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【証言で綴る日本のジャズ】村岡 建| 50年代の邦ジャズ界に現れた“スーパー高校生”

連載インタビュー「証言で綴る日本のジャズ」 はじめに

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズシーンを支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場する“証言者”はサックス奏者の村岡建。ジョージ川口や白木秀雄、日野皓正のグループで活躍しながら、映画やドラマ主題歌、CM曲、歌謡曲にも数多く参加。とりわけ、加山雄三「君といつまでも」、ガロ「学生街の喫茶店」、山口百恵「横須賀ストーリー」などの“誰もが聞いたことのあるイントロや間奏”は村岡によるものである。ジャズマンとして多様なメディアに関与してきた同氏の発言の端々に、当時のエンタメ界の構図が垣間見える。

村岡 建/むらおか たける
サックス奏者。1941年1月12日、東京都世田谷区千歳船橋生まれ。高校三年でジョージ川口とビッグ・フォア・プラス・ワンに抜擢されて本格デビュー。五十嵐武要クインテット、ゲイスターズ、白木秀雄クインテット、小原重徳とブルーコーツ、沢田駿吾クインテットなどを経て、68年に日野皓正クインテットに参加。このグループでの斬新な演奏が高く評価され、トップ・テナー奏者となる。71年の退団後はスタジオ・ミュージシャンの仕事に主力を注ぎ、90年代には人気テレビ番組『オシャレ30・30』にも出演。一方で「アン・ジャズ・スクール」では34年にわたって講師を務めた。

メロディを聴けば「ドレミ」がわかった

——生まれた場所と生年月日を。

生まれたのは東京の世田谷区千歳船橋で、経堂のお屋敷町のど真ん中。誕生日は1941年1月12日。

——ということは、生まれた年に戦争が始まった。

親父は材木商で、陸軍に材木を入れている大きな会社の社長。昭和19年に空襲がひどくなったから、「東京にはいられない」というんで、千葉県の印旛沼に疎開したの。そうしたら、翌年の3月10日に深川の大空襲があって。夜中にトイレで起きたら、千葉から見てても、空が真っ赤。それで、母親が「これは怖すぎる」と、次の次の日に秋田県に移るんです。材木の原木を採るところが秋田にあったので、秋田県の田舎に逃げ込んで。そこに戦後もしばらくいて、小学一年生になるときに(46年)、世田谷の家に戻りました。

——世田谷は空襲に遭わなかったみたいですね。

火もなにも、まったく大丈夫でした。ぼくは5人兄弟の4番目で、年の離れたふたりの姉はピアノやヴァイオリンを習っていたんです。ぼくはなにも習っていなかったけれど、姉たちがやっていたコールユーブンゲン(注1)を一緒に歌わされて。4つから7つの間のことだけど、あるとき、姉がお琴で〈さくらさくら〉を弾いたときに、突然音が「ドレミ」に変換されて聴こえてきた。

(注1)ドイツの音楽家フランツ・ヴュルナーが1876年に刊行した『ミュンヘン音楽学校の合唱曲練習書』。

——ほかの曲はどうだったんですか?

ほとんどがドレミでわかるようになってました。小学三年ぐらいまで、学校ではスペリオパイプ(リコーダーの一種)をやってて、家にはピアノがあったから〈エリーゼのために〉とかそういうのを弾いて。

——村岡さんが?

姉のピアノを横で見て、一緒に指を動かして弾き方は覚えちゃう。五、六年のときに、となりのうちのひとが持っていたハーモニカを吹かされて。ハーモニカでも、知ってるメロディは吹けました。

ぼくは東京に戻って和光学園の小学校に入って、兄は成城学園。成城学園ではウエスタンが流行っていたから、家にいると、兄は朝から晩までハンク・ウィリアムズ(注2)やハンク・スノウ(注3)とか、そういうひとのレコードをかけている。土曜日にはFEN(注4)で8時から「グランド・オール・オプリ」(注5)を聴いて、8時半からは「トップ20」。「トップ20」は30分で20曲かかる。

(注2)ハンク・ウィリアムズ(カントリー・シンガー 1923~53年)カントリー音楽において最重要人物のひとり。29歳で亡くなるまでに『ビルボード』誌の「カントリー&ウエスタン・チャート」で11枚のナンバー・ワン・ヒットを含む35枚のトップ10シングルを残す。ヒット曲に〈アイ・ソー・ザ・ライト〉(48年)、〈ラヴシック・ブルース〉(49年)、〈ヘイ・グッド・ルッキン〉(51年)、〈ジャンバラヤ〉(52年)などがある。

(注3)ハンク・スノウ(カントリー・シンガー 1914~99年)カナダ生まれで、33年にデビュー。ヒットに恵まれず、50年にテネシー州ナッシュヴィルのショーで自作の〈ムービン・オン〉を歌ってスターの座につく。

(注4)45年9月に開局した在日米軍向けのAMラジオ放送。当初はWVTRと呼ばれ、その後はFENの名で親しまれ、97年からはAFNに改称。

(注5)テネシー州ナッシュヴィルのラジオ局WSMが毎週土曜の夜に放送しているカントリー・ミュージックの公開ライヴ。グレート・アメリカン・カントリー(GAC)ネットワークでTV放送化もされている。25年11月28日に放送が開始され、現在まで続くアメリカ最古の番組。

ハーモニカの楽譜は数字譜だから、勉強しながら「トップ20」を聴いて、〈慕情〉(注6)とか、当時のヒット曲をぜんぶ「1、2、3」の数字で雑記帳に書いていく。それが特技で、学校に行くと、「今度流行るのはこれ」とか「10位はこれ」とかいって、ハーモニカで吹く。小学校、中学校と、ずっと「トップ20」を聴いてました。ところが初めて音が取れなくなったときがあって、それが〈慕情〉のCシャープの音。

(注6)55年に公開された同名アメリカ映画の主題歌。サミー・フェイン作曲による主題歌は「第28回アカデミー賞」で〈歌曲賞〉を受賞。

——半音だから。

そのときはそれがわからなくて、自分のハーモニカじゃどうしてもその音が出ない。ピアノのところに行けばよかったけれど、その半音を覚えるため、新宿の楽器屋さんに連れて行ってもらって、Cシャープのハーモニカを買って。2段重ねて〈慕情〉が初めて吹けるようになった。

——それが中学生のころ。

そう。高校は日本学園で、明大前にある。そこのブラスバンド部に入るんです。

——ブラスバンド部に入ったのはどうして?

音楽がわかるから。それで「どの楽器がいい?」と聞かれて、ベニー・グッドマン(cl)が好きだから「クラリネットがいい」。ところがクラリネットは3本しかなくて、ぼんやりしていたせいか、ぼくは4人目で。だから、ひとがやっているのを「いいな、いいな」と、見てました。

そうしたらしばらくして部費が下りて、先輩が神田の楽器屋さんでサキソフォンを買ってきた。「これがアルト・サックスだ。いままで楽器がなかったけど、今日からはお前がこれだ」といわれて、「エッ、これ、どうやるんですか?」。先輩が「ドシラソ〜」と見本を見せてくれて。

ぜんぜん吹いたことがないのに、指使いがスペリオパイプと同じだったから、吹いてみたら音が出た。それでヒット・パレードのナンバー・ワン、そのころは映画の『黄金の腕』(注7)の主題歌を、渡されてまだ10分くらいのときに吹いたものだから、学校中が驚いて。音楽の先生なんかもみんな部室に来て、たいへんなことになっちゃった(笑)。

(注7)55年公開のオットー・プレミンジャー監督によるアメリカ映画。麻薬中毒のドラマーの話で、「第28回アカデミー賞」の〈主演男優賞〉にフランク・シナトラ、〈作曲賞〉にエルマー・バーンスタイン、〈美術賞〉にジョセフ・C・ライトとダレル・シルヴェラがノミネートされたが、いずれも受賞は逃した。

ジャズでプロのミュージシャンに

——ジャズを聴き始めたのはいつ?

ジャズは高校一年になってから。中学三年までは「トップ20」とか「グランド・オール・オプリ」とか、そっちでした。高校でサキソフォンになって、初めてジャズを聴くようになる。毎週聴いていたラジオ番組が、ジョージ川口(ds)さんや松本英彦(ts)さんのビッグ・フォアが出ていた『トリス・ジャズ・ゲーム』(注8)。番組では、必ずジョージさんがお客にリクエストを募集して、できない曲があると、そのひとに賞品が渡る。バンドができないような難しい曲をみんないうけど、英彦さんはなんでも吹けちゃう。ぼくが知らない曲を英彦さんが吹くと、数字譜でそれをコピーして。

(注8)文化放送がキーステーションとなり全国ネットで54年12月26日放送開始(57年2月末終了)。壽屋(現在のサントリー)がスポンサーで、制作が「ビデオホール」。毎週ジョージ川口とビッグ・フォアが出演し、司会はロイ・ジェームス。サントリー製品が賞品として授与された。

そんなことをやっていたら、父親から「藝大(東京藝術大学)に行きなさい」と勧められて、藝大に行くため、大橋幸夫(注9)さんというクラリネットの先生につくんです。日本学園のすぐ裏に家があって、そこに毎週通っていました。

(注9)大橋幸夫(cl 1923~2004年)NHK交響楽団首席クラリネット奏者として活躍し、国立音楽大学の教壇にも立つ。日本クラリネット協会永久名誉会長、国立音楽大学名誉教授、N響団友。

——中村誠一(ts)さんも鈴木孝二(cl)さんも、音大に入るため、高校のときに通ったとおっしゃっていました。

ふたりともそうです。

——高校でアルト・サックスをやりながら?

一年から三年まで大橋先生にクラリネットを習って。「藝大を目指すならクラリネットを勉強しろ」といわれていたけど、先生からは「クラリネットではクラシック、サキソフォンではジャズをやりなさい」「うちに来ているときはクラシック・プレイヤーだから、クラリネットを覚えなさい」。

——鈴木孝二さんは、最初、大橋先生から「音楽家にならないでサラリーマンになったほうがよっぽどいい」と断られたそうですが、そんなことはなかった?

先生は、ぼくが一年のときに「見どころがある」といってくれたんです。藝大にいた山本正人(注10)さんというトロンボーンの先生が聴音も教えていて、大橋先生が、「1回、その先生のところに行って、聴音のレッスンを受けて来なさい」。

(注10)山本正人(指揮者、トロンボーン奏者 1916~86年)39年東京音楽学校本科を卒業し、45年同校研究科修了。62年から東京吹奏楽団創立以来の常任指揮者。東京藝術大学音楽学部器楽科トロンボーン助教授を経て、同音楽学部ソルフェージュ科教授で学生部長、聖徳学園短期大学の教授を歴任。

池袋から東上線に乗って山本先生の家に行きました。2、30人の生徒が来ていて、みんなに五線紙を渡して、先生がピアノを弾く。弾き終わったと同時に、ぼくが五線紙を渡したの。そうしたら先生がパッと見て、「ぜんぶ合っているけれど、キーが違う」。「これ、Cのキーで取っただろう」「それじゃあ、やる前にCの音を出してください」「じゃあ、Cを1回だけ弾くよ」。ポンと音を出して、わざと違うキーで次の16小節を弾いたの。それでも20何人かいる生徒の中で最初に渡したら、先生がビックリして(笑)。

1時間のレッスンの間に、それが一声だけじゃなくて、二声になって、三声になって、五声になって、最後は肘でバーンと弾いて。それが最後までぜんぶ回答できた。レッスンが終わったら、「ここに名前と住所と電話番号と、ぜんぶ書きなさい」。「見どころがあるから、英語も数学も、なんの勉強もしないで、音楽の勉強だけしなさい。そうしたら死んでも藝大に入れてあげる」「わかりました。ぼくもそういうつもりです」って、高校一年ですから、喜んで帰って。

——そんな村岡さんですが、高校三年でクラブの仕事をしていたとか。

ぼくは高校三年を2回やってて、最初の三年のころによく通ったのが渋谷にあったジャズ喫茶の「デュエット」。そこで、夏休みにホレス・シルヴァー(p)のクインテットにハンク・モブレー(ts)が入っている〈ノー・スモーキン〉(注11)を数字譜でコピーしてたら、横で見てたひとが「なにやってるんだ?」。「コピーしてる」といったら、「今日、神田のキャバレーで仕事があるけど、来ないか?」。アルト・サックスを持っていたので、一緒に行ったら、出ていたのがスウィング・バンドで、「吹いてくれ」。

(注11)『ザ・スタイリングス・オブ・シルヴァー』(ブルーノート)に収録。メンバー=ホレス・シルヴァー(p) アート・ファーマー(tp) ハンク・モブレー(ts) テディ・コティック(b) ルイス・ヘイズ(ds) 1957年5月8日 ニュージャージーで録音

——すぐに吹けたんですか?

ワン・コーラス聴けばメロディを覚えるから、次のコーラスから吹ける。コード進行もある程度わかっちゃうし。

——アドリブも吹けたんですか?

なんか、いろいろできたんだよね。そのひとはプロのギタリストで、そのキャバレーを辞めることになって、そのままサキソフォンで入っちゃった。

——それが、ギャラももらった初めての仕事。

1か月で3000円だから、1日100円。千歳船橋から神田まで電車で往復すると60円かかる。40円にしかならないけど、〈ベサメ・ムーチョ〉とか〈マイアミ・ビーチ・ルンバ〉とか、毎日いろんな曲を吹けるのが楽しくて。うちに帰るとそれを数字譜にしてたから、『1001』(注12)みたいなものを自分で作ってた。

(注12)著作権など無視して作られた海賊版で、戦後に日本のミュージシャンが愛用したスタンダード・ナンバーの楽譜集。

そういうことをやっているうちに、ドラムスのひとから「新宿のキャバレーで一緒にバンドをやろう」といわれて。「ジャズ・コーナー」というジャズ喫茶の裏にある「クラブ・フジ」という未亡人サロン(笑)。そこのテストを受けて、ドラムスのひととバンドを組んだんです。最初に入ってきたピアノが山下洋輔さん。そのときのベースが滝本国郎さんで、トランペッターが山木というひと。

——最初の三年のときだから、58年か59年の話で。やっていたのはスウィング・ジャズ?

そのときはジャッキー・マクリーン(as)とかのモダン・ジャズ。

——山下さんはどんなピアノを弾いていたんですか?

ハンプトン・ホーズ(p)の曲とか。でも1か月くらいで山下さんは辞めちゃった。そのあとに入ってきたのが、マッコイ・タイナー(p)みたいな感じでピアノを弾く慶応ボーイの竹村さん。このひとも1か月くらいで辞めて、そのうち大阪に帰って、関西のテレビの副社長になった。次に入ってきたのがコルゲン(鈴木宏昌)。彼も1か月で辞めて、次がプーさん(菊地雅章)(p)の弟で菊地雅洋。

——米軍のキャンプやクラブで演奏したことは?

新宿のクラブでやってるときに、渡辺文男(ds)さんと寺川正興(b)さん、ピアノが板橋さんというひとの3人にぼくが入って、厚木にあった米軍のEMクラブによく行ってました。それでハッと気がついたら、アルト・サックスは渡辺貞夫さんが段違いに上手いけど、テナー・サックスならまだ潜り込めそうだと。それで、母親にセルマーのテナー・サックスを買ってもらって。だから新宿のクラブはアルトで仕事をしてたけど、テナー・サックスも持っていた。

——アルトとテナーではキーが違うけど、問題はなかった?

それはぜんぜん関係ない。なんだってできちゃうんだから(笑)。クラリネットの下のキーがEフラットでアルトのキーだし、オクターブ・キーを押すとBフラットで、テナーがBフラットだから。

高校三年でジョージ川口のビッグ・フォア・プラス・ワンに

——ジョージ川口さんのバンドに入るのがこの次?

三年生の夏休みにジョージ川口さんから声がかかって、テストに受かっちゃった。どうして声がかかったかというと、ジョージさんのバンドには佐藤允彦(p)さんがいたけど、彼が辞めて、ぼくらのバンドからコルゲンが移っていたの。コルゲンが入ったときのテナー・サックスは松本英彦さん。で、松本さんが白木秀雄(ds)さんのバンドに移るんで、ジョージさんに、コルゲンが「村岡というのがいるよ」。

それでテストに受かったものだから、「明日からうちのバンドに来い」と、スケジュールを渡されて。当時は白木秀雄さんとジョージさんのふたつのバンドが「ドラム合戦」で全国を廻っていたんです。1か月の間に仕事が25日。いきなり次の日から四日市のなんとか市民会館とか、名古屋や大阪に行ってと、手帳が真っ黒になった。コルゲンのほかは、ベースが鈴木淳さんで、トランペットが林鉄雄さん。チェンジ・バンドが白木さんのクインテットで、サックスが松本英彦さん、トランペットが仲野彰さん、ピアノが世良譲さん、ベースが栗田八郎さん。

——バンド名はジョージ川口とビッグ・フォア・プラス・ワン。

ぼくがプラス・ワン。

——ジョージさんのバンドに入ったのが?

「クラブ・フジ」に行ったのが最初の高校三年のときで、ミュージシャンになっちゃったから、高校は卒業できなかった。それで親父が「このままじゃダメだから、もう一度高校に行きなさい」となって、違う高校に行かされた。そっちの高校に行ってるときに、コルゲンから電話がかかってきて、ジョージさんのバンドに入るんです。

テストを受けるため、新宿の「ラ・セーヌ」に行ったら、白木バンドが先にやって、次がジョージさんのバンド。ステージに上がって〈ブルース・マーチ〉とかをやったのかな? 1日で3ステージか4ステージ。それで「明日から来い」。あとで知ったけど、白木さんと松本さんがジョージさんから頼まれて、「テストをするから、2階の客席で観てて、バンドに入れたらいいかどうかの判断をしてくれ」という話だったみたい。

——ジョージ川口さんとか松本英彦さんとか、大スターじゃないですか。方や、高校三年生で、ジャズも始めたばかりの村岡さん。どんな気持ちでしたか?

大御所がアドリブをして、そのあとにぼくがプレイするんだから、いまの藤井聡太(注13)ですよ。普段は学生服を着ていて、そのときのためにスーツを初めて買ってもらって。実際、必死でした。ピアノは「こういうコードで」って弾いてくるから、「その音だったら、こっちのアドリブかな?」とかね。頭の中にあるアイディアで「こういうふうに吹こう」と考えるだけじゃなくて、同時にベースがどう動いているかも聴きわけないといけない。次はピアノから「こっちに転調したい」と信号が来る。「ハンク・モブレーだったらこういうフレーズを吹くから、ここはこうやろう」。

(注13)藤井聡太(将棋棋士 2002年~)2016年9月3日に14歳2か月でプロ入りし、最年少棋士記録を62年ぶりに更新。17年にはデビューから無敗のまま歴代最多連勝記録(29連勝)を達成。そのほか、一般棋戦優勝、全棋士参加棋戦優勝、6段昇段の最年少記録を更新。

耳と頭の中にあるコードのアプローチを駆使しながら、ジョージさんのプッシュにすぐ反応する。「アフタービートになってきたから、もっとノリのいいフレーズにしよう」とかね。さっきのステージで英彦さんが吹いたフレーズをそのまま吹いちゃったり(笑)。ほかのひとが使ってて気持ちのいいフレーズはすぐ盗めちゃう。朝から晩までレコードを聴いてるから、ハンク・モブレーとかのフレーズが頭の中に入る。1回聴くと、だいたいそういうふうに吹ける。

——ハンク・モブレー以外でそのころよく聴いていたのは?

ジャッキー・マクリーンとホレス・シルヴァー。

——ジョージさんのバンドに入ったときはテナー・サックスになっていた?

そうです。

——新宿にあったジャズ喫茶の「キーヨ」にも入り浸って。

そこでもアート・ブレイキー(ds)の新しいレコードが入ったら、A面をぜんぶドレミで書いて。「今度はB面の2曲目が聴きたい」と頼んでも、1回聴いちゃうと連続してかけるわけにいかないから、2時間ぐらい待たないとならない。2回くらい聴いても、半音でわからないところがあるとまた聴いて。わからないと悔しい。カセットもなにもない時代だから、家に帰って、頭の中でもう1回組み立てて、吹いてみる。それでもわからない。ピアノのところに行って、音を探って。でもまだ違う感じで、どうもわからない。想像で音を書いておいて、それで吹いているうちに、「アッ」っとわかる曲もありました。

——ジョージさんのバンドはツアーの連続で、クラブでショーもやっていました。

クラブやキャバレーでね。〈ドラム・ブギ〉をやれば大受けになって、来月は北海道のキャバレーを一周、今度は九州と、そういうペースでした。

——ギャラもよかった?

ジョージさんのバンドは月給で。兄貴が大学を卒業して2万5千円ぐらいのときに、7万円とか8万円。いまでいうなら100万円近くもらってた。

——それが高校三年ですものね。

それで、「藝大に行くか?」といわれても、「行かなくてもいいかな」と思っちゃうでしょ? クラシックの世界に入るにはたいへんな勉強をしなくちゃいけないし、オーケストラなんて入ることすらなかなかできない。先輩がずらっと並んでいて、50人くらいのところに3人か4人くらいの仕事しかない。ジャズだったら、今日から仕事がある。

——ジョージさんのバンドにいたときは、月給制だから、ほかのバンドとのかけ持ちはしないで。

専属でした。

白木秀雄クインテットに参加

——ジョージさんのバンドには1年ほどいて、次が五十嵐武要(いがらし たけとし)(ds)さんのバンド。

そこはほんとに数か月。

——次がゲイスターズ。

ゲイスターズに行ったら、ドラムスが富樫雅彦でピアノがプーさんだった。それで、チェンジ・バンドが稲垣次郎(ts)さんで、そこに日野(皓正)(tp)君がいた。

——それって銀座の「モンテカルロ」ですか?

当時、「モンテカルロ」は銀座にあった超一流のキャバレーで、そこの専属。

——現在、神田の「Tokyo TUC」でブッキングをやっている田中紳介(ts)さんはいなかった?

田中君は、その前に高見健三(b)さんのミッドナイト・サンズで一緒になったことがあります。銀座の泰明小学校の前のビルの5階。

——リッカーミシンのビルの中にあった「ブルー・スカイ」ですね。

そこに出ていて、ぼくが行ったときのピアノは、のちに演歌のひとになったけど。そのときに田中君と一緒で、あとは朝倉さんというトランペットと苅部さんというバリトン・サックスがいたかな。

——「銀巴里」でプーさんや日野さんなんかと演奏したのがそのころ?

そう。行くと、「次はこの曲をやるから、できるヤツは上がってこい」みたいな感じで。それで日野君が上がって、ぼくも上がって。終わって、お茶を飲みながら、「また一緒にやろうね」「日野君のうちはどこ? ぼくのうちはここ」とかを話して、友だちになった。

——日野さんと仲よくなったのは「モンテカルロ」や「銀巴里」で?

その前に、新宿の「スリー・スター」というキャバレーで、日野君と一緒になったのが最初かな? ほとんど同じ2、3か月の間の話だけど。

——共演したんですか?

いや、向こうは稲垣次郎さんのバンドで出ていた。

——ゲイスターズは森剛康(たけやす)(ts)さんがリーダーでした。

彼が作ったけど、赤坂の「ニューラテンクォーター」のバンマスになったので、森さんは辞めて、白磯哮(しらいそ たける)(tp)さんがリーダーになった。ぼくは、そのときのゲイスターズに入ったの。「モンテカルロ」との契約で、森さんはゲイスターズごとそっちに行くことができない。だからゲイスターズは「モンテカルロ」に残って、リーダーだけが代わった。森さんはサックスだから、その代わりがぼく。

——そのあと、いよいよ白木秀雄クインテットに入る。

松本英彦さんが白木さんのバンドを辞めて、オマスズ(鈴木勲)(b)さんとスガちん(菅野邦彦)(p)とジョージ大塚(ds)さんとで自分のカルテットを作ることになった。そのときに白木さんから電話がかかってきて、後釜に誘われたんです。入ったら、仲野彰さんが唇を切って、1か月でトランペットがいなくなった。それで、ぼくが「日野君を引っ張ろう」と白木さんに話をして。

1965年の白木秀雄グループ。トランペットは日野皓正。

——そのバンドでドイツの「ベルリン・ジャズ・フェスティヴァル」に出演したのが65年のこと(注14)。

そのときはアート・ブレイキーのザ・ジャズ・メッセンジャーズとチェンジでやって、音楽の違いを痛感しました。そこから、このバンドでやっていてもしょうがないと考えるようになって。ジャズのフルバンドを本気で勉強しようと思い、今度は宮沢昭(ts)さんの後任でブルーコーツに入りました(66年1月)。

(注14)65年にレギュラー・クインテットで「ベルリン・ジャズ・フェスティヴァル」に出演。訪れたドイツでスタジオ録音盤の『白木秀雄クインテット&スリー琴ガールズ/さくら さくら』(SABA)を残す。メンバー=白木秀雄(ds) 日野皓正(tp) 村岡建(ts) 世良譲(p) 栗田八郎(b) 白根絹子(琴) 野坂恵子(琴) 宮本幸子(琴) 65年11月1日 ドイツ・ベルリンで録音

——そのころはジョン・コルトレーン(ts)やウエイン・ショーター(ts)のプレイに興味があって。

ハンク・モブレー好きのぼくがどうしてコルトレーンが好きになったかといえば、吹き方です。綺麗に聴こえる音と、汚く聴こえる音があるじゃないですか。大橋先生に習ったクラリネットのテクニカルな部分、クラシカルな甘い音で吹くとハンク・モブレーの音に近くなる。歯に近いところでコントロールをすると、肉の要素が少なくなる。そうやって、歯が浮くような音をのべつ出しているのがコルトレーン。マイルス・デイヴィス(tp)のバンドにいたころのコルトレーンの演奏はまだときどき甘い。でも、マイルスと別れるころはもっと歯が立っていて、それがいい。

——音が違う。

息の通し方が違うから。

——ウエイン・ショーターとコルトレーンのいちばん大きな違いは?

ショーターはもっと歯を立てているから、もっと汚い。歯が浮くような汚い音を平気で吹いていた。ザ・ジャズ・メッセンジャーズの〈モーニン〉はリー・モーガン(tp)とウエイン・ショーターでもやってるけど、最初はショーターじゃなかったでしょ(注15)。ベニー・ゴルソン(ts)のときには綺麗な甘い音だったじゃない。ショーターになってからの〈モーニン〉、好きだった?

(注15)初演は『アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ/モーニン』(ブルーノート)に収録。メンバー=アート・ブレイキー(ds) リー・モーガン(tp) ベニー・ゴルソン(ts) ボビー・ティモンズ(p) ジミー・メリット(b) 1958年10月30日 ニュージャージーで録音

——ぼくはベニー・ゴルソンがいたときの〈モーニン〉が好きですね。

そうでしょ。ベニー・ゴルソンのほうが明らかにテナー・サックスは上手い。自分の中で、コルトレーンが好きな自分とハンク・モブレーが好きな自分、ベニー・ゴルソンが好きな自分と嫌いなウエイン・ショーター、だけどウエイン・ショーターにはクロマティック・スケール(注16)な部分でとても惹かれる。でも、音色はハンク・モブレーやベニー・ゴルソンに惹かれる。

(注16)クロマティック・スケールとは半音が連続する音階のこと。上行形半音階ではシャープが使われ、下行形半音階ではフラットが使われる。

——勉強といえば、渡辺貞夫さんがバークリー音楽院から帰国して(65年11月)、しばらくしたら自宅でレッスンを始めました。

ブルーコーツに入って勉強をし直そうとしていたころに、貞夫さんが六本木の家でレッスンを始めたんです。そこに1年間通って、フォー・ウェイ・クローズ(注17)とかを勉強しました。

(注17)4和声ヴォイシングのことで、メロディに対し密集型の4音で和声づけする技法。一般的にはメロディの下に和声づけをする。

——貞夫さんのレッスンには、ほかに誰がいました?

映画やテレビ・ドラマの音楽をやっていた渡辺宙明(ちゅうめい)さん(注18)がいたのは覚えてます。

(注18)渡辺宙明(作曲家、編曲家 1925年~)56年に映画『人形佐七捕物帳 妖艶六死美人』(新東宝)の音楽を手がけて以降、多数の映画音楽を作曲。67年に渡辺貞夫からジャズの理論を学び、作編曲の影響を受ける。70年代には特撮やアニメの人気番組の音楽を担当。その音楽は「宙明節」「宙明サウンド」と呼ばれる。

日野皓正クインテットでシーンの最前線に

——ブルーコーツのあとは沢田駿吾(g)さんのクインテットに入っています。

沢田さんのバンドにいたのが日野クインテットに入る前。

——これは短かった?

いや、けっこう長くやっていました。沢田駿吾クインテットは、ピアノが徳山陽さんでベースが池田芳夫さん、それでドラムスが日野君の弟のトコちゃん(元彦)。毎週、銀座の「ワシントン靴店」本店の4階で、ニッポン放送の3時から始まる1時間の公開生放送に出ていたんです。

——その時代に沢田駿吾クインテットで吹き込んだレコードがあります。

尺八の山本邦山さんと組んで日本の民謡を演奏したレコードでしょ。ぼくがジョン・コルトレーンみたいな間奏を吹いている(注19)。

(注19)『山本邦山&沢田駿吾クインテット/尺八とボサノヴァ』(Union)のこと。〈さのさ〉〈黒田節〉〈佐渡おけさ〉などを収録。メンバー=山本邦山(尺八) 沢田駿吾(g) 徳山陽(p) 村岡建(ts) 池田芳夫(b) 日野元彦(ds) 1967年 東京で録音

——沢田さんのバンドに入ったいきさつは?

トコちゃんに呼ばれたから。

——それでそのあと、村岡さんが日野さんのクインテットに入る。

そう。「今日、兄貴と新宿のピットインだから、村岡さんもおいでよ」といわれて、日野クインテットに入っちゃった。

——日野さんのクインテットは、最初、菊地雅章さんとの双頭クインテット(日野=菊地クインテット)(注20)でした。スタートしたのが68年2月ごろ。

その前に、日野君は、大野雄二(p)君と稲葉國光(b)さんとトコちゃんでカルテットを組んでいたの。さっきの「ピットインでやるから、サックスを持って遊びにおいでよ」といわれて、行って吹いたら、「明日からクインテットにするから」。そこで初めてクインテットになった。

(注20)68年9月からのバークリー音楽院留学が決まっていた菊地が、同年2月ごろから直前まで日野と結成していたクインテット。解散直前には『日野=菊地クインテット』(日本コロムビア/タクト)を残している。CD化に際しては6月27日に「全日本ジャズ・フェスティヴァル ’68」で実況録音された〈H.G. アンド・プリティ〉も追加されている。メンバー=菊地雅章(p) 日野皓正(tp) 村岡建(ts) 稲葉國光(b) 日野元彦(ds) 1968年8月22、30 日 東京で録音

ぼくが入ったところで大野君が辞めて、日野君が「誰がいい?」というんで、コルゲンを推薦したけど、同時にプーさんからも「一緒にやりたい」と。プーさんはぼくたちよりもっと上のひとで、とくに日野君にとっては大事な先輩だから、断れない。プーさんから「銀座のライヴ・ハウスでセッションがある」といわれて、そこでやって、日野=菊地クインテットができたんです。そのあと、プーさんがアメリカに行くんでコルゲンが入ってくる(68年9月)。

プーさんと入れ替わるように佐藤允彦さんがバークリー音楽院留学から帰ってきた。「じゃあ、允彦さんのところにもレッスンに行こう」となって、コルゲンなんかとみんなで習いに行って。それが70年の万博(日本万国博覧会)の前。

——佐藤さんが戻ってきたのが、プーさんのバークリー行きとほぼ同じ68年9月。

允彦さんのレッスンを受けている最中に、70年の万博でアルバート・マンゲルスドルフ(tb)と日本のオールスターズでクロマティカルなセッションをやったんです(注21)。そのときの音が残ってない。

(注21)「エクスポ ’70 ジャズ・フェスティヴァル」は70年8月18、19日に大阪「万国博ホール」で昼夜2回公演(14時30分、18時30分)で開催された。出演グループは、ヨーロピアン・ダウンビート・ポールウィナーズ(ヨーロピアン・ジャズ・オールスターズ)、秋吉敏子(p)カルテット&シャープ&フラッツ、渡辺貞夫カルテット、日野皓正クインテット、インドネシアン・ジャズ・グループ。メンバー(ヨーロピアン・ジャズ・オールスターズ)=ジョン・サーマン(bs, ss) アルバート・マンゲルスドルフ(tb) ジャン・リュック・ポンティ(vln) フランシー・ボラン(p) エディ・ルイス(org) ニールス=ヘニング・エルステッド・ペデルセン(b) ダニエル・ユメール(ds) カーリン・クローグ(vo)

——ぼくもコンサートを観ましたが、素晴らしいセッションでした。

マンゲルスドルフからは「レコーディングしよう」という話があったけど、なぜか断っちゃった。あとで「やっておけばよかった」と思ったけど。

——もったいない。この少し前から日野さんと日野クインテットがすごい人気になる(注22)。

コルゲンが入って、『ハイノロジー』(日本コロムビア/タクト)(注23)が出て。サウンドがエレクトリックになって。

(注22)『スイングジャーナル』誌の人気投票で、日野は67年から「トランペット部門」で1位を維持。村岡は70年から73年まで常勝の松本英彦を抜いて「テナー・サックス部門」の1位。71年は鈴木以外の4人が各楽器で1位。69年と70年は日野クインテットが「コンボ部門」の1位。70年には日野が「ジャズ・マン・オブ・ジ・イヤー」の1位で、『ハイノロジー』が「レコード・オブ・ジ・イヤー」に選出された。

(注23)鈴木宏昌を迎えたクインテットで吹き込んだ1作目。当時の日野がいかにマイルスの音楽に触発されていたかがわかる。メンバー=日野皓正(tp) 村岡建(ts) 鈴木宏昌(p, elp) 稲葉國光(b, elb) 日野元彦(ds) 1969年7月31日 東京銀座「ヤマハ・ホール」で録音

——その時期、ジャズの最前線にいて、ジャズが変わってきた実感はありました?

それはありました。日野君とコルゲンとぼくの3人で、「オレたちの音楽を作ろう」「いままでやってた曲をやめて、オレたちでどうにかしよう」と話していたころ、毎週、TBSラジオの劇伴の仕事が日野クインテットであったんです。そのときに日野君が、「村岡君、こういうメロディを作ったけど、どう?」。「コードをつけて」といわれて、コードをつけたのが〈ハイノロジー〉。

——番組の名前は覚えてない?

ぜんぜん覚えてない。TBSの2階に小さなスタジオがあって、いつもそこで録音をして。ただし、表向きには仕事としての名前は出ていない。そのあとに『田宮二郎ショー』(注24)もやりました。

(注24)69年に毎週火曜日の20時から放送されていた音楽番組。

——これは東京12チャンネル(現在のテレビ東京)のテレビ番組で、ぼくも観てました。

田宮さんの司会で、赤い鳥(注25)と日野クインテットが出て。日野バンドは自分たちの曲を演奏して、赤い鳥はロックの曲なんかをやって。

(注25)69年に結成され74年に解散した5人組フォーク・グループ。メンバー=後藤悦治郎 平山泰代 山本俊彦 新居潤子 大川茂。代表曲に〈翼をください〉(71年)、〈竹田の子守唄〉(同年)がある。

——このころからジャズ・ミュージシャンがテレビに出るようになりました。『田宮二郎ショー』以外では、TBSが朝に放映していた『ヤング720』(注26)。これに日野さんのグループだけじゃなくて、さまざまなジャズ・バンドが出ていたのを覚えています。

そのころに、カメラマンの内藤忠行(注27)さんが日野君のスタイリストになったの。白い上下でサングラスに、帽子を被らされて。

(注26)66年10月31日から71年4月3日まで毎週月~土曜日の7時20分から8時(のちに7時30分から8時10分)にTBSの制作で放送されたトークと音楽中心の若者向け情報番組。

(注27)内藤忠行(写真家 1941年~)ジャズやアフリカをテーマにした写真が多く、写真集『日野皓正の世界』(70年、サンケイ新聞出版局)がある。

——日野さんはレイバンのサングラスがトレードマークで、服飾メイカーのプレイロードやレコード針のナガオカ(リボン・タイプ・カートリッジ)の広告でモデルをやったり。

それで『スイングジャーナル』誌の人気投票で貞夫さんのバンドを抜いて1位になった(69年と70年の「コンボ部門」)。テレビに出れば出るほど人気になって、そのころは高校生がTBSの周りに集まってたんだから。

——まるでアイドルでした。村岡さんも70年から4年間、テナー部門で1位に。

「ピットイン」が終わって、駅まで歩いて行くと、街を歩いているひとが、「あ、日野さんだ」「村岡だ」といわれるようになって。みんなから「応援してるよ」とかね。

——スターですね。

そうなっちゃった。

——ギャラはよかった?

それは別(笑)。

——仕事は多かったでしょ。

マネージメントのひとはすごく儲かったみたい。

——日野さんのバンドには?

71年までいました。

1968年。新宿DUGにて。日野皓正と出演。

——村岡さんの初リーダー作『Takeru』(フィリップス)(注28)は、録音が70年ですから、まだ日野さんのバンドにいた時点での吹き込み。

誰がいいか? というんで、ドラムスがジョージ大塚さん、ピアノはプーさん、ベースが沢田駿吾(g)クインテットにいたときの池田芳夫さん。それで、村岡建カルテットとしてレコーディングしました。

(注28)メンバー=村岡建(ts) 菊地雅章(elp) 池田芳夫(b) ジョージ大塚(ds) 1970年2月 東京で録音

——日野さんのバンドを辞めたあと、村岡さんは自分のバンドを作ったんですか?

これはレコーディングのグループだし、ライヴで自分のバンドは1回もやっていません。

——フリーダム・ユニティは?

あれは、日野君がしばらくアメリカに行くことになって(70年春)、「その間、どうしようか?」といってるときにできたグループです。六本木の飯倉片町に朝までやってる店があって。そこの店で、石川晶(ds)さんとバンドを組もうという話になった。それがフリーダム・ユニティです。

——このグループでレコーディングをして(注29)。

石川さんはルックスで仕事が来るからマネージメントもやって(笑)、ライヴ以外で生活できるようにと、みんなでスタジオ・ミュージシャンになっちゃった。

(注29)『THE FREEDOM UNITY /サムシング Something』(リバティ)のこと。メンバー=石川晶(ds) 村岡建(ts, ss) 鈴木弘(tb) 鈴木宏昌(p, elp) 稲葉國光(b) 1970年10月18、26日 東京で録音

——60年代末には石川さんのカウント・バッファローズ(注30)でも演奏していました。

石川さんが自分をドラマーとしてフィーチャーしてリーダーをやるとカウント・バッファローズ、自分がリーダーじゃなくて兵隊になるとフリーダム・ユニティ。あれはリーダーがいないバンドだから。

(注30)石川晶が60年代半ばに結成していた石川晶とザ・ゲンチャーズが母体。60年代後半からはカウント・バッファローズの名前で活動を開始し、ロックやソウル・ミュージックにジャズを融合させたサウンドが評判に。その時期から村岡も参加。代表作は『ELECTRUM』(日本ビクター)。メンバー=: 石川晶(ds) 村岡建(ts, ss) 杉本喜代志(elg) 佐藤允彦(p, clavinet)鈴木宏昌(elp) 寺川正興(b, elb) 1970年7月20日、8月4日 東京で録音

——でも、実質的には石川さんが運営して。

そうです。石川さんは二足の草鞋で、オーケストラにするとカウント・バッファローズで、フリーダム・ユニティは4人編成にトロンボーンのネコ(鈴木弘)ちゃんを入れてクインテットだった。

スタジオ・ミュージシャンとして数々のヒット曲に参加

——このあと、だんだんスタジオ・ミュージシャンにシフトしていきますが、60年代半ばにはもう始めていたんですね。たとえば、65年の〈君といつまでも〉(注31)。

あれは高見健三さんから「行け」といわれて、東芝(音楽工業、のちの東芝EMI)のスタジオに行って、オーケストラがいるところで、メロディをなぞって帰ってきた。

(注31)加山雄三5枚目のシングルで65年12月5日発売。作詞=岩谷時子、作曲=弾厚作(加山雄三)。300万枚を超えるヒットになり、66年の「第8回日本レコード大賞」〈特別賞〉受賞。

——例のセリフのバックで流れているのが村岡さんのフルート。そのころはまだスタジオ・ミュージシャンではなくて、バイトみたいなもの?

でもすごくいいギャラがもらえたから、「スタジオの仕事っていいなあ」とは思いました。だって「ピットイン」でライヴをやっても1日200円。それが加山さんのレコーディングで3千円。「これが月に10回あったら」ですよ。

——古いレコーディングでいくと、67年に〈夜霧よ今夜も有難う〉(注32)。

それは沢田駿吾クインテット。池田芳夫さんがベースで、徳山陽さんがピアノ。トコちゃんも一緒だった。

(注32)67年3月11日に公開された石原裕次郎主演のムード・アクション映画の主題歌。前年に石原が浜口庫之助に作詞作曲を依頼した曲で、映画はこの曲を元に企画された。

——〈長崎は今日も雨だった〉(注33)。

日本ビクターがまだ築地にあったときで、これも沢田さんのバンド。

(注33)69年2月1日に発売された内山田洋とクール・ファイヴのメジャー・デビュー曲にして、最大のヒット曲。作詞=永田貴子、作曲=彩木雅夫。「第11回日本レコード大賞」〈新人賞〉を受賞。

——スタジオ・ミュージシャンは時間で何曲も録音することがあるけど、村岡さんは曲単位で頼まれるんですか?

レコード会社から指名されて行くのもあったし、サックスとして呼ばれて行くのもありました。笑ったのは、日活のスタジオにサックスとして呼ばれたとき。稲垣次郎さんがバリトン・サックスで、ぼくのテナーともうひとりアルト・サックスがいて。そうしたら稲垣さんが、「村岡君、ここ吹けるか? この音のところ吹いてみろ」。それで吹いたら、指の動きを見ていて、「あ、そうやるのか」(笑)。

——けっこう映画の音楽もやりましたか?

そのあとに日野君の『白昼の襲撃』(注34)をやったりとか。

(注34)70年に公開されたハードボイルド映画(監督=西村潔、出演=黒沢年男、緑魔子、岸田森ほか。音楽=日野皓正)。現在はその音源が発掘され、『日野皓正/白昼の襲撃』(SUPER FUJI DISCS)として発表されている。メンバー=日野皓正(tp) 村岡建(ts) 鈴木宏昌(elp) 稲葉國光(elb) 日野元彦(ds) 1969年9月 東京で録音

——稲垣さんも日活とかの映画音楽をずいぶんやってたでしょ。

だから当時は「村岡」がほしくて呼ぶんじゃなくて、「サックス何本」で呼ばれて。スタジオ・ミュージシャンてそういうものだから。「村岡の音がほしい」といわれるようになるのはもっとズッとあとなの。

——70年代に入ってから。

それまでは、サックスが3人とか4人のその他大勢。

——たとえばガロの〈学生街の喫茶店〉(注35)。これはまさしく村岡さんの音がほしかったんじゃないですか? モーダル(音階に基づいて演奏すること)なソロでしょ。

カウント・バッファローズでやっていたときだけど、目黒の石川さんのうちに行くと、いろんな新しいレコードを聴かされる。その中に、オーボエを吹いているユセフ・ラティーフ(ts)のレコードがあって。それが吹きたいけど、オーボエは難しい。それで、「鳥谷さんというひとが使っていたコールアングレ(注36)があまっているから、それを買いなさい」といわれて、15万円だったかな?

(注35)作詞=山上路夫、作曲=すぎやまこういち。男性3人組ガロによる3枚目のシングル。72年6月20日発売。「第6回日本有線大賞」〈新人賞〉、『オリコン』誌の週間1位(7週連続)と73年度年間3位になる。

(注36)ダブルリードの木管楽器の一種。オーボエと同族のF管楽器で、オーボエより低い音を出す。

その日に、仕事で「モウリ・スタジオ」に行ったら、すぎやまこういち(注37)さんがいて、「今日のはね、普段の村岡君とは違う音がほしい」。たしかDマイナー一発の間奏で、同じ音が「バッバッバッバ」と16小節鳴ってるだけ。「そこにアドリブでもなんでもいいけど、なにか変わった感じの音、ないかなあ」「実は、いまコールアングレを買ってきたばかりで、キーもなにもわからない。Dマイナーってどれなんだろう?」。初めて上下管を繋いで、ピアノのところで音を出して、「これがDか」。運指がわからないから適当にドレミファソラシドと吹いて。「試しに回すから」「はい、わかりました」。遊びで吹いたら、調整室からみんなが飛び込んで来て、「サイコー、いまのでもういい」。まだ5分も経ってないんだよ。

(注37)すぎやまこういち(作曲家、編曲家 1931年~)文化放送を経て、58年フジテレビ入社。59年から自身の企画した『ザ・ヒットパレード』が放送開始。60年代からディレクター業と並行してCMの作曲家となり、やがて多くのシンガーやグループに楽曲を提供。65年に退社し、80年代半ばからはゲーム音楽を手がけ、86年に「ドラゴンクエスト」が大ヒット。

——初めて吹いたソロがレコードになった。

そのしばらくあと、「アオイスタジオ」に行ったら、いつもスタジオで会う伴さんというオーボエのひとが、「村岡君、もしかしてコールアングレでアドリブしなかった?」「どうしてですか?」「さっきラジオで聴いてたら、いまいちばんヒットしている曲だけど、間奏がコールアングレのアドリブなんだよ」。それだったんです。

——これは村岡さんの音がほしいから呼ばれた。

そのころは名前で呼ばれていました。スタジオをときどきやったり、日野クインテットでやってるころに知り合ったのが深町純(注38)で、和光学園のクラスメイトがミッキー・カーチス(注39)さん。それであるとき、ミッキーさんから「左とん平(注40)さんのレコーディングがある」と電話がかかってきて、それが〈とん平のヘイ・ユウ・ブルース〉(注41)。そのときに、「ギターがいないから、村岡君、アルト・サックスでギターをやってくれ」。

(注38)深町純(作曲家、編曲家、key 1946~2010年)3歳でピアノを習い始め、高校時代にはオペラの指揮や演出を手がけた。東京藝術大学音楽学部作曲科を卒業直前に中退。71年『ある若者の肖像』(ポリドール)でデビュー。以降は作編曲家やキーボード奏者として活動。

(注39)ミッキー・カーチス(歌手、俳優 1938年~)日英混血の両親の長男。50年代末からロカビリー歌手として人気を集め、その後は司会や役者をこなし、67年にはミッキー・カーチスとザ・サムライズでヨーロッパ巡演。プログレッシヴ・ロックのバンドとして70年に帰国。以後も多彩な活動で現在にいたる。

(注40)左とん平(俳優 1937~2018年)60年ごろから「新宿コマ劇場」などに出演。70年代にテレビ・ドラマ『時間ですよ』『花吹雪はしご一家』などに出演し、人気者となる。

(注41)73年11月21日にリリースされた左とん平の歌手デビュー・シングル。作詞=郷伍郎、作曲=望月良道、編曲=深町純。B面の〈東京っていい街だな〉は、作詞=郷伍郎、作曲=村岡建、編曲=深町純。

——だから歌のバックで絡んでるんだ。

そう。電気ピアノと電気ベースとドラムスとアルト・サックスの4人でやって、「もう1曲なにかないか?」というんで、マーヴィン・ゲイの〈ホワッツ・ゴーイン・オン〉のコードを書いて、そのコードで〈東京っていい街だな〉をでっち上げたんです(笑)。

——あの曲では、とん平さんがずっとセリフのような感じで喋っている。

メロディの代わりにとん平さんが喋ると、ぼくが「プーラッパッパ」ってギターがやるようなフレーズを吹く。だからメロディはないけど、B面はぼくの作曲になってる。

——ぼくはA面より、〈東京っていい街だな〉のほうがソウル・ミュージックみたいで好きですけど。このレコードのプロデューサーがミッキーさん。それで、さっきのガロにも繋がるんだ。〈学生街の喫茶店〉もミッキーさんのプロデュース。

そういうことです。

——それでCMもいろいろやられて。

ロート製薬とかね。すぎやまこういちさんの妹がCM制作会社の重役だったの。

——日産自動車、キッコーマン、永谷園などなど。いわゆるジャズのライヴ活動は、そのころになるとほとんどやめていた?

やめたというか、忙しくて「ピットイン」とかに行けなくなった。だって、「ピットイン」だと夕方の6時から11時ごろまでいないといけない。その間、スタジオでどれだけ仕事ができるか。自分の中の優先順位が変わってきたんですね。

——スタジオがメインになって。

そのうちバブルになって、レコーディングはアメリカで向こうのミュージシャンを使うようになるんです。おかげでスタジオ・ミュージシャンの仕事が減って、そろそろ辞めようとなったときに、ジョージ川口さんから電話がかかってきた。大橋巨泉(注42)さんの『11PM』(注43)が最後のときで、「〈ドラム・ブギ〉をやるから」。そのときのチェンジが阿川泰子(注44)さん。彼女のところの社長さんから「そろそろジャズに戻らない?」といわれて、阿川バンドに入るんです。

(注42)大橋巨泉(ジャズ評論家、司会 1934~2016年) 50年代半ばから評論家として活動し、60年代に入るとテレビの世界に転身。『11PM』『クイズダービー』『世界まるごとHOWマッチ』などの司会で名を馳せる。パイロット万年筆のテレビ・コマーシャル「ハッパフミフミ」や「野球は巨人、司会は巨泉」のキャッチフレーズも流行語になった。

(注43)日本テレビとよみうりテレビ(現在の読売テレビ)の交互制作で65~90年まで放送された日本初の深夜ワイドショー。前者は大橋巨泉、愛川欽也、後者は藤本義一が主に司会を担当。

(注44)阿川泰子(vo 1951年~)女優でデビューし、73年ジャズ・シンガーに転じ、翌年から鈴木章治とリズム・エースの専属シンガー。その後独立し、78年の『ヤスコ、ラヴバード』(日本ビクター)で歌手デビュー。以後、抜群の人気を誇り、87年から日本テレビ系トーク番組『オシャレ30・30』で古舘伊知郎と司会を務め、独特のキャラクターで評判を呼ぶ。

——ジョージさんとは、退団したあともときどきやっていたんですか?

ジョージさんのバンドはワン・ナイト・スタンドだから、ときどき電話がかかってきて、「今回は九州の仕事だよ、今回はテレビだよ」というふうに。そういうときに、(中村)誠一ちゃんが入ったり、ぼくが入ったり。その流れの中で『イレヴン』の仕事もあったんです。〈ドラム・ブギ〉のメロディさえ吹けば、あとは横で適当にやって。残りは〈黒いオルフェ〉とか〈ハーレム・ノクターン〉とか〈ダニー・ボーイ〉とか、リクエストがあるから。ぼくがそういう曲をやってるの、知らないでしょ。

——いや、ムード・テナーみたいなアルバムも出していますよね(注45)。それで、村岡さんも〈ドラム・ブギ〉では大ブローをするんですか?

しますよ。

(注45)2006年の『村岡建とボサ・ノヴァ・グループ/心 ボサ・ノヴァ歌謡ムード』(クラウン)などがある。

——阿川さんとは『オシャレ30・30』(注46)で。

3年くらいは演奏のほかにアレンジもやってました。

(注46)古舘伊知郎と阿川泰子の司会で87年1月4日から94年6月26日まで日本テレビ系列局ほかで毎週日曜の22時から放送された30分のトーク番組。

——そういうことをやりながら、「アン・ジャズ・スクール」(注47)でも教えて。ぼくも70年ごろに、村岡さんに勧められて通っていましたが、その話は別にして。

「アン」は六本木がなくなって、教室が渋谷に移って、社長が代わっちゃったの。家の内装をするところがオーナーで、「こういうひととは音楽の話ができない」というんで、辞めたんです。

(注47)現在の「アン・ミュージック・スクール」の前身で、67年4月「アン・ジャズ・スクール」として六本木で開校した音楽学校。

——でも、個人では教えて。

「アン」にいたころから家でのレッスンもやっていました。

——いまでも後進の育成には余念がない。

はい。ぼくの歴史ってこういう感じです。これでだいたいわかったかしら?

——たいへん興味深いお話を聞かせていただきました。どうもありがとうございます。

取材・文/小川隆夫

2018-02-24 Interview with 村岡建 @ すずかけ台「村岡建邸」

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