弾くことはできない。それがいいんだろうね。
——『ミスティ』は大ヒットしたけど、実感はあった?
うーん、なんだったんだろう?
——あのころ、年に何枚もアルバムを出して、すごかったじゃない。
そうだけど、あまり気にしないでやってたんじゃないかな?
——そういうこと、意識しないひとだから(笑)。
アッハッハ(笑)。
——「オレ、すごいな」とか、思わなかった?
あったかもしれないけど、「なんなんだろうな?」というほうが強かった。
——そうとうな売れっ子だったよ。
ついてるな、ラッキーだなとは思ってた。
——自分で弾いてて「いいなあ」と思うことはあるの?
あるよ。泣いたりさ。泣き女って知らない? 「ミスティ」でピアノを弾いていると、オレのうしろの席にいるんだよ。
——泣き女? いたっけ?
月に1、2回、来てたみたい。
——覚えてない。
背の高いモデルみたいな娘(こ)で、綺麗だったんだよ。綺麗だったって、オレはそんなにまじまじと見たことはないけど。みんなが「山ちゃん、泣き女が来たぞ」っていうんだよ(笑)。
——ひとりで来るの?
うん。それでピアノを弾き始めると「グスッ」、だんだん泣き始める(笑)。そうすると、オレもそれにはまって泣いちゃうの(笑)。漫画だよ。「泣き女が来たぞ」っていわれると、「嫌だなあ、また泣かされるのかなあ」って(笑)。上手に泣くから、ピアノを弾きながらオレも感情が入って、いい音が出せる。
——泣きたい気分のときに来てたのかも。
「今日は泣きたいから泣かせてくれ」って? こっちとしては、「オレを泣かせに来なくていいよ」みたいな。もらい泣きして、気分が入っちゃうんだよ(笑)。弾いてて、自分で気持ちが高まることもある。センチになりやすいときがあったり。なんだろう? 急にくるんだよね。そういうのが一番いいけど。しょっちゅうはならないし。どっちにしろ、気を入れるようにして弾く。それを一番大事にしてるから。
——それって、歌伴をやってることにも関係があるんじゃない?
そうかもね。
——自分の気持ちを歌の世界に込めるとか。
あるだろうね。歌伴だけでなく、トリオでもそうだよね。
——山ちゃんは歌手と同じだもの。
ピアノで歌ってるから。サーカスみたいなことは、やることないんだよ。それをやると、オレの場合はなにもなくなっちゃう。余計な音はなるべく排除して、心のままに音を出す。「こんなに指が動いたっけ?」って、たまに弾きながら自分の手を見ることがあるよ。不思議だよね。「今日はどうしたの?」「オレ、こんなこと弾けるんだ」。
——いまだにそういう発見はあるの?
あるある。そういうときっていろんなことを思い出すんだよ。曲を覚え始めていたときに、バラードをぜんぜん違うふうにやってみたこととか。それがいいか悪いかは別にして、やってみる。毎日が実験室みたいなもので、その演奏がはまると、「やっぱり、オレが考えたのでよかったんだ」って。
——やってて、自分で発見するわけだ。
自分で「へええ」と思うことがあるよ。いつもとおんなじことはやらないで、「今日はこうやってみよう」みたいなのが多いかな。
——違うことをやりたいタイプ?
そうだと思う。元のをぶっ壊して、別のことをやろうとか。そういう考えが強いから。
——オリジナルはどうなの?
曲としてはけっこうあるんだよ。あるけど、バラード系が多い。あと、ミディアムくらいの曲もあるけど。〈ガーナー・トーク〉なんていうのは〈ミスティ〉と同じコード進行で、メロディがまったく違う。そういうのが勝手に出てくるんだよ。
——「ミスティ」でライヴ・レコーディングをしたでしょ。
1日で録音して、3枚出してる(注14)。
(注14)『ライヴ・アット・ミスティ』『ブルース・フォー・ティー』『ジ・イン・クラウド』のこと。メンバー=山本剛(p) 大由彰(b) 大隈寿男(ds) 森山浩二(conga) 1974年12月25日 東京「ミスティ」でライヴ録音
——このレコードのピアノがまたいい音をしている。このときは森山(浩二)さんがコンガを叩いて。
何曲かで「コンガ、叩いてくれよ」って頼んでね。
——あの日演奏したほとんどの曲が3枚のアルバムに収録されて。
何曲かは残ってるんだろうけど。
——テープ・チェンジのときの演奏がね。録音テープを交換するときに、短い演奏をして、それは途中でテープが終わっちゃうからアルバムに収録できない。だからちゃんと録音された演奏はぜんぶ入っているって、藤井さんがいってたけど。
〈ジ・イン・クラウド〉が入っているでしょ。これが売れたんだよ。
——ラムゼイ・ルイス(p)のレコードと同じで(注15)、いい雰囲気で手拍子が入っている。
そういう感じになる曲だよね。
(注15)『ラムゼイ・ルイス/ジ・イン・クラウド』(アーゴ)に収録。メンバー=ラムゼイ・ルイス(p) エルディ・ヤング(b, cello) レッド・ホルト(ds) 1965年5月13~15日 ワシントンD.C.「ボヘミアン・キャヴァーンズ」でライヴ録音
——次がヤマ&ジローズ・ウェイヴの『ガール・トーク』(注16)。
これ、トコちゃん(日野元彦)(ds)が名前をつけてくれたの。「山ちゃんね、ヤマ&ジローズ・ウェイヴ……いいでしょ? これにしなさいよ」。それで、決まり。トコちゃんともけっこう長くやってたかな? このレコードはそのころに作ったの。ドラムスはトコちゃんじゃなくてジローさんだけどね。1曲目に入っている〈追憶〉は、譜面をポンと置いて、ワン・コーラスかツー・コーラス。すごく短いんだよね。でも、こういうのがいい。
(注16)メンバー=山本剛(p) 小原哲次郎(ds) 大由彰(b) 1975年12月17日 東京で録音
——76年の『サマータイム』(注17)も「5デイズ・イン・ジャズ」のライヴ盤。
これもいいんだよ。〈ミスティ〉やってるでしょ。イントロに〈スプリング・キャン・リアリー・ハング・ユー・アップ・ザ・モスト〉をやって、それから〈ミスティ〉になる。それが面白い。
(注17)メンバー=山本剛(p) 大由彰(b) 守新治(ds) 1976年5月17日 東京「銀座ヤマハ・ホール」でライヴ録音
——次の『スターダスト』(注18)はストリングス・アルバム。
これはトリオで録って、あとからストリングスを被せたの。「こんな感じにしてください」と、編曲してくれた横内章次(g)さんに頼んで。だけど、ストリングスを入れなくてもいいように出来上がってる。だから、トリオだけの演奏も出せばいいと思うけど。
(注18)『山本剛ウィズ・ストリングス/スターダスト』メンバー=山本剛(p) 川畑利文(b) 大隈寿男(ds) ストリングス 横内章次(arr) 1977年8月2、3、18日 東京で録音
——これはエロール・ガーナーに捧げた作品?
ガーナーがやってる曲をね。それで1曲、ガーナーに捧げた〈ブルース・フォー・エロール〉を書いて。うなぎの「野田岩」に予約して、座敷に上がって、「今日はレコーディングよろしく」って、みんなで一杯引っかけてからスタジオに入った。
——これも基本はワン・テイク?
だったと思う。
人気絶頂でアメリカに
——これが終わって、アメリカに行っちゃう。
かな? それでバークリー(音楽大学)(注19)に行くんだよ。秋吉(敏子)(p)さんや(渡辺)貞夫(as)さんが行ってたころは寺子屋みたいで、切磋琢磨できてよかったんだろうけど、そのころはたいしたことないと思ってたの。オレのところには福村博(tb)のおかげでニュー・イングランド・コンサヴァトリーから、「試験を受けなくてもどうぞ」というのがきてたの。ところが貞夫さんと秋吉さんが「ミスティ」にわざわざ来てくれて、バークリーの紹介状を書き始めたんだよ。それで、「コンサヴァトリーに行きます」っていえばいいものを、ふたりの圧でいえなかった。
(注19)45年にローレンス・バークが設立したシリンガー音楽院が前身。54年のカリキュラム拡張に伴い、息子のリー・バークの名前も加えてバークリー音楽院に名称を変更。70年にバークリー音楽大学となる。当初はクラシックの音楽学校だったが、現在ではジャズの教育で有名。
で、行ったけど、面白くないから10日くらいで辞めちゃった。しかも学長の部屋に行って、入学金からなんだかんだ、払い込んだものをぜんぶ取り返してきた(笑)。いいわけが、「カミさんが調子悪くなって、帰らなくちゃいけない。だからお金がいる」。それをオウムみたいに30分くらいずっといってた。向こうもなにかいってるけどわからない。こっちはわざとそれしかいわない。「アイ・ニード・マネー」「マイ・ワイフ・イズ・シック」をずっといってたわけ。「OK、ヤマモト、ユー・カムバック・サマー・セミナー?」「イエス!」とかいいながら、ぜんぶ取り戻して。
そのあとは3か月くらいボストンにいたのかな? それでニューヨークに行って、チンさん(鈴木良雄)(b)のところでしばらくお世話になって。そのときに、ブリーカー(ストリート)とどこの角だったかな? グリニッチ・ヴィレッジに「サーフメイド」ってピアノ・バーがあったでしょ。そこはジョアン・ブラッキーン(p)が出てた。チンさんが紹介してくれて、「弾くか?」というから「はい」。
で、弾いたんだよ。終わったら店の奥からひとり出てきて、「オーナーだけど、お前、仕事ほしいか?」「イエス」「じゃあ何曜日と何曜日、ブラッキーンが忙しくなったから、日本人はスペシャルだし、やれ」。それで週2回、やって。それからほかのところでもやるようになって、週に4日とか、けっこう仕事をしてたんだ。ところが事情もあって、しばらくして日本に戻ったのね。
そうしたら、仕事がどんどん来るんだよ。そのころは麻布十番の仙台坂に住んでいて、麻布信用金庫(現・さわやか信用金庫)から「口座を作ってくれないか」って勧誘が来たの。それで口座ができて、仕事がバンバン来るから、「お金はぜんぶそこに入れて」。
夜型だから、お昼に起きて、夜に出ていく。朝ごはんは「1時ぐらいにたぬき蕎麦とカツ丼を持ってきて」って、蕎麦屋に頼んである。「ピンポン」と来て、半分食べる。残りを冷蔵庫に入れて、飲んで帰ってから温めて食べる。だからお金がかからない(笑)。それで、400万か500万ぐらい貯まったんじゃないかな? 「よし、お金が続くまでアメリカに行こう」って。それでまた行ったんだよ。
まず、行ったのは「モンタレイ・ジャズ・フェスティヴァル」(注20)。客演だったけどね。プロデューサーのジミー・ライオンズだっけ? 「ミスティ」に来たんだよ。それで聴いて、「お前、来い」って。そうしたらあるひとがアメリカにモンタレイに行くツアーを組んで、それにひとがけっこう集まったの。四国のジャズ・クラブのマスターとか、全国から集まって、何十人かでツアー。オレはギャラの代わりにニューヨークまでのチケットをもらうようにして、スッと行っちゃった。
(注20)58年にカリフォルニアのラジオDJジミー・ライオンズが始めたジャズ・フェスティヴァル。毎年9月に開催され、ライオンズの死後も続けられている。
——そのときに、弾いた曲は覚えてる?
〈ミッドナイト・サン〉だよ。
——ソロで?
リチャード・デイヴィス(b)とロイ・バーン(ds)と。
——大受け?
あれは忘れられない。こっちもドキドキしてるけど、メロディを弾き始めてちょっとしたら津波みたいに歓声がきた。終わったらみんなザワザワしちゃって、もうたいへん。弾いてるときからそれは感じてたけど、弾くことに入っちゃってるから、実感したのは終わってから。ワン・コーラスしか弾いてないんだよ。「もっとやらせろ」みたいなのもあったけど、次のひとが出て、やってるから。
——じゃあ、それ1曲だけで。
最後のセッションにまた出て。終わって、戻っても拍手がやまないから、「もう1回行ってこい」といわれて、挨拶だけさせられて。
——そのあとがサンフランシスコの教会? フェスティヴァルみたいなところで演奏したんでしょ?
「グレート・キャセドラル」ね。「モンタレイ〜」の演奏を聴いたひとが楽屋に来て、チケット代出すから「やってくれ」って。ニューヨークに行ったのはそのあと。
——ぼくと会ったのがそのときだ。
イーストの7丁目のアパートを借りて。そのときに小川ちゃんが来たんじゃない? 借りたばかりだから、電気が入ってなくて、ランプを借りてね。そのときに来たんだよ。ランプをつけてたの覚えてる。普段ランプなんか使うことないよね(笑)。
——あのときはジャパニーズ・レストランの「銀嶺」で1週間、ニューヨークにいる日本のミュージシャンが日替わりで出て。日野(皓正)さんとプーさんのバンドとか。山ちゃんはトリオでやったと思うけど。大森明(as)さんがいたかも。
あったね。
——そのあと日本に戻って。
また「ミスティ」でやるんだよ。
——ニューヨークにいた岸田(恵士)(ds)さんが入るのは……
そのあとに、追っかけて来たんだよ。
——ニューヨーク時代に知り合ったんだよね。ぼくも一緒にいたときで。
それで、お金もなくなってきたから、帰る前にトニー木庭(ds)とブラジルに行ったんだよ。あいつは辞めちゃったけど、一時人気があったでしょ。村上龍(注21)に会ったのがそのとき。村上龍は「ミスティ」によく来てたの。でも、話したことはなかった。リオとイパネマの間に「京都」ってレストランがあって、そこで「村上龍です。初めまして」とかなんとかいわれたの。そうしたら、ニューヨークまでの飛行機でも一緒になって。ふたりで「ああでもない、こうでもない」って話して、それで繋がるようになったんだね。
(注21)村上龍(小説家 1952年~)76年の『限りなく透明に近いブルー』で「第19回群像新人文学賞」と「第75回芥川龍之介賞」を受賞。ヒッピー文化の影響を強く受けた作家として、村上春樹と共に時代を代表する作家と目される。
——そこから『Ryu’s Bar 気ままにいい夜』(注22)が始まる。
あのときは連絡が来て、「山ちゃん、やってよ」。いい番組だったよね。
(注22)87年10月4日から91年3月31日までTBS系列で放送されたトーク番組。音楽を担当した山本剛トリオによるテーマ曲〈クレオパトラの夢〉(バド・パウエル作)もヒットした。
再び「ミスティ」で
——『ミッドナイト・サン』(注23)は帰ってきたあとのレコーディング。
そうだね。
(注23)メンバー=山本剛(p) 岡田勉(b) 岸田恵士(ds) 1978年6月3、4日 東京で録音
——岡田勉(b)さんと岸田さんだものね。このトリオで「ミスティ」もやって。
やってた。
——このあと、「モントルー・ジャズ・フェスティヴァル」(注24)にも出ちゃう。それで『ライヴ・イン・モントルー』(注25)が残された。
これはTBMがやりたいと。
(注24)67年から毎年7月にスイスのモントルーで開催されているジャズ・フェスティヴァル。
(注25)メンバー=山本剛(p) 稲葉圀光(b) 小原哲次郎(ds) 1979年7月11日 スイス「モントルー・ジャズ・フェスティヴァル カジノ・ホール」でライヴ録音
——TBMと「モントルー〜」が共同で企画した「ジャパン・トゥデイ」というプログラムで。
三木敏悟(arr)のオーケストラに中本マリ(vo)が入って。オレはトリオで、あとは鬼太鼓座(おんでこざ)(注26)。そのときのライヴ・レコーディングだね。
(注26)鬼太鼓座は69年、故田耕(でん たがやす)の構想の元に集まった若者たちにより佐渡で結成。「走ることと音楽は一体で、それは人生のドラマとエネルギーの反映」という「走楽論」が活動の根源にある。
——ベースは稲葉國光さんでドラムスがジローさん。
このときは松本英彦(ts)さんも、奥さんと来てたよね。
——インナー・ギャラクシー・オーケストラでね。これはでかい会場で。
そうそう。
——これも大受け?
すごかった。
——このころから、外国でもときどきやるようになって。
そうだね。
——このライヴ盤がTBMとしては、最後なの。
ああ、これが最後か。
——リーダー作以外のTBM作品では、森山浩二さんとの2枚(注27)とか大友義雄(as)さんの『ムーン・レイ』(注28)。大友さんとはライヴをやってた記憶がないけど。
一緒にやってないから、急に頼まれたんじゃないかな?
(注27)森山のデビュー作が『森山浩二&山本剛トリオ/ナイト・アンド・デイ』。メンバー=森山浩二(vo, conga) 山本剛(p) 井野信義(b) 小原哲次郎(ds) 1975年12月16日 東京で録音2作目が『森山浩二&山本剛トリオ/スマイル』。メンバー=森山浩二(vo) 山本剛(p, solina) 井野信義(b) 大隅寿男(ds) 1977年9月29、30日 東京で録音
(注28)山本は大友義雄のTBMにおける唯一の単独リーダー作『ムーン・レイ』に参加している。メンバー=大友義雄(as) 山本剛(p) 川端民生(b) オージェス倉田(倉田在秀)(ds) 1977年4月21、22日 東京で録音
——これがアメリカに行く前だから、ストリングス・アルバムを吹き込むちょっと前。
連発して出してるんだねえ。ほかの会社でも吹き込んでるから、知らないうちにお金が貯まったんだよ。
——「ミスティ」も80年代の始めごろまで。オーナーの三木さんがニューヨークで死んじゃうじゃない。
それで「店を閉める」となって。だから、それまではやってた。
——ぼくは三木さんと同じ時期にニューヨークにいたから、向こうでも親しくしてもらっていたの。面倒見のいいひとだから、よく大勢でチャイナタウンに行ったり、インディアン・レストランに行ったり。その日もご馳走になって、「明日からインドに行って、そのまま帰ってこないかもしれない」なんていってるんだよね。
前にもインドに行ってたからね。
——こっちは「はあ?」なんて思って。三木さんがアパートから転落して亡くなったのがその数時間後。もうびっくりしちゃって、あとがたいへんだった。
ハーレムのマツ(植松良高)(ds)のところにいたんだよ。オレにもマツから電話があって、「エエッ」だよ。それにしてもショックだった。でも、マツが一番ショックだったんじゃない? 寝てたんだって。そしたら「ピンポン」ときて、「下で日本人みたいなのが死んでる」。「あそこに日本人が住んでるな」っていうんで、マツのところにひとが来たんだって。
——植松さんも最後のころは日本に戻ってきて、そのあとはどうしちゃったの?
『スピーク・ロウ』(ヴィーナス)(注29)とかを作ったじゃない。だけど、手遅れの肝臓がんだった。
(注29)メンバー= 山本剛(p) 岡田勉(b) 植松良高(ds) 1999年8月8日 東京で録音
——ニューヨークが長かったよね。
あと、キーウエストにもいたからね。なかなかいないタイコだったけど。
——「ミスティ」がクローズしたあとは?
リオープンする話があって、見に行くんだけど、ぜんぜんオープンする気配がない。それ、エイプリール・フールだったんだよ(笑)。「騙されたあ〜」みたいな。だからその間に、「休んでるのもなんだから」って、「ボディ(&ソウル)」のママが「週に2回くらいやらない?」。そうしたら、「ボディ」がいっぱいになっちゃって。
——そのころの「ボディ」はまだ六本木(現在は青山)だよね。
「ジャーマンベーカリー」の上。お客がどんどん入るようになって、「ミスティ」のお客も来るし。それで週に3回やるようになって、そのときは稲葉さんと守(新治)(ds)とでやってたのかな?
——「ミスティ」がなくなったから山ちゃんもあちこちでやるようになった。
そうね。
——ということで、今日は長々とありがとうございました。
とんでもないです。
取材・文/小川隆夫
2017-02-12 Interview with 山本剛 @ 芝公園「ジョナサン」
写真提供:©︎Sony Music Direct(Japan)Inc./小川隆夫著『スリー・ブラインド・マイス コンプリート・ディスクガイド〜伝説のジャズ・レーベル〜』(駒草出版刊)より一部転載