ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズシーンを支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場する“証言者”はピアニストの市川秀男。現在も自身のバンド活動はもとより、椎名林檎の作品にも客演するなど、精力的な活動で知られる同氏。往年の自己名義トリオ(72年結成)や、富樫雅彦、鈴木勲と結成した「ザ・トリニティ」(80年結成)による諸作は、どんな経緯で作られたのか。そして、ジョージ大塚トリオや日野皓正グループといった国内重要ユニットの当事者として、何を語るのか。
クラシックの作曲家を目指した少年時代
——まずは生年月日と出身地を教えてください。
1945年2月22日に、静岡県の、いまは浜松市ですけど、当時は磐田郡龍山村西(さい)川で生まれました。
——小学生のころからピアノを始められたそうですが。
部屋がいっぱいあるから「預かってくれ」ということで、東京から来た小学校の先生がうちに下宿していたんです。たまたまその布山先生が音楽をやっていたんで、ピアノの手ほどきをしてもらいました。
——布山先生は音楽の先生だった?
そういうわけじゃないけど、昔だから代理教師ということで、いろいろな教科を教えていたと思います。先生はうちが好きになって、教員を辞めたあとも自分のうちみたいに出はいりしていたんです。
——どういうきっかけでピアノを習うようになったんでしょう?
なんとなくですよね。小学校の四年ぐらいかな?
——ピアノは家にあったんですか?
放課後に、小学校のピアノで基礎を教わって。真っ暗になると、弾いていないと怖くなる。そんな記憶があります。先生がいなければ、音楽に縁はなかった。そのうちピアノを買ってもらって、うちで練習するようになったんですけどね。そのあとは中学に赴任してきた先生やピアノを教えてくれる音楽の先生がいたので、習いました。
——小学校の名前は?
龍山第一小学校で、たぶんもうないでしょう。中学が龍山中学校。そこに二年までいて、三年のときに、先生が「東京の音大を目指せ」と。ただしぼくのレヴェルがどのくらいかわからないので、三年のときに大塚にある東邦音大(東邦音楽大学)の附属に編入したんです。それで国立音大(国立音楽大学)の附属高校を目指し、作曲科の勉強を始めました。
——音楽学校に行こうと思ったのは、市川さんの意思で?
そうです。「作曲家になりたい」と思ったんです。
——ということは、本気でピアノを練習していた?
どうかわからないけど(笑)、まあそうですね。それで東邦に1年間。布山先生が東京に戻っていたので、お宅に下宿をさせてもらいました。そこで受験勉強をして、先生がよく知っていた林原先生という方に音楽のいろいろなことを習いました。布山先生には小学校のときから聴音などを習っていたから、それもよかった。
——音大に入るには、それなりにピアノが弾けないと。
だから「ピアノ科は無理」ということで作曲科。元々、作曲家になりたかったし、ハーモニーの有名な先生にもつきました。
——高校は国立音大附属。
作曲科に入れました。附属中学の先生に、「藝高(東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校)も受けてみろ」といわれて、作曲家の矢代秋雄(注1)さんにも習いに行きました。「1年遅いよ」といわれたけれど、「受けるだけ受けてみろ」。問題がまるでチンプンカンプンのもあり、やはりそこを受けるための勉強をしないといけないことがわかりました。
(注1)矢代秋雄(作曲家 1929~76年)東京藝術大学研究科卒業後、パリ国立高等音楽院留学。和声法で「一等賞」受賞など、優秀な成績を修めて卒業。晩年は作曲家として活動する一方、東京藝術大学音楽学部作曲科の主任教授として後進の指導にあたった。
——小学校や中学校のときに好きだった音楽は?
布山先生が持ってきた本の中にイタリア歌曲の本があって、普通のクラシックと違って、ピアノの伴奏がとても面白い。あとは、バッハの「インヴェンション」とか、ああいうのが好きだったですね。
——自分でも弾かれて。
はい。
——当時はラジオですよね。ラジオから流れてくる歌謡曲やポピュラー・ミュージックは聴かなかった?
周りがぜんぶ山ですから、電波がほとんど入ってこない。「ブー」となって、聴こえなくなっちゃう(笑)。お袋の兄弟で戦死したひとがふたりいて、どちらかがクラシック好きだった。それでうちにもシンフォニーとかのSP盤が残っていて、そういうのは聴いていました。あとは流行りで、ラジオから聴こえてきたのがペレス・プラード(注2)とか。それからうちにあったのが、ポピュラーではタンゴ関係のSP盤。
(注2)ペレス・プラード(キューバのバンドリーダー 1916~89年)49年に〈エル・マンボ〉を初ヒットさせ、これは文化放送『S盤アワー』(52年4月から69年11月まで放送)のオープニング・テーマ曲にも使われた。50年には〈マンボNo.5〉と〈マンボNo.8〉を連続ヒットさせて名声を確立。マンボ・キングと呼ばれ、56年に初来日。日本にラテン音楽の大ブームをもたらし、17回の来日公演を行なう。
——タンゴやラテンが流行っていた時代ですものね。そういうのは、聴いてそれほどピンとこなかった?
いや、なんとなく残っていますよ。
——でも、市川さんがやりたかったのはクラシック。
そうですね。それで高校では作曲科の先生にあまり習っていなくて、外の先生からいろいろ個人レッスンを受けていました。
〈ジス・ヒア〉で人生が変わる
——ジャズとの出会いは?
調律科に浜松出身の先輩がいて、「ジャズ喫茶に連れて行ってやる」。新宿の「ポニー」だったか「汀(なぎさ)」だったかは覚えてないけど、そこで聴いたボビー・ティモンズ(p)の〈ジス・ヒア〉(注3)にショックを受けて、それでこうなっちゃった(笑)。それが一年の春休み。
(注3)『ボビー・ティモンズ/ジス・ヒア』(リバーサイド)に収録。メンバー=ボビー・ティモンズ(p) サム・ジョーンズ(b) ジミー・コブ(ds) 1960年1月13、14日 ニューヨークで録音
——クラシックとはまったく違いますよね。
違います。初めて聴くものばかりだから、面白かった。当時、布山先生はキャバレーのフルバンドでピアノを弾いていたんです。〈ジス・ヒア〉を聴く前、中学三年か高校に入ったころですが、そこに遊びに行って。譜面だったらぜんぶ読めて弾けちゃうから、やったことがあります。やっていたのはダンス・ミュージックでしたけど。
——それがひと前で弾いたポピュラー・ミュージックの最初?
でしょうね。それからジャズ喫茶通いになるんです。そのころはモダン・ジャズ・カルテットが流行っていて、そうすると、イコール・バッハでしょ。
——ジャズとクラシックを融合させていたのがモダン・ジャズ・カルテット。
だから、聴きやすい。それでどういうふうになっているかが知りたくて、レコードからアドリブをコピーしようと。ところがスタンダードの形式を知らない。AABAとかの形式とコードを知っていれば簡単にできるけど、「これはぜんぶやるの、無理だな」と思いました。「面倒臭いからやめよう」(笑)。
——そのころは自分でもジャズ・ピアノを弾きたいなと。
その気分になっているんですね。高校一年の終わりか二年になったころ、友だちの横田年昭(fl)さんに誘われて、タンゴ・バンドですけど、エキストラをやらせてもらって。
——横田さんが入っていたタンゴ・バンドに?
そうです。横田さんは東邦の先輩。ぼくが東邦にいたのは中学三年のときだけだから、学校では会ったことがない(笑)。あとは峰厚介(sax)さんも東邦の高校生で、このころに知り合って、仲間になった。このタンゴ・バンドは藝大の学生がピアニストで、自分の作曲が忙しくなって「代わりを探している」。そういうことで、横田さんから「ちょっと助けてよ」と。高校生でも譜面は強いですから(笑)。エキストラでやってたけど、しばらくしたら飽きてきた。でも、次のひとを探さないと辞められない(笑)。
——それはどういうところで?
御徒町のキャバレーです。「コスモポリタン」といったかな? それがギャラをもらった初めての仕事です。
——譜面は初見で弾けるんですか?
はい。難しい譜面はなかったから。そこで出会った先輩に、「これからの若いひとはジャズをやりなさい」「ジャズってなんですか?」「モダン・ジャズ」。昔は「ダンモ」といってましたけどね。「どんなのを聴いたらいいですか?」「まずスウィングするやつ」「誰ですか?」「ウイントン・ケリー(p)とかオスカー・ピーターソン(p)を聴きなさい」。それでジャズ喫茶に行って、ウイントン・ケリーを聴きました。
——〈ジス・ヒア〉は、それ以前に聴いていたんですよね。
そうです。その前からジャズ喫茶には行ってました。当時はビート族みたいなひとたちがスピーカーの前でレコードに合わせてアドリブを歌っている。ミュージシャンじゃないのに、そういうひとがたくさんいて。ぼくは音楽を目指していたから、それができないのが悔しい(笑)。「通えばこれができるな」と思って、ジャズ喫茶に通いだしたんです。譜面なんかないですから、そうやって耳で覚えて。
——ジャズをきちんと習ったことは?
ないです。当時のキャバレーは、スウィング・バンド、要するにジャズをやるバンドと、タンゴ・バンドもしくはラテン・バンドとがチェンジになるんです。タンゴ・バンドだってジャズをやらないわけじゃない。ちょっと軽いものとかはね。亡くなった演歌の井沢八郎(注4)さんともそこで出会いました。歌手になろうとしていたけど、食えないから、当時はベーシストだったんです。彼はタンゴ・バンドにいて、「レイ・ブラウン(b)のなにかをコピーして」といわれて、コピーしたことを覚えています。
(注4)井沢八郎(歌手 1937~2007年)63年レコード・デビュー。次の〈あゝ上野駅〉が大ヒット。娘は女優の工藤夕貴。
——チェンジのジャズ・バンドのピアニストには教わらなかった?
教わらなかったですね。
——それはどのくらいの期間?
数か月ですよ。そのあとは、だんだん学校に行かなくなって、いろんなバンドで仕事をするようになりました。銀座のクラブとかで、小編成のバンドですね。銀座だと昔のベニー・グッドマン(cl)スタイルで、クラリネットとヴァイブ(ヴィブラフォン)の入ったコンボ。
——このころになるとジャズのバンドで。
スウィング・ジャズで、スタンダードを演奏してました。これが高校三年のころ。前後するけど、モダン・ジャズが好きなアマチュアっているんですよ。誰かに紹介してもらって、貸スタジオで練習する。そのころに出たモダン・ジャズばっかりの楽譜集があったんで、それをみんなで練習して。
——仕事はたくさんあったんですか?
ひとつのところにいるのが好きじゃなくてフラフラしてたから、あったんでしょうね。ぼくはひとに仕事を紹介するのが好きで。キャバレーの仕事があると、峰厚介さんとかに、「厚ちゃん、仕事があるよ」。ぼくがマネージャーみたいになって、このころからいろいろなミュージシャンとのつき合いができて。
——高校のときからジャズが演奏できるあちこちのクラブに出て。
そのあと、東京オリンピックのころの話ですけど(64年)、九段に「フラミンゴ」というナイト・クラブがあったんです。上が料亭で、その料亭が経営しているホステスさんのいないナイト・クラブ。早い時間はお客さんが少ないから好き勝手なことができる。昔だからオープンリールのテープレコーダーをステージに持ち込んで、演奏して、録音して、毎日休憩時間に控室でそれを聴いていた。それが勉強になりました。
——そのときの編成は?
最初は、ぼくが雇われたカルテット。そのあとはピアノ・トリオで、のちにカルテットになりました。夜中の12時からはダンス・ミュージックを演奏する。ダンス・ミュージックでもみんなアドリブをしますから、あのころだとハービー・マン(fl)の曲をやったり。スタンダードの〈ティー・フォー・トゥ〉でも、ラテンにすれば踊れるし。あまりモダンなジャズをやると怒られちゃう。黒服が「ジャズ、やったでしょ」「やってないよ」とかね(笑)。しょっちゅう喧嘩してたけど、そのときのひととはいまだにつき合っています。
ジョージ大塚トリオでジャズ・シーンに進出
——東京オリンピックのときだと、高校を卒業してましたよね。
高校は卒業しないで、プロになっていました。ジャズ専門の店でやるようになるのは、そのナイト・クラブに出ていたときに、どういうわけか忘れたけど、日野(皓正)(tp)さんの弟、トコちゃん(日野元彦)(ds)と知り合ったのがきっかけです。トコちゃんと早稲田大学のハイソサエティ・オーケストラにいた吉福伸逸(b)さんとでトリオを組んで、「どこかでやろうね」と。ところがどこも先輩が出ているんで(笑)、やれるところがない。銀座に「ジャズ・ギャラリー8」があって、トコちゃんが「昼間、八木正生(p)さんのグループが出られなくなったので、代わりに出られるよ」。それがジャズ専門の店でやった最初。
——あそこが64年のオープンですから、そのちょっとあとぐらいかしら?
そうでしょうね。そこでやるようになったけど、まだレギュラーでは出られない。何回か出たけど、そのうちトコちゃん経由でジョージ大塚(ds)さんと知り合ったのかなあ? そのあとに、新宿の「タロー」でジョージ大塚トリオが始まった。
ところが、ジョージさんとやることに決めた直後、富樫雅彦(ds)さんからも「一緒にやろう」と誘われたんです。商売にならなくても、あのころはいまみたいにかけ持ちはやらない。「大塚さんとやることに決めちゃったので、申し訳ありませんができません」と断って。富樫さんが山下洋輔(p)さんとやっていたころかな? 違うグループが作りたくて、ぼくのことを聞いて、誘いに来たんです。
——ジョージ大塚トリオの結成が66年ですから、そのころの話ですね。
「タロー」は、最初「乗合馬車」という店で、あるときからオーナーの名前(秋山太郎)を取って「タロー」になった(注5)。「乗合馬車」のときに演奏したかどうかは忘れたけど、たぶん「タロー」になってからです。大塚さんが「新しくバンドを組むから」といって。大塚さんと演奏するのはそのときが初めてで、ベースの寺川正興さんとも初めて会って、一度も一緒に演奏したことのない3人で作ったんです。大塚さんとは、その前にぼくが出ていた一口坂のクラブに遊びに来て、会っていますけど。食えない時代ですから、よく八木正生さんが面倒を見てくれました。
(注5)秋山太郎が60年代半ば、歌舞伎町にあった雑居ビルの4階でオープンしたライヴ・ハウス。昼(2時半~5時半)、夜(7時~11時)の2部制。ジョージ大塚トリオは木曜日と日曜日にレギュラー出演していた。
——ジョージさんは、トリオを結成する前に八木さんのグループにいましたから。
八木さんが大塚さんの音を気に入っていたんです。それで、ぼくも含めて八木さんがやってたコマーシャルのレコーディングに使ってもらいました。映画の『網走番外地』(注6)もそうです。あとは寺川さんもスタジオ・ミュージシャンで売れてましたから、「お前、ついてこいよ」「どういうことやってるんですか?」とかいって、見学させてもらったり。
(注6)65年に公開された東映映画。監督が石井輝男、音楽が八木正生で、主演の高倉健はこの映画で任侠映画の大スターに。
——八木さんは映画音楽もいろいろとやってました。
ぼくも仕事をもらいました。八木さんは黛敏郎(注7)さんのゴースト・ライターもやってましたから、ジャズの場面は八木さんが書いて。『さらばモスクワ愚連隊』(注8)では、富樫さんなんかと演奏しました。演奏シーンで「下手に弾け」とかいわれてね(笑)。
(注7)黛敏郎(作曲家 1929~97年)東京藝術大学在学中からジャズ・ピアニストとして活躍し、同大卒業後は研究科に進学。研究科を卒業した51年には国産カラー・フイルムを使った初の総天然色映画『カルメン故郷に帰る』の音楽を担当。同年、パリ音楽院に留学し、53年に芥川也寸志、團伊玖磨と「三人の会」を結成して作曲家として活躍するようになる。
(注8)68年公開の東宝映画で、原作はジャズをテーマにした五木寛之の同名小説。田村孟が脚色し、堀川弘通が監督。音楽は黛敏郎と八木正生が担当。主演は加山雄三で、「ヒラミキ」の役名で富樫雅彦、そのほか、鈴木勲(b)、小津昌彦(ds)などが演奏シーンに登場。
——富樫さんは『さらばモスクワ愚連隊』に出演もしていますが、市川さんは?
出てないです。あのときは、録音したテープをあとでぼくがスコアに書き換えて、それに役者が演技の長さを合わせていました。
——本来は作曲家志望ですから、そこから作曲の仕事もするようになられた?
そのあたりから始めましたけど、最初はそういう現場に慣れていないからとても疲れました。
——映画の音楽はけっこうやられたんですか?
そうでもないです。
——ジャズ・シーンではジョージ大塚トリオで注目されます。
大塚さんのトリオになって、よく遊びに来てたのが日野の兄貴(皓正)。あとは松本英彦(ts)さんと宮沢昭(ts)さん。トリオと演奏できたのはこのひとたちだけです。ほかはみんな入れなくて、「失礼しました」と、帰っていく(笑)。
——トリオは「タロー」で始まって、ちょっと遅れてオープンした「ピットイン」にも出るようになりました。そのころ(66年)からこのトリオを「タロー」や「ピットイン」で聴くようになったんですけど、「新しい感覚のピアノ・トリオ登場」の印象が強かった。当時の市川さんはどんなピアニストに興味があったんですか?
マイルス・デイヴィス(tp)が好きだったから、ハービー・ハンコック(p)ですよね。
——誰かに影響を受けたことは?
やっぱりウイントン・ケリーの流れをずっと聴いてきたから。
——トリオを始めるにあたって、ジョージさんから「こんな音楽がやりたい」とかのサジェッションはあったんですか?
なかったと思います。普段から「タロー」になんとなく集まってセッションをしていたから、その感じで始まったんです。だから最初はスタンダードを演奏して、そのうちオリジナルも演奏するようになった。大塚さんのバンドはリハーサルなしですよ。1回もリハーサルをやったことがない。ぜんぶ本番で。
——新曲も?
そうですね。スタンダードでも、誰かが出たらそこから始める。そのうち自然に決まってくる。決まってくると、今度は誰かが壊し始める。壊さないと次に進めない。でも、最初のころは同じようにやってました。だんだんそれに飽きて、変わっていった。
ジャズ・ブームを盛り上げる
——「タロー」に少し遅れて「ピットイン」がオープンして、いろいろと日本人のバンドが出るようになります。そのころって、「それまでやっていたジャズと変わってきたな」という感覚はありましたか?
ぼくたちはスタンダードが中心で、最初は割とカッチリ演奏していたんです。だけどマイルスが好きだったのと、大塚さんがトニー・ウィリアムス(ds)みたいなことをやり始めたので、マイルスのグループのような演奏に変わっていきました。その前はロイ・ヘインズ(ds)みたいなことをやっていたんですよ。
——トリオのデビュー作『ページ1』(タクト)(注9)が67年10月に吹き込まれます。これは結成して1年がすぎたころの作品。
あのトリオで最初にレコーディングしたのは宮沢昭さんの『ナウズ・ザ・タイム』(タクト)(注10)で、ぼくはあれがジャズのアルバムの初録音です。
(注9)メンバー=ジョージ大塚(ds) 市川秀男(p) 寺川正興(b) 67年10月14日 東京で録音
(注10)ジョージ大塚トリオが結成直後に残したレコーディング。メンバー=宮沢昭(ts) 市川秀男(p) 寺川正興(b) ジョージ大塚(ds) 1966年10月 東京で録音
——それが66年の10月ですから、『ページ1』はその1年後。
その前後から「ジャズ・ギャラリー8」と「タロー」で演奏を始めています。昼の部が「ジャズ・ギャラリー8」で、夜が「タロー」とかね。トリオのほかに、松本英彦さんや日野皓正さんと一緒に動いていました。
——ジョージ大塚トリオ・プラス・ワンの形で。
はい。それで、たまにはクインテットになったりとか。
——その関係で宮沢昭さんの録音があって、それがきっかけで『ページ1』を作った。
そうですね。
——スタンダードもあるけど、市川さんのオリジナルも録音して。
ぼくが書いたのは〈ページ1〉と〈ポテト・チップス〉と〈テーマ〉。「タロー」でずっとやっていたんで、そこのお客さんにいつもお世話になっているから、このときは「スタジオにいらっしゃい」ということで、「タロー」でやっている感じで公開録音にしたんです。
——だから、LPでいうならA面とB面の終わりに〈テーマ〉を演奏している。それでジョージ大塚トリオはすごい人気になっていく。『スイングジャーナル』誌(注11)の人気投票で、『ページ1』が発売された68年に、10年連続で「ドラム部門」の1位だった白木秀雄さんを抜いてジョージさんが1位になり、翌年は『ページ2』(日本コロムビア/タクト)(注12)が「レコード・オブ・ジ・イヤー」になった(注13)。実感はありました?
ぜんぜんなかったです。最初はお客さんが来なくて、「タロー」で、「今日はどっちが勝つか?」なんていってたぐらいですから。
(注11)47年~2010年まで発刊された日本のジャズ専門月刊誌。
(注12)ジョージ大塚トリオによる2作目。メンバー=ジョージ大塚(ds) 市川秀男(p) 寺川正興(b)1968年7月22日 東京で録音
(注13)69年度「レコード・オブ・ジ・イヤー」に選出。2位『日野皓正/フィーリン・グッド』、3位『ブラジルの渡辺貞夫』(すべて日本コロムビア=タクト)で、5位にも『ページ1』が選ばれる。
——バンドのメンバーよりお客さんの人数が多いかどうか。
3人以上来ればこっちの負け(笑)。そのうちに列ができるようになって。どういうことになってるんだろう? と思ってました。でも、あまり人気のことは考えないですよね。
——ジョージさんが、「桜井センリ(注14)さんも来てた」とおっしゃっていました。
ブーちゃん(市村俊幸)(p)(注15)も来てました。
(注14)桜井センリ(p、俳優 1926~2012年)ロンドン生まれ。大学時代から活動し、ゲイスターズ、フランキー堺(ds)のシティ・スリッカーズ、三木鶏郎「冗談工房」を経て、60年ハナ肇とクレージー・キャッツに参加。
(注15)市村俊幸(p、俳優 1920~83年)46年南里文雄(tp)とホットペッパーズでピアニストを務める。51年映画『花嫁蚤と戯むる』で俳優デビューし、翌年の黒澤明監督作品『生きる』で脚光を浴びる。以後はラジオやテレビでも活躍。
——68年には『スイングジャーナル・オールスターズ ‘68』(タクト)(注16)のレコーディングがあって、これは人気投票でそれぞれの楽器で1位や上位になったひとがバンドを組んで。このときのレコーディングではジョージ大塚トリオに松本英彦さんが入った。覚えています?
たしか、ぼくが書いた〈ザ・タイム・マシーン〉をやりました。
(注16)メンバー=渡辺貞夫カルテット 原信夫とシャープス&フラッツ SJオールスターズI(渡辺貞夫 日野皓正 鈴木弘 菊地雅章 稲葉國光 富樫雅彦) SJオールスターズII(八城一夫 北村英治 平岡精二 沢田駿吾 原田政長 猪俣猛) 1968年5月16日 東京で録音
——ジョージ大塚トリオが参加しているということは、かなり人気が高まってきた。
全国ツアーをやってましたからね。当時は小さなところがないので、ホールのコンサートです。各地にジャズの同好会があって、そういうところが主催してくれるんです。
——それは単独のコンサート?
単独のコンサートもありましたし、オールアートの石塚孝夫さん(注17)、あのひとがジョージ大塚トリオと日野皓正クインテットのエージェントをやっていたから、ジョイントのコンサート・ツアーもありました。
ジョージ大塚トリオが単独で初めて地方に行ったのが博多の「コンボ」という小さなお店。ジョージさんのドラム・スクールに来ていたプロのひとが九州出身で、「ジョージさん、どうしても来て」。ジョージさんは飛行機が大嫌いで、怖くて乗れない。そのときも「いやだ」。3人一緒で、延々博多まで寝台車で行きました(笑)。そのあと、ツアーをやり始めたら飛行機に乗らざるを得なくなりましたけど。トリオは東京でしかやらないという話だったんですから。北海道だって「日帰りで帰る」ですから、忙しい(笑)。
(注17)石塚孝夫(プロモーター 1932年~)【『第1集』の証言者】ドラマーとして活動し、61年ユニバーサル・プロモーョン、63年オールアート・プロモーション設立。キャノンボール・アダレイ、アート・ブレイキー(ds)、モダン・ジャズ・カルテット、ビル・エヴァンス(p)、オスカー・ピーターソンなど、多くのミュージシャンを招聘。86年からは「富士通コンコード・ジャズ・フェスティヴァル」を毎年開催した。
来日ミュージシャンとの共演
——最初は4ビートのジャズが中心でしたが、『ページ2』では〈ホット・チャ〉のようなソウルフルな曲も演奏するようになって。
クラブでやっていれば給料が入るけど、辞めてジャズ一本になると、最初のころはジョージさんの仕事もそんなにありませんから、ひまで。それで知り合いのシヴィリアン(軍人ではないひと)に米軍のキャンプに連れて行ってもらって、黒人のアマチュアとグループを組んでやってたんです。立川の基地にあるラウンジですね。大きなところはショウが入るから、モダン・ジャズはラウンジでしかできない。そのときのメンバーに、まだアマチュアだったルーファス・リード(b)がいました。
——日本に駐留していたんですか。
ずっといたの。ぼくのほうがプロになったのは先ですから(笑)。オスカー・ピーターソンが来たときに、「レイ・ブラウンに習う」といってね。そのうちベルリンで除隊する。どうしてベルリンかというと、いい楽器が買えるから。それでいきなり「デクスター・ゴードン(ts)とレコーディングした」とか、手紙が来たことがあります。
——じゃあ、そのころから上手かった。
最初は一生懸命メロディを弾いてるだけでしたけど。
——ジョージさんのトリオでやりながら、キャンプでも演奏して。
誰かがコーディネートしてくれて、たまにはジョージさんのトリオでもキャンプに行きました。〈ホット・チャ〉は、黒人のバンドでやっていたときに、メンバーのうちにリズム&ブルースのLPがあって、それを借りてコピーしたと思うんですよ(注18)。それでレパートリーに入れた曲です。
(注18)ウィリー・ウッズの作曲で、65年に録音された『ジュニア・ウォーカー&ザ・オールスターズ/ショット・ガン』(モータウン)がオリジナル・ヴァージョン
——だからタッチがゴスペル・ライクなんですね。
当時はキャノンボール・アダレイ(as)の曲とか、ああいうタイプのジャズが流行っていたから。あのころは学生のジャズ愛好会みたいのが多かったですからね。学園祭とかに呼ばれて。若いひと向けです。
——〈ホット・チャ〉は『ページ2』で発表されたソウル・ナンバーですが、かといえば、あのアルバムにはスタンダードのバラードで〈ラメント〉が入っていたり、スウィンギーな〈オン・グリーン・ドルフィン・ストリート〉が取り上げられていたりと。これは68年の録音で、ぼくもリアル・タイムで買いましたから、そのときの印象は新しい感覚のピアノ・トリオだなあと。
スタンダードでも、マイルスがやっているように、それまでとは違う感覚で弾いてました。
——そのあと、ロイ・ヘインズとクリス・コナー(vo)、別々のレコーディングですが、ジョージ大塚トリオとの共演盤がありました(注19)。
やってますね。
(注19)『ロイ・ヘインズとジョージ大塚トリオ/グルーヴィン・ウィズ・マイ・ソウル・ブラザー』(日本ビクター)メンバー=ロイ・へインズ(ds) ジョージ大塚(ds) 市川秀男(p) 池田芳夫(b) 68年12月8日 東京で録音
『クリス・コナーとジョージ大塚トリオ/ソフトリー・アンド・スウィンギン』(日本ビクター)メンバー=クリス・コナー(vo) ジョージ大塚(ds) 市川秀男(p) 水橋孝(b) 沢田駿吾(g) 69年1月28日、29日 東京で録音
——このときはツアーもされたんですか?
これはスタジオ・レコーディングだけです。ツアーに行ったのは、フィル・ウッズのジャパニーズ・リズム・マシーン(75年)。
——あのときは東京のコンサートを聴きました。そのライヴ盤(注20)もあります。
でも、そんなに長いツアーじゃなかったですね。あのレコードは面白いでしょ(笑)。
(注20)初来日したフィル・ウッズがジョージ大塚トリオと共演。このときは実況録音盤『フィル・ウッズ&ザ・ジャパニーズ・リズム・マシーン』(RVC)が残された。メンバー=フィル・ウッズ(as, ss) 市川秀男(p) 古野光昭(b) ジョージ大塚(ds) 1975年7月31日 東京新宿「厚生年金会館大ホール」でライヴ録音
——名盤です。60年代末からは外国のミュージシャンとの共演が増えてきて。
銀座にあった「ジャンク」がいろんなひとを呼んで、それでやってました。
——ジョー・ヘンダーソン(ts)がそうでした(注21)。あとは?
レジー(ワークマン)(b)さんとは、ハービー・マン(fl)と来たときに知り合って(67年)、ずっとつき合っているんです。それで日野さんが「レジーを呼びたい」となったときに、「手伝ってくれる?」「いいですよ」。
(注21)「ジャンク」で実況録音された『ジョー・ヘンダーソン・イン・ジャパン』(日本ビクター)がある。メンバー=ジョー・ヘンダーソン(ts) 市川秀男(elp) 稲葉國光(b) 日野元彦(ds) 1971年8月4日 東京銀座「ジャンク」でライヴ録音
——だからあのときのピアニストが市川さんだったんだ。レコードもあります(注22)。
面白かったですよ。彼は精神的なことをいろいろいうひとで。
(注22)『Aパート』(ポニーキャニオン)のことで、『レジー・ワークマンに捧ぐ』(TDK)のタイトルで再発もされている。メンバー=日野皓正(tp, fgh) 植松孝夫(ts) 杉本喜代志(g) 市川秀男(p, elp) レジー・ワークマン(b) 日野元彦(ds) 1970年11月1、8日、12月3日 東京で録音
——渋谷のどこかでライヴを聴いた記憶があります。
「オスカー」でしょ。日野さんはフリー・フォームがやりたくてレジーさんを呼んだけど、地方のコンサートでそれが始まるとお客さんがサーっと引いちゃう(笑)。それがわかるから、レジーさんが日野さんに「ぼくがいるからって無理にフリー・フォームをやる必要はない」とか「好きにやれ」といってましたね。日野さんは当時、ジャズの売れ線みたいな演奏をやっていたから。
——でも、あのころの日野さんはフリー・ジャズ的なことがやりたかった。
やりたかったんですね。
独立して自分の音楽を追求
——市川さんはいつまでジョージさんのところにいたんですか?
27ぐらいで辞めてるんじゃないかな?
——ということは72年ごろ。
それまでやっていたのは、割とハードボイルドで都会的なサウンドだったんです。新しい感じでね。だけどサウンドをもっとカラフルにしたかった。きっかっけは、ジャック・ディジョネット(ds)に誘われたレコーディング。あの『ハヴ・ユー・ハード?』(CBSソニー)(注23)で、より自由になりたいと思うようになりました。サウンドやバンドの感じをもっとカラフルにしようと。以前は外人のように演奏するのが一流といわれていましたが、のちに自分の言葉で話したいと思うようになったんです。
(注23)ディジョネットがオールスター・グループで来日した際に残したアルバム。メンバー=ジャック・ディジョネット(ds) ベニー・モウピン(ts, bcl, fl) 市川秀男(p) ゲイリー・ピーコック(b) 1970年4月 東京で録音
——それで独立した。
なにか違うものを目指したいなあと思ったんです。
——ジョージさんのトリオ時代に、松本浩(vib)さんとの双頭コンボで『メガロポリス』(日本ビクター)(注24)を吹き込んでいます。あの作品はカラフルなサウンドだったと思うんですが。
当時はスタジオ・ミュージシャンの仕事も多少はやっていましたから、松本さんにもよくスタジオ仕事に誘われて、その関係で吹き込んだものです。だから、あのアルバムにぼくの意思はほとんどありません。松本さんのバンドによる作品だと思っています。
(注24)松本浩=市川秀男カルテット名義で吹き込んだ作品。メンバー=松本浩(vib) 市川秀男(p) 稲葉國光(b) 日野元彦(ds) 1969年7月9日 東京で録音
——そのころからエレクトリック・ピアノも弾き始めます。
フェンダー・ローズですね。日本にあの楽器が入ってきた5台目くらいを買いました。ジョージ大塚トリオで演奏していたときに、世の中が音楽的にそういう流れになってきたんです。あとは、ライヴ・ハウスのピアノがボロボロなんで、自分専用のものがあればと。
——エレクトリック・ピアノを弾くときとアコースティック・ピアノを弾くときとで、音楽的に変わるんですか?
同じことをやっても響きが違うから、違うように聴こえますよね。
——弾き方を変えることはしない?
自然の流れの中でそうなります。アコースティック・ピアノみたいに、自分の意思で表情が変えられるものじゃない。アコースティック・ピアノはいろんなことができますから。
——まったく違う楽器という感覚ではない。
それはそれなりにです。
——ジョージさんのトリオにいたときも、時間があれば自分のバンドで演奏していたんですか?
トコちゃんとやったぐらいで、レギュラー活動はトリオを辞めてからです。
——最初に組んだバンドは?
亡くなった中川幸男というベースと小津昌彦(ds)さん。その3人でやってました。面白いベースだったんですよ。どうしてメンバーにしたかというと、好き勝手に弾いていたから。みんなキチッとやるでしょ。そうじゃなくて、出鱈目。ぼくも出鱈目をやりたかったから、そういうひととやりたくなった。
——市川さんはトリオにこだわっている?
いまはトリオが多いけれど、若いころはそうでもなかった。地方に行くときにはホーンを入れたりもします。トリオの作品をいっぱい作っているから、トリオでやらないといけない部分もあるし、トリオはトリオで面白いです。
——初リーダー作の『ある休日』(Royal)(注25)はクインテット編成ですものね。70年の録音だから、ジョージ大塚トリオ時代の吹き込み。
これは演歌しか作っていないレーベルで、友だちが作ってくれました。そのひとがたまたま田舎から出てきたときに知り合って。演歌で儲かってたのかなあ(笑)。レコード会社の風潮がジャズになっていたから、「ジャズを作ろう」となったみたいです。
(注25)メンバー=市川秀男(p) 羽鳥幸次(tp) 市原宏祐(ts, fl)横田年昭(fl, afl) 鈴木淳(b) 関根英雄(ds) 1970年6月24日 東京で録音
——『ある休日』の次は『ロック・ジョイ・ピアノ』(日本ビクター)(注26)。ギターの水谷公生さんや杉本喜代志さんと、〈小さな恋のメロディ〉や〈青い影〉とか、当時のヒット曲をカヴァーした、どちらかといえばコマーシャルな作品。
自分で「こういうのがやりたい」ということじゃなくて、ビクターの企画物です。「ロック・ジョイ・イン」シリーズというのがあって、その1枚だったと思います。ですから、あまりジャズっぽくない。
(注26)日本ビクターが契約していたMCAレーベルからの1枚。メンバー=市川秀男(p, org, vib) 水谷公生(g) 武部秀明(eib) 田中清(ds) 杉本喜代志(g) 村岡建(fl, ss) 1971年9月27~29日 東京で録音
——でもアレンジは市川さんで。
ヘッド・アレンジですから、たいしたものじゃないけど。
——ジョージさんのグループを辞めたあとには大野俊三(tp)さんや植松孝夫(ts)さんをフロントにした『インヴィテーション』(RVC)(注27)を残しています。
片面がクインテットで、もう片面がトリオ。ジョージさんはトリオを解散したあと、バンドをカルテットやクインテットにして、そのときに大野君と植松君が入ってきたんです。
(注27)A面は市川が在籍していたジョージ大塚クインテットからドラマーが関根英雄に交代したメンバーによるもの。メンバー=(A面)市川秀男(p) 大野俊三(tp) 植松孝夫(ts, ss) 水場孝(b) 関根英雄(ds) 1973年8月3日 東京で録音 (B面)市川秀男(p) 福井五十雄(b) 山木秀夫(ds) 1976年8月20日
——そのメンバーでレコーディングしたのがこのアルバム。
ベースが水橋孝さんでドラムスが関根英雄さん。ジョージさんのトリオに入る前、自分のバンドでナイト・クラブに出ていたときに上手いベース・プレイヤーがいたんです。その上手いベースは博打がすごく好きで、滅茶苦茶になっちゃって。それでクビにして、ゴンさん(水橋)を誘った。まだぜんぜん弾けないときで、そこからのつき合い。ジョージさんのときも、寺川さんが辞めるとなって、ぼくが推薦して、入ってもらったんです。
さまざまなジャズを追求
——そのあとはスリー・ブラインド・マイス(TBM)からアルバムが出ます。最初は、A面が森剣治(sax)さんのソロで、B面が市川さんのトリオ(注28)によるライヴ盤。
このトリオは杉本喜代志さんのバンドにいたメンバーです。杉本さんが抜けたあと、この3人でやるのが面白いから引き受けたの。それで何回かジャズ喫茶でやりました。
(注28)A面に森剣治の無伴奏ソロ、B面に市川のトリオ演奏を収めた『ソロ&トリオ』のこと。メンバー=市川秀男(p) 川端民生(b) 倉田在秀(ds) 1974年3月22日 東京赤坂「都市センターホール」でライヴ録音
——この少しあとに、ジョージ大塚トリオで『ユー・アー・マイ・サンシャイン』(TBM)(注29)も録音します。あれはゴスペル・ライクな演奏で。
ハッピーなのを作ろうということで、ベースは関西の宮本直介さん。ジョージさんのトリオにいたときは割とシリアスな演奏をしていたから、疲れると「ハッピーなのをやろう」「みんなが知ってる曲をやろう」と。そのことを思い出して、あのときは〈ユー・アー・マイ・サンシャイン〉とかを吹き込んだんです。
(注29)レコーディングのために大塚と市川が再会。メンバー=ジョージ大塚(ds) 市川秀男(p) 宮本直介(b) 1974年10月31日 東京で録音
——TBMからはもう一枚、リーダー作の『明日への旅立ち』(注30)を出します。
これは自分のオリジナルばかり。いろいろダビングして、凝った内容になっています。このときは福井五十雄(b)さんと山木秀夫(ds)さんのトリオで。
(注30)TBMに残した唯一のリーダー作。メンバー=市川秀男(p, elp, recorder, per) 福井五十雄(b, cello, per) 山木秀夫(ds, per) 1976年7月27日、8月17日 東京で録音
——そのあと、このトリオにパーカッションの中島御(おさむ)さんを加えて『スカイ・スクレイパー』(ユニオン)(注31)と『オン・ザ・トレイド・ウインド』(Planets)(注32)を吹き込む。
『スカイ・スクレイパー』は、中島さんも入っていますけど、トリオの初リサイタルを録音したものです。『オン・ザ・トレイド・ウインド』はマイナー・レーベルでの録音。ジョージ川口(ds)さんのところにいたギターの藤田正明さんがそのレコード会社のディレクターで。それで「作らない?」といわれて。これはスタンダードとオリジナルの組み合わせで、スタジオではなくてホールを借りて録音しました(埼玉会館大ホール)。HSC(デジタル録音方式の一種)だったかな? 高音質で録音した作品です。
(注31)メンバー=市川秀男(p) 福井五十雄(b) 山木秀夫(ds) 中島御(per)1976年12月2日 東京芝「ABCホール」でライヴ録音
(注32)メンバー=市川秀男(p) 福井五十雄(b) 山木秀夫(ds) 中島御(per)1977年7月1日 埼玉県「埼玉会館大ホール」で録音
——80年に結成したのが富樫雅彦さんと鈴木勲(b)さんとのザ・トリニティ。
亡くなったRVCの木全信(きまた まこと)(プロデューサー)さんが担当していたクール・ファイブ(注33)のラテン・アルバム(注34)を、横内章次(g)さんと半々でアレンジしたことがあるんです。その繋がりから、木全さんが「ジャズのレコードを作ろう」となって、3人をピックアップしたのがザ・トリニティで、アルバムを2枚作りました(注35)。
(注33)内山田洋が率いる歌謡コーラス・グループで、67年に長崎市のキャバレーでデビュー。68年にメイン・ヴォーカルの前川清が加わり、69年〈長崎は今日も雨だった〉でレコード・デビュー。以後数々のヒットを放つ。
(注34)83年に発表した『内山田洋とクール・ファイブ/愛・トリステ』(RVC)のこと。〈リラの恋人〉〈オルフェの朝〉などを収録。
(注35)ザ・トリニティによる1作目が『ワンダー・ランド』(RVC)。メンバー=市川秀男(p, elp, vocoder, per) 鈴木勲(b, piccolo b, marimba) 富樫雅彦(ds, per) 1980年3月26日 東京で録音2作目の『微笑み(スマイル)』(RVC)はスタンダード集。メンバー=市川秀男(p) 鈴木勲(b, piccolo b) 富樫雅彦(ds, per) 1980年11月24、25日 東京で録音
——富樫さんには、昔、バンドに誘われたことがありますが、鈴木さんとはどういう縁で?
オマさん(鈴木勲)は、「タロー」でやってたときに、いつものぞきに来てたの。でも、ふたりともこのレコーディング以前にはあまり一緒に演奏したことがなかった。富樫さんは脚が使えなくなってからのほうが演奏に広がりが出て(注36)、ぼくは好きです。ほかのドラマーとはハートが違う。もちろん、ジャズのエッセンスも持っていますし。4ビートのジャズに限らなくなったから、面白いこともできるようになったし。
(注36)70年に脊髄を損傷し下半身不随となる。以後は、独自で考案したドラム・セットで個性的な音楽とサウンドを追求した。
——リーダーとして活動する一方、76年にはジョージ川口さんのビッグ・フォアにも入られる。
東京オリンピックのときに、ぼくが出ていたナイト・クラブに川口さんが自衛隊のお偉いさんと来たことがあって。あのころは有名人がお忍びでナイト・クラブなんかによく来てたんです。
——そのあとはどういう繋がりが?
年代が違うから、ぜんぜんあるわけがない。村岡建(たける)(ts)さんから「手伝って」といわれたのが始まり。でも、建ちゃんはすぐ辞めちゃった。ぼくが入ったときは建ちゃんと水橋孝さんがやってたんだよね。そのころの川口さんは、クラブのショウがメイン。新宿のナイト・クラブなんかにバンドで入れるのは川口さんのバンドしかない。
——それまでやっていた演奏とはタイプが違います。
だから、「懐メロ・ジャズ」みたいな感じで、あまりやりたくなかった。最初に聴いたのが〈ジス・ヒア〉や〈モーニン〉とかのファンキー・ジャズじゃないですか。「スケジュールが空いてない」と断ると、「次の週は?」といわれちゃう。あんまりそういわれたんで、断れなくなっちゃった(笑)。
——何年ぐらいやっていたんですか。
76年から亡くなるまで(2003年に死去)。本当の急死で、次の週もスケジュールが入っていたんです。メンバーは建ちゃんのあとが中村誠一(ts)さんになって、水橋さんとぼくはそのまま。川口さんは、ぼくたちのように若いプレイヤーと演奏するのが楽しかったみたい。世代が近いひとはかしこまっちゃうけど、ぼくたちは平気で冗談をいってましたから。誠一ちゃんなんか「どうせ走るんだから、ゆっくり始めよう」なんて、川口さんにいいますからね。われわれの先輩はそんなこといえないから、楽屋見舞いに来たひとたちが「ワー、そんなこといえちゃうんだ」でした(笑)。
コンサートで渡辺貞夫(as)さんを呼ぶと、必ず上がっちゃう。雇われていた時代に戻るんだって。だから、追悼コンサートがいちばんよかった(笑)。ジョージさんがいなかったから。あれは受けました。
——ジョージさんは怖いひとじゃなかった?
すごく優しかったですよ。
——松本英彦さんが飛び入りしたことはなかったんですか?
本当は誠一ちゃんじゃなくて、ビッグ・フォアは松本さん(注37)。プロモーターとしては、松本さんがいたほうが華やかなので、希望しますよね。だから松本さんとの仕事もずいぶんありました。それがビッグ・フォアで、誠一ちゃんが入ってからはニュー・ビッグ・フォアといってました。そこに岡野等(tp)さんが入るとビッグ・フォア・プラス・ワン。
(注37)53年にジョージ川口が、松本英彦、中村八大(p)、小野満(b)と結成したコンボ。ジャズを超えて広い人気を獲得し、ジャズ・ブームの中心的役割を果たした。54年には宮沢昭と上田剛を迎え、第2期ビッグ・フォア結成。58年ごろには渡辺貞夫を加えたビッグ・フォア・プラス・ワンで注目を集めた。
——上田剛さんが2代目のベーシストですが、上田さんもときどき来ていましたか?
そうですね。でも、もうミュージシャンは辞めていたからちょっと弾くだけで。
ジャズ以外の活躍も多彩
——最近は椎名林檎(注38)さんのレコーディングなどをやっています。
ぼくの一番弟子が斎藤ネコ(注39)。藝大の作曲科にいた19のときからうちに来ているんです。作曲科だから譜面の清書を頼んだり、スタジオに連れて行っていろいろなことをやらせました。実はジャズ・ピアノが習いたくて来たんです。でもぼくはそのことを知らなかったし、作曲科だから勘違いしてたんです。いまは林檎ちゃんのプロデューサーでしょ。それで頼まれて、山木秀夫と高水健司(b)がリズム・セクションでいくつかやってます(注40)。
(注38)椎名林檎(音楽家1978年~)98年デビュー。デビュー作『無罪モラトリアム』(東芝EMI)と2作目『勝訴ストリップ』(同)がミリオンセラーを記録。2004~12年は東京事変の活動も並行。映画、舞台、TVドラマなどの音楽も手がけ、演歌からポップスの歌手やグループにも楽曲を提供。16年のリオデジャネイロ・オリンピック/パラリンピックにおいて、フラッグハンドオーヴァー・セレモニーのクリエイティヴ・スーパーヴァイザーと音楽監督を務める。
(注39)斎藤ネコ(vln 1959年~)東京藝術大学音楽学部作曲科卒業。多くのCM音楽、アーティストの作編曲、アルバム・プロデュースなどを手がける。範囲はクラシックからハード・ロックまでと幅広い。主な作品に、新国立劇場「城」、世田谷パブリックシアター「審判」、シアターコクーン「黴菌」、群馬交響楽団「100万回生きたねこ」、椎名林檎「Ringo EXPO 08」などがある。
(注40)2009年『三文ゴシップ』(EMI)収録の〈旬〉、17年『逆輸入〜航空局〜』(ユニバーサル)収録の〈薄ら氷心中〉などがある。
——市川さんにとって、ジャズの面白さはどんなところでしょう?
いちばん面白いのは、曲を弾くことじゃなくて、そのときになにが表現できるかですね。本当は曲なんかなくて始めたいと思っているんですよ。テーマがなくて、いきなり即興演奏を始めたい。それが理想だと思っています。
——そういう演奏をやられたこともあるんですか?
いまはそれに近いです。
——フリー・ジャズとは違う?
ぼくを「セミ・フリー」と呼ぶひとがいます(笑)。それはテーマ・メロディがあるときですね。曲を作ってアレンジをして、そこにソロのスペースを作れば、それがセミ・フリー。
——曲もなく演奏を始めるとおっしゃるけど、市川さんは作曲家になりたかった。まったく逆ですよね。
だからピアノを弾くときはせめてね、ということです。作曲家としては、1000曲まではいきませんけどコマーシャルもけっこう書きました。CMのアルバム(注41)もあります。このアルバムには、ぼくの大恩人である大森昭男(注42)プロデューサーと一緒に制作したものが収められています。
(注41)『市川秀男CM WORKS ON・アソシエイツ・イヤーズ』(Solid)のこと。セイコー、資生堂、ヤマギワ電気、伊勢丹、NIKKA、象印、グンゼ、丸井、ブリヂストン、Sony、雪印、日立、サントリー、TOTO、明治製菓、日清食品などのCMを47曲収録。
(注42)大森昭男(CM音楽プロデューサー 1936~2,018年)60年三木鶏郎の「冗談工房」入社。65年作曲家の桜井順とブレーンJACK設立。72年、ONアソシエイツ音楽出版設立。CM音楽に、大瀧詠一、山下達郎、坂本龍一、鈴木慶一、大貫妙子、井上鑑などをいち早く起用。77年「三ツ矢サイダー」、78年「資生堂・サクセスサクセス」、79年「資生堂・君の瞳は10000ボルト」、81年「ミノルタ・今の君はピカピカに光って」などの話題CMを手がける。
——有名なものは?
ジャズっぽい曲ではサントリーのジョン・ファディスとクラーク・テリーの2トランペットによる曲(〈テイク・ダブル〉)。レコーディングもしています(注43)。あと面白いのは、レイ・チャールズ(vo/p)が、桑田佳祐(注44)君の曲(〈エリー・マイ・ラヴ〉)の演奏部分をぜんぶ消して、バックをジャズのトリオにして、ライヴ・ハウスにフラッと来て歌うセッティング。これはサントリーの商品のオマケで、カセット・テープです。
(注43)『テイク・ダブル』(Philips)のこと。メンバー=クラーク・テリー(tp, fgh) ジョン・ファディス(tp, fgh) ドド・マーマローサ(p) ジミー・ウッド(b) エド・シグペン(ds) ハロルド・ランド(p) ジョージ・ムラツ(b) テリ・リン・キャリントン(ds) ミノ・シネル(per) 1986年2月27日 ニューヨークで録音、5月19日 スイスで録音
(注44)桑田佳祐(ミュージシャン 1956年~)シンガー・ソングライターで、ロック・バンド、サザンオールスターズのリーダー。楽曲の作詞作曲、ヴォーカル、ギターを担当。妻は同バンドの原由子。78年に〈勝手にシンドバッド〉でデビュー。現在まで多くのヒット曲を放ち、日本を代表するアーティストのひとりとして活躍している
——それは市川さんがピアノを弾いて。
はい。そういうの、面白いですよね。
——映画音楽は?
竹下景子(注45)さんが初めて映画に出たときの作品(注46)。その音楽を担当しました。映画音楽はあまりやってないけれど、テレビは多いです。『火曜サスペンス』とか『消えた巨人軍』とかね。『火曜サスペンス』にはジャズ好きのプロデューサーがいたんです。
(注45)竹下景子(女優 1953年~)中学1年のときにNHK『中学生群像』(『中学生日記』の前身)でデビュー。75年『日本任侠道・激突篇』で映画初出演。77年『雨のめぐり逢い』で映画初主演。76年10月からTBSテレビ系列『クイズダービー』のレギュラー回答者。以後も映画、テレビ、舞台などで活躍中。
(注46)77年製作の松竹映画『雨のめぐり逢い』のこと。野村孝の監督で、音楽を市川が担当した。
——クラシックの作曲をやろうとは思わないんですか?
思わないですね。
——学校を出てからクラシックの仕事もしていない?
してません。
——クラシックのピアノも弾かない。
とんでもないです(笑)。
——ジャズ一辺倒。
ジャズも自己流ですけど。
——作曲家になろうと思っていたわけですから、ジャズでも曲を書きたいと考えていたんですか?
演奏するのは自分の曲がやりたいから。そのほうが面白いことができる。いまは年に3回、目白のレストランでライヴをやっていますが、みんなオリジナルの曲で。
——クラシックの道に進まずジャズ・ピアニストになって、どうでしたか?
楽しいですよね。いろんな過程があって、いろんなひとと知り合って。これからもいろいろやりたいですね。そのためには元気じゃないと。
——そうですね。これからも健康に気をつけて、多くのファンを楽しませてください。
2年前にやっと煙草が辞められたんですよ。
取材・文/小川隆夫
2018-02-17 Interview with 市川秀男 @ 初台「市川秀男邸」
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