連載「証言で綴る日本のジャズ」はじめに
ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が “日本のジャズシーンを支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場する証言者はドラマーの森山威男。東京藝術大学在籍中から山下洋輔トリオの一員として演奏活動を始め、3度の欧州ツアーに参加。自身のカルテット結成(1977年)後もドイツやイタリアでのツアーを敢行するなど国内外で精力的に活動。近年は国内ツアーで演奏する傍ら、居住地(岐阜県)で毎年公演を行うなど地元の文化活動にも力をいれている。
ドラムス奏者。1945年1月27日、東京都品川区生まれ。生後すぐに山梨県甲州市で育つ。東京藝術大学音楽学部器楽科卒業。在学時からジャズのセッションに参加し、67年から山下洋輔と共演。69年に結成された山下洋輔トリオに初代ドラマーとして参加し、壮絶なフリー・ジャズ・ドラミングで大反響を呼ぶ。3度のヨーロッパ・ツアーを大成功させたのちの75年に退団。77年からは森山威男カルテットなど、自己のグループで4ビート・ジャズに回帰。国内はもとより、ドイツ、イタリアでも演奏。2001年『渋谷毅&森山威男/しーそー』で「第56回文化部庁芸術祭賞レコード部門〈優秀賞〉」「第35回ジャズ・ディスク大賞〈日本ジャズ賞〉」、2002年「第27回南里文雄賞」受賞。2001年からは岐阜県「可児(かに)市文化創造センター主劇場」で「MORIYAMA JAZZ NIGHT」を毎年開催。2017年には著書『スイングの核心』も発表している。
ドラマーの道を志す
——みなさんにお聞きしているのが生年月日と生まれた場所です。
1945年1月27日に東京で生まれて、すぐあとに山梨県の東山梨郡勝沼町、いまは甲州市といっていますが、そこで育ちました。
——東京はどちらで?
正確には知らないんですよ。五反田に家があって、父が歯医者をやっていました。戦争で疎開することになって、生まれたばかりの赤ちゃんのわたしを抱えて勝沼、母方の田舎に疎開したんです。
——それで、そのままずっと。
そうです。昭和20年ですから、戦争の末期で。そのあと、小学校の六年までは勝沼にいて、中学校で甲府市に出て、藝大(東京藝術大学)に入るまで、そこに。
——森山さんが東京に出るのは藝大に入ってから?
両親は東京に戻らず、甲府にずっといましたけどね。わたしは大学のときに東京に出て、そのまま。
——初めてのジャズ体験が勝沼小学校時代だったとか。
小学四年生くらいのときに生演奏を聴いたんです。
——どんなジャズだったんですか?
カルテットで歌手がいたと思います。いまになって考えると、イメージとしてはジャズのグループっぽいけど、その時点でジャズの意識はなかったです。ただドラムスがカッコよくて、そればかり見ていたことが記憶に残っています。それで、「あれが叩きたい」。
そこは「勝沼劇場」といって、週に1度だけ映画を上映していたんです。となりが森山歯科医院。子供だからしょっちゅうズルして入れてもらって、映画でも音楽でもなんでもタダで観させてもらいました(笑)。小学校の何年生かは覚えていないけど、「今日は映画がありますよ」と、町内に知らせるのに、演歌ですけど、そのレコード係をやらせてもらって。だから、古い演歌が好きなんです。
——そこで初めてジャズと思(おぼ)しき演奏を目にしましたけど、それ以前から演歌とかは聴いていた?
演歌か浪曲ですよね。
——ドラムスはいつから始めるんですか?
直後から。お爺ちゃんに木を削ってスティックらしきものを作ってもらい、それを叩いていました。本格的にやるようになったのは高校二年から。一年のときにブラスバンドに入ったけれど、トランペットだったんです。それが嫌で、すぐに辞めちゃった。ところが二年になったらやらせてくれるというんで、戻って。嬉しくて、ものすごく練習しました。
あまりにも夢中になっていたら、音楽の先生に「将来はそういう道に進みたいのか?」と聞かれて、「進みたい」「じゃあ、藝大の先生を紹介してあげよう」。そこから東京に通って、藝大の先生につくようになるんです。
——でも、ブラスバンドなら大太鼓とか小太鼓でしょ? ドラムスも叩いていたんですか?
小太鼓です。ドラム・セットはまだ叩いていません。
——中学のころは演劇に熱中していたとか?
ひと前でなにかをやるのが好きだったんです。お笑いが好きで、ひとを笑わせたり、そういうことを子供ながらにしてたんです。それが楽しくて、演劇部で中学巡りみたいな劇団を作って、やっていました。高校でも入ろうと思っていたけど、高校になると難しい演劇をやるようになる。それが嫌でブラスバンドに入ったものの、トランペットで挫折して、二年から太鼓に。
硬派のイメージ
——想像するに、森山さんの中学・高校時代はガキ大将というか、強面(こわもて)のイメージ。だから、お笑いが好きで演劇部にも入っていたのは意外です。
模範的ではない友達もいました。でも、不良ではなかったです。自由な生活の仕方をしていたので、喧嘩好きな連中からも一目置かれていました。そういうことがよその学校にも伝わり、「森山さん、森山さん」と呼ばれていました。ドラムスを叩いていたこともあるでしょうけど、逆に慕ってくれるようになっていました。
——失礼なこととは思いますが、風貌からいくと喧嘩に明け暮れていた学校生活のイメージが(笑)。
喧嘩は1回だけありますけど、殴られて倒れちゃいました(笑)。あとは1回か2回殴られたくらいで、喧嘩はしなかったです。
——硬派のすごく怖いひと、というのが外見からはありました。
いまでもそういわれます。笑うとか、そういうことをすると自分がダメになる気がして。
——だけど、演劇で面白いことをやっていらした。
ドラムスをやるようになってから、わざと変えていったんです。ふざけた話はいっさいしないし、冗談もいわない。
——高校の時点でそういう意識を持って。
そうです。間違った考えでしたけど、ヘラヘラしていると力が抜けて、音楽がダメになってしまうんじゃないかと思って。感情の中で怒りはきっといちばん強いものだから、これひとつに懸けて突き進むにはいつもそういう強い感情を維持していかなきゃいけない。そう思い、無理やり怒るようにしていました(笑)。
——ご実家が歯医者さん。「歯医者になれ」とはいわれなかった?
いわれませんでした。勉強ができなかったからでしょう(笑)。兄貴がものすごく勉強ができて、医者になりました。
——ふたり兄弟?
妹がひとりいます。
——高校のころは学生服も着なければ帽子も被らずに。
とくに目立とうということでもないけど、首が短かったんで学生服が似合わない。それと顔が大きいもんだから、帽子を被ると似合わない。高校に入ってから制服は着たことが一度もなかったです。
——似合わないことが優先されたんであって、反抗心とかではなかった。
授業中にふざけてタバコを吸ったこともありましたが、面白がってやってるだけで、反抗してるわけじゃない。先生から、とくに嫌われてはいなかったです。「ドラムスを練習するなら、受験科目にない授業は受けなくても出席にする」と、先生からいってくれました。
——ということは、学校でも森山さんの藝大受験を応援してくれていた。
そうです。悪さはしませんでしたから。
——高校二年で藝大を目指そうとなって、どういう日常を送っていたんですか?
学校に行きますよね。受験科目の英語とかそういうもの以外はぜんぶ先生に頼んで受けずに、練習していました。それが教室で聴こえるらしいんです。音が聴こえていれば「OK」ということで。
——それは学校の音楽室で?
はい。自宅は歯医者ですから、ラバーを敷いた板の上で少し叩くぐらいで、大きな音が出せません。
——週に1回、東京で習って、それを家で復習したり練習したり。
毎回かなり難しい課題曲が出されて、出来上がると次の曲にいける。それを1回でも逃したくないから、完璧に仕上げていく。だから上達度はそうとう早かったと思います。
——その時点で、ジャズをやろうとはまだ思っていなかった。
思っていません。ジャズがどういうものかもよく知らないし。そのころ、高校の友だちが「ジャズを聴きに行こう」といって、ジャズ喫茶で聴いたのがマックス・ローチ(ds)。そんなに好きになるものではなかったです。好きになったのはデイヴ・ブルーベック(p)の〈テイク・ファイヴ〉とかを聴いてからで、これも高校のころです。
——高校のころはそれほど熱心にジャズは聴いていなかった。
ええ。とにかくドラムスが叩きたい。ドラムスのことをいうなら、スポーツ選手みたいに、いかに力を少なく、スピードを上げて、長時間叩けるか。そういうことに熱中していました。
——それは誰かにいわれたのではなく、自分の考えで?
そうです。
東京藝術大学音楽学部器楽科に
——だけど、藝大に入るのはたいへんじゃないですか。
みんなに「まぐれ当たり」とよくいわれました(笑)。試験があるから、まぐれで入れるわけはないけど(笑)。たまたま高校二年で始めたときに、小太鼓の先輩がとても熱心なひとで、そのひとが教えてくれていたことが理想的な形だったんです。小宅(おやけ)勇輔先生という藝大の先生にお目にかかって、「できるかどうかやってみろ」といわれたときには、ほぼ完璧に先生の望んでいた叩き方ができました。「これなら間に合うかもしれないから、やるだけやってみようか」。それで二年の夏から、毎週東京に行って先生についたけれど、時間的に無理があるから1年浪人しました。
——藝大はもちろんですが、音楽大学に入るには、打楽器の専攻でも、ある程度はピアノが弾けないといけないし、ほかにもいろいろやらないと。
そういうこともなにも知らずに始めたので、親にはたいへんな負担をかけたんですけど、そのときから東京に行って、1日がかりで、ピアノの先生、ソルフェージュの先生、聴音の先生、小宅先生と、それを毎週1回やりました。
——藝大に入りますけど、浪人中は甲府に?
高校の先輩で教員をやっていた方が山梨県の丹波(たば)山の小学校にいらしたんで、その先生のアパートにしばらくいさせてもらいながら練習したり、東京に出たり。あとは自宅にいて、半分遊んで、半分タイコを叩いて。
——それで見事、器楽科に入学されて。管打楽の専攻は3人だったんですか?
今村と定成と森山の3人がその年に合格して。「藝大の管打楽で3人採ったのは珍しい」とみんなにいわれました。
——定員はとくに決まっていないんですね。
レヴェルに達していなければですから、ひとりもいない年もあります。
——3人は多い?
いちばん多かった。ふたりは優秀で、ひとりは藝大の附属高校(東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校)、もうひとりは駒場の音楽課程(当時の東京都立駒場高等学校芸術科)の出身。そこに行けるってことは、その前から音楽を勉強してたってことで。その期間、勉強している上に、藝大の先生とも非常に仲がいい。わたしは外様ですし、わけのわからん暴力的な顔をしたヤツがひとりいるものだから、気に入られなかったんでしょう。劣等感にも苛(さいな)まれて、自分にとってはいちばん暗く寂しい青春時代でした。
それでも実力の世界ですから、頑張りました。今村はN響(NHK交響楽団)、定成はできたばかりの東京都交響楽団に入りました(65年に設立)。わたしも日フィル(日本フィルハーモニー交響楽団)から誘われたんですけど、堅苦しく感じていたので、生涯をそういう世界で暮らすのは嫌だなと。ジャズのほうに知り合いがいるわけじゃないけど、自分の実力だけでのし上がっていく世界のほうがいい。それで、大学四年のときに退学届を出したんです。
——ところが、その退学届が受理されなくて。
「もう1年かかってもいいから、とにかく卒業しなさい」と説得されました。
——それで卒業されて。日フィルから誘われたのは四年のときですか?
三年の終わりから「日フィル専門」といわれるぐらいエキストラでやっていました。でも、藝大に退学届を出したと同時に、日フィルにも「卒業しても行きません。ジャズでドラムスをやります」と伝えて。
——クラシックで有名なのが、本番中にシンバルを落として、ステージのうしろから前方に転がっていったエピソード。そのときはどうなったんですか?
ぐちゃぐちゃです(笑)。藝大オーケストラの定期演奏会でした。渡邉暁雄(あけお)(注1)さん、あのひとは端正な容貌の指揮者で、曲は覚えていないけど、結んである革紐がほどけちゃったんです。スルッと落ちて、ガシャン。あとは回転してワンワンワン。恐ろしくて、見もしなかったです(笑)。
(注1)渡邉暁雄(指揮者 1919~90年)日本人牧師の父とフィンランド人の声楽家を母として生まれる。56年、日本フィルハーモニー交響楽団の創設に尽力。初代常任指揮者に就任し、終生日フィルと緊密な関係にあった。レパートリーは広大で、ベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキーといった古典・ロマン派の人気曲から近現代音楽までレコーディングした。
——拾いには行かなかった?
最終的には行きました。
——演奏が終わってから?
いや、演奏中に。みんな笑ってるしね。ヴァイオリンのひとは笑いながらでも弾けますけど、ラッパのひとは笑ったら吹けません。音楽的にはぐちゃぐちゃですよ。
——山下さんの本では、拾いに行って、さらに蹴って。
あれはタモリ(注2)が脚色したんです。第1ヴァイオリンが足で止めたとかね。
(注2)タモリ(タレント・司会者 1945年~)本名は森田一義。大学卒業後、福岡に帰郷し、生命保険外交員、喫茶店の雇われマスター、ボウリング場の支配人を務める。山下洋輔(p)らにアドリブ芸を披露したのがきっかけでデビュー。82年に『笑っていいとも!』(フジテレビ)と『タモリ倶楽部』(テレビ朝日)の放送が始まり、人気者に。前者は放送期間31年6か月、放送回数8054回の大長寿番組となった。
——それは大きなホールで?
上野の「東京文化会館大ホール」。
——「日比谷公会堂」でも事件が。
日フィルからの電話で「渋谷公会堂」と聞き間違えて、行ったら閉まっている。守衛さんに聞いたら、「今日はないです」。焦って日フィルの事務所に電話をしたら、間違いがわかって。渋谷からタクシーに乗って、中で着替えて。「日比谷公会堂」は日比谷公園の中にあるから、タクシーが入れない。本番が始まっているので、いちばん近いところに停めてもらって、垣根みたいなのを飛び越えて。正面入口の受付を無視して、飛び込んで、やってる最中に客席からステージに上がりました。指揮者が「おうおうおう」って(笑)。ああいうのも、いま考えると、嘘でもいいから「行けなくなった」といって、あとから「すいません」で終わったと思うけど。傷口を広げているようなことばっかりやってました。
——NHKでマイクを倒したことも。
山本直純(注3)さんの『音楽の花ひらく』(注4)という番組で、日フィルのひとが出ていたので、わたしも毎週やらせてもらっていました。時間がないので、詰めたリハーサルはしないんです。あるとき、坂本九(注5)ちゃんのバックで本番になったら、譜面に和音で2本のチャイムを鳴らすところがあった。チャイムのところにはハンマーが2本あるけれど、譜面台がないと2本は叩けない。まだ40何小節あるからと、本番中に「1、2、3、4」と数えながら、裏に行って譜面台を探して持ってきたら、マイクに足を引っかけて。あのときも、「自分はこういうことに向いてない」と思いました。
(注3)山本直純(作曲家 1932~2002年)東京藝術大学在学中から多方面で才能を発揮。『男はつらいよ』のテーマ音楽、童謡の〈一年生になったら〉(66年)など、広く親しまれる作品を生み出す。72年指揮者の小澤征爾と新日本フィルハーモニー交響楽団設立。73年から10年間『オーケストラがやって来た』(TBS系列で放送)で音楽監督。
(注4)67年にスタートしたNHKの番組。司会=三橋達也、出演=山本直純指揮の東京ロイヤル・ポップス、東京フィルハーモニー交響楽団、中村八大クインテットのほか、アマチュア合唱団や子供たち。放送時間は水曜日午後9時40分~10時30分。32回放送。
(注5)坂本九(歌手 1941~85年)59年ダニー飯田とパラダイス・キング参加。60年〈悲しき六十才〉でスターに。61年〈上を向いて歩こう〉が全米1位。その後もヒットを連発し日本を代表する歌手になるも、85年日航機墜落事故で死去。
ジャズの世界に飛び込む
——ジャズのミュージシャンと出会って演奏をするようになったのはいつごろから?
退学届を出したあたりですね。
——最初の大学四年のころ?
そうです。
——そのときには山下洋輔(p)さんと出会っていたんですか?
顔見知りにもなっていないです。そのころは、本田竹広(p)、増尾好秋(g)、川崎燎(g)、中村誠一(ts)とか、そういう連中が練習しているあちこちの大学のジャズ研に行って、「藝大の森山といいますが、1曲叩かせてください」。藝大というだけで、嫌われるんですよ。そんなつもりはなかったけど、「偉そうに、藝大っていうことをいいに来たんじゃないか」と思われるんです。
——山下さんとは、病気(肋膜炎)になる前に彼のバンドで演奏しています(67年)。
豊住芳三郎(ds)さんが辞めたので、中村誠一に「入れるかもしれない」といわれて。「じゃあ、紹介してよ」と頼んだら、「ほかにもやりたいひとがいるから、テストみたいになるかもしれない」。それで行ったら、もう終わっていて、中村達也(ds)さんが通ったようで。残念だと思ったけど、なにかのときに、わたしにも「やってくれ」と。ですから、山下さんが病気になる前に、2、3回はやりました。でも、そのときは上手くできなかったです。ジャズは、退学届を出してから始めたようなものですから。
——ということは、始めたばかりのころで。
そうです。いつでも口が先行して、技がついてこない(笑)。やたら鼻っ柱が強いのと、やたらデカイ音で叩くドラマーだったというのが、山下洋輔の印象として残ったかもしれません。あとから聞いた話だけれど、療養している間に、山下さんは、「退院してまたやっても、みんなピアノが上手いし、自分なんか追いつけない」。それで「どうやったらいいか?」と考えたときに、「どうせアドリブはフリーだから、そちらにもっとウェイトをかけて、思い切ってフリーにいったらいい」。
それで、セシル・テイラー(p)を聴いたりして影響を受けて。そうやっているところで、「森山」というのが頭に浮かんだんですね。キチンとした4ビートでなくていいのなら、あのいつまでも叩いている勢いのいいドラマーがいいんじゃないか。
——病気になる前に数回やられたとおっしゃったけど、そのときはまだベースがいたんですよね。
吉沢元治でした。
——そのカルテットでどんな演奏をしていたんですか?
4ビートの曲をやってました。スタンダードです。でも吉沢さんもフリーっぽいひとでしたし、わたしはちゃんと叩けない。ビートが合わないので、叩いていると、吉沢さんがやりにくいんでしょう、「やめて、やめて」というんです(笑)。
——じゃあ4ビートはやっていたけど、変な4ビートで。
ギクシャクしてぜんぜん合わない。アタマを打っても、ぜんぜん違うところだったり(笑)。
——その時点で、森山さんはジャズのミュージシャンでやっていこうと思っていたんですか? 日フィルを断ったあとでしょ?
そうです。
——そのころに聴いていたジャズのレコードとかミュージシャンは?
いちばん面白かったのがエルヴィン・ジョーンズ(ds)。キチンとしたドラミングが美しいとは思っていなかったんです。なにをいいたいのか、謎を仕掛けてくるようなミュージシャンが好きで、エルヴィンがそれにいちばん近かったですね。
——ジョン・コルトレーン(ts)とやってるときのエルヴィンとか。
そうです。なんでこのひと、普通のひとと違うのかな? と思って。
——ジャズのバンドでドラムスを叩いているときに考えていることは?
最初はテンポを外さないように、「1、2、3、4、1、2、3、4」ばっかり。ひとのことなんか聴かないでやってるから合わない。微妙にみんな揺れてますもんね。学生バンドで、川崎燎とか増尾好秋とか中村誠一とかとやっている間に少しずつは上手くなりました。
でも山下洋輔と新たに始めたフリー・ジャズは、「これが自分のやる音楽だ」と、一発で思いました。山下さんがやりたかったんじゃなくて、わたしがやりたかったものを山下さんが探し出してくれた感じがあります。だけど最初は「〈バイ・バイ・ブラックバード〉をやろう」とか、そういう感じですよ。題材としてそういう曲を持ってきたけど、テンポを守る必要もないし、自分の〈バイ・バイ・ブラックバード〉を勝手に歌ってもいい。
ジャズを演奏し始めたころ
——山下さんの演奏は、一緒にやる前からどこかの店で聴いていたんですか?
大学生のときに「渡辺貞夫(as)を聴きに行こう」と誘われて行った銀座のジャズ・クラブでピアノを弾いていたのが山下さん。そのときに、演奏に一生懸命なものが感じられたんで、「将来、一緒にやりたい」と思いました。
——67年に山下さんと2、3回やって、山下さんが戻ってきたのが69年。その間はなにをされていたんですか?
さっき話した学生バンドで週に2回くらいはやっていたかな? 渋谷の「オスカー」とか、銀座の店とか、池袋の「JUN Club」とかで。つのだ☆ひろ(ds)もいました。みんなと練習をして、「4ビートってこういうものか」とか、曲もたくさん覚えました。藝大の仲間では、助けてくれたのが一年下の加古隆(p)と中川昌三(fl)。このふたりもジャズ志向だったので、グループを作って週に1回は練習をしていました。
——これは練習だけ?
グループでどこかに出たことはなかったです。加古はしばらくしたらフランスに行っちゃいましたしね(注6)。
(注6)71年7月フランス政府給費留学生として渡仏し、パリ国立高等音楽院でオリヴィエ・メシアンに作曲を学ぶ。
——このふたりはすでにプロでやっていた?
プロでやってたかは微妙なところで、加古も「ジャズなんてやっても食っていけない」と悩んでいました。それでフランスに行ったんです。「森山さん、どうしてもやるなら、渡辺貞夫さんのバンドとかの有名なところに入らないと。山下洋輔とやったってぜんぜんダメだよ」(笑)。
——60年代の終わりごろは、日本のジャズにもだんだんとオリジナリティが出てきました。さっき名前の出た川崎さんとか増尾さんとか、若いひとが中心になってそういうことをやり始めた。最初から森山さんはコピーなんかしなかったと思いますが、自分たち独自の音楽をやろうという意識はあったんですか?
ジャズを始めた最初の時期でしたから、そんなになかったです。いちおうタイコは叩けるというだけで。「チンチキ、チンチキ」で、バス・ドラムなんて「1、2、3、4、ドン、ドン、ドン、ドン」だから、ジャズもなにもないですよ。「ウラで踏むんだ」なんていわれてね。そんなことをやり始めたときでしたから、スタンダードの曲をとにかく聴いて、ジャズのいろいろをたくさん仕入れました。それが、山下洋輔が戻ってくるまでの、溜めの期間みたいなものです。
——山下さんが戻ってきて、69年2月1日にデュオでフリー・ジャズを演奏した記録があるんですが、覚えていますか?
最初に「ピットイン」でやったのは覚えています。お客さんがいないときです。
——ライヴではなく、リハーサルみたいな形で?
そうです。「いきなりフリーでやってもしょうがないから、〈バイ・バイ・ブラックバード〉をやろう」。それで山下さんが弾き始める。いちおうは自分なりの〈バイ・バイ・ブラックバード〉と思いながらも、こっちはお構いなしで、「チンチキチンチキなんてやるもんか」と思ってやってました。
——アメリカやヨーロッパではフリー・ジャズがずいぶん一般的になっていましたけど。
聴いたことはありません。
——まったく自己流というか、自分のイメージでフリーにやった。
山下さんから「たまにはセシル・テイラーでも聴いてみたら?」ともいわれたけれど、聴かなかった。ミルフォード・グレイヴス(ds)なんかも勧められたけれど、観たことも聴いたこともない。
——まったくの森山流ドラミングで。
聴くのはコルトレーンのグループぐらいでした。ドラムスを叩くのが好きで、ジャズが好きだったのかどうかもわからない。
——たまたまジャズという音楽があって、そのドラミングがよくて。クラシックの打楽器はやりたくなかった、ということですか。
気持ちを小さくさせられるのが嫌なんです。座っているときも音を立てちゃいけない。服装だって、クリクリ坊主みたいに短い髪の毛なのに燕尾服を着て、少年みたいで似合うわけがない(笑)。ああいうこと全体が、自分の育ってきた環境とあまりにも違うので、よく日フィルが使ってくれたと思います。
——ロックをやろうとは思わなかった?
思わなかったです。どうしてだろう? いま考えると、あの勢いとアクセントの入れ方はジャズよりロックだったんじゃないかという感じでやってました。
——でも、ロックのバンドに入る気はなかった。
聴いたこともなかった。そのころにそういうものを聴いて触発されていたら、ロックにいってたかもしれない。
——ジャズもそうですけど、出会いですね。
そうです。
——その昔、山下洋輔トリオを新宿の「ピットイン」で聴いて、そのときに森山さんをお見かけしたわけですけど、いかつくて怖い感じでした。
あのころはわざとそうしていたんです。ですから終わってからも、楽屋で山下洋輔と「やあ、やあ」なんて、ニコニコ笑ってたなんてことはいっさいありません。山下洋輔も、わたしには話しかけにくかったと思います。
——それでも、山下さんとは演奏のない日も毎日のように会って。
現場を離れてお酒が入ると、根っから楽しいことが好きなんでひとが変わっちゃう。終わってみんなでドンチャン騒ぎをするときに、たいてい火付け役というか、いろんな芸をやる最初がわたしでした。いまでもそうですけど、お笑いはドラムスの次に好きなくらいで。家ではジャズは聴かないで、お笑いのテレビを観たり、落語を聞いたり。
山下洋輔トリオで独自のドラミングに開眼
——それで山下さんのトリオですけど、最初はぜんぜんお客さんが来なくて。
2、3人しかいませんでした。
——出ていたのは主に「ピットイン」?
新宿の「ピットイン」「タロー」、渋谷の「オスカー」あたりは週に1回やってました。
——〈グガン〉や〈木喰(もくじき)〉(注7)はまだやっていない。
そこにいたる前だから、もっと荒削りでした。そういうちゃんとした曲もなくて、「〈朝日のようにさわやかに〉をやろう」といって、〈朝日のようにさわやかに〉みたいな曲のソロの延長のような感じで。だから、聴きにくかったとは思います。
(注7)どちらも初期山下洋輔トリオの代表的なレパートリー。〈グガン〉はトリオによるスタジオ公式録音1作目『ミナのセカンド・テーマ』(日本ビクター)に収録。メンバー=山下洋輔(p) 中村誠一(ts) 森山威男(ds) 69年10月14日録音。
〈木喰〉は同2作目『木喰』(日本ビクター)に収録。メンバー=山下洋輔(p) 中村誠一(ts, ss) 森山威男(ds) 70年1月14日 東京で録音。トリオによる公式初録音盤は69年9月21日に東京「サンケイホール」でライヴ録音された『コンサート・イン・ニュー・ジャズ』(テイチク)
——試行錯誤をしながらトリオのスタイルができてくる。
そのスタイルを作っていったのが、ある意味でドラムスの役割でした。「4ビートでなくていい、ジャズでなくていいならオレに任せておけ」。どこかで思い切って、そういうふうに切り替わって。それで山下さんと話したら、「森山のドラムスが生き生きしていないグループは面白くない」「森山がやりたいようにやるべきだ。オレたちはそれについていくから」。
そういう話をして、意気揚々と思い切ったフリー・ジャズにいきました。きっかけさえあればいい。曲ではなくて、「タラッタラー」といったら始まる。その覚悟を決めてからは、面白がってくださる方がチラホラと増えてきて。満員になるようになったのは、筒井康隆(注8)さんとか、ああいう文化人が友だちを連れて来てくれるようになってから。
(注8)筒井康隆(小説家 1934年~)65年処女作品集『東海道戦争』刊行。81年『虚人たち』で「第9回泉鏡花文学賞」、87年『夢の木坂分岐点』で「第23回谷崎潤一郎賞」、89年『ヨッパ谷への降下』で「第16回川端康成文学賞」、92年『朝のガスパール』で「第12回日本SF大賞」など、数々の賞を受賞。96年、3年3か月におよぶ断筆を解除。現在も精力的に執筆活動を継続中。
——それはスタートしてどのくらいで?
満員まではいかないけれど、それが半年目ぐらいのときだったと思います。1年経ったら満員になりました。
——日本ではフリー・ジャズをやってるひとがまだあまりいなかったから、山下洋輔トリオはマスコミに取り上げられることが多かった。
よく覚えていないけど、『11PM』(注9)にも出ましたし、雑誌の取材も多かったです。でも、どうなんでしょう? 自分はそういうこと、意に介していなかったです。
(注9)日本テレビとよみうりテレビ(現在の読売テレビ)の交互制作で65~90年まで放送された日本初の深夜ワイドショー。前者は大橋巨泉、愛川欽也、後者は藤本義一が主に司会を担当。
——山下洋輔トリオにいたときは、ほかのバンドで演奏はしていない?
操を立てた感じで、してないです。だから、山下洋輔がトリオ以外で演奏するときはものすごく嫉妬しました。
——山下さんが話してくれたことですけど、ソロ・ピアノのコンサート(注10)をしたときに「メンバーに申し訳ない」と思いながらやったと。
やっぱりそうですか。新宿「タロー」でやってるときに、都はるみ(注11)の歌伴をしに行ったことがあって、そのときは怒りました(笑)。「ちょっと行って来ていい?」「どこ行くの?」。1曲くらいはやったと思うけど、本番中ですよ。どこからか電話で急に頼まれたらしくて、「フジテレビで伴奏をやりに行く」「1曲やったらすぐに帰ってくるから、中村誠一とデュエットでもたせてくれ」。あとで「なにしに行ったの?」と聞いたら、「都はるみの歌伴に行ってた」。
(注10)74年3月18日、東京赤坂「日本都市センターホール」(96年に閉館)で行なった初のソロ・ピアノ・コンサートで、このときの演奏は『山下洋輔/ヨースケ・アローン』(ベルウッド)で聴ける。
(注11)都はるみ(歌手 1948年~)64年〈困るのことヨ〉でデビュー。同年〈アンコ椿は恋の花〉で「第6回日本レコード大賞〈新人賞〉」獲得。84年「普通のおばさんになりたい」と引退するも、90年にカムバック。
そのとき以外、そういうことはなかったです。逆にわたしが頼まれて行ったのが、富樫雅彦(ds)さんが事故に遭ったときに、宮沢昭(ts)さんが佐藤允彦(p)さんとやった『木曽』(日本ビクター)(注12)というレコーディング。スタジオも押さえて、ぜんぶ予定が決まっていたのに、ダメになったものだから、「誰か代役を」ということで、なんの前触れもなく頼まれて。
(注12)メンバー=宮沢昭(ts, fl) 佐藤允彦(p) 荒川康男(b) 森山威男(ds) 70年3月17日 東京で録音
——山下洋輔トリオに入って、演奏して、徐々にあちらこちらから注目を浴びるようになりました。でも、山下さんとは音楽の話はしなかった。
ほぼしなかった。自宅で後輩を集めて理論的なことを教えているようなことは聞いたし、誘われたけれど、行かなかった。関心がなかったし。
——それはトリオを始めたあと?
始めたあと。相倉久人(注13)さんとなにか話をしたりね。ああいうのにも「来るように」といわれたけど、関心がなかったです。
(注13)相倉久人(音楽評論家 1931~2015年)【『第1集』の証言者】東京大学在学中から執筆開始。60年代は「銀巴里」や「ピットイン」、外タレ・コンサートの司会、山下洋輔との交流などで知られる。70年代以降はロック評論家に転ずるも、晩年はジャズの現場に戻り健筆を振るった。
——相倉さんから「こういうのを聴きなさい」とかもなかった?
いっさいなかったです。みんな、「いってもダメだ」と思ってたんじゃないですか?
——トリオを始めるにあたって、山下さんから「こういう感じでやりたい」とかの話もなかった?
「もっとこうやろう」とか、「ドラムスはこうやってくれ」とか、そういう注文はいっさいなかったです。山下さんが「こういう曲をやりたい」というときは譜面にして、それを練習することはありました。「カッカ、カッカ、カッカカ」、これは〈キアズマ〉(注14)ですけど、そういうところはキチンとした譜面になっていて、そこは合わせる。そこだけは覚えますけど、あとはどうでも構わない。
(注14)『山下洋輔/キアズマ』(MPS)に収録。メンバー=山下洋輔(p) 坂田明(as) 森山威男(ds) 75年6月6日 ドイツ「ハイデルベルグ・ジャズ・フェスティヴァル」でライヴ録音
そういう仕方で教育しようとしていたのかもしれないけど、わたしは「わが道を行く」ですから。山下さんは「どうせ森山は従わないから、自分が従わなくちゃしょうがない」と思っていたんじゃないですか? そういう話もとくにはしなかったけど。だから「次はどうやるの?」とか、山下さんから聞かれたことはあります。「ドラムスがパーンとやったら、次は必ずスコーンといくから、そこは合わせて」とか、わたしからそういう指示は出していました。
山下洋輔との緊張関係の中で
——演奏が始まると、森山さんが流れというか、コントロールする場面が多かったように記憶しています。
そうですね。いまでは考えられないくらい演奏中に次々とアイディアが出てきて、やりながら「ここでこう入ればいいのに」というのがいっぱいありました。「ヤレー」とか、「ヤメロー」とか、言葉で指図したり。「次はこのパターンをやってくれ」というときは、何度もそれをやる。そういうのは譜面に書いてないですから、そうやって知らせていました。とにかくドラムスのスピードとヴォリュームに圧倒されていたんじゃないですか?
どこかでやったときに、アップライトのピアノだったんです。「山下トリオなのに、それじゃぜんぜんピアノが聴こえない。もっとドラムスの音を小さくするかしてくれ」ってことを、主催者が山下さんにいったんです。それになんて答えるんだろうと思って、黙って聞いてたら、「ドラムスの音は大きいからいいじゃないか。森山がオレのピアノの音を消したいと思って叩いているのなら、消えなきゃおかしい。それなのに、わざと音を小さくしてピアノが聴こえたら不自然だ。これでいい」。そのときは主催者に対して怒っていったんじゃないと思いますけど、わたしの味方をしてくれました。
——中村さんの時代もそうだし、次の坂田明(as)さんのときもそうでしたが、戦っているというか、3人でなにかをやり合っていますよね。
妥協はしないで、やり合っていました。
——そこがこのトリオの面白さで、緊張感が堪らなかったし、毎回展開が違っていた。
それが好きで来ている常連のひとたちは、わたしと山下さんの間に入りたいと思っていたかもしれません。「自分だったらこうやる」みたいに思って聴いていたんじゃないかしら? だからドラムスがバーンと決めると、「ヤッター」というときがあるんです。自分が演奏しているつもりで聴いているから。
——毎日のように同じレパートリーを演奏しても毎回違うのは、ジャズだからというのもあるでしょうけど、過去のことはいっさい忘れちゃうから?
わざと「前回はこうやったけど、今日はぜんぜん違うやり方でやってやろう」とか、違う仕掛けをしたり、そういうことをやりました。坂田が「やろう」と思ってサックスを持ったとたんにパッとやめちゃうとか。「どうするんだろう?」。そういう楽しみもありました(笑)。わたしは、お客さんが相手じゃないんです。共演者とやり合うのが楽しくてやっているから、受けようが受けまいが関係ない。
——結果として、それをお客さんも楽しむ。
そうだと思います。いまのジャズにもそれがほしいと思っています。やっているひとが本当にやり合うものがなければ、「どうぞ、これを聴いてください」なんていわれても、聴きたくない。真剣さがないとね。
——森山さんの中ではずっと同じメンバーで長いことやって、マンネリになることはなかった?
なかったです。でも、それは山下さんとわたしの間のことです。サックス奏者が入れ替わっても、音楽的にはそれほど変わらない自信はありました。
——中村さんから坂田さんに替わって、サックス奏者としてはタイプがぜんぜん違うじゃないですか。テナー・サックスとアルト・サックスの違いもあるし。それに坂田さんはいろいろなキャラクターを持っている。だからまったく違うふたりだけど、森山さんの中ではそんなに変わらない。
変わらないですね。山下洋輔とわたしがやり合っていれば、その上にどんな旋律がきても絶対に聴かせる自信はありました。
——だから、誰が来ても音楽や演奏はブレない。
サックス奏者にとっては、やり甲斐があまりなかったかもしれないですね。歌手と同じで、バックのバンドに任せておいて、自分は勝手に歌えばいいし、見せ場を作ればいいんですから。やり合う楽しみはそんなになかったかもしれない。けれど、それはそれで楽しみがあると思うんです。
——森山さんの中ではフロントが誰であろうと、山下さんがいて、それでふたりでやり合えれば、それがいい。
ええ。求めているのは一生懸命やってくれることだけです。一生懸命やらないひとがたまに「やらせてくれ」って来るけど、クスリをやりながらとか酒を飲んで来るとか。そうするとバカにされている気がして。こっちは一生懸命にやってるから、それは嫌でした。
——体力的にはまったく問題はなかった? かなり消耗するでしょ。
まだまだあれじゃ甘いぐらいです。「早くドラムス・ソロがくればいい」といつも思っていました。目立ちたかったし、やりたいことがいっぱいあったので、長くピアノやサックスがソロを取るのは嫌でした(笑)。
——それを無理やり奪い取っちゃうとかはなかったんですか?
いちおうは3人でやってますから。申し合わせみたいにして、持ち場はちゃんと作らないといけない。
——山下洋輔トリオでヨーロッパ・ツアーに行くじゃないですか。ヨーロッパのお客さんにも大受けで。でも、山下洋輔トリオのジャズは独自のもので、ヨーロッパやアメリカのフリー・ジャズとはまったく異質でしょ。行く前から受ける確信はありました?
ありました。どこでも、出させてくれたら絶対に自分たちが一番になると思っていました。なるべく大きなところに出してもらえればもっと目立つと思って。それが嬉しかったし、見事、その通りになりました。山下トリオは小さなホールでやるジャズじゃないんです。それこそ野外の大きなところでやる音楽ですから。
——日本でも野外のロック・フェスティヴァルに出ています。
箱根(注15)でやったし、中津川(注16)のフォーク・フェスティヴァルとかでもね。大きな会場では「武道館」(注17)もありました。
(注15)71年8月6日と7日に箱根芦ノ湖畔にある成蹊大学所有の広大な敷地で開催された日本初の野外フェスティヴァル「箱根アフロディーテ」のこと。国内からは、赤い鳥、トワ・エ・モワ、南こうせつとかぐや姫、ダークダックス、成毛滋&つのだ☆ひろ、ハプニングス・フォー、モップス、渡辺貞夫、佐藤允彦、山下洋輔らが、海外からは、ピンク・フロイド、1910フルーツガム・カンパニー、バフィー・セント・マリーなどが出演。2日間で約4万人を動員。
(注16)中津川フォーク・ジャンボリー。69年から71年にかけて岐阜県恵那郡坂下町(現・中津川市)にある椛の湖(はなのこ)湖畔で3回開催された日本初のフォークとロックの野外フェスティヴァル。3回目はジャズ・ミュージシャンも出演。吉田拓郎のステージで観客が暴動を起こし、それがきっかけで翌年からは開催されず。山下トリオは暴動のため出演不可能に。
(注17)72年4月22日に開催されたフォーク・コンサート「音搦大歌合(おとがらみだいうたあわせ)」のこと。50音順に登場した出演者は、五つの赤い風船、井上尭之バンド、遠藤賢司、岡林信康、加川良、かまやつひろし、ガロ、高田渡、はっぴいえんど、武蔵野たんぽぽ団、三上寛、山下洋輔トリオ、吉田拓郎、六文銭。
——森山さんはそういう場も好きで。
目立ちますから(笑)。
——ロックやフォークのフェスティヴァルに異色のバンドが出て、受けちゃう。
快感ですね。ロックのドラマーなんかが目を見張ってわたしのプレイを観ていると、いい気分で(笑)。
思うところがあってトリオを脱退
——山下トリオ時代に自分でバンドを作る気は?
まったくなかったです。
——当時、フェスティヴァルなんかでほかのバンドを聴く機会もあったと思いますが、興味は?
まったくなし。ただ、エネルギッシュという意味では日野皓正(tp)さん、ピアニストなら大野雄二さん、このひとたちは生きがよくて好きでした。なよなよっとした、雰囲気で聴かせるジャズは、自分に合わない。
——ハードで勢いがあるジャズ。
体育会系ですから(笑)。
——そういえば、運動はやっていたんですか?
柔道をやってましたから、体力には自信がある。
——それはいつのころ?
町の道場で、小学校の低学年から。中学のときに辞めました。
——日野さんのバンドでドラムスを叩きたいとは思わなかった?
思わなかったです。弟の(日野)元彦さんが上手すぎました。速い曲をやっているときでも、当時はあんなふうに速くは4ビートが叩けませんでしたから。それができない上に、ほかのこともできるかといえばできない。それに追いつこうと思っても無理だなと。
山下洋輔が病気から戻ってきて、「自分のやり方でやるしかない」となったときに、彼が感じた挫折と同じことを思っていたんです。あれに打ち勝つには、フルパワーでぜんぶ自分を出して勝負する。
——森山さんの身上はスピード感やパワーで、ポリリズムというか、4本の手足がぜんぶ違うリズムを奏でる。
相反するものが好きなんです。静かな曲をやっていると急にとんでもないことを始めるとか。そういうのをいつも空想していたので、そこはロックのミュージシャンぽいかもしれません。綺麗に作品を作る、みたいなことに興味はなかったです。
——そういう音楽を聴くのも好きじゃない。
お酒を飲んでいるときならいいけれど、一生懸命に聴こうとは思わなかったですね。マイルス・デイヴィス(tp)も聴いたことがないですし。みんなが知ってるものを知らないでジャズ・ミュージシャンとは、ひと前ではいえないような(笑)。
——ジャズのミュージシャンになりたくてなったのとは違いますものね。
たまたまやったのがジャズでしたから。
——75年に山下さんのトリオを辞めますが、いちばんの理由は?
その前から生き方について考え始めたんです。わたしはなんでも考えが先行して、あとから行動がついてくる。だから、ものすごくギャップがあるんです。山下トリオでヨーロッパに行って、2度目、3度目くらいのときに、「有名になるのはこういうことなのか」「好きなことが思いっきりできるのはこういうことなのか」、100万円くらいのお金も入ってくるわけですから、「急に金持ちになるのはこういうことなのか」。それがわかったら、人生がぜんぶわかった気がして、「たいしたことないな」。これをただやり続けて終わるのかと思ったら、虚しくなって。それだったら、なにも命懸けでやるほどのことはない。それで挫折したんです。
そのころ、妻が聖書を学んでいたので、宗教はわからないけれど、聖書に答えがあるんじゃないかと。それで山下さんに、「1年か2年か、とにかく自分の気持ちがはっきりするまではどうしても演奏に打ち込めない」と話したんです。「こうじゃないんじゃないか」とか、不安を抱きながらやりたくないので、「いっぺん辞めさせてくれ」。
山下さんは、わたしに不満があると思ったみたいで、辞めさせまいと必死でした。せっかくこれから世界に出て行こうというときですもんね。ヨーロッパでのギャランティもよくなってきたし。そこで急に辞められたから、辛かったでしょうね。わたしにしてみれば、どうしても一度ゼロにして、「改めて、これでいいのか?」と確認したかったんです。
有名になって、そのことだけで人生を終わっていくのが怖くて。ちょこっとは有名にはなりたい。でも、たとえば何十億円、急にあるとかいうと「エエッ」と思うでしょ。100万円ぐらいだったらもらってみたいけど、億単位のお金になるとね。大袈裟に考えすぎるのかもしれないけど、それと似たことが自分の中で起きたんです。
——でも、75年ということは30歳ですよね。30歳で、ある意味、いろいろな人生を見てしまった。
極端だから、愚かだったかもしれない。けれど、とにかくやってみないと気が済まない。藝大を目指したのもそう。あんな時期から始めて受かるわけないのに、やると決めたら絶対にやる。藝大に入って、せっかく日フィルが雇ってくれるというのにぜんぶ辞めて、いちからジャズの世界に飛び込む。だけど、「ジャズ」といった割にはなにもできない。結局、山下さんとまたゼロからの出発ですよね。それで山下洋輔とこうなったのに、また自分で選んだ道を行く。引き返したのかどうか、生き方ですからわかりませんけど、どうしてもその答えがほしくて辞めました。
自己のグループを結成
——辞められて、77年に自分のバンドを作りますけど、その間の2年間はなにをされていたんですか?
いくらかお金があったので、それで暮らしてました。とくになにも仕事はしなかった。
——自分のバンドを作ろうとなったのは、どういう気持ちから?
作ったんじゃないんです。ちょっとでも収入がほしかったので、西荻(西荻窪)の「アケタの店」、あそこがうちの近所にあって、昼間は空いている。「教えてくれ」という電話がいろいろかかってきたんで、「ちょうどいいな」と思って、アケタ(オーナーでピアニストの明田川荘之の愛称)に相談したら、「ぜひ、使ってください」。代わりに、月に1回だったか週に1回だったか、「アケタの店でやってくれ」。メンバーはアケタのほうで選んでくれて、それで板橋文夫(p)とか。
——メンバーはお店の常連ですものね。最初は板橋さんのほかに、サックスの高橋和己さんとベースの望月英明さん。
そうです。だから、最初はあそこでしかやってなかった。そうしたら、「ピットイン」が聞きつけて「やってくれ」。で、また「ピットイン」に出るようになったんです。そのころは、「山下洋輔トリオみたいなドラミングをなぜやらない?」と聞かれたこともあるけど、あれは山下洋輔とやるためのドラミングであって、ほかのひとには通じない。板橋を連れてきてあの通りにやったって、板橋のいいところが出るわけない。
——自分が選んだメンバーでバンドを作って活動しようという思いはなかった?
少しずつ、少しずつ、いわれるままにやっていたら、ああなったということです。
——このメンバーだったら4ビートのほうがいいだろうと。
そうですね。やっていたら、そのうち板橋が「ソロ活動をしたい。ひとり旅をやる」というんで、「じゃあバイ・バイ」。「いなきゃいないでいいや」って、ピアノのいないグループ(注18)を作って。そんなことで、目的があって作ったわけじゃないです。
(注18)板橋は80年ごろまで在籍し、その後は、森山威男(ds)、井上淑彦(ts)、藤原幹典(ts、ss)、望月英明(b)のカルテットになる。
だから板橋とやりながらも、板橋がどう出るか、フリーっぽくやったこともあります。でも、ついてこなければやっても意味がない。たとえば〈グッドバイ〉。いまでも綺麗なメロディの中にいきなりワイヤー・ブラシでバンバンにソロをやりますけど、ああいうのがいい例です。それだったら、わたしも思い切ったことができる。普通の速い曲で、互いにやり合ったらいい音楽にならない。取り決めて、話し合って作るんじゃなくて、やっている間に方向性が決まってくるんです。
——レパートリーの〈グッドバイ〉や〈ハッシャバイ〉はメロディが綺麗じゃないですか。でも、先ほどは「綺麗な曲はあまり好きじゃない」とおっしゃっていたけど。
メロディは綺麗なのが好きで、演奏には正反対のものが入ってくる。そういうのが好きなんです。綺麗なものをみんなで「綺麗でしょ」というのは嫌です。
——病気で一時活動を中断しますよね(85年から88年までと2016年から2017年)。
大病をしましてね。舌がん、その次に肺の病気になって、そのときに「今夜がヤマです」といわれて。そのあとに背骨の手術をして、翌年が、昨年(2017年)ですけど、その痕に膿が溜まって、その摘出をして、このときは半年休みました。
——ドラムスを叩く上で、いまは大丈夫ですか?
叩けてますね(笑)。ただ、「叩けてる」と自分で意識しているだけで、ひとが聴くと「ダメになったなあ」と、きっと思うでしょうけど。
——自分の意識の中では普通に叩けている。
ほんとのことをいうと、フラフラするから、ちょっとダメです。半年の間で、3か月入院して、残り3か月でリハビリをやりながら運動もしましたけど、筋力がウンと落ちてしまいましたから。
——森山さんは、自分でどんなドラマーだと思っていますか?
わたしのいいところは正直なところですか? カッコをつけて、「自分をこう見せよう」というのがない。よかろうと悪かろうと、常に自分を見せてるつもりです。嫌いなひとはきっとそうとう嫌いなんでしょう。あとは、やっぱりわがままですね。目で見て聞いたことしか信じないところがあります。
——さっきもおっしゃっていたけど、ひと前でやるのが好きで、観てもらうのが好き。それこそ山下洋輔トリオの後半の何年間かはすごく大きな会場でやって、最高に気持ちがよかったんじゃないですか?
そうですね。大学巡りも山下洋輔トリオが始めて、どこの大学でもいっぱいひとが入りましたし。
——山下さんから、もしくはトリオから学んだいちばん大きなことは?
ひとのいいところの芽を摘まないことです。自分の思う音楽にしようと思うと、必ずひとの芽を摘んでいるんです。自分と同じに、なんてひとはいないから。せっかくいいものを持っているのに、自分のやりたいほうにやらせようとする。クラシックもそうですけど、もっと自由に、おおらかにどうしてやれないのかなあ?
——森山さんはそういうふうにしてやってこられた。
だから恨みに思っているひとも大勢いるでしょうね(笑)。ぶち壊しが多くて。でも、わざとやってるわけじゃないし、間違ったことはやってこなかったと思います。
——常に自然体ですよね。
そうですね。板橋からもいわれました。「森山さん、どういうふうにやりたいのか、自分の考えをもっとバンドのメンバーにいってくれ。そうじゃないとオレたちやりようがないから」。絶対、いいませんでしたけど。卑怯ですけど、努力することが嫌いなんです(笑)。
——森山さんの中では、これが普通。
そうですね。いいたいことがあるなら、音楽をやっているんだから、その中でいえばいいのに、終わってからネチネチいうのはすごく嫌です。
——これからやりたいことは?
若いときの体になってみたい(笑)。
ドラマーとしての信念
——振り返ってみると、自分で納得できる音楽活動をしてきた。
いまの若いひとは可哀想です。わたしらの時代にはあんなことができたのに、いまはたぶんできない。キチンと譜面を出さなきゃダメだし、短時間で曲を覚えて、サッとできないと使ってもらえない。
——山下洋輔トリオは特殊だったかもしれませんが、あの時代はメンバーを固定したバンドがたくさんありました。それこそ森山さんもよそではやらなかったというぐらいだから。いまはセッションというか、仕事、仕事で、毎日違うメンバーとやるようになったでしょ。
山下洋輔トリオができる直前まではけっこう入り乱れてやっていたんですよ。それが、ちょうど山下洋輔トリオができたあたりで、たとえば日野皓正クインテットとか渡辺貞夫カルテットとかができて、みんな人気が出てきた。それがだんだん崩れてきて、いまはいろいろ動いている。グループで固められちゃうと、若いひとは入っていきようがない。わたしは叩けもしないのに、「もし富樫さんが叩けないときがあったら、叩かせてください」とか、平気でいってましたもんね(笑)。なかったからよかったけど、あったらどうなっていたか。
——森山さんの中では、日野元彦さんがすごいと思ったでしょ。富樫さんもやはりすごかった。
そうです。
——ほかは?
うーん、そのふたりだけですね。そんなに大勢を聴いているわけじゃないから。
——でも、誰にも負けない自信はあった?
ある面ではね。スピード、ヴォリューム、いつまでも叩く体力とか。そういうことでは負けないぞ、と。
——山下さんと一緒にやって、いま思うことは?
稀なチャンスに恵まれましたよね。あの時代に、あのひとでなければああいう音楽はできなかったし、あのひとでなければ、わたしはいまなにをやっているんだろう? と思います。ほかのグループに行って、「やらせてください」といって、上手くやれる人間じゃないし。ましてスタジオの仕事なんか絶対にできませんから。ほかの職業になっていたかもしれません。
——言い方はよくないかもしれませんが、山下さんは森山さんを使いこなしていた。
そうです。あのひとが作戦を立てて、わたしが兵隊みたいなもので、実戦部隊です(笑)。
——森山さんがいなければ山下洋輔トリオは成立しないし。
山下さんが思うようなドラムスを叩いてくれるひとがほかにいなかったんでしょうね。
——だから絶妙な出会いだった。
そうですね。「あのころの山下トリオの曲をいまのグループで」といわれても、合わないです。
——山下さんと出会って演奏して、最初から「このひと、ピッタリだ」と思いましたか?
思いました。それで、何年やってなくても、なにかのことで一緒にやると、スパッと昔の感覚に戻っちゃう。
——そういうひとって、相手として得難いし、なかなか得られるものではないです。
醍醐味だと思います。音楽を楽しむ大きな部分がそれだと思うけど、音楽をやっているひとの誰もがそういうことを経験できているわけではないから。
——ドラムスを叩いていていちばん面白い、楽しいなというのは、どういうところ?
ひととやり合えて「ニヤッ」とするときですね。「同じことを考えていたのか」とか。
——ドラムス・ソロでなにかをやるというのは?
そんなに音楽的なものが自分にはないと思っているから、その気持ちはないです。ひとがいるから「こうやろう」となるんで、誰もいないのに、ひとりで考えてやるのはわざとらしくて、気持ちが悪い。
——そこがジャズですね。相手に触発されて、相手を触発して、というのが。面白いお話をありがとうございました。
こちらこそ、音楽的なインタヴューで楽しかったです。
取材・文/小川隆夫
2018-03-17 Interview with 森山威男 @ 千駄ヶ谷「株式会社AXIL」