連載「証言で綴る日本のジャズ」はじめに
ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズシーンを支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのはベーシストの荒川康男。
近年ふたたび注目される、往年の“邦ジャズ重要作”で多くの演奏を残した名プレイヤーであり、一方では数多のCMソングを手がけてきた作曲家としてのキャリアも持つ。また、1965年に渡米(バークリー音楽院に留学)した、日本最初期の“ジャズ留学者”のひとりであることは、あまり知られていない事実。そんな、これまで語られることのなかった本邦ジャズ史の新事実が、今回も次々と披瀝される。
ベース奏者。1939年6月12日、兵庫県神戸市生まれ。高校三年で演奏活動を始め、卒業直後に東京進出。ジョージ川口とビッグ・フォア、沢田駿吾ダブルビーツ、三保敬太郎オールスターズ、トシコ=マリアーノ・カルテットなどを経て、65年にアメリカ・ボストンのバークリー音楽院(現・バークリー音楽大学)に留学。68年に卒業し、帰国後は佐藤允彦トリオ、稲垣次郎とソウル・メディアで活躍し、70年代に前田憲男と猪俣猛で結成したWE3で現在も活躍中。
音楽と出会ったころ
——まずは生年月日と生まれた場所を教えてください。
1939年6月12日、生まれは神戸市です。終戦はちょうど小学校に入るときで。なにも遊ぶものがなくて、ラジオをかけると、あの時代ですからFEN(注1)が流れてきて、〈テネシー・ワルツ〉であれ〈ジャンバラヤ〉であれ、みんなジャズって呼ばれていましたよね。そんなのを聴き始めて。
(注1)45年9月に開局した在日米軍向けのAMラジオ放送。当初はWVTRと呼ばれ、その後はFENの名で親しまれ、97年からはAFNに改称。
——それが最初の音楽体験。
そうです。
——戦時中のことで記憶は?
疎開していたんです。
——どちらへ?
兵庫県と鳥取県の境で、諸寄(もろよせ)という浜坂温泉のとなり街に。
——どういういきさつで?
住んでいたのが神戸の御影(みかげ)で、近くに中島飛行機(注2)の工場があって、すごい空襲が来るんです。毎晩、空が真っ赤になる。「これじゃ危ない」というんで、親戚の知り合いかな? 子供だったからよく覚えていないけれど、そこに疎開して。
(注2)中島飛行機株式会社。17年から45年まで存在した航空機、航空エンジン・メイカー。第2次世界大戦終戦までは東洋最大、世界有数の航空機メイカー。
——怖い思いをしたことは?
疎開先には福知山線の蒸気機関車に乗って行きました。京都からしばらく先が、空襲を受けて、燃えていた。そんなことを覚えています。明かりが漏れないようにって、列車の中はほとんど真っ暗。でも、向こうに着いたら割合のんびりしていました。
——食料はあったんですか?
あそこは漁業でしたけど、土地がよくない。湾になっていて、それに沿った道に家が建っていて、うしろが崖。水田なんかないから、お米ができない。お米は鉄道が寸断されて、なかなか入ってこない。そういうところで、段々畑があるけど、本当に小さくて。そこで野菜を作って、あとは魚を食べている。
——なんとか自給自足で。
ええ。
——終戦の日のことは覚えていますか?
そこで終戦を迎えましたけど、覚えていません。
——それが6歳のとき。いつまでそちらに?
終戦になって、すぐに戻ってきたけれど、うちは燃えてなにもない。「どこがうち?」ですよ。親戚が芦屋に住んでいて、「場所があるから、とりあえず住んでたら」ということで、芦屋川に移ったんです。そこの芦屋山手小学校に三年が終わるまで通って。そこの先輩が、清水閏(じゅん)(ds)さんと木村新弥(b)さん。
——上田剛(b)さんも芦屋で、東京に出てから清水さんと一緒にやられていたとおっしゃっていました。
上田さんは知りません。神戸で演奏されていたんじゃないでしょうか? そのあとは夙川(しゅくがわ)に住んで、夙川小学校、大社中学と進んで、高校は西宮高校。
——音楽の話に戻りますが、戦後にラジオから流れてきた洋楽を聴いて。
そういう音楽が好きで、「いいなあ」と思って、毎日聴いていました。どっちかといえばスポーツが好きだったけれど、中学に入ったときにたまたま担任が音楽の先生で、ブラスバンドを指導していて。小(こ)バス(サクソルン・バス)といってチューバの小さな楽器、それを「お前、やれ」って無理矢理にやらされたのが楽器との出会いです。
ふたりの姉がピアノをやっていたんで、うちにピアノがあって。以前から、〈テネシー・ワルツ〉を真似したりはしていました。あと、近所にギターを持っている年上のひとがいて、そこのうちに遊びに行ってはギターを触らせてもらっていた。だけど、音楽的にちゃんとやったのは中学に入ってから。
ところがコーチがいなくて、ブラスバンドではなにもできなかった。先生も管楽器のことはわからないので、ピアノで「ぽん」と音を出して、「この音を出せ」(笑)。そういう状態でしたから。
——それが中学一年から?
そうです。トランペットをやっている同級生がいて、その友だちが大阪のキャバレーで吹いているプロ。そのひとに「教わってきた」「ジャズはこうやるんだ」といって、彼がそれらしく吹くんです。そういうのに影響を受けて。ジャズまではいかないですけど、それを「いいなあ」と思った程度です。
高校で演奏活動をスタート
——そこからジャズに興味を持って。
それで、レコードを探したんです。ところが、そのころは洋楽のLPがなかなか手に入らない。なんで見つけたのか、誰かに譲ってもらったのか、ベニー・グッドマン(cl)のレコードを手に入れて、それをよく聴いて。それが、高校に入ってから。
そのころですけど、卒業した先輩がいろんなところで演奏していたんです。当時はいわゆるジャズ喫茶、クリームパフェとかあんみつとか、なんでもあるんですけど、そういうのを食べながら生演奏を聴く。銀座の「テネシー」なんかがそうでしたよね。
——そういうのが神戸にもあって。
神戸、大阪、いっぱいありました。先輩がそういうところに出ていて。ある日、その先輩がやっているグループのベースが、ほかのグループに行っちゃったとかで、ベースがいない。「お前は中学校で小バスを吹いていたから低音部記号が読めるだろう」「お前、やれ」。そこからですね。
——それまでベースは弾いたことがなかった?
触ったこともなかったです。
——ベースはあったんですか?
ひとのを借りて。
——それが高校何年?
三年になったころです。
——ブラスバンドはやっていなかった。
ぼくの高校にはなかったんで、柔道をやっていました。
——高校に入ってから楽器はやっていなかった。
はい。
——「ベースをやれ」といわれても、わからないですよね。
それで先輩の家に日曜ごとに呼ばれて、「こうだ」「ああだ」と猛特訓。
——譜面は読めたんですか?
いま考えたら、ぜんぜん読めていない(笑)。
——じゃあ、手取り足取りみたいにして。
習いました。
——先輩の楽器は?
ギターで、やっていたのはハワイアン・バンド。でも、ハワイアン・バンドといっても純粋なハワイアンだけじゃなくて、当時はジャズの曲もハワイアンでやっていたんです。だから簡単な曲、〈オール・オブ・ミー〉とか〈テネシー・ワルツ〉とか、そういう曲も演奏する。それができるから大喜びで。
——ギャラはもらえたんですか?
途中からもらえるようになりました(笑)。初めはボーヤ、見習いで。でもジャズ喫茶に出たり、それからクラブなんかでも演奏して。
——進駐軍のクラブでもやりましたか?
それはビッグバンドとかがやる仕事で。ビッグバンドといっても当時はナイン・ピース(9人編成)ですけどね。そういう編成でダンス音楽をやるバンドが出ていました。当時のクラブでは、ひとつがそういうジャズ風のバンドで、もうひとつがたいていはタンゴ・バンド。それが交代で演奏して。だいたい30分ずつですけど、そういう形態で。
——荒川さんもそういうところで演奏はされた?
一緒にやってたギターのひとが米軍の高官の運転手をやっていたんです。そのひとが持ってくる仕事は滅茶苦茶ギャラがいい。当時でひとり1ドル。360円ですからね。コーヒーが30円とかの時代でしょ。1ドルもらったらたいへんな話で。それが途中で何人か入って、安くなる(笑)。
——仕事はジャズ喫茶が多かった?
はい。われわれが出ても、当時のジャズ喫茶は満杯になりました。ほかに遊ぶところがないから、並んで待っている。それがいくつもあって、みんな満員。
——1日に何セットやるんですか?
昼の部と夜の部があって、30分がワン・セット。だいたいふたつのグループが出て、入れ替えですから、昼夜2回ずつとか。当時は東京からもいろいろなグループが来てました。ジャズ喫茶回りがあって、鈴木章治(cl)とリズム・エースとかジョージ川口(ds)とビッグ・フォアとか、そういった有名グループだけでしたけど。
ジャズ以外では、ウエスタン・バンドで鹿内孝(注3)とかね。坂本九(注4)が初めて出てきたときは京都で一緒になって。大受けに受けたって、涙を流してうちに電話をしている姿を見たこともあります。
(注3)鹿内孝(歌手、俳優 1941年~)59年、鹿内タカシ&ブルーコメッツ結成。61年、渡辺プロに入り「ロカビリー歌手」として売り出す。66年から68年までアメリカに音楽留学。その後は俳優としても活躍。
(注4)坂本九(歌手 1941~85年)59年、ダニー飯田とパラダイス・キングに参加。60年、〈悲しき六十才〉でスターに。61年、〈上を向いて歩こう〉が全米1位。その後もヒットを連発し日本を代表する歌手になるも、85年、日航機墜落事故で死去。
——そういうポップス系のバンドとの組み合わせもあって。これは高校卒業後?
高校が終わってです。三年のころは先輩のバンドでやって。大学を受けて、入学はしたんですけど、ミュージシャンに絶対になるつもりで、辞めて。ひとに「関西でやっていたんじゃダメだ」といわれて、「じゃあ」というんで、東京に出たんです。
——それがいくつのとき?
18です。高校を出て、すぐですね。
上京直後からビッグ・フォアに参加
——関西時代に、のちに有名になったひとと一緒にやったことはありますか?
すでに有名だったひとですが、鍋島直昶(なおてる)(vib)(注5)さん。東京にいたひとで、鍋島男爵の子孫です。いまも健在で、今年92かな? お元気で、自分で楽器を運んで。親戚もみんな亡くなって、このひとが正式な鍋島家の後継。北村英治(cl)さんの慶應(慶應義塾大学)の先輩にあたるひとです。一緒にやっていたこともあるみたいです。
(注5)鍋島直昶(vib 1926年~)曽祖父は肥前佐賀藩10代藩主鍋島直正。17歳で海軍航空隊員となり、復員後慶應義塾大学予科に入学するも中退し、ドラマーとして活躍。25歳のとき、仙台米軍キャンプでエミール・リチャーズ(vib)と出会い、2年間ヴァイブの教えを受ける。40歳のころに神戸市内のクラブと契約したことをきっかけに兵庫県へ移住。2008年に大塚善章(p)、宮本直介(b)と「ゴールデン・シニア・トリオ」結成。2015年、ギネスブックに「世界最高齢のバンド」として認定される。
——前田憲男(p)さんと猪俣猛(ds)さんも関西ですけど、そのときはやっていない。
前田さんはいち早く東京に出ていました(55年)。イノさん(猪俣猛)は関西のジャズ喫茶に出ていましたが、昼と夜で入れ違い。顔を合わせることはあったけれど、関西時代は一緒にやったことがないです。
——それで、荒川さんは東京に出てきますが、仕事のアテはあったんですか?
ないです。宮本直介(b)さんが、ぼくより一足先に東京に出ていたんです。ジョージ川口とビッグ・フォアに入っていたんですけど、ぼくが行ったころはそこを辞めて、ピアノの大沢保郎(やすろう)さんと銀座の「サンボア」というクラブでやっていました。
それで、東京に来るといったってホテルに泊まるようなことはできない。そうしたら、宮本さんが「うちに泊まっていいぞ」といってくれたんで。アパートでしたけど、すごく面倒を見てくれました。「居るならいてもいいけど、代わりにメシを作れ」(笑)。「わかりました」といって、買い物に行って、オカズを作ったり。
——宮本さんからは習わなかった?
そういうのはぜんぜんなしで。
——荒川さんは、それまでまったく独学?
その当時は、ですね。多少は先輩から習ったぐらいで、ちゃんとしたレッスンは受けてないです。
——宮本さんとはどうして知り合ったんですか?
同じ関西ですから。あのひとは関西学院大学のグループでジャズ喫茶に出ていました。あのころは学生バンドが流行っていて、「すごいな」「上手いな」と思っていたひとです。
——東京に行くころには、荒川さんはジャズのベースをやっていた?
その前に、少しだけ伊藤隆文(tp)というひとのディキシーランド・ジャズ・バンドでやってました。
——それがジャズ・バンドで演奏した最初のころ?
そうです。そこで譜面を読んだり、いろいろなことを覚えました。
——これが高校を卒業したあとで。高校のときは毎日は演奏していなかった。
学校がありますから、先輩が出ているところに行ったりして、週に1回とか。
——自分のベースを買ったのはいつごろ?
ディキシーをやり始めたころです。
——高校を卒業したちょっとあとで、東京に行くちょっと前ぐらい。
そうです。
——その時点で、ミュージシャンになろうと。それで宮本さんのところで、まあ居候ですよね。
そうしたらある日、ジョージ川口さんから宮本さんに電話がかかってきて、そのときは鈴木勲(b)さんがいたんですけど、「オマスズ(鈴木勲のニックネーム)が辞めたから、戻ってこないか?」。宮本さんは銀座のクラブで毎日やっていたから「無理です」と。この電話は、ぼくが東京に出て2、3日ぐらいのときですよ。それで、「ここにオレの友だちがいて、ちゃんと弾けるから、大丈夫だと思う」といって、紹介されて。テストかたがたビッグ・フォアに行ったら、「ずっとやってくれ」。
——東京に出て、すぐにビッグ・フォアに入られて。ピアノは佐藤允彦さん?
渋谷毅さん。トランペットが林鉄雄さん、サックスが宮沢昭さん。
——ビッグ・フォアはツアーが多かったんですか?
都内のジャズ喫茶もやってました。
——専属ではなくて、あっちこちで。旅もあって。
でも、そんなに忙しい感じではなかったです。御徒町のなんとかというジャズ喫茶、あとは銀座と新宿の「ラ・セーヌ」。名前は忘れたけれど、渋谷のジャズ喫茶にも出ていました。
——どんな曲を?
〈ドラム・ブギ〉とか、有名なスタンダードです。ジョージさんがリーダーですから、テンポの速い曲が多かった。〈ダーク・アイズ(黒い瞳)〉は、初代メンバーの松本英彦(ts)さんの持ち曲だから、ぼくのときはやりません。
——ギャラはよかった?
よかったけど、条件つきみたいなもので、ポーカーでだいたい巻き上げられる(笑)。
——誰が強いんですか?
ジョージさん。滅茶苦茶な賭け金でくるから、われわれ兵隊はついていけない。給料は15日ずつ出るんです。「先に渡しておく」といって、それも取り上げられちゃう。ジョージさんとしては、メンバーに辞められないように先払いをしておく。それにまんまとやられて(笑)。
入って2、3か月したら、宮沢さんが「辞める」といい出した。「宮沢さんが辞めたらなにもないな」と思っていたところに、また宮本さんから「沢田駿吾(g)さんのバンドがベースを探しているから、お前、テストに行って来い」(笑)。
当時、沢田さんのバンドには徳山陽(p)さんがいて、素晴らしい知識のあるひとだから、「これは勉強になるな」。それで沢田さんに「お願いします」と話したら、「オーディションだ」となって、行ったら「明日から」と。すぐに移りました。
——ビッグ・フォアには3か月くらいいて、次が沢田駿吾さんのグループ。ダブル・ビーツですよね。メンバーは?
渡辺文男(ds)ちゃんがいたカルテット。サックスはいなかったです。
——どういうところに出ていたんですか?
新宿の「コスモポリタン」というクラブです。前は「ローズハウス」といって、それが有名だったんで、名前が変わっても「ローズハウス」といえば、みんなわかる。メンバーズ・クラブで、クラブは2階ですけど、1階の入り口を入ったところにクロークがあって。そこで、メンバーだと入れてもらえる。
——専属でやっていたんですか?
そうです。「コスモポリタン」は、元は青山一丁目にあったんです。青山の店には遊びに行ったことがあります。当時は宮沢昭さんがやっていたのかな? 六本木の「クラブ88」が宮沢さんだったかな? ソニーのビルがあったところ。
——狸穴(まみあな)の交差点のところですよね。
あそこは八木正生(p)さんが出ていたのか。
——経営者がアメリカの危ないひとだとか。
マフィアだとかいってましたけど、実際のところはわかりません。
——東京に出て、米軍のクラブではほとんどやっていない?
ありますよ。横浜とか埼玉とか、遠いところでは岩手とか。
——そういうのはジャズのバンドで行くんですか?
沢田さんのバンドが多かったです。
——日本のクラブと比べてギャラはどうだったんですか?
沢田さんのところは給料制ですから、変わらない。
——沢田さんはスタジオの仕事も多かったでしょ?
当時、ビッグ・フォアの月給が6万円。沢田さんのところは半分の3万円。ビッグ・フォアの給料は、当時の水準からいけばよかった。スタジオの仕事は「しょくない(ミュージシャン用語で内職のこと)」といってたんです。沢田さんが「あとはしょくないで補填するから」といって。スタジオ仕事の口入れ屋みたいな事務所を紹介してくれて、やるようになりました。
——それは映画とか劇伴の仕事?
劇伴やコマーシャルが多かったですね。小林亜星(注6)さんが出てくる前で、三木鶏郎(とりろう)(注7)と「冗談工房」とかね。亜星さんは、渡辺貞夫(as)さんがアメリカ留学から帰ってきて、ヤマハでジャズ教室をやったときに来ていて、理論を勉強していた。そのころはいずみたくさん(注8)がスタジオで主流だったんです。1日に3、4本、新しいコマーシャル、違う会社のコマーシャルを録っていましたから。
(注6)小林亜星(作曲家 1932年~)慶應義塾大学医学部入学、経済学部に転部して卒業。作曲を服部正に師事。69年〈イエイエ〉〈エメロンシャンプー〉他のCM音楽作曲に対し「第6回放送批評家賞(ギャラクシー賞)」受賞。ドラマ、ヴァラエティ番組、CM出演などでお茶の間の人気者に。
(注7)三木鶏郎(作詞、作曲家、放送作家 1914~94年)46年三木鶏郎楽団結成。47年開始のラジオ番組『日曜娯楽版』(NHK)の「冗談音楽」や52年『ユーモア劇場』(同)で人気に。51年日本初のコマーシャル・ソング〈僕はアマチュアカメラマン〉創作。仲間を集めた「冗談工房」からはさまざまな人材を輩出。
(注8)いずみたく(作曲家 1930~92年)50年舞台芸術学院卒業。直後から幅広いジャンルの作曲を開始。代表作は〈世界は二人のために〉(67年)、〈恋の季節〉(68年)、〈夜明けのスキャット〉(69年)など。ミュージカル制作や後進の俳優を育てた活動でも有名。
——じゃあ、いずみさんの曲のレコーディングもして。
ええ。いずみたくファミリーの坂本九とか、あのへんのひとのレコーディングもやりました。映画でいうと、あまり思い出せないけれど、佐藤勝(注9)といって、『椿三十郎』(注10)のね、あのひとの音楽をやるため、京都まで一緒に行って、なんてこともありました。
(注9)佐藤勝(作曲家 1928~99年)映画音楽の巨匠のひとりで、『用心棒』(61年)、『椿三十郎』(62年)、『天国と地獄』(63年)など、黒澤明作品を多数担当。
(注10)62年1月1日に監督=黒澤明、主演=三船敏郎で封切りした東宝映画。
——タイトルは覚えていますか?
毎日、次から次へとやっていましたから、なにがなんだかさっぱりわからない(笑)。よく覚えているのは〈寅さんのテーマ〉。あれは、ぼくがやっているんです。山本直純(注11)さんが書いて。直純さんとはズッとやっていたから、『男はつらいよ』(注12)シリーズは何本もやりました。
(注11)山本直純(作曲家 1932~2002年)東京藝術大学在学中から多方面で才能を発揮。『男はつらいよ』のテーマ音楽、童謡の〈一年生になったら〉(66年)など、広く親しまれる作品を生み出す。72年小澤征爾と新日本フィルハーモニー交響楽団設立。73年から10年間『オーケストラがやって来た』(TBS系列で放送)音楽監督。
(注12)主演=渥美清、原作、脚本、監督(一部作品除く)=山田洋次のテレビ・ドラマおよび映画シリーズ。主人公の愛称から「寅さん」シリーズともいわれる。映画は全48作が69年から95年にかけて松竹で制作された。
有名バンドで多忙を極める
——東京に出て、すぐにビッグ・フォア、次に沢田さんのダブル・ビーツに入ります。どちらもジャズの世界では有名なバンドじゃないですか。そのころの荒川さんが影響を受けたベーシストはいるんですか?
金井英人(b)さんがウエストライナーズにいて、銀座の「交詢社シロー」でやっていたんです。そのころの金井さんといえば大尊敬されていましたから、よく遊びに行って。となりが喫茶店で、休憩時間にコーヒーをご馳走になって、話をしてくれる。
「君はいいベースで、99パーセントは知っているかもしれないけれど、残りの1パーセントはぼくが知ってて、君が知らない」なんていわれて。「ああ、なるほど」。考え方として、それは立派だと。そういうことを聞いたもんですから、向こうのひとのレコードをいろいろ聴いて、「これはどうってことがないベースだ」とか。その中でも、なにかひとつぐらいは得られるものがあるだろうと思って。特別に「このひと」といって徹底的に追求しようとは考えなかったですけど、聴けるものはなんでも聴いて、レコードをコピーするようになりました。
当時はジャズの理論が日本になかったので、よくわからない。理論書もないし、それを口にするひともいなかった。みんなレコードを聴いて、「こうだろう」という理論でやっていたんです。そのほかでは、徳山さんがいろいろコピーをして、自分なりに理論を研究していた。だから、徳山さんにもいろいろ聞きました。でも徳山さんは、「これはこうだ」「こうなってああだ」というひとじゃなくて、「そういうのもありますね」みたいなひとだから、一緒に話をするぐらい。そんな感じで勉強をして。
——金井さんなんかがやっていた「銀巴里」のセッションにはいかなかったんですか?
「銀巴里」ではやらなかったです。「銀巴里」じゃなくて、近くにある「銀座日航ホテル」の地下にジャズ・クラブがあったんです。そこには三保敬太郎(p)オールスターズといって、三保さんが特別に作ったグループが出ていて。当時、ぼくは沢田さんのところと三保さんのバンドをかけ持ちしていたんです。
そこも、実は金井さんがいたんです。ある日、なにかで出られなくなったのかな? それでぼくがトラ(エキストラ)で行って。三保さんは譜面をキチンと書いてやるひとだったから、「ちゃんと譜面を読んでいる」というんで、次からぼくになっちゃった(笑)。
——これは不定期にやるバンド?
そうです。だけど、いろんなジャズ・クラブやジャズ喫茶、あっちこっちでやって。ドラムスはイノさんがウエストライナーズをやっていたけど、そういうときは三保さんのところにも来る。ギターは沢田さんでサックスが宮沢昭さん、トランペットが福原彰さん。三保さんが集めたオールスターズです。
——じゃあ、そのときどきでメンバーが少し変わる。
だいたいその辺は決まりのメンバーでした。サックスがもうひとり入るときは稲垣次郎(ts)さん。
——それが、東京に出て1年目ぐらいの話?
そうですね。
——三保敬太郎さんもスタジオの仕事が多かったでしょ?
直純さんは松竹だから大船のスタジオ。三保さんは日活。あのころはギャング映画が流行っていて、三保さんはその音楽をやっていた。だから、音楽はジャズなんです。
——八木正生さんも映画音楽をいろいろやられています。
映画もCMも。八木さんと一緒にやったCMで有名なのは、サントリー・オールドの〈ワシントン広場の夜は更けて〉を使ったコマーシャル。あとから何回か録り直しをしていますけど、最初のベースがぼくです。八木さんとは、亡くなる間際までずっと一緒にやっていたんですよ。だから次のスケジュールも入っていたけど、倒れちゃって。
八木さんは、ぼくがビッグ・フォアに入る前まで、高柳昌行(g)さんとビッグ・フォアにいたんです。それを辞めて、宮沢さんと八木さんと新しいバンドを作った。ベースは寺川正興さんで、ドラムスが石川晶さん。あのバンドはすぐ解散しちゃったけど(笑)。
——寺川さんは、そのあとジョージ大塚(ds)トリオで活躍したひとですね。ところで、沢田さんのところにはどのくらいいたんですか?
どのくらいかな? 銀座に「ブルー・スカイ」というクラブがあって。
——泰明小学校の向かいのビルの中ですね。
高見健三(b)さんの奥さんの関係がやってたのかな? 高見さんがリーダーですけど、高見さんは弾かないで、金子さんというひとがベースを弾いて。あとは五十嵐武要(たけとし)(ds)さん、福原彰さん、稲垣さんの入ったバンドが出ていたんです。それがパンクしたかなにかで(笑)、次郎さんが沢田さんのバンドに移って、沢田さんのバンドがクインテットになる。
ところがある日、次郎さんが「つまらないから、もうちょっとガリガリしたバンドを作ろうよ」といって、ふたりで辞めることにしたんです。沢田さんにはずいぶん叱られましたけど(笑)、次郎さんとバンドを作って。いろんなところでやったけど、銀座の「モンテカルロ」がいちばん長かったかな?
そのときはピアノがずいぶん変わりました。佐藤允彦もいたし、山下洋輔君もいたし、大野雄二君もいた。次郎さんが「横浜に若いのですごいラッパがいるけど、呼んでこようか」といって、日野皓正(tp)君が来て。バリトン・サックスもいたんですよ。いまは神田にあるライヴ・ハウス「TOKYO TUC」でプランナーをやっている田中紳介さん。
——日野さんは、「東神奈川の米軍キャンプでやっているところを引っ張ってきた」と、稲垣さんがおっしゃっていましたから、そのことですね。
そう。
——そのバンドがインドネシアに行って。
あのときは佐藤允彦とぼくがなにかで「行かない」ってパスしたんです。
——あ、行かなかったんだ。それはよかった。
それで、行ったひとはヤバイことになったんです(編註:詳しくは『証言で綴る日本のジャズ2』〈駒草出版〉を参照ください)。
——いろいろなひとに聞いたけれど、そのときのベースが誰かわからない。
誰だったかなあ? 次郎さん、なにかいってませんでしたか?
——その話は、稲垣さんに聞く前に、佐藤さんから聞いていたんです。佐藤さんは大学の試験があって行けないから、山下さんが代わりに入ったそうです。柴田恒雄さんでは?
可能性はありますね。歌手のしばたはつみさん(注13)の叔父さんで、真面目なひとです。
(注13)しばたはつみ(vo 1952~2010年)父はジャズ・ピアニストの柴田泰。9歳のころから米軍キャンプで歌い始め、「スマイリー小原とスカイライナーズ」の専属歌手に。その後、世良譲に師事。77年〈マイ・ラグジュアリー・ナイト〉(日本コロムビア)がヒットし、人気者に。同年『第28回NHK紅白歌合戦』初出場。
——「モンテカルロ」の対バンドは?
ゲイスターズです。リーダーがなにかの事情で抜けて、契約があったので白磯哮(しらいそたける)(tp)さんがリーダーになって、そのままゲイスターズの名前でやっていました。
——スタジオの仕事も並行して?
スタジオの仕事がものすごく忙しくて。8トラックのカー・ステレオ(注14)というのがあったでしょ。とにかく、1日に何曲も録音する仕事があって。
(注14)カー・オーディオを想定して開発されたカートリッジ式の再生専用テープ。2トラックのステレオ・チャンネルが4つあり、合計8トラックの信号を録音することで、この名称となった。
——じゃあ、スタジオ・ミュージシャンもやられて。
そのころからジャズ喫茶が下火になってきた。ライヴ・ハウスはギャラがものすごく安いけれど、それはしょうがない。でも食べていかないといけない。スタジオでうんと稼げれば、お金に関係なく好きなことができる。というんで、佐藤允彦とぼくと亡くなった原田寛治(ds)さん、それからこの方も亡くなったんですけど堤さんというギターのひと、その4人のリズム・セクションでスタジオを回っていたんです。そこにホーンが入ったりとかね。
あのころはスタジオが滅茶苦茶に儲かりました。1日に10万円も稼ぐひとがザラにいて。木村好夫(g)(注15)なんかは1日に何十万円も稼いで。「まだジャズやってるの?」「ジャズ・クラブに行って、1万円くらいでやるのか」なんていわれるぐらい、みんなスタジオに入って、ジャズをやらなくなった。
(注15)木村好夫(g 1934~96年)「黄金の指を持つ男」の異名を持ち、ジャズから演歌、歌謡曲に転じ、美空ひばり、五木ひろしをはじめ、さまざまな歌手のレコーディングやコンサートに参加。「歌のない歌謡曲」と呼ばれたギター・アルバムも多数残した。
——だけど荒川さんはライヴも続けて。
ジャズがやりたいからスタジオをやったわけです。スタジオの仕事が好きなわけじゃないけど、そうすればライヴ・ハウスで好きなことができる。佐藤允彦もそういう考えで、ふたりでやってました。
——スタジオでは電気ベースも弾いて。
ジャズで電気ベースを弾いたのはぼくが初めてなんですよ。それはなにかっていうと、「日生劇場」ができたころに、『焔(ほのお)のカーブ』(注16)というミュージカルをやったんです。ステージの横にミュージシャンがいて、7、8人のグループだったと思います。石原慎太郎(注17)さんの作・演出で、三保さんが音楽を書いて。
(注16)65年に上演された石原慎太郎作・演出のミュージカル。出演は、北大路欣也、朝丘雪路、鹿内孝など。
(注17)石原慎太郎(作家、政治家 1932年~)一橋大学在学中(56年) にデビュー作『太陽の季節』が「第34回芥川賞」受賞。同作品の映画化で弟の裕次郎をデビューさせた。68年参議院議員となり(95年まで)、環境庁長官、運輸大臣を歴任。99年から4期連続で東京都知事(2012年まで)。
映画の『ウエストサイド・ストーリー』が流行っていたころで、このミュージカルにもフィンガー・スナッピングをしながら踊る場面がある。ドラムのハイハットとベースだけがフィンガー・スナッピングに合わせて演奏するけど、ベースの音が聴こえない。
あのころ、カントリー&ウエスタンのバンドはまだ普通のアコースティック・ベースだったけれど、ロック系のバンドがエレクトリック・ベースを弾いていたのを思い出して、ヤマハでアンプとベースを買ってきたんです。「これでどうだ」といったら、踊りの連中が「よく聴こえるから、踊りやすい」「じゃあ、これでいこう」となったんです。
ある日、やっていたら突然音が出なくなった。幕の陰で電源を取っていたのを、誰かが足を引っかけて抜けたんです。監督室から石原慎太郎が降りてきて、ぼくがものすごい勢いで怒られた。そんなこといわれても、ぼくがやったわけじゃないし。あのときはギターのひとがぼくの譜面を見て弾こうとしたけれど、低音部記号だから読めない。うしろでトロンボーンを吹いていた東本(とうもと)さんが立ち上がって吹いてくれて。だけど、踊りはバラバラで(笑)。それが初めてのエレキ・ベースです。これはアメリカに行く直前。
——その後もときどきはエレキ・ベースを弾いていた?
スタジオではね。
——ライヴでは、基本はアコースティック・ベースで。
そうです。
バークリー音楽院留学
——佐藤さんと出会ったいきさつは?
どうでしたかね。彼が高校のときかな? 鳴瀬昭平さんというベースのひとが築地にあったクラブの「うさぎ」でやっていたときに、佐藤允彦がそのバンドにいて。なんとなくどこかで顔を合わせていたんです。当時はジャム・セッションがよくありましたよね。「ヴィデオ・ホール」とか新宿の「武蔵野館」とか、いろいろなところでジャム・セッションやオールナイト・セッションが。そんなところでミュージシャンは顔を合わせますから。それで意気投合して、寝る間もないぐらいスタジオでよく働いて。
——ライヴでも、そのころは佐藤さんとやっていたんですか?
スタジオだけですね。そのころ、秋吉敏子(p)さんがチャーリー・マリアーノ(as)と結婚して、日本に戻って来た(63年)。秋吉さんが日本でやるからとなって、それでぼくと、そのときにスタジオで一緒にやっていた原田寛治が引っ張られて、チャーリー・マリアーノ・カルテット(トシコ=マリアーノ・カルテット)で仕事をするようになったんです。これで日本中を回って。
——どういうことから参加したんでしょう?
よくわからないけど、なぜか原田寛治さんとぼくが入ることになったんです。その前に、秋吉さんとは会ったこともない。ぼくが東京でやり出したころって、秋吉さんはアメリカに行ってましたから。そのあと、日本に演奏に来たこともなかったと思うんです。
——荒川さんにとっては、マリアーノも秋吉さんも本場でやっているトップ・クラスのひとじゃないですか。そういうひととはそれまでにやった経験は?
それまではセッションぐらいです。ぼくらがやっているところに、コンサートが終わってから、楽器を持って遊びに来る。それで一緒にやったりとかはありました。
——マリアーノのカルテットで勉強になったことは?
日本人がやっているジャズとは違うんです。当時のアルト・サックスだったらキャノンボール・アダレイとかソニー・スティットですよね。あのひとたちは自分の音楽を確立してましたけど、マリアーノはいろいろ探っている時期で。そういうひとだったから、新しいことを試みていた。だからぜんぜんわからなくて。
一緒にやっている間にたずねて、いろんなことを勉強しないといけないなと思っていました。秋吉さんもマリアーノとは英語でしか話さないし、彼も日本語がぜんぜんダメで、ぼくも英語で細かいことは聞けない。だから話がうまく進まなくて。秋吉さんには聞きましたけど。
——それは1年ぐらい?
そうです。それで、マリアーノが「リハーサル・バンドを作る」といって、「ビッグバンドでやりたいひとは集まれ」となったんです。リハーサル・バンドでマリアーノがいろいろ教えてくれて。ところが、彼と秋吉さんが、「日本の水は合わないから帰る」。「じゃあ、ぼくはどうすればいいんですか?」といったら、「あなたも来れば? チャーリーが学校(バークリー音楽院)で教える予定だから、面倒を見てくれるでしょう」といってくれたんです。
——そういう話があったんだ。
マリアーノと秋吉さんとやったときに驚いたのは、日本でやっていたものと音楽がぜんぜん違うことでした。「これはなんだろう?」。それで、「これからはこのバンドで一生懸命勉強できるな、いろんなことを教わろう」と思っていたら、「帰る」となったんで。
——バークリーに行くのが65年。
そうです。佐藤允彦にその話をしたら、「オレも行く」。「じゃあ一緒に行こう」「それじゃふたりで稼がなきゃなあ」となって、貯金をしたりして、約1年間準備をしました。
——行くといっても、当時はたいへんだったでしょ。
なぜ65年にしたかといえば、64年までは外務省の留学テストがあったんです。留学して授業を受けるのに語学能力があるかどうかの試験です。ぼくはぜんぜん自信がないし、それはダメだと思っていたら、65年になくなった。
それでも、授業料が払えるかどうかの保証人が必要だとか、いろいろあって。学校から書類がいっぱい来て、それと一緒に「誰がお金を出すんだ?」とかね。お金を出すひとの収入証明書とかをぜんぶ「英文で出せ」ですから(笑)。そんなことで時間がかかったのもありました。
佐藤允彦とぼくと、そのころよく一緒にいた小津昌彦(ds)とで、六本木にあった外国人が教える英語教室にも行きました。それで65年になったら、佐藤允彦が「家庭の事情ですぐには出られない」「1年遅れて行くから、先に行っててよ」。ちょっと心細かったけれど、まあいいかと。
たまたまいとこがブルックリンにいたもんですから、まずはそっちへということで。3か月ぐらい早く行って、毎日つき合ってもらって、スーパーに買い物に行ったりとか、生活のことをいろいろ覚えて。地下鉄ひとつ乗るのもよくわからなかったし。あれは切符じゃなくて、トークン(乗車コイン)を買って乗るでしょ。そういうことも知らないし、車の運転も覚えて。それから学校に行ったんです。
——初めての外国がニューヨークですよね。どうでしたか?
別世界ですね。
——ニューヨークへの直行便はまだないですよね。
ハワイ経由で、ロスに着いて、そこからまた。ハワイまではJALで行って、そのあとはアメリカの国内線。
初めてのアメリカ
——ニューヨークでジャズは聴きましたか?
チャーリー・マリアーノはバークリーで教えるためボストンにいたけれど、秋吉さんはニューヨークに住んでいたから、クラブに連れて行ってくれて。そのときは、すごいひとは聴かなかったです。
ボストンに行って、少し慣れてからは、週末に車でニューヨークに出て、ジャズクラブに行って、いとこのところに泊まって、また帰ってくるってことをよくやっていたんです。 「ヴィレッジ・ヴァンガード」でサド・ジョーンズ(tp)=メル・ルイス(ds)ジャズ・オーケストラがいいメンバーで出ていたころで。フランク・ウエス(ts)とフランク・フォスター(ts)の両方がいたこともあります。「ヴィレッジ・ゲイト」の上にあった「トップ・オブ・ザ・ゲイト」ではビル・エヴァンス(p)を聴きました。
あれは誰のときだったかなあ? ポール・チェンバース(b)がボストンの「ジャズ・ワークショップ」に来たんですよ。ぼくはリハを観に行ったんですけど、そのときはもうヨレヨレで。そんなに速いテンポじゃないのに、汗ビッショリでついていけない。「腹が減った」というんで、マネージャーがホットドッグを買って来たけれど、ケチャップをシャツにドボっとつけちゃったりして。ドラッグでひどかったんでしょう。結局ダメで、彼だけ帰されて。
そのあと、トニー・スコット(cl)がジャッキー・バイアード(p)と一緒にニューヨークのクラブに出たんです。そのときに「うちのバンドに」って、仕事のないポール・チェンバースを引き受けて、そこで亡くなったんです。トニー・スコットはしばらく日本に住んでいたからよく知っていて、これは彼から聞いた話だけど。
——荒川さんは、ボストンで聴いたのが最後?
どっちが先だったか覚えてないけど、「ファイヴ・スポット」でも聴きました。そのときもポール・チェンバースはちゃんと弾けなくて、ローカルのミュージシャンを呼んで、すぐに代わっちゃいました。
——ところで、バークリーに入るには試験が。
あります。
——向こうに行って受けるわけでしょ。ひょっとして落ちちゃったら。
最終卒業校の音楽の成績表と有名な音楽家の推薦状がいるんです。バークリー出身のひとでも構わない。それは、秋吉さんやマリアーノがぜんぶやってくれたから問題なかった。あとは実技の試験。ぼくは器楽科じゃなくて作編曲科で、佐藤允彦も作編曲科。簡単な譜面を出されて、「このテンポで」とか、そういう試験があることはあるんです。
——それをパスして。でも、授業は英語。
初めはずいぶんお金を使いました(笑)。コーヒー・ショップでクラスメイトにコーヒーをご馳走して、その間にノートを写させてもらう。佐藤允彦は優秀で、慶應の高校を卒業するときに2番かそのくらいだから、スペルもよく知っている。向こうはあまり黒板を使わず、喋るだけ。それを筆記するにしても、向こうのひとが佐藤允彦に「あのスペルは?」って聞くぐらいだから、すごい。
——どんな授業ですか?
作編曲科でも、ピアノは必修でみんなやらなくてはいけない。それからもうひとつ、どれか楽器を専攻しなくてはいけない。ぼくはベースになるわけです。譜面を読むことと、すべてのひとがアンサンブルに参加しないといけない。生徒がたくさんいるのでビッグバンドがいくつもできる。ダブっているひともいますけど、そこで譜面を読んで、演奏する。
授業ではコードの仕組みやコード進行についてとか。ジャズの場合は、あとリズムのこととか。あそこはもともとクラシックの作曲法であるシリンガー・システムを作ったヨーゼフ・シリンガーにちなんだ学校ですから(注18)。そのシステムは、現代音楽だからけっこう難しい。それを教える先生がいて、そこでいろんな勉強をして。
(注18)45年にローレンス・バークが設立したシリンガー音楽院が前身。54年のカリキュラム拡張に伴い、息子のリー・バークの名前も加えてバークリー音楽院に名称を変更。70年にバークリー音楽大学となる。当初はクラシックの音楽学校だったが、現在ではジャズの教育で有名。
あとはジャズ・ヒストリーなんていうのもありました。クラシックだったらクラシックのヒストリーがありますよね。あれとおんなじようにジャズ・ヒストリーのクラスがあって。でも、それは街で売られているようなジャズ・ヒストリーの本がテキストで。それがあって、先生が適当に喋ってという授業がありました。
——作編曲科ですから、自分で曲も書いて。
作曲はだいたいクラシックのほうでやって、編曲はジャズの編曲、ビッグバンドの編曲とか、いろいろ。初めは4人による4声ですね。楽器を4本使ったもの。そこからだんだん膨らませていってビッグバンドまでいく。
——それを自分たちのアンサンブルで演奏する。
自分の書いたものを必ずクラスでやります。アンサンブルのときに使うのはだいたい先生やプロが書いたものが多いけれど、生徒が書いたものでもいいのがあればやる。いくつもビッグバンドがあるけど、ひとつだけレコーディング・バンドがあって、これは学校の中でいちばん優れた生徒を集めたバンドで、年に1枚レコードを作るんです(注19)。それはぜんぶ生徒の作品。たまたまほかにすごいベースがいなかったので3年ぐらいで入って、レコードを3枚作りました。
(注19)『Jazz In The Classroom』のタイトルで57年から75年まで、ほぼ年に1枚製作された。
——荒川さんはバークリーで初めて正式に音楽を学ぶことになった。ある程度は解っていました?
そうですね。だけど理論づけができていなかった。学校ですから、理屈が解りました。
——荒川さんはマリアーノから習ったんですか?
いえ。マリアーノは器楽とアンサンブルを受け持っていたのかな? ぼくとは楽器が違いますから。
留学生活
——佐藤さんは1年遅れて来るじゃないですか。すでに、バイトでバンドの仕事が決まっていたとか。
最初は渡辺貞夫さんにずいぶんお世話になって。多くのローカル・ミュージシャンを紹介してもらいました。余計な話になりますけど、アパートを探すのが難しくて。それで、学校のドミトリー(寮)に入ったんです。学校が「ホテル・ボストニア」という古いホテルを買って、いまはそれがメインのビルディングになっていますけど、そこに入ったんです。入学は9月だけど、8月の初めぐらいに行ったんです。その年からドミトリーになったんで、部屋はずっと空いている。
となりの部屋にミシェルなんとかというフランス人がいて、彼とぼくしかその階にはいない。下の階の入り口で、「学生証を見せろ」みたいなことをする学生の管理人がいて、1階が食堂。だからどうしても顔を合わせて、それで話をするようになった。彼も英語は得意じゃないから、「毎晩どうしてる?」って聞いたら、「同じ映画を観て、それで勉強してる」。
フランスの有名な歌手が来たことがあって、ミシェルが伴奏者のひとりになった。彼はパリのコンセルヴァトワールのピアノ科を出ているから、テクニックがあったし、クラシックに関してはなんの問題もない。だけどジャズがやりたいので、来てたんです。
リズム・セクションはフランスから来てたと思うけど、そこに地元の管楽器奏者を足して。ミシェルがそのときのトロンボーンをよく知っていて、そのトロンボーンがミュージシャン・ユニオンに連れて行って、「ユニオンのカード(会員証)を作ってやってくれ」。普通は6か月住まないとカードは出ないけど、即座にもらえて。ぼくのことも、「コイツは東京でプロでやっているんだから」「わかった、わかった」。
ところがミシェルが受付の女の子とできちゃって、ドミトリーを出て、アパートを探すと。それで引っ越したけど、そのアパートのオーナーがダウンタウンにある「パーク・スクエア・ホテル」のオーナーでもあったんです。それで「ピアノをやってるなら、うちのホテルのレストランで弾け」ということで。だけど「ひとりじゃいやだ」「それなら、誰でもいいから連れてこい」。それで「やる?」といわれて、学校が始まるころにはふたりでやっていました。
1年ぐらいで、彼が女の子ともめて、「カリフォルニアに行くから学校を辞める」。そのあとをどうしようかとなって、オーナーに話したら、「誰か連れて来い」。それが、佐藤允彦の来るタイミングだったんです。
——ヴェトナム戦争が激しくなって、反戦運動が盛んだった時代でしょ。日本から行って、意識改革みたいな体験は?
ヴェトナム戦争より、朝鮮戦争のときに「どうだった」とか「こうだった」とかの話はよく聞きました。
——ボストンは学生の街だから、戦争反対のデモとかはなかったんですか?
学生のデモはほとんど見たことがないです。
——穏やかで、反戦ムードではなかった。
ええ。
——でも、面白い時代に行かれてました。
面白かったですよ。ジャズのことを学ぶだけじゃなくて、いまになってみるといい経験をしたと思います。
——バークリー時代の同級生か前後の学年で有名になったひとは?
ジョン・アバークロンビー(g)が半年か1年上です。だから同じクラスにいました。それから、ジョー・ラバーベラ(ds)とパット・ラバーベラ(ts)。ジョーはのちにトニー・ベネット(vo)のバンドに入りました。パットはバディ・リッチ(ds)のビッグバンドに入って、そこから先はどうなったか知りません。あとは、アーニー・ワッツ(sax)やアラン・ブロードベント(p)も一緒でした。
それで、ぼくもバディ・リッチに誘われたことがあるんです。あのころ、メンバーがいなくなるとバディ・リッチはバークリーに探しに来たんです。新人で若いのでいいのをつかまえると安いでしょ。ギャラは親方払いだから、なるべく安いのがいい。
フランク・シナトラ(vo)の息子にも呼ばれました。
——フランク・シナトラ・ジュニア(vo)ですね。
話を聞いたら、あのバンドは外国のツアーばっかり。「とてもじゃないけど、学校があるからできない」と断って。
ある日、夜中の12時をすぎて、部屋のドアをノックされたんです。「誰?」って聞いたら、「ロイ・ヘインズ(ds)」。また馬鹿なことを誰かがいってると思って、ドアを開けたら本人だった。びっくりですよ。「明日と明後日、仕事ができるか?」。クラブの名前も覚えてないですけど、サウス・ボストンにある店。「はい」といったら、「明日、リハをやるから来い」。秋吉さんから聞いたんじゃないかと思うんですけどね。
そのときのメンバーがベニー・マフィンというテナー・サックスで、ハロルド・メイバーンがピアノ。リハに行ったら、メイバーンが「こんなベースで大丈夫なのか?」と思ったんでしょう、ふてくされちゃって。ロイが「まあまあ」となだめて、リハをやったら、メイバーンがご機嫌になって。ロイは「どうだ、オレのいった通りだろ」ですよ。
ソニー・スティットともその店でやりました。そのクラブは土日にニューヨークから有名なひとを呼ぶんです。ピアノがチック・コリアで、ドラムスがボビー・ジョーンズ。スティットはリハをやらない。自分で曲名をいったらバッと出ちゃう。ひどいときはイントロを吹いて、そのまま曲に入っちゃう。譜面もないし。それで探って、こっちはバッキングをつける。
ジョー・ウィリアムス(vo)とも1日だけやりました。あのひとにはけっこう絞られて。マイルスの〈オール・ブルース〉。あの曲はベースから出ていくでしょ。ノリが違うらしいんですよ。「もう1回」とまたやるけど、「ウーン」。何回かやったら、「それだ!」。自分ではどこが違うかわからない(笑)。そういうこともありました。
新車を買って大陸横断
——卒業後にアメリカで活動しようとは思わなかった?
一度はそういうことも考えたけど、結婚してましたから。割と小心者なので、居るためにはどうしなきゃいけないのか、イミグレーション(移民局)に聞きに行ったんです。そうしたら、「これにサインすれば、すぐにグリーンカード(注20)が発行できる」。それ、ドラフト(徴兵)の書類なんですよ。あのころはまだヴェトナム戦争が激しかったから、これにサインするのはできないと思って、「ノー・サンキュー」で帰ってきました。ドラフトで行くと2年で、帰ると大学の学費が無料になる。沿岸警備隊だと3年なんです。
(注20)アメリカ合衆国における外国人永住権、およびその証明書の通称。
あとから知ったけれど、軍楽隊で応募すればよかった。ブラスバンドじゃなくて、普通のビッグバンドがあるんです。これはあちこちを慰問で回る。それを2年やればグリーンカードがもらえる。
——バークリーは65年から68年まで。それで帰国する。
帰ってきて、最初は佐藤允彦と。夏休みも授業を取れば2回で1年分がカヴァーできるから、彼は3年で卒業して。
——一緒に帰ってきたんですか?
普通に帰るのは面白くないから「ルート66を行こうよ」といって(笑)、ぼくが車を買って、ふたりでボストンからロスまで大陸横断をして。ガタガタの道路で、横に新しい高速道路が建設中で、ところどころは新しい道路を通ってまた戻る、みたいなことをしてロスに行きました。
ロスで別れて、ぼくはシスコまで行って。というのも、車を持って帰ろうと思ったものですから。シスコの船会社から送り出す手続きをして。だから何日かずれていたんですけど、1週間ぐらいかなあ? それで帰ってきたんです。
——帰ってくるときに買った車は?
マスタングです。
——新車でしょ、お金があったんですね。
毎日働いていましたから。いちばん初めにミシェルとやっていたホテルは週給90ドルぐらい。これが劇場のオーケストラ・ピットに入ったら週給で260何ドルですよ。そこから税金とかを引かれて200ドルちょっと。それでも、ベースしか弾かないのでぼくがいちばん安い。向こうのひとはひとりでいろいろな楽器をこなしますから。パーカッションといったら、ドラムスのセットからティンパニーから、チャイムとかぜんぶひとりでやる。チューブラー・ベルなんて、ピアニストがうしろを向いて弾いたりね。それで15パーセントとか20パーセントとか、増していく。そのほうが、ほかにひとを雇うより安い。ベースはだいたいチューバも吹くんです。「なんでチューバをやらない?」って、よくいわれましたけど、ぼくはできない。
——小バスを吹いていたから、やろうと思えばできたんじゃないですか?
いやあ、あんなところでできないですよ。
——じゃあ、収入はかなりあった。
初めのころは足りないから、うちから送ってもらいましたけど。
——荒川さんはボストンに行って、すぐ車を買ったんですか?
日本と違って交通の便が悪いから、車がないと動けない。
——ベースも運ばないといけない。
まずは中古でフォードのステーション・ワゴン、それからシボレーになって。安いのがいっぱいあるんですよ。
——最後がマスタングの新車。
いとこが「車を買い換えるから一緒に行こう」といって、それでほしくなった(笑)。
——日本に持って帰るといっても、手続きやなにかがたいへんだったでしょ?
送り出すのは、お金だけ払えばできるんです。日本は車検の前に税関を通るのが面倒くさい。あとは車検に通るよう、日本仕様にしないといけない。排気のマフラーとか。
——マスタングにベースは載るんですか?
昔のは助手席の背中が倒れないから、改造してもらって。あのころはアメリカ車が花形でね。日本で最初に買ったのも中古のアメ車でした。シボレーのガタガタのを買って、次が西條孝之介(ts)さんが乗っていた57年型のフォード。
——ベースも載せるとなれば、当時の国産車では厳しいですものね。
佐藤允彦と活動を開始
——帰国後は佐藤さんとコンビを組んで。
仕事をやろうとなったけれど、ドラムスがいない。しょうがないので「ふたりでできることだけでもやろうか」となって、新宿の「タロー」でやったりとか。「ピットイン」はふたりでやったかなあ? そうしたら富樫(雅彦)(ds)が現れて、「オレにもやらせろ」。
——これは割と早い時期に。
そうです。
——そこから佐藤允彦トリオが始まった。少しすると、稲垣次郎さんのソウル・メディアにも参加される。
次郎さんが「10ピースぐらいのバンドをやりたい」というんで、佐藤允彦がピアノを弾いたりアレンジをしたりして。ぼくもアレンジをしたし、今田勝(p)さんもアレンジとピアノで参加したから、ピアノは佐藤允彦と今田さんが交代で弾いていました。「ピットイン」とかで、大野俊三(tp)君やギターの川崎(燎)君もいて。
——このバンドはいわゆるジャズの4ビートじゃなくて、ソウルやロックのサウンドを取り入れて。
そうでした。
——そういうのはぜんぜん抵抗なく。
スタジオの仕事をやってましたから。
——荒川さんが日本に戻ってきたころから、日本のジャズ・シーンが盛り上がってきました。渡辺貞夫さんや日野皓正さんがスターになり、大きなロック・フェスティヴァルにもジャズのバンドが出るようになって。ソウル・メディアも日比谷の野外音楽堂なんかでやりましたよね。そういう渦中に荒川さんもいたでしょ。日本のジャズの状況が変わってきた実感はありましたか?
目指すものに変わりはなかったので、あまり興奮状態にはなれない。初めてアート・ブレイキー(ds)が来て(61年)、いまでも覚えているけれど、テーマ・ソングの〈ザ・サミット〉が流れて、幕が開いて、リー・モーガン(tp)やウエイン・ショーター(ts)が出てきた。そのときは背筋がゾクゾクしました。ああいう状態ではなかった。
——バークリーに行く前と帰ってきたあとで、雰囲気は変わっていました?
帰ってきたころは佐藤允彦とふたりでわれわれの世界に入っていたから、周りはあまり気にならなかった。『パラジウム』(Express)(注21)の中で〈ミッシェル〉だったかな? ビートルズの曲、ああいうのもそうでしたけど、あのころロスやサンフランシスコに行くと、ほかにもラヴィ・シャンカール(シタール)のインド音楽とかに傾倒しているジャズ・ミュージシャンがずいぶんいて。コンサートをやると、ステージでお香を焚いたり、客席にハッパが回ってきたりとか(笑)。そういう時代でしたから。ボストンだと、ケンブリッジとかに行くと、女の子が裸足で歩いている時代。そういうのが流行っていた。
(注21)トリオ編成で録音した佐藤允彦の初リーダー・アルバム。ビートルズの〈ミッシェル〉以外はすべてオリジナルで占められている。メンバー=佐藤允彦(p) 荒川康男(b) 富樫雅彦(ds) 69年3月17日 東京で録音
——佐藤允彦トリオは、当時の感覚でいくとほとんどフリー・ジャズ。ジャズの流れの中で最前線を走っていました。
ところが70年に富樫の事件(背中をナイフで刺され下半身不随となる)があって、それでこのトリオは解散しました。そのあとはドラマーが何人か来たけど、佐藤允彦のピアノが相当ぶっ飛んでいたから、みんな1日で辞めちゃう。最終的に小津が入って、活動は継続しました。
——短期間でしたけど、富樫さんが入ったトリオでは3枚アルバムを作っています。『パラジウム』の次が『デフォメイション』(Express)(注22)で、そのあとに『トランスフォーメイション ’69/’71』(同)(注23)。
佐藤允彦と作ったレコードは大半はアレンジがない。
(注22)前半はテープによるさまざまな音をバックに、後半はテープに録音されたクラシックのチェンバー・ミュージックやコーラスの断片とトリオが共演したライヴ。メンバー=佐藤允彦(p) 荒川康男(b) 富樫雅彦(ds) 69年7月4日 東京・大手町「サンケイホール」でライヴ録音、10月19日、21日 東京で録音
(注23)富樫が負傷する前後の演奏を収録。メンバー=佐藤允彦(p) 荒川康男(b) 富樫雅彦(ds, per) 69年3月17、20日、71年3月2日 東京で録音
——即興ですか?
いや、向こうでふたりしてやっていたことを。これは自然に出来上がったもので、『パラジウム』は、そこに富樫を加えてレコーディングしました。
——69年には宮沢昭さんのアルバムにもこのトリオで参加しています。
『フォー・ユニッツ』(ユニオン)(注24)と『いわな』(日本ビクター)(注25)ですね。佐藤允彦もぼくも、アメリカに行く前から宮沢さんとは一緒に演奏していましたから。
(注24)宮沢と佐藤はこれがレコード上での初共演。メンバー=宮沢昭(ts, fl) 佐藤允彦(p) 荒川康男(b) 富樫雅彦(ds) 69年4月2、25日 東京で録音
(注25)宮沢との2作目。メンバー=宮沢昭(ts, per) 佐藤允彦(p, per) 荒川康男(b, per) 富樫雅彦(ds, per) 69年6月30日、7月14日 東京で録音
——70年には宮沢さんの『木曽』(日本ビクター)(注26)にも参加していますが、このときのドラマーが富樫さんではなく森山威男さん。
富樫が怪我で急遽、交代したんです。
(注26)富樫の負傷により、森山が参加。メンバー=宮沢昭(ts, fl) 佐藤允彦(p) 荒川康男(b) 森山威男(ds) 70年3月17日 東京で録音
——富樫さんは別でしょうけど、佐藤さんと荒川さんの演奏に加わるのは難しい。
それで小津になって。だけど、小津は「ライヴがある日は朝から下痢するぐらい緊張する」ってこぼしてました。ぼくは、あるときからあまりフリー・ジャズに走りたくなくなった。ルールはあってこそだと思うから、誰がなにをやってもいいというのはどうしても受け入れられない。それで、一旦辞めることにしたんです。
——そのころは、来日したミュージシャンともいろいろ共演して。70年にはヘレン・メリル(vo)の『ヘレン・メリル・シングス・ビートルズ』(日本ビクター)(注27)にも参加しています。
これも佐藤允彦と一緒でした。いろいろやりましたけど、いちばんの自慢は、日本に帰って割と早い時期に、デューク・エリントン(p)のオーケストラで1日だけ弾く機会があったことです(70年)。ベーシストが飛行機に乗り遅れたかなにかで、おそらく秋吉さん経由で、連絡が来た。「今晩、やれるか?」。「厚生年金会館大ホール」で、エリントンと一緒にできる機会なんてないですから、これはなにを置いても行かないと。ジョニー・ホッジス(as)やクーティ・ウィリアムス(tp)とかがいるころですから、最高のバンドで。
(注27)タイトル通りのビートルズ・ソングブック。メンバー=ヘレン・メリル(vo) 佐藤允彦(p, elp, arr) 荒川康男(b)、猪俣猛(ds) スリー・シンガーズ(cho)他 69年12月27日、70年1月27日、2月16日、5月25日 東京で録音
——リハーサルは?
リハーサルといっても、彼らは毎日のように演奏してますから、こまめにはやらない。いちおう何曲かリハーサルをやって、あとはその場で曲が決まる。ステージでエリントンは1曲ずつ話をするんです。その内容で次の曲がわかる。
ジョニー・ホッジスが譜面を出して、みんなに示すんです。譜面てこんなにあるんですよ(5センチほど)。ぼくの位置は、エリントンの真横。いくらジョニー・ホッジスが譜面を掲げても、アルファベットで並んでいない(笑)。すると、エリントンが「(譜面は見なくて)いい」と、ピアノを弾きながらコードを教えてくれるんです。
途中で、「ここは日本だから、お前、ソロを弾け」。「とんでもない」と断ったけど、「お前のファンも来ているかもしれないぞ」。それで、たぶん自分のソロ・ピアノを弾くパートをぼくに譲ってくれたんだと思います。
——曲は?
舞い上がっていて覚えていません。それも「センターマイクのところで弾け」。幸運にも話が回ってきただけのことですけど、これは自慢話だと思って。
WE3ではスタンダードを
——荒川さんは、前田憲男さんと猪俣猛さんとのトリオ「WE3」でいまも活躍中ですが、このトリオを始めたのは?
佐藤允彦のトリオを辞めて、しばらくなにもしていなかったら、イノさんが「トリオをやろうよ」といってきた。前田さんは一分一秒を争うぐらいアレンジの仕事が忙しくて、本音をいえばトリオの活動はしたくない。だけどまあ、始めて。最初はいろいろ形を変えて、西條孝之介さんが入ったりとかね。
——西條さん、猪俣さん、前田さんとくれば、歴代のウエストライナーズの面々ですけど、荒川さんはウエストライナーズではやっていない?
それではないです。前田さんとはよくやっていましたが、前田さんが忙しくてあまりプレイをしなくなっていた。そうしたら「やっぱりアレンジに行き詰まる」「プレイをしないと頭が回転しなくなる」といって、また弾くことに専念するようになった。
——それがいまだに続いているWE3で。ジャズのメインストリームですよね。
普通のスタンダードを演奏するバンドです。
——といっても、名手が3人揃いますから、ありきたりの演奏では終わらない。
そうですね(笑)。
——そのほかは?
古い友だちなので、稲垣次郎さんのソウル・メディアはずっとやってましたけど、いまは基本的にWE3だけです。
——荒川さんは、曲は書かない?
CMは100曲くらい書きました。有名なのは尾崎紀世彦さんが歌った「スバル・レオーネ」。アレンジは帰ってきてからやってました。TBSの『サウンド・イン”S”』(注28)もそのひとつです。東京ユニオンが母体で、そこに弦を足して、いろんな歌手が順番に歌う番組。小コーナーでは世良譲(p)さんのトリオが出て。アレンジは前田憲男さんとぼくとトロンボーンのひとと3人持ち回りで、ずいぶんやりました。
(注28)74~81年までTBS系列局で放送された30分の音楽番組。ポップスやジャズを中心に構成し、レギュラー出演者・音楽監修に世良譲を起用。
——スタジオの仕事もどこかの時点で辞めて。
アメリカから帰ってきたあともずっとやってましたけど、だんだんスタジオの仕事がすたれてきて。時代も変わって、やる人間も変わって。スタジオのインペグ(注29)をやる事務所の人間もどんどん変わっていきましたから。ぼくらの年代じゃなくなって、もっと若いひと。若いひとになると、自分の使いやすいひとになる。そういうこともあって、そこにもってきてスタジオが不況になってきた。だから、「スタジオがいい」といってジャズをぜんぜんやらなくなったひとたちで、またジャズに戻ろうとしたけど戻れなかったひとがずいぶんいて。どこに行ったかわからないひともいます。
(注29)インスペクター(Inspector)の略で、ミュージシャンを手配する事務所や個人のこと。
それは、自分がなにが好きかの問題ですから。結局、なんだかんだいいながら、佐藤允彦もぼくも、昔からいろんなことをやったけれど、ジャズの世界に残ってやってきた。
——途中でスタジオ専門になると、しばらくぶりにジャズに戻ろうといっても、現実的にできないでしょう。
無理ですね。昔はよかったみたいな話になってしまいましたが、そういうことじゃなくて、場所がたくさんあったんです。それがよかった。ナイトクラブとかちょっと大きなバーでやっても、ワン・ステージ目は好きなことができる。ポツポツ入ってきたら少しポップスに近いものをやるし、満杯になったらダンス音楽に切り替える。だいたいがそういうパターンです。銀座に行けばたいていのミュージシャンに会えるぐらい、たくさんクラブがあって、いろんなひとがいた。
あのころは毎日が面白くすごせました。夜は真っ直ぐ帰るひとなんかいなかった。新宿の「キーヨ」とか「ヨット」とか「ジャズ・コーナー」とかのジャズ喫茶にも行って。ぼくらは真面目派だから1階にいるけど、ヤバい連中は2階に行くんです。下に降りてくるときは階段をまともに降りれなくて、半分ぐらいからゴロゴロゴロ(笑)。みんな2階であれをやって。
それでも、なにをしているかっていえば、レコードを聴いて話をして。「あの何小節目のフレーズがいいよね」とか、そういう話で朝までとか。セッションといえば、みんな来てやりましたからね。なにもわからない時代だから、誰かから情報を得ようという気持ちがある。
——そういう時代に荒川さんも東京に出て。
時代的に恵まれていたと思います。
——いやあ、非常に面白いお話をお聞かせいただきました。
こんな自分の話でよかったんですか?
——それが聞きたかったんです。どうもありがとうございました。
こちらこそ。
2018-06-07 Interview with 荒川康男 @ 神田「ヴィジュアルノーツ」
2018-06-28 Interview with 荒川康男 @ 新宿小田急ハルク「LE SALON DE NINA’S」