投稿日 : 2018.03.29 更新日 : 2021.09.03
【証言で綴る日本のジャズ】中村誠一|ベニー・グッドマンとグレン・ミラーの衝撃
取材・文/小川隆夫
連載「証言で綴る日本のジャズ」はじめに
ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズシーンを支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場する“証言者”はサックス奏者の中村誠一。
サックス奏者。1947年3月17日、東京都世田谷区北沢生まれ。中学二年で吹奏楽部に入部し、クラリネットを吹き始める。そのころにジャズと出会い、ミュージシャンになることを決意。国立音楽大学のクラリネット科(三年でサックス科に移る)に進学し、先輩の山下洋輔とのつき合いが始まる。大学卒業前後に結成された初代山下洋輔トリオに参加。72年の退団後は自身のグループやジョージ川口とビッグ・フォアで活躍。77年からはニューヨークで研鑽に励む。80年に帰国し、翌年から89年まで日本テレビ系列『今夜は最高!』に出演。現在まで自己のグループを中心に精力的な活動を続ける一方、『サックス吹き男爵の冒険』(82年)『サックス吹きに語らせろ!』(86年)などの著書もある。
声優になりたかった少年時代
——生まれは?
1947年3月17日。あのころだから病院じゃなくて、下北沢の祖父の家でお産婆さんに取り上げられて。それで3歳のときに新宿の戸山ハイツに。そのときは馬車で引っ越したと聞きました。
——50年ごろでしょう。まだそんな感じで。
子供のころで覚えているのは、小さな太鼓をもらって、バチでいろんなところを叩いて、どんな音がするのか試したこと。母は声楽家になりたかったみたいだけど、幼稚園の先生の資格を持っていたせいか、家に足踏みオルガンがあって、それを左手でドーッと鳴らしながら右手で滅茶苦茶をやるのが好きだった。となりのうちのグランド・ピアノが弾きたくてしょうがなかったけれど、なかなか弾かせてもらえない。
——そのあたりが最初の音楽体験。
足踏みオルガンが大きい。あと、縦笛を小学校の高学年になるとやるじゃないですか。当時はリコーダーじゃなくて竹でできた縦笛。それを吹いたときに、頭の中にあるメロディは指がことごとく命中して、すぐに吹けたの。指使いもなにも知らないのに、なんでできるのかな? と自分でもすごく不思議だった。いま考えるとたいしたことじゃないけど。
——それが小学校の?
四年生くらい。吹く楽器はそれが最初です。
——小学校のころに好きだった音楽は?
歌謡曲は大っ嫌いだった。いちばん嫌いだったのが〈上海帰りのリル〉(注1)。あれを聴くと頭が痛くなっちゃう。歌謡曲は歌詞よりメロディが嫌いだったかな? 〈お富さん〉(注2)は明るいから好きだったけど。
(注1)51年に津村謙の歌で大ヒット。作詞=東条寿三郎、作曲=渡久地政信。
(注2)春日八郎の歌で54年8月に発売され、その年に大ヒット。作詞=山崎正、作曲=渡久地政信。
小学校のときに好きだったのは音楽より落語ですね。父親が好きだったので、古今亭志ん生(注3)なんてしょっちゅう聞いて、真似もしてました。志ん生が歳を取って歯が抜けて、ピッとかいうんですよ。その真似をすると親父が喜んで。落語も、小学校のときは1回聞くと覚えちゃう。覚えられるから話せる。
(注3)5代目古今亭志ん生(落語家 1890~1973年)10年ごろ2代目三遊亭小圓朝に入門。18年、4代目古今亭志ん生門に移籍し金原亭馬太郎に改名。21年に金原亭馬きんを名乗り真打昇進。34年に7代目金原亭馬生襲名。
——落語家になろうとは思わなかった?
声優になりたかったから、思わなかった。
——その時代に声優になりたいなんて子供はいなかったでしょ。
声優というものはわからなかったけど、なんといったってラジオ世代だから。ラジオ・ドラマをしょっちゅう聞いてたでしょ。自分のことを天才じゃないかと思ったのは、国語の本を朗読するときに、感情を入れまくって読むんです。登場人物の背景からなにからが頭に浮かんでくるので、なりきっちゃう。それは、自分でもすごいと思った。それで声優になりたかったの。
小学校では演劇部に入って。演劇部って、自分の体を使って表現するし、無言で演技をするから、「これではない」と。声優は音楽とちょっと似てるんだよね。あとからそう思いました。
——声なり音なりで表現する。
そっちがやりたかった。中学で音楽が好きになったのも、そういうことかもしれない。
ジャズとの出会いはクラリネットと〈ソー・タイアード〉
——それで中学に入られた。
中学では柔道をやっていたんです。
——クラブ活動で?
そう。『姿三四郎』(注4)を観ていたので、女の子にモテると思って(笑)。それをやっているうちに、音楽室に管楽器がいっぱい並んでいるのを見つけたんです。鍵がかかっていて触らせてもらえないけど、ブラスバンドに入れば触れる。でも柔道部に入っていたから、ふたつはダメかなと。そうしたら柔道部で吹奏楽部にも入っている先輩がいて。サックスがやりたかったけれど、クラリネットしかあまってなくて。
(注4)富田常雄の長編小説で映画やテレビでも頻繁に制作された。
——それが何年のとき?
中学の二年になったころ。先生は、「クラリネットってこうやるんだ」といって、ペロペロって1回やったきり。教えてくれるひとがいないし、ブラスバンドもすごく下手で。それでも〈小さな花〉と〈マスクラット・ランブル〉が吹けるようになったのかな?
——それ、難しいじゃないですか。
だから上手かったのよ(笑)。
——縦笛と同じで、知ってるメロディはすぐに吹けたんですか?
いや、ひとりで譜面を見たり、教則本で指使いを見たりしながら。そのころはラジオでジャズの番組がいっぱいあったでしょ。夜の7時ぐらいから各局で夜中まで。モンティ本多(b)さん、志摩夕起夫(注5)さん、いソノてルヲ(注6)さん、油井正一(注7)さんとかの番組。
(注5)志摩夕起夫(アナウンサー 1923~99年)本名は小島幸雄。開局直後のラジオ東京(現・TBSラジオ)の嘱託となり、「シマさん」の愛称から志摩夕起夫を名乗る。同年4月1日放送開始の深夜番組「イングリッシュ・アワー」を三國一朗などと担当(62年6月9日に終了)。これにより日本のディスクジョッキーの草分けとして活躍。60年からフリーに。
(注6)いソノてルヲ(ジャズ評論家 1930~99年)アメリカ大使館勤務を経て評論家に。『ミュージック・ライフ』や『スイングジャーナル』誌を中心に健筆を振るう。コンサートの司会者としても第一人者となり、60年代以降は東京・自由が丘でライヴ・ハウスの「ファイヴ・スポット」も経営。
(注7)油井正一(ジャズ評論家 1918~98年)【『第1集』の証言者】大学在学中から執筆を始め、日本を代表するジャズ評論家のひとりに。東京藝術大学、桐朋学園大学、東海大学などでジャズに関する講義も担当。
それで『モダン・ジャズ・アワー』といったかな? テーマ音楽が〈ソー・タイアード〉。アート・ブレイキー(ds)とザ・ジャズ・メッセンジャーズの演奏で、その〈ソー・タイアード〉でボビー・ティモンズ(p)が弾くコードにしびれたの(注8)。〈ソー・タイアード〉にはウエイン・ショーター(ts)とリー・モーガン(tp)も入っていて、ウエイン・ショーターがサックスなのに、聴いたことのない音で、「なんだこれは?」。アドリブもよくわからなかったけれど、「これはみんな好き勝手にやりたいようにやってるんだな」と思って。そのことが1週間くらい頭から離れなくて、次の週もまた聴いて。その次の週ぐらいに「オレがやるのはこれだ」と決めちゃった。
(注8)『チュニジアの夜』(ブルーノート)に収録。ボビー・ティモンズのオリジナルで、中村が中学2年の61年に発売された。メンバー=アート・ブレイキー(ds) ウエイン・ショーター(ts) リー・モーガン(tp)ボビー・ティモンズ(p) ジミー・メリット(b) 1960年8月14日 ニュージャージーで録音
——その音楽がジャズという認識はあったんですか?
モダン・ジャズというのはわかっていたし、アドリブがあることもわかっていたけど、コードがあるとかは知らなくて。
——ピアノをやろうとは思わなかった?
思わなかったですね。
——吹いていたのはクラリネットでしょ。テナー・サックスを吹きたいとは?
そのときはクラリネットでベニー・グッドマンが好きだったから。最初はチンドン屋みたいでイヤだったけど、やっているうちに好きになって。
——だけど〈ソー・タイアード〉でモダン・ジャズに魅かれて。
そこはちょっと屈折していて、モダン・ジャズにいく前に、古いヤツから辿っていかなきゃと思って。直接モダン・ジャズを聴けばいいのに、その前から聴きだした。
——スウィング・ジャズから?
もっと前のニューオリンズ・ジャズから。
——シドニー・べシェ(cl)の〈小さな花〉を吹いていたんですからね。
当時はピーナッツ・ハッコー(cl)の〈小さな花〉。
——そういうのを聴いて。
真似というか、譜面を買ってきて。〈マスクラット・ランブル〉は譜面があったんで。指使いは難しかったけど、それを練習して。
——譜面は読めたんですか。
読めたっていうほどじゃないですよ。
——それも独学でしょ。
ええ。
——ジャズを意識して聴いたのは〈ソー・タイアード〉が最初?
最初は小学校三年のときに『ベニー・グッドマン物語』(注9)と『グレン・ミラー物語』(注10)をお袋と観に行って、それがすごく楽しくて、覚えていました。だけど、ジャズを意識したのは「モダン・ジャズ・ブーム」のときですよ。
(注9)スティーヴ・アレンが主演した56年のユニバーサル映画。
(注10)グレン・ミラー(tb)の半生を、アンソニー・マンが監督、ジェームズ・ステュアートとジューン・アリソンが主演で描いた54年のアメリカ映画。
——ジャズ・メッセンジャーズの初来日が61年1月で、そこからブームが始まる。中村さんが13歳のころ。
61年に来たときは中学一年で観に行ってないけど、2回目(63年1月)のときは行ったの。ジャズと出会った60年ぐらいは中学生で、そのときに最初に買ったのがベニー・グッドマン(cl)の『ベニー・グッドマン・イン・モスクワ』(注11)という2枚組のLP。
(注11)旧ソビエト連邦時代にモスクワで行なわれたライヴ録音。メンバー=ベニー・グッドマン(cl) トミー・ニューサム(ts) ズート・シムズ(ts) ジェリー・ダジオン(as) フィル・ウッズ(as) ジーン・アレン(bs) ジミー・マクスウェル(tp) ジョー・ニューマン(tp) ジョー・ワイルダー(tp) ジョン・フロスク(tp) ジミー・ネッパー(tb) ウエイン・アンドレ(tb) ウィリー・デニス(tb) ヴィクター・フェルドマン(vib) ターク・ヴァン・レイク(g) ジョン・バンチ(p) テディ・ウィルソン(p) ビル・クロウ(b) メル・ルイス(ds) 1962年7月1~8日 モスクワで録音
——ちなみに、ブラスバンドではどういう曲をやっていたんですか?
中学のときは〈海兵隊〉とか。これはアメリカ軍隊のマーチで、それをやさしくしたアレンジ。