投稿日 : 2018.07.19 更新日 : 2021.09.03

【証言で綴る日本のジャズ】荒川康男|「ジャズで電気ベースを弾いたのは僕が初めてなんですよ」

取材・文/小川隆夫

荒川康男 インタビュー

有名バンドで多忙を極める

——東京に出て、すぐにビッグ・フォア、次に沢田さんのダブル・ビーツに入ります。どちらもジャズの世界では有名なバンドじゃないですか。そのころの荒川さんが影響を受けたベーシストはいるんですか?

金井英人(b)さんがウエストライナーズにいて、銀座の「交詢社シロー」でやっていたんです。そのころの金井さんといえば大尊敬されていましたから、よく遊びに行って。となりが喫茶店で、休憩時間にコーヒーをご馳走になって、話をしてくれる。

「君はいいベースで、99パーセントは知っているかもしれないけれど、残りの1パーセントはぼくが知ってて、君が知らない」なんていわれて。「ああ、なるほど」。考え方として、それは立派だと。そういうことを聞いたもんですから、向こうのひとのレコードをいろいろ聴いて、「これはどうってことがないベースだ」とか。その中でも、なにかひとつぐらいは得られるものがあるだろうと思って。特別に「このひと」といって徹底的に追求しようとは考えなかったですけど、聴けるものはなんでも聴いて、レコードをコピーするようになりました。

当時はジャズの理論が日本になかったので、よくわからない。理論書もないし、それを口にするひともいなかった。みんなレコードを聴いて、「こうだろう」という理論でやっていたんです。そのほかでは、徳山さんがいろいろコピーをして、自分なりに理論を研究していた。だから、徳山さんにもいろいろ聞きました。でも徳山さんは、「これはこうだ」「こうなってああだ」というひとじゃなくて、「そういうのもありますね」みたいなひとだから、一緒に話をするぐらい。そんな感じで勉強をして。

——金井さんなんかがやっていた「銀巴里」のセッションにはいかなかったんですか?

「銀巴里」ではやらなかったです。「銀巴里」じゃなくて、近くにある「銀座日航ホテル」の地下にジャズ・クラブがあったんです。そこには三保敬太郎(p)オールスターズといって、三保さんが特別に作ったグループが出ていて。当時、ぼくは沢田さんのところと三保さんのバンドをかけ持ちしていたんです。

そこも、実は金井さんがいたんです。ある日、なにかで出られなくなったのかな? それでぼくがトラ(エキストラ)で行って。三保さんは譜面をキチンと書いてやるひとだったから、「ちゃんと譜面を読んでいる」というんで、次からぼくになっちゃった(笑)。

——これは不定期にやるバンド?

そうです。だけど、いろんなジャズ・クラブやジャズ喫茶、あっちこっちでやって。ドラムスはイノさんがウエストライナーズをやっていたけど、そういうときは三保さんのところにも来る。ギターは沢田さんでサックスが宮沢昭さん、トランペットが福原彰さん。三保さんが集めたオールスターズです。

——じゃあ、そのときどきでメンバーが少し変わる。

だいたいその辺は決まりのメンバーでした。サックスがもうひとり入るときは稲垣次郎(ts)さん。

——それが、東京に出て1年目ぐらいの話?

そうですね。

——三保敬太郎さんもスタジオの仕事が多かったでしょ?

直純さんは松竹だから大船のスタジオ。三保さんは日活。あのころはギャング映画が流行っていて、三保さんはその音楽をやっていた。だから、音楽はジャズなんです。

——八木正生さんも映画音楽をいろいろやられています。

映画もCMも。八木さんと一緒にやったCMで有名なのは、サントリー・オールドの〈ワシントン広場の夜は更けて〉を使ったコマーシャル。あとから何回か録り直しをしていますけど、最初のベースがぼくです。八木さんとは、亡くなる間際までずっと一緒にやっていたんですよ。だから次のスケジュールも入っていたけど、倒れちゃって。

八木さんは、ぼくがビッグ・フォアに入る前まで、高柳昌行(g)さんとビッグ・フォアにいたんです。それを辞めて、宮沢さんと八木さんと新しいバンドを作った。ベースは寺川正興さんで、ドラムスが石川晶さん。あのバンドはすぐ解散しちゃったけど(笑)。

——寺川さんは、そのあとジョージ大塚(ds)トリオで活躍したひとですね。ところで、沢田さんのところにはどのくらいいたんですか?

どのくらいかな? 銀座に「ブルー・スカイ」というクラブがあって。

——泰明小学校の向かいのビルの中ですね。

高見健三(b)さんの奥さんの関係がやってたのかな? 高見さんがリーダーですけど、高見さんは弾かないで、金子さんというひとがベースを弾いて。あとは五十嵐武要(たけとし)(ds)さん、福原彰さん、稲垣さんの入ったバンドが出ていたんです。それがパンクしたかなにかで(笑)、次郎さんが沢田さんのバンドに移って、沢田さんのバンドがクインテットになる。

ところがある日、次郎さんが「つまらないから、もうちょっとガリガリしたバンドを作ろうよ」といって、ふたりで辞めることにしたんです。沢田さんにはずいぶん叱られましたけど(笑)、次郎さんとバンドを作って。いろんなところでやったけど、銀座の「モンテカルロ」がいちばん長かったかな?

そのときはピアノがずいぶん変わりました。佐藤允彦もいたし、山下洋輔君もいたし、大野雄二君もいた。次郎さんが「横浜に若いのですごいラッパがいるけど、呼んでこようか」といって、日野皓正(tp)君が来て。バリトン・サックスもいたんですよ。いまは神田にあるライヴ・ハウス「TOKYO TUC」でプランナーをやっている田中紳介さん。

——日野さんは、「東神奈川の米軍キャンプでやっているところを引っ張ってきた」と、稲垣さんがおっしゃっていましたから、そのことですね。

そう。

——そのバンドがインドネシアに行って。

あのときは佐藤允彦とぼくがなにかで「行かない」ってパスしたんです。

——あ、行かなかったんだ。それはよかった。

それで、行ったひとはヤバイことになったんです(編註:詳しくは『証言で綴る日本のジャズ2』〈駒草出版〉を参照ください)。

——いろいろなひとに聞いたけれど、そのときのベースが誰かわからない。

誰だったかなあ? 次郎さん、なにかいってませんでしたか?

——その話は、稲垣さんに聞く前に、佐藤さんから聞いていたんです。佐藤さんは大学の試験があって行けないから、山下さんが代わりに入ったそうです。柴田恒雄さんでは?

可能性はありますね。歌手のしばたはつみさん(注13)の叔父さんで、真面目なひとです。

(注13)しばたはつみ(vo 1952~2010年)父はジャズ・ピアニストの柴田泰。9歳のころから米軍キャンプで歌い始め、「スマイリー小原とスカイライナーズ」の専属歌手に。その後、世良譲に師事。77年〈マイ・ラグジュアリー・ナイト〉(日本コロムビア)がヒットし、人気者に。同年『第28回NHK紅白歌合戦』初出場。

——「モンテカルロ」の対バンドは?

ゲイスターズです。リーダーがなにかの事情で抜けて、契約があったので白磯哮(しらいそたける)(tp)さんがリーダーになって、そのままゲイスターズの名前でやっていました。

——スタジオの仕事も並行して?

スタジオの仕事がものすごく忙しくて。8トラックのカー・ステレオ(注14)というのがあったでしょ。とにかく、1日に何曲も録音する仕事があって。

(注14)カー・オーディオを想定して開発されたカートリッジ式の再生専用テープ。2トラックのステレオ・チャンネルが4つあり、合計8トラックの信号を録音することで、この名称となった。

——じゃあ、スタジオ・ミュージシャンもやられて。

そのころからジャズ喫茶が下火になってきた。ライヴ・ハウスはギャラがものすごく安いけれど、それはしょうがない。でも食べていかないといけない。スタジオでうんと稼げれば、お金に関係なく好きなことができる。というんで、佐藤允彦とぼくと亡くなった原田寛治(ds)さん、それからこの方も亡くなったんですけど堤さんというギターのひと、その4人のリズム・セクションでスタジオを回っていたんです。そこにホーンが入ったりとかね。

あのころはスタジオが滅茶苦茶に儲かりました。1日に10万円も稼ぐひとがザラにいて。木村好夫(g)(注15)なんかは1日に何十万円も稼いで。「まだジャズやってるの?」「ジャズ・クラブに行って、1万円くらいでやるのか」なんていわれるぐらい、みんなスタジオに入って、ジャズをやらなくなった。

(注15)木村好夫(g 1934~96年)「黄金の指を持つ男」の異名を持ち、ジャズから演歌、歌謡曲に転じ、美空ひばり、五木ひろしをはじめ、さまざまな歌手のレコーディングやコンサートに参加。「歌のない歌謡曲」と呼ばれたギター・アルバムも多数残した。

——だけど荒川さんはライヴも続けて。

ジャズがやりたいからスタジオをやったわけです。スタジオの仕事が好きなわけじゃないけど、そうすればライヴ・ハウスで好きなことができる。佐藤允彦もそういう考えで、ふたりでやってました。

——スタジオでは電気ベースも弾いて。

ジャズで電気ベースを弾いたのはぼくが初めてなんですよ。それはなにかっていうと、「日生劇場」ができたころに、『焔(ほのお)のカーブ』(注16)というミュージカルをやったんです。ステージの横にミュージシャンがいて、7、8人のグループだったと思います。石原慎太郎(注17)さんの作・演出で、三保さんが音楽を書いて。

(注16)65年に上演された石原慎太郎作・演出のミュージカル。出演は、北大路欣也、朝丘雪路、鹿内孝など。

(注17)石原慎太郎(作家、政治家 1932年~)一橋大学在学中(56年) にデビュー作『太陽の季節』が「第34回芥川賞」受賞。同作品の映画化で弟の裕次郎をデビューさせた。68年参議院議員となり(95年まで)、環境庁長官、運輸大臣を歴任。99年から4期連続で東京都知事(2012年まで)。

映画の『ウエストサイド・ストーリー』が流行っていたころで、このミュージカルにもフィンガー・スナッピングをしながら踊る場面がある。ドラムのハイハットとベースだけがフィンガー・スナッピングに合わせて演奏するけど、ベースの音が聴こえない。

あのころ、カントリー&ウエスタンのバンドはまだ普通のアコースティック・ベースだったけれど、ロック系のバンドがエレクトリック・ベースを弾いていたのを思い出して、ヤマハでアンプとベースを買ってきたんです。「これでどうだ」といったら、踊りの連中が「よく聴こえるから、踊りやすい」「じゃあ、これでいこう」となったんです。

ある日、やっていたら突然音が出なくなった。幕の陰で電源を取っていたのを、誰かが足を引っかけて抜けたんです。監督室から石原慎太郎が降りてきて、ぼくがものすごい勢いで怒られた。そんなこといわれても、ぼくがやったわけじゃないし。あのときはギターのひとがぼくの譜面を見て弾こうとしたけれど、低音部記号だから読めない。うしろでトロンボーンを吹いていた東本(とうもと)さんが立ち上がって吹いてくれて。だけど、踊りはバラバラで(笑)。それが初めてのエレキ・ベースです。これはアメリカに行く直前。

——その後もときどきはエレキ・ベースを弾いていた?

スタジオではね。

——ライヴでは、基本はアコースティック・ベースで。

そうです。

バークリー音楽院留学

——佐藤さんと出会ったいきさつは?

どうでしたかね。彼が高校のときかな? 鳴瀬昭平さんというベースのひとが築地にあったクラブの「うさぎ」でやっていたときに、佐藤允彦がそのバンドにいて。なんとなくどこかで顔を合わせていたんです。当時はジャム・セッションがよくありましたよね。「ヴィデオ・ホール」とか新宿の「武蔵野館」とか、いろいろなところでジャム・セッションやオールナイト・セッションが。そんなところでミュージシャンは顔を合わせますから。それで意気投合して、寝る間もないぐらいスタジオでよく働いて。

——ライヴでも、そのころは佐藤さんとやっていたんですか?

スタジオだけですね。そのころ、秋吉敏子(p)さんがチャーリー・マリアーノ(as)と結婚して、日本に戻って来た(63年)。秋吉さんが日本でやるからとなって、それでぼくと、そのときにスタジオで一緒にやっていた原田寛治が引っ張られて、チャーリー・マリアーノ・カルテット(トシコ=マリアーノ・カルテット)で仕事をするようになったんです。これで日本中を回って。

——どういうことから参加したんでしょう?

よくわからないけど、なぜか原田寛治さんとぼくが入ることになったんです。その前に、秋吉さんとは会ったこともない。ぼくが東京でやり出したころって、秋吉さんはアメリカに行ってましたから。そのあと、日本に演奏に来たこともなかったと思うんです。

——荒川さんにとっては、マリアーノも秋吉さんも本場でやっているトップ・クラスのひとじゃないですか。そういうひととはそれまでにやった経験は?

それまではセッションぐらいです。ぼくらがやっているところに、コンサートが終わってから、楽器を持って遊びに来る。それで一緒にやったりとかはありました。

——マリアーノのカルテットで勉強になったことは?

日本人がやっているジャズとは違うんです。当時のアルト・サックスだったらキャノンボール・アダレイとかソニー・スティットですよね。あのひとたちは自分の音楽を確立してましたけど、マリアーノはいろいろ探っている時期で。そういうひとだったから、新しいことを試みていた。だからぜんぜんわからなくて。

一緒にやっている間にたずねて、いろんなことを勉強しないといけないなと思っていました。秋吉さんもマリアーノとは英語でしか話さないし、彼も日本語がぜんぜんダメで、ぼくも英語で細かいことは聞けない。だから話がうまく進まなくて。秋吉さんには聞きましたけど。

——それは1年ぐらい?

そうです。それで、マリアーノが「リハーサル・バンドを作る」といって、「ビッグバンドでやりたいひとは集まれ」となったんです。リハーサル・バンドでマリアーノがいろいろ教えてくれて。ところが、彼と秋吉さんが、「日本の水は合わないから帰る」。「じゃあ、ぼくはどうすればいいんですか?」といったら、「あなたも来れば? チャーリーが学校(バークリー音楽院)で教える予定だから、面倒を見てくれるでしょう」といってくれたんです。

——そういう話があったんだ。

マリアーノと秋吉さんとやったときに驚いたのは、日本でやっていたものと音楽がぜんぜん違うことでした。「これはなんだろう?」。それで、「これからはこのバンドで一生懸命勉強できるな、いろんなことを教わろう」と思っていたら、「帰る」となったんで。

——バークリーに行くのが65年。

そうです。佐藤允彦にその話をしたら、「オレも行く」。「じゃあ一緒に行こう」「それじゃふたりで稼がなきゃなあ」となって、貯金をしたりして、約1年間準備をしました。

——行くといっても、当時はたいへんだったでしょ。

なぜ65年にしたかといえば、64年までは外務省の留学テストがあったんです。留学して授業を受けるのに語学能力があるかどうかの試験です。ぼくはぜんぜん自信がないし、それはダメだと思っていたら、65年になくなった。

それでも、授業料が払えるかどうかの保証人が必要だとか、いろいろあって。学校から書類がいっぱい来て、それと一緒に「誰がお金を出すんだ?」とかね。お金を出すひとの収入証明書とかをぜんぶ「英文で出せ」ですから(笑)。そんなことで時間がかかったのもありました。

佐藤允彦とぼくと、そのころよく一緒にいた小津昌彦(ds)とで、六本木にあった外国人が教える英語教室にも行きました。それで65年になったら、佐藤允彦が「家庭の事情ですぐには出られない」「1年遅れて行くから、先に行っててよ」。ちょっと心細かったけれど、まあいいかと。

たまたまいとこがブルックリンにいたもんですから、まずはそっちへということで。3か月ぐらい早く行って、毎日つき合ってもらって、スーパーに買い物に行ったりとか、生活のことをいろいろ覚えて。地下鉄ひとつ乗るのもよくわからなかったし。あれは切符じゃなくて、トークン(乗車コイン)を買って乗るでしょ。そういうことも知らないし、車の運転も覚えて。それから学校に行ったんです。

——初めての外国がニューヨークですよね。どうでしたか?

別世界ですね。

——ニューヨークへの直行便はまだないですよね。

ハワイ経由で、ロスに着いて、そこからまた。ハワイまではJALで行って、そのあとはアメリカの国内線。

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