2019年1月11日公開記事を再掲
ラリー・カールトンの公式HPには、こんなキャッチコピーが掲げられている。
「4 Grammy Wins – 19 Nominations(4度のグラミー獲得、ノミネートは19回)」
すでに “殿堂入り” の活躍を成してきたギタリストは、いまも世界を飛び回り、ステージに立ち続けている。そんな彼が、2018年(3月2日)に70歳の誕生日を迎えた。この年は、ラリー・カールトンにとって大きな節目だ。古希(70歳)だけではない。まずは自身の名声を決定づけたアルバム『ラリー・カールトン(邦題:夜の彷徨)』(1978年)発表からちょうど40年。
そして、デビュー(アルバム『ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンド』〈1968年〉発表)から50年目にあたる。彼にとって、この半世紀はどんなものだったのか。
僕は普通の大学生だった…
――ミュージシャンになったのは、どんな経緯で?
大学生のときだった。学校が企画したジャズ・フェスティバルがあって、僕もギター・トリオの演奏で参加したんだ。そうしたら演奏後に、プロデューサーを名乗る男がやってきて「レコードを作ってみないか?」と声をかけられた。
――思わぬ事態に驚いたのでは?
そうだね。当時の僕は、ジャズとギターが好きな普通の大学生だったし、レコードを作ろうなんて考えたこともなかった。だからビックリするのは当然なんだけど、そのときの僕はまるで条件反射のように「はい、作ってみたいです」と答えてしまったんだよ(笑)。そうしてできたのが『ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ』(1968)というアルバム。こうしてプロ・ギタリストとしての生活が始まったわけだ。
――この世界で名を上げようという野心はあった?
10代の頃の夢は、古びたジャズ・クラブでもいいから、とにかくギターを弾き続けられること。僕が望んでいたのはそれだけだったな。
――しかし、その後のあなたは数々の卓絶したプレイで名を馳せます。
そのきっかけを作ってくれたのは、ルイ・シェルトン(注1)だ。彼はのちにプロデューサーに転身するんだけど、当時はスタジオ・ミュージシャンでね。僕がジャズ・クラブで演奏しているときによく聴きに来てくれていた。そんな彼から、ある日、電話があった。「デヴィット・キャシディ&パートリッジ・ファミリーのレコーディングをするんだけど、君も一緒にやってみないか?」とね。
これを機に、僕はスタジオ・ミュージシャンの仲間入りができたんだけど、最初の頃はずいぶん戸惑ったよ。なぜなら、僕以外のミュージシャンはみんな経験豊富で、素晴らしいサウンドを生み出すことのできる人ばかり。いくら練習しても彼らのような味わいを出すことができなくて、悶々とした日々を過ごしていたね。
注1:Louis Shelton(1941-)アメリカのギタリスト/音楽プロデューサー。60年代にキャリアを開始。セッションギタリストとして、ジェームス・ブラウンやマーヴィン・ゲイ、ジャクソン5、スティービー・ワンダーなどの作品に参加。また、サイモン&ガーファンクル、ケニー・ロジャーズ、ホイットニー・ヒューストンなどからも起用され、なかでもボズ・スキャッグス「ロウダウン」(1976)での演奏は有名。
どうすれば“味のある演奏”ができる?
――その状況を、どうやって打破したんですか?
そんな状態が2年くらい続いた頃、僕は思い切ってルイに聞いてみたんだ。「どうしたらあなたのような、味のあるギターが弾けるようになるのか?」と。すると、彼からこんな答えが返ってきた。「僕はアレンジャーのような気持ちで弾いている」。
つまり彼は、ギタリスト的な考え方で曲にアプローチするのではなく、楽曲全体をデザインするアレンジャーのような感覚で弾いていたんだ。当時の僕は “ギターをどんなテクニックで弾くか?” しか考えていなくて、全体のサウンドまで考えが及んでいなかった。その言葉を聞いてからだね、自分のテイストを出せるようになったのは。
――そうして“自分の表現法”を獲得したあなたは、オリジナルアルバム『ラリー・カールトン(邦題:夜の彷徨)』(1978年)を発表し、大きな成功を収めます。
あのアルバムを録音した頃(70年代後期)、音楽業界は今よりとても自由で余裕があった。それは経済的にも時間的にもね。レコード会社からのプレッシャーもなかったので、好きな音楽を好きなだけ演奏することができたんだ。スタジオでの練習やリハーサル時間に対してもきちんとお金が支払われていたから、お金について何の心配もなかったし、本当に自由だった。
――しかも、このメジャーデビュー・アルバムはセルフ・プロデュースだったわけですよね。
そうだね。いまにして思えば、最初から自分でプロデュースすることも許されていたなんて驚きだよね。それほど、当時の音楽業界は自由で余裕があったわけだよ。
――40年前の音楽業界。現在と比べてもっとも変化したのは、どんなところ?
やはり、予算が潤沢だったことが最大の違いだろうね。それはレコード会社にもマーケットにも共通して言えることだ。当時のことを思い返していちばん素晴らしかったと思えるのは「アーティストが成長するための環境」が整っていたことだ。新人ミュージシャンに与えられるチャンスも今よりたくさんあった。たとえば、若いアーティストの演奏を聴いた会社が「こいつには才能と将来性がある」と判断した場合、そのアーティストに2~3枚のアルバムを続けて作らせてみる。そんな余裕があったんだ。
そうやって若いアーティストを育てて、シーンが活性化していった。現在では、そのような長期的な展望は望めなくなっている。若いミュージシャンにチャンスを与えるだけの余裕がレコード会社にないんだよね。
――音楽業界に余裕がなくなった理由は何だと思いますか?
音楽のデジタル化で、業界の構造が変わってしまった。これが最大の原因だろうね。現在、消費者にとって音楽は無料になってしまっている。だから僕たちのような、ロイヤリティ(権利者に支払われる対価)によって賃金が支払われる音楽制作者のところには金銭が入ってこなくなってしまっている。素晴らしい曲を書いても、いったんストリーミング・サイトに上がってしまえば、それが違法であれ何であれ次々にダウンロードされてしまう。適正な著作権料が支払われていないんだよ。
――確かに、音楽のデジタル化は業界の構造を変えましたね。
ただし、デジタル化の良い面もある。僕自身もプロツールス(PCを核とした総合音楽プラットフォーム)は気に入っているし、よく使っている。最近では音源ファイルが送られてきて、それにソロを重ねてくれという仕事の依頼もある。こうしたテクノロジーのおかげで、自宅のあるナッシュビルからわざわざロサンジェルスに行かなくても済むから、それは本当にありがたいことだね(笑)。
それからサンプリングも面白いと思っている。それを使えば、より多くのミュージシャンが新しいサウンドをクリエイトすることができるからね。テクノロジーに限らず、何事も変化をするものだ。永遠に同じ状態でいられるものなどないのだから、嘆いてばかりはいられないよ。
――でも経済的にはマイナス面が多い。
問題は、アーティストに正当な報酬が支払われないということ。僕たちが何かを生み出して何百万もの人々が気に入ってくれても、それに見合うだけの報酬を手にすることができない。CDの売り上げも落ち込むばかりだ。そもそもCDすら消えつつある。
――アルバム販売の収入が減少するなか、どのような解決策があるのでしょうか。
現在、多くのアーティストたちが活路を見出そうとしているのが、コンサートによる収入だ。ツアー収入の比率が増えてきているね。
――そうした事態を改善するために、音楽産業に携わる人々ができることはありますか?
難しい問題だね。僕は音楽を教える仕事もしているんだけど、いつも学生たちに訴えていることがある。それは「自分の音楽に対して正直であれ」ということだ。何かを創るときは、自分に正直なものを創ること。プレイするときも作曲するときもね。そうしなければオーディエンスやリスナーからの共感を得ることはできない。学生たちにはいつもそう話している。
つまり、何をするにしても、いちばん大切なのは“創作の動機”だと思うんだ。自分にしか作れない作品を、自分の欲求に正直にクリエイトすれば、そこにチャンスが芽生えてくる、というのが僕の考えだ。正直な作品は人の心に届く。売れることばかりを考えていては、そのような作品を生み出すことはできない。現在は複雑な状況にあるけれど、オーディエンスやリスナーからの共感なくして、事態の改善は望めないと思う。
――あなたはいつも、そうしてきた?
僕は、事前に作ったソロを暗記してライブやレコーディングに臨んだことは一度もない。ただ自分の感動を伝えようとするだけだ。僕自身にとって“正直なこと”とは、心をこめてギターを弾くことだ。それは昔も今もまったく変わらない。いまの僕がオーディエンスからの共感を得られているとしたら、そういう気持ちでやり続けてきたおかげなんじゃないかな。
1948年3月2日、米カリフォルニア州トーランス生まれ。1968年に1stアルバムをリリースして以降、ジャズ〜フュージョンを代表するギタリストとしてシーンを牽引してきた。“ザ・クルセイダーズ”、“フォープレイ”などの名ユニットに参加した他、近年ではB’zの松本孝弘と共作による『TAKE YOUR PICK』で、第53回グラミー賞の“最優秀ポップ・インストゥルメンタル・アルバム賞”を受賞した。