投稿日 : 2019.01.10 更新日 : 2021.09.03
【証言で綴る日本のジャズ】 峰 厚介|はじまりは合唱とクラリネット
取材・文/小川隆夫
アルト・サックスに転向
——ジャズを演奏するのはどのあたりから?
そのときはまだクラリネット一本だったけれど、そのあとに鶯谷のキャバレーに出たときに、アルト・サックスを買って、練習を始めて。
——アルト・サックスを買ったのは、どういう理由で?
聴いてて、クラリネットよりアルト・サックスのほうがいいなと思ったからです。
——それは、ジャズがやりたくなったから?
そうです。
——誰か、アルト・サックスのひとのレコードを聴いて、「いいな」と思ったとか?
うーん、誰かのを聴いてかな? ポール・デスモンド(as)かな? そのころの彼は人気がありましたから。ジャズを最初に聴いたのは有楽町にあったジャズ喫茶の「ママ」で。例のませた同級生に連れて行かれて。
そこでは、アート・ブレイキー(ds)とかホレス・シルヴァー(p)とかドナルド・バード(tp)とかを聴いてました。そのころはファンキー・ブームといってたらしいけど。初めて店に入ったときは、「なんだ、これは?」(笑)。全員がスピーカーに向かって一心不乱に聴いてるんですから。そこで聴いたのが、そういう音楽。
——それでだんだんジャズがやりたくなって、アルト・サックスを買って。
そういうことかな。
——ジャズは独学で?
習ってないです。
——アルト・サックスでもクラシックはやったんですか?
クラシックはクラリネットだけ。
——アルト・サックスを買ったのも高校のとき?
高校というか、キャバレーの仕事をするようになって、高校は行かなくなりました。
——辞めちゃったんですか。
二年の三学期で。自分の中じゃバイトが仕事に変わったというぐらいで、特別大きく変わった感じではなかったですけど。
——それがプロとしての第一歩。ということは、17、8でプロになっていた。
「チャイナタウン」を入れれば、そうですね(笑)。
——仕事はいくらでもあったんですか?
いやあ、わかんないです。でも「チャイナタウンを辞める」といってるときに、声がかかってバンドネオンのひとのバンドに入れたんだから、仕事はありましたね。
——そこにはどのくらいの期間いたんですか?
3、4か月かな?
——次が鶯谷です。
そのころにジャズに興味を持って、アルト・サックスを買って。
——そのバンドではアルト・サックスを吹いて。
まだ吹いてないです。クラリネットだけ。
——じゃあ、家で練習してた?
家でというか、楽屋で吹くと迷惑になるから、ホステスさんたちが着替えてホールに出ると更衣室がガラガラになるでしょ。そこで練習してました。
ジャズを演奏し始めたころ
——アルト・サックスで仕事をするようになったのはいつから?
そこを辞めてからかなあ。いちばん最初は地方のキャバレーです。群馬の足利辺り。そこは通いじゃなくて、寮があって。いくつか部屋があるアパートですね。そこにバンドのメンバーで入って、そのときが最初。
——それが18とか?
まだ17でした。
——それでアルト・サックスを吹いて。だけど、まだジャズではない?
そこではジャズの曲もやってました。そのキャバレーでは、メンバーが全員で8人くらいだったかな? それをふたつのバンドにわけるんです。全員でやるのと、数人が抜けた編成のバンドと。そこは1か月で辞めましたけど。
——でも、ジャズらしきものを始めた最初のバンド。
ドラムスのひとがジャズをやってたんで。
——徐々にジャズの仕事が増えてくる。
ジャズっぽいというか、ぼくもそっちを目指したけど。足利のあとも友だちの紹介というか、友だちが「辞めるんだけど、あとがいないと辞められないから、やってくれ」といわれて行ったのが木下サーカス。
——ええ! 木下サーカスで全国を廻ったんですか?
「後楽園(現在の東京ドームシティ)」だけです。そいつが辞めるんで、その期間だけという限定で、1か月ぐらいでした。そのころにピアノの市川秀男が。
——市川さんが東邦の1年下ですね。
1年下だけど、ぼくが一年のときに、中学三年で編入で入ってきたんです。それで、いっちゃん(市川)はぼくが二年になったときに国立(国立音楽大学附属高校)に行ったんで、学校ではぜんぜん会っていない。
——市川さんは、60年代の始めに、峰さんと「銀座で一緒に仕事をした」とおっしゃっていたけど。
ああ、「ACB(アシベ)」とか。いっちゃんがリーダーになって、松島アキラ(注2)のバックバンドに誘われたことがあります。
(注2)松島アキラ(歌手 1944年~)61年、ビクター・レコードから〈湖愁〉でデビュー。主に青春歌謡を歌う。62年、『第13回NHK紅白歌合戦』に〈あゝ青春に花よ咲け〉で初出場。タレントとしても活躍し、『シャボン玉ホリデー』『私の秘密』『ジェスチャー』『ザ・ヒットパレード』などのテレビ番組に出演。
——ジャズじゃないんだ。
でも、間にはジャズをやって、歌手が出てくると伴奏をするスタイル。いっちゃんとは、どこかの店でレギュラーというのではなく。
あのころはツイストが流行ってて、ツイスト大会に誘われて、「どんなのやるの?」「ああいう感じのリズムだったらなんでもいいから、あれやろう」。〈ソー・タイアード〉とかね。ちょっと踊れそうな曲を「なんでもいいんだよ」といって。そういうのはよくやってました。それはすごく若いころです。
ジャズを演奏するのは、その後にいっちゃんの紹介で入ったバンドで、それが自分の中では「ジャズ・バンドに入ったな」という感じです。
——それは誰のバンド?
加藤久鎮(ts)さんのバンドに入れたんです。
——メンバーは覚えています?
ぼくが入ったときはクインテットで、ベースが工藤金一、のちの井沢八郎(注3)。
(注3)井沢八郎(歌手 1937~2007年)63年レコード・デビュー。次の〈あゝ上野駅〉が大ヒット。娘は女優の工藤夕貴。
——井沢さんはビッグ・バンドでベースを弾いてた話も聞いたことがあります。
そのころは本名の工藤金一だったけれどね。
——まだ、歌ってはいない。
歌手志望だったから、習ってはいたみたいだけど。ピアノは誰だか覚えていない。ドラムスは川上だけど、やっぱり名前は覚えていない。
——それがいつごろ?
18になる前ぐらい。
——じゃあ、木下サーカスのちょっとあと。このバンドはどういうところに出ていたんですか?
入ったときは、新宿の「ミラノ座」の地下にあった「クラブ・ミラノ」というところ。形はキャバレーだけど、名前はクラブで。
——ジャズをやっていいんですか?
リーダーの加藤さんがすごいひとなんですよ。すごいというのは、店のマネージャーとかそういうひとを手なずけるのが上手くて。ぼくが入ったときは手なずけたあとだったから、やりたい放題(笑)。ショウの伴奏以外は、ですけど。
——ショウがあって、そのあとは演奏だけの時間がある。
ショウの時間のほうが短いです。
——どんなジャズをやっていたんですか?
ぼくが入ったときは(ソニー)ロリンズ(ts)志向だったけれど、その前はスタン・ゲッツ(ts)とか、そのころのウエストコースト派っぽいというか。昔は「なになに派」みたいなのが受けていたでしょ。イーストコースト派、ウエストコースト派みたいにわかれて。そのころのオリジナル、たとえばリー・コニッツ(as)のオリジナルとかウォーン・マーシュ(ts)のオリジナルとか、レニー・トリスターノ(p)とか、そういうのがスタンダードより多かったかな。
——そのころにはジャズが演奏できるようになっていた?
まだぜんぜんできてないです(笑)。
加藤久鎮のバンドで成長
——加藤さんのバンドには市川さんの紹介で入ったということですが。
いっちゃんがやっていた渋谷のお店に、加藤さんがトラ(エキストラ)で行ったことがあって。そのあと、いっちゃんが夜中までやっている新宿の「ポニー」(ジャズ喫茶)とかそういうところにいたら、加藤さんがアルト奏者を探しに来たんです。それでいっちゃんの顔を見て、「探してるんだけど」「ああ、いま遊んでいるのがいますよ」。
——オーディションはあったんですか?
オーディションはライヴ中です。いまよりはそうとう譜面が読めていたんで(笑)。それで、「〈ドナ・リー〉をやるから」「はい」。
——〈ドナ・リー〉は難しいじゃないですか。
「オリジナル・キーじゃないから」。そんなことをいわれてもやったことがないから、関係ない。「けっこう速いからね」とかいわれて、カウントするでしょ。あんまり速いんで、こちらは「はあ?」。目が点になっちゃった。「それじゃ、いくよ」「はい」。「トゥルルル?」。そのへんでぼくはフェイドアウト(笑)。あとは譜面を見てるだけ。
——それでも合格して。
その曲以外にも演奏したから。〈ドナ・リー〉では、加藤さんとピアノのひとがソロをやっている間、ずっと譜面を追いかけて、それでなんとなく終わりのテーマは吹けたんです。なんとなくですけど。
——アドリブはできたんですか?
できてないです。そのバンドでいっぱい勉強しました。
——加藤さんのバンドにはどのくらいいたんですか?
そこの店は2、3か月で替わることになって、「替わるけど、どうする?」。それで、「次は決まってないけど」といわれて、「実家にいるんで、仕事がなくても食わしてもらえるから、待ってます」。それで次の店が決まるまで、ちょっと間があったけれど、そのときやったメンツがまた集まって、あとはギターのひとが増えて。今度の店は池袋の「女の世界」という店で(笑)。
——そこでもジャズをやっちゃうんですか?
オーディションのときは〈ハーレム・ノクターン〉とかのダンス・ミュージック、それふうのいい曲があるんですよ。それをやると一発で通っちゃう。通ったら、入ってすぐじゃないけど、ちょこちょこ始めて、1か月しないうちにやりたい放題ですよ。
——結局、加藤さんのバンドにはトータルで。
6年かな。
——エエッ、そんなに長くいたんですか?
18ぐらいからね。
——ということは、24歳。68年前後ですね。そろそろ「ピットイン」とかそういうところに誰かのバンドで出始めるんじゃないですか?
いちばん最初に「ピットイン」でやったのは、本田(竹広)(p)君がウィークデイを毎日やってたんで、そのときだよね。
——週末は渡辺貞夫(as)さんや日野皓正(tp)さんのバンドが曜日を決めて出ていました。
夜の部はね。こっちはキャバレーで仕事をしてるから、早く行ってやらせてもらう。本田君は「福生に行く」とかね。