投稿日 : 2018.05.31 更新日 : 2021.09.03
【証言で綴る日本のジャズ】市川秀男|下宿教師との出会いがピアノ人生の始まり
取材・文/小川隆夫
ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズシーンを支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場する“証言者”はピアニストの市川秀男。現在も自身のバンド活動はもとより、椎名林檎の作品にも客演するなど、精力的な活動で知られる同氏。往年の自己名義トリオ(72年結成)や、富樫雅彦、鈴木勲と結成した「ザ・トリニティ」(80年結成)による諸作は、どんな経緯で作られたのか。そして、ジョージ大塚トリオや日野皓正グループといった国内重要ユニットの当事者として、何を語るのか。
クラシックの作曲家を目指した少年時代
——まずは生年月日と出身地を教えてください。
1945年2月22日に、静岡県の、いまは浜松市ですけど、当時は磐田郡龍山村西(さい)川で生まれました。
——小学生のころからピアノを始められたそうですが。
部屋がいっぱいあるから「預かってくれ」ということで、東京から来た小学校の先生がうちに下宿していたんです。たまたまその布山先生が音楽をやっていたんで、ピアノの手ほどきをしてもらいました。
——布山先生は音楽の先生だった?
そういうわけじゃないけど、昔だから代理教師ということで、いろいろな教科を教えていたと思います。先生はうちが好きになって、教員を辞めたあとも自分のうちみたいに出はいりしていたんです。
——どういうきっかけでピアノを習うようになったんでしょう?
なんとなくですよね。小学校の四年ぐらいかな?
——ピアノは家にあったんですか?
放課後に、小学校のピアノで基礎を教わって。真っ暗になると、弾いていないと怖くなる。そんな記憶があります。先生がいなければ、音楽に縁はなかった。そのうちピアノを買ってもらって、うちで練習するようになったんですけどね。そのあとは中学に赴任してきた先生やピアノを教えてくれる音楽の先生がいたので、習いました。
——小学校の名前は?
龍山第一小学校で、たぶんもうないでしょう。中学が龍山中学校。そこに二年までいて、三年のときに、先生が「東京の音大を目指せ」と。ただしぼくのレヴェルがどのくらいかわからないので、三年のときに大塚にある東邦音大(東邦音楽大学)の附属に編入したんです。それで国立音大(国立音楽大学)の附属高校を目指し、作曲科の勉強を始めました。
——音楽学校に行こうと思ったのは、市川さんの意思で?
そうです。「作曲家になりたい」と思ったんです。
——ということは、本気でピアノを練習していた?
どうかわからないけど(笑)、まあそうですね。それで東邦に1年間。布山先生が東京に戻っていたので、お宅に下宿をさせてもらいました。そこで受験勉強をして、先生がよく知っていた林原先生という方に音楽のいろいろなことを習いました。布山先生には小学校のときから聴音などを習っていたから、それもよかった。
——音大に入るには、それなりにピアノが弾けないと。
だから「ピアノ科は無理」ということで作曲科。元々、作曲家になりたかったし、ハーモニーの有名な先生にもつきました。
——高校は国立音大附属。
作曲科に入れました。附属中学の先生に、「藝高(東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校)も受けてみろ」といわれて、作曲家の矢代秋雄(注1)さんにも習いに行きました。「1年遅いよ」といわれたけれど、「受けるだけ受けてみろ」。問題がまるでチンプンカンプンのもあり、やはりそこを受けるための勉強をしないといけないことがわかりました。
(注1)矢代秋雄(作曲家 1929~76年)東京藝術大学研究科卒業後、パリ国立高等音楽院留学。和声法で「一等賞」受賞など、優秀な成績を修めて卒業。晩年は作曲家として活動する一方、東京藝術大学音楽学部作曲科の主任教授として後進の指導にあたった。
——小学校や中学校のときに好きだった音楽は?
布山先生が持ってきた本の中にイタリア歌曲の本があって、普通のクラシックと違って、ピアノの伴奏がとても面白い。あとは、バッハの「インヴェンション」とか、ああいうのが好きだったですね。
——自分でも弾かれて。
はい。
——当時はラジオですよね。ラジオから流れてくる歌謡曲やポピュラー・ミュージックは聴かなかった?
周りがぜんぶ山ですから、電波がほとんど入ってこない。「ブー」となって、聴こえなくなっちゃう(笑)。お袋の兄弟で戦死したひとがふたりいて、どちらかがクラシック好きだった。それでうちにもシンフォニーとかのSP盤が残っていて、そういうのは聴いていました。あとは流行りで、ラジオから聴こえてきたのがペレス・プラード(注2)とか。それからうちにあったのが、ポピュラーではタンゴ関係のSP盤。
(注2)ペレス・プラード(キューバのバンドリーダー 1916~89年)49年に〈エル・マンボ〉を初ヒットさせ、これは文化放送『S盤アワー』(52年4月から69年11月まで放送)のオープニング・テーマ曲にも使われた。50年には〈マンボNo.5〉と〈マンボNo.8〉を連続ヒットさせて名声を確立。マンボ・キングと呼ばれ、56年に初来日。日本にラテン音楽の大ブームをもたらし、17回の来日公演を行なう。
——タンゴやラテンが流行っていた時代ですものね。そういうのは、聴いてそれほどピンとこなかった?
いや、なんとなく残っていますよ。
——でも、市川さんがやりたかったのはクラシック。
そうですね。それで高校では作曲科の先生にあまり習っていなくて、外の先生からいろいろ個人レッスンを受けていました。
〈ジス・ヒア〉で人生が変わる
——ジャズとの出会いは?
調律科に浜松出身の先輩がいて、「ジャズ喫茶に連れて行ってやる」。新宿の「ポニー」だったか「汀(なぎさ)」だったかは覚えてないけど、そこで聴いたボビー・ティモンズ(p)の〈ジス・ヒア〉(注3)にショックを受けて、それでこうなっちゃった(笑)。それが一年の春休み。
(注3)『ボビー・ティモンズ/ジス・ヒア』(リバーサイド)に収録。メンバー=ボビー・ティモンズ(p) サム・ジョーンズ(b) ジミー・コブ(ds) 1960年1月13、14日 ニューヨークで録音
——クラシックとはまったく違いますよね。
違います。初めて聴くものばかりだから、面白かった。当時、布山先生はキャバレーのフルバンドでピアノを弾いていたんです。〈ジス・ヒア〉を聴く前、中学三年か高校に入ったころですが、そこに遊びに行って。譜面だったらぜんぶ読めて弾けちゃうから、やったことがあります。やっていたのはダンス・ミュージックでしたけど。
——それがひと前で弾いたポピュラー・ミュージックの最初?
でしょうね。それからジャズ喫茶通いになるんです。そのころはモダン・ジャズ・カルテットが流行っていて、そうすると、イコール・バッハでしょ。
——ジャズとクラシックを融合させていたのがモダン・ジャズ・カルテット。
だから、聴きやすい。それでどういうふうになっているかが知りたくて、レコードからアドリブをコピーしようと。ところがスタンダードの形式を知らない。AABAとかの形式とコードを知っていれば簡単にできるけど、「これはぜんぶやるの、無理だな」と思いました。「面倒臭いからやめよう」(笑)。
——そのころは自分でもジャズ・ピアノを弾きたいなと。
その気分になっているんですね。高校一年の終わりか二年になったころ、友だちの横田年昭(fl)さんに誘われて、タンゴ・バンドですけど、エキストラをやらせてもらって。
——横田さんが入っていたタンゴ・バンドに?
そうです。横田さんは東邦の先輩。ぼくが東邦にいたのは中学三年のときだけだから、学校では会ったことがない(笑)。あとは峰厚介(sax)さんも東邦の高校生で、このころに知り合って、仲間になった。このタンゴ・バンドは藝大の学生がピアニストで、自分の作曲が忙しくなって「代わりを探している」。そういうことで、横田さんから「ちょっと助けてよ」と。高校生でも譜面は強いですから(笑)。エキストラでやってたけど、しばらくしたら飽きてきた。でも、次のひとを探さないと辞められない(笑)。
——それはどういうところで?
御徒町のキャバレーです。「コスモポリタン」といったかな? それがギャラをもらった初めての仕事です。
——譜面は初見で弾けるんですか?
はい。難しい譜面はなかったから。そこで出会った先輩に、「これからの若いひとはジャズをやりなさい」「ジャズってなんですか?」「モダン・ジャズ」。昔は「ダンモ」といってましたけどね。「どんなのを聴いたらいいですか?」「まずスウィングするやつ」「誰ですか?」「ウイントン・ケリー(p)とかオスカー・ピーターソン(p)を聴きなさい」。それでジャズ喫茶に行って、ウイントン・ケリーを聴きました。
——〈ジス・ヒア〉は、それ以前に聴いていたんですよね。
そうです。その前からジャズ喫茶には行ってました。当時はビート族みたいなひとたちがスピーカーの前でレコードに合わせてアドリブを歌っている。ミュージシャンじゃないのに、そういうひとがたくさんいて。ぼくは音楽を目指していたから、それができないのが悔しい(笑)。「通えばこれができるな」と思って、ジャズ喫茶に通いだしたんです。譜面なんかないですから、そうやって耳で覚えて。
——ジャズをきちんと習ったことは?
ないです。当時のキャバレーは、スウィング・バンド、要するにジャズをやるバンドと、タンゴ・バンドもしくはラテン・バンドとがチェンジになるんです。タンゴ・バンドだってジャズをやらないわけじゃない。ちょっと軽いものとかはね。亡くなった演歌の井沢八郎(注4)さんともそこで出会いました。歌手になろうとしていたけど、食えないから、当時はベーシストだったんです。彼はタンゴ・バンドにいて、「レイ・ブラウン(b)のなにかをコピーして」といわれて、コピーしたことを覚えています。
(注4)井沢八郎(歌手 1937~2007年)63年レコード・デビュー。次の〈あゝ上野駅〉が大ヒット。娘は女優の工藤夕貴。
——チェンジのジャズ・バンドのピアニストには教わらなかった?
教わらなかったですね。
——それはどのくらいの期間?
数か月ですよ。そのあとは、だんだん学校に行かなくなって、いろんなバンドで仕事をするようになりました。銀座のクラブとかで、小編成のバンドですね。銀座だと昔のベニー・グッドマン(cl)スタイルで、クラリネットとヴァイブ(ヴィブラフォン)の入ったコンボ。
——このころになるとジャズのバンドで。
スウィング・ジャズで、スタンダードを演奏してました。これが高校三年のころ。前後するけど、モダン・ジャズが好きなアマチュアっているんですよ。誰かに紹介してもらって、貸スタジオで練習する。そのころに出たモダン・ジャズばっかりの楽譜集があったんで、それをみんなで練習して。
——仕事はたくさんあったんですか?
ひとつのところにいるのが好きじゃなくてフラフラしてたから、あったんでしょうね。ぼくはひとに仕事を紹介するのが好きで。キャバレーの仕事があると、峰厚介さんとかに、「厚ちゃん、仕事があるよ」。ぼくがマネージャーみたいになって、このころからいろいろなミュージシャンとのつき合いができて。
——高校のときからジャズが演奏できるあちこちのクラブに出て。
そのあと、東京オリンピックのころの話ですけど(64年)、九段に「フラミンゴ」というナイト・クラブがあったんです。上が料亭で、その料亭が経営しているホステスさんのいないナイト・クラブ。早い時間はお客さんが少ないから好き勝手なことができる。昔だからオープンリールのテープレコーダーをステージに持ち込んで、演奏して、録音して、毎日休憩時間に控室でそれを聴いていた。それが勉強になりました。
——そのときの編成は?
最初は、ぼくが雇われたカルテット。そのあとはピアノ・トリオで、のちにカルテットになりました。夜中の12時からはダンス・ミュージックを演奏する。ダンス・ミュージックでもみんなアドリブをしますから、あのころだとハービー・マン(fl)の曲をやったり。スタンダードの〈ティー・フォー・トゥ〉でも、ラテンにすれば踊れるし。あまりモダンなジャズをやると怒られちゃう。黒服が「ジャズ、やったでしょ」「やってないよ」とかね(笑)。しょっちゅう喧嘩してたけど、そのときのひととはいまだにつき合っています。
ジョージ大塚トリオでジャズ・シーンに進出
——東京オリンピックのときだと、高校を卒業してましたよね。
高校は卒業しないで、プロになっていました。ジャズ専門の店でやるようになるのは、そのナイト・クラブに出ていたときに、どういうわけか忘れたけど、日野(皓正)(tp)さんの弟、トコちゃん(日野元彦)(ds)と知り合ったのがきっかけです。トコちゃんと早稲田大学のハイソサエティ・オーケストラにいた吉福伸逸(b)さんとでトリオを組んで、「どこかでやろうね」と。ところがどこも先輩が出ているんで(笑)、やれるところがない。銀座に「ジャズ・ギャラリー8」があって、トコちゃんが「昼間、八木正生(p)さんのグループが出られなくなったので、代わりに出られるよ」。それがジャズ専門の店でやった最初。
——あそこが64年のオープンですから、そのちょっとあとぐらいかしら?
そうでしょうね。そこでやるようになったけど、まだレギュラーでは出られない。何回か出たけど、そのうちトコちゃん経由でジョージ大塚(ds)さんと知り合ったのかなあ? そのあとに、新宿の「タロー」でジョージ大塚トリオが始まった。
ところが、ジョージさんとやることに決めた直後、富樫雅彦(ds)さんからも「一緒にやろう」と誘われたんです。商売にならなくても、あのころはいまみたいにかけ持ちはやらない。「大塚さんとやることに決めちゃったので、申し訳ありませんができません」と断って。富樫さんが山下洋輔(p)さんとやっていたころかな? 違うグループが作りたくて、ぼくのことを聞いて、誘いに来たんです。
——ジョージ大塚トリオの結成が66年ですから、そのころの話ですね。
「タロー」は、最初「乗合馬車」という店で、あるときからオーナーの名前(秋山太郎)を取って「タロー」になった(注5)。「乗合馬車」のときに演奏したかどうかは忘れたけど、たぶん「タロー」になってからです。大塚さんが「新しくバンドを組むから」といって。大塚さんと演奏するのはそのときが初めてで、ベースの寺川正興さんとも初めて会って、一度も一緒に演奏したことのない3人で作ったんです。大塚さんとは、その前にぼくが出ていた一口坂のクラブに遊びに来て、会っていますけど。食えない時代ですから、よく八木正生さんが面倒を見てくれました。
(注5)秋山太郎が60年代半ば、歌舞伎町にあった雑居ビルの4階でオープンしたライヴ・ハウス。昼(2時半~5時半)、夜(7時~11時)の2部制。ジョージ大塚トリオは木曜日と日曜日にレギュラー出演していた。
——ジョージさんは、トリオを結成する前に八木さんのグループにいましたから。
八木さんが大塚さんの音を気に入っていたんです。それで、ぼくも含めて八木さんがやってたコマーシャルのレコーディングに使ってもらいました。映画の『網走番外地』(注6)もそうです。あとは寺川さんもスタジオ・ミュージシャンで売れてましたから、「お前、ついてこいよ」「どういうことやってるんですか?」とかいって、見学させてもらったり。
(注6)65年に公開された東映映画。監督が石井輝男、音楽が八木正生で、主演の高倉健はこの映画で任侠映画の大スターに。
——八木さんは映画音楽もいろいろとやってました。
ぼくも仕事をもらいました。八木さんは黛敏郎(注7)さんのゴースト・ライターもやってましたから、ジャズの場面は八木さんが書いて。『さらばモスクワ愚連隊』(注8)では、富樫さんなんかと演奏しました。演奏シーンで「下手に弾け」とかいわれてね(笑)。
(注7)黛敏郎(作曲家 1929~97年)東京藝術大学在学中からジャズ・ピアニストとして活躍し、同大卒業後は研究科に進学。研究科を卒業した51年には国産カラー・フイルムを使った初の総天然色映画『カルメン故郷に帰る』の音楽を担当。同年、パリ音楽院に留学し、53年に芥川也寸志、團伊玖磨と「三人の会」を結成して作曲家として活躍するようになる。
(注8)68年公開の東宝映画で、原作はジャズをテーマにした五木寛之の同名小説。田村孟が脚色し、堀川弘通が監督。音楽は黛敏郎と八木正生が担当。主演は加山雄三で、「ヒラミキ」の役名で富樫雅彦、そのほか、鈴木勲(b)、小津昌彦(ds)などが演奏シーンに登場。
——富樫さんは『さらばモスクワ愚連隊』に出演もしていますが、市川さんは?
出てないです。あのときは、録音したテープをあとでぼくがスコアに書き換えて、それに役者が演技の長さを合わせていました。
——本来は作曲家志望ですから、そこから作曲の仕事もするようになられた?
そのあたりから始めましたけど、最初はそういう現場に慣れていないからとても疲れました。
——映画の音楽はけっこうやられたんですか?
そうでもないです。
——ジャズ・シーンではジョージ大塚トリオで注目されます。
大塚さんのトリオになって、よく遊びに来てたのが日野の兄貴(皓正)。あとは松本英彦(ts)さんと宮沢昭(ts)さん。トリオと演奏できたのはこのひとたちだけです。ほかはみんな入れなくて、「失礼しました」と、帰っていく(笑)。
——トリオは「タロー」で始まって、ちょっと遅れてオープンした「ピットイン」にも出るようになりました。そのころ(66年)からこのトリオを「タロー」や「ピットイン」で聴くようになったんですけど、「新しい感覚のピアノ・トリオ登場」の印象が強かった。当時の市川さんはどんなピアニストに興味があったんですか?
マイルス・デイヴィス(tp)が好きだったから、ハービー・ハンコック(p)ですよね。
——誰かに影響を受けたことは?
やっぱりウイントン・ケリーの流れをずっと聴いてきたから。
——トリオを始めるにあたって、ジョージさんから「こんな音楽がやりたい」とかのサジェッションはあったんですか?
なかったと思います。普段から「タロー」になんとなく集まってセッションをしていたから、その感じで始まったんです。だから最初はスタンダードを演奏して、そのうちオリジナルも演奏するようになった。大塚さんのバンドはリハーサルなしですよ。1回もリハーサルをやったことがない。ぜんぶ本番で。
——新曲も?
そうですね。スタンダードでも、誰かが出たらそこから始める。そのうち自然に決まってくる。決まってくると、今度は誰かが壊し始める。壊さないと次に進めない。でも、最初のころは同じようにやってました。だんだんそれに飽きて、変わっていった。
ジャズ・ブームを盛り上げる
——「タロー」に少し遅れて「ピットイン」がオープンして、いろいろと日本人のバンドが出るようになります。そのころって、「それまでやっていたジャズと変わってきたな」という感覚はありましたか?
ぼくたちはスタンダードが中心で、最初は割とカッチリ演奏していたんです。だけどマイルスが好きだったのと、大塚さんがトニー・ウィリアムス(ds)みたいなことをやり始めたので、マイルスのグループのような演奏に変わっていきました。その前はロイ・ヘインズ(ds)みたいなことをやっていたんですよ。
——トリオのデビュー作『ページ1』(タクト)(注9)が67年10月に吹き込まれます。これは結成して1年がすぎたころの作品。
あのトリオで最初にレコーディングしたのは宮沢昭さんの『ナウズ・ザ・タイム』(タクト)(注10)で、ぼくはあれがジャズのアルバムの初録音です。
(注9)メンバー=ジョージ大塚(ds) 市川秀男(p) 寺川正興(b) 67年10月14日 東京で録音
(注10)ジョージ大塚トリオが結成直後に残したレコーディング。メンバー=宮沢昭(ts) 市川秀男(p) 寺川正興(b) ジョージ大塚(ds) 1966年10月 東京で録音
——それが66年の10月ですから、『ページ1』はその1年後。
その前後から「ジャズ・ギャラリー8」と「タロー」で演奏を始めています。昼の部が「ジャズ・ギャラリー8」で、夜が「タロー」とかね。トリオのほかに、松本英彦さんや日野皓正さんと一緒に動いていました。
——ジョージ大塚トリオ・プラス・ワンの形で。
はい。それで、たまにはクインテットになったりとか。
——その関係で宮沢昭さんの録音があって、それがきっかけで『ページ1』を作った。
そうですね。
——スタンダードもあるけど、市川さんのオリジナルも録音して。
ぼくが書いたのは〈ページ1〉と〈ポテト・チップス〉と〈テーマ〉。「タロー」でずっとやっていたんで、そこのお客さんにいつもお世話になっているから、このときは「スタジオにいらっしゃい」ということで、「タロー」でやっている感じで公開録音にしたんです。
——だから、LPでいうならA面とB面の終わりに〈テーマ〉を演奏している。それでジョージ大塚トリオはすごい人気になっていく。『スイングジャーナル』誌(注11)の人気投票で、『ページ1』が発売された68年に、10年連続で「ドラム部門」の1位だった白木秀雄さんを抜いてジョージさんが1位になり、翌年は『ページ2』(日本コロムビア/タクト)(注12)が「レコード・オブ・ジ・イヤー」になった(注13)。実感はありました?
ぜんぜんなかったです。最初はお客さんが来なくて、「タロー」で、「今日はどっちが勝つか?」なんていってたぐらいですから。
(注11)47年~2010年まで発刊された日本のジャズ専門月刊誌。
(注12)ジョージ大塚トリオによる2作目。メンバー=ジョージ大塚(ds) 市川秀男(p) 寺川正興(b)1968年7月22日 東京で録音
(注13)69年度「レコード・オブ・ジ・イヤー」に選出。2位『日野皓正/フィーリン・グッド』、3位『ブラジルの渡辺貞夫』(すべて日本コロムビア=タクト)で、5位にも『ページ1』が選ばれる。
——バンドのメンバーよりお客さんの人数が多いかどうか。
3人以上来ればこっちの負け(笑)。そのうちに列ができるようになって。どういうことになってるんだろう? と思ってました。でも、あまり人気のことは考えないですよね。
——ジョージさんが、「桜井センリ(注14)さんも来てた」とおっしゃっていました。
ブーちゃん(市村俊幸)(p)(注15)も来てました。
(注14)桜井センリ(p、俳優 1926~2012年)ロンドン生まれ。大学時代から活動し、ゲイスターズ、フランキー堺(ds)のシティ・スリッカーズ、三木鶏郎「冗談工房」を経て、60年ハナ肇とクレージー・キャッツに参加。
(注15)市村俊幸(p、俳優 1920~83年)46年南里文雄(tp)とホットペッパーズでピアニストを務める。51年映画『花嫁蚤と戯むる』で俳優デビューし、翌年の黒澤明監督作品『生きる』で脚光を浴びる。以後はラジオやテレビでも活躍。
——68年には『スイングジャーナル・オールスターズ ‘68』(タクト)(注16)のレコーディングがあって、これは人気投票でそれぞれの楽器で1位や上位になったひとがバンドを組んで。このときのレコーディングではジョージ大塚トリオに松本英彦さんが入った。覚えています?
たしか、ぼくが書いた〈ザ・タイム・マシーン〉をやりました。
(注16)メンバー=渡辺貞夫カルテット 原信夫とシャープス&フラッツ SJオールスターズI(渡辺貞夫 日野皓正 鈴木弘 菊地雅章 稲葉國光 富樫雅彦) SJオールスターズII(八城一夫 北村英治 平岡精二 沢田駿吾 原田政長 猪俣猛) 1968年5月16日 東京で録音
——ジョージ大塚トリオが参加しているということは、かなり人気が高まってきた。
全国ツアーをやってましたからね。当時は小さなところがないので、ホールのコンサートです。各地にジャズの同好会があって、そういうところが主催してくれるんです。
——それは単独のコンサート?
単独のコンサートもありましたし、オールアートの石塚孝夫さん(注17)、あのひとがジョージ大塚トリオと日野皓正クインテットのエージェントをやっていたから、ジョイントのコンサート・ツアーもありました。
ジョージ大塚トリオが単独で初めて地方に行ったのが博多の「コンボ」という小さなお店。ジョージさんのドラム・スクールに来ていたプロのひとが九州出身で、「ジョージさん、どうしても来て」。ジョージさんは飛行機が大嫌いで、怖くて乗れない。そのときも「いやだ」。3人一緒で、延々博多まで寝台車で行きました(笑)。そのあと、ツアーをやり始めたら飛行機に乗らざるを得なくなりましたけど。トリオは東京でしかやらないという話だったんですから。北海道だって「日帰りで帰る」ですから、忙しい(笑)。
(注17)石塚孝夫(プロモーター 1932年~)【『第1集』の証言者】ドラマーとして活動し、61年ユニバーサル・プロモーョン、63年オールアート・プロモーション設立。キャノンボール・アダレイ、アート・ブレイキー(ds)、モダン・ジャズ・カルテット、ビル・エヴァンス(p)、オスカー・ピーターソンなど、多くのミュージシャンを招聘。86年からは「富士通コンコード・ジャズ・フェスティヴァル」を毎年開催した。