投稿日 : 2019.02.14 更新日 : 2021.09.03
【証言で綴る日本のジャズ】池田芳夫|大手電器メーカーに就職後、会社に内緒でプロ活動を開始
取材・文/小川隆夫
連載「証言で綴る日本のジャズ3」 はじめに
ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのはベース奏者の池田芳夫。
ベース奏者。1942年1月1日、大阪の豊中市熊野田村(現在の豊中市熊野町)生まれ。中学卒業後、松下電器(現在のパナソニック株式会社)に入社し、社内バンドで活動を開始。同時にタンゴ・バンドなどでも演奏し、17歳から大阪NHK交響楽団の前野繁雄に5年間師事する。その後、太田純一郎トリオなどを経て、23歳で大沢保郎トリオに抜擢され、上京。以後は、杉本喜代志、沢田駿吾、渡辺貞夫、菊地雅章(まさぶみ)、日野皓正などのコンボに在籍し、60年代後半から70年代前半にかけてジャズ・ブームの底辺を支える。その後は宮沢昭、高瀬アキとのデュオ、DADAバンドなど自身のグループを中心に活動し、現在にいたる。
ラジオから流れてきたチャーリー・パーカー
——生年月日と出身地からお聞かせください。
1942年1月1日、大阪の豊中市で、いまはなんといわれているか知りませんが、生まれたときは熊野田村といってました。
——元旦というのは、その前後に生まれていたけれど、1月1日のほうが縁起がいいからとか?
いや、本当に1月1日なんです。
——終戦が45年ですから、覚えてはいませんよね。
いや、ぼやけてはいますが、防空壕に逃げたのは覚えています。それから爆弾だと思っていたのですが、あとで聞いたら家の前に焼夷弾が落ちて、そのときはものすごい火柱が上がったのを、子供ながらに覚えています。
——大阪は空襲がすごかったですよね。
ですから焼夷弾が落ちて逃げたのと、いちばんよく覚えているのは、戦争が終わってからだと思いますけど、屋根の上に銀紙みたいなものが降っていたことです。あれがいまでも忘れられません。あれ、なんなんでしょう? テープのようなもので、トイレットペーパーまではいかないかもしれませんが、太いキラキラした銀紙のテープでした(注1)。
(注1)この銀紙はアルミ錫製の「チャフ(電波欺瞞紙)」と思われる。電波を反射させる「チャフ」を空中に撒くことでレーダー探知を妨害するのが使用目的。
——終戦が3歳のときですから、イメージとか薄らとした記憶しかないでしょうけれど、覚えていることは?
ちょっとわからないですねえ。親父も戦死して、顔もまったくわからないし。ああいう時代ですから、どの家庭もそうだったと思うんですけど、それは貧乏でした。
——自分で覚えている最初に聴いた音楽は?
どこか、音楽が好きだったんでしょうね。お金がないので木琴みたいなものを、小学校の一年だったか二年だったかに買ってもらった覚えがあります。
——それを自分で弾いて。
もちろんインチキですよね。オモチャ代わりにそれで遊んでいたんでしょうね。
——それが音楽との出会い。
学校でも音楽の時間が好きで、音楽がいちばん点数よかったんです。
——音楽の家系ではない?
なんにもないと思うんです。
——そのころって、そろそろラジオで音楽を聴き出しません?
ジャズとの関わりにもなると思うんですけど、その前にロカビリーが大好きになって。ミッキー・カーチス(注2)と山下敬二郎(注3)と平尾昌晃(注4)の三羽ガラスが人気で。ぼくはミッキー・カーチスさんのファンで。16歳ぐらいだったかなあ、ロカビリーが大好きだったときにラジオからなにか流れてきたんです。それがチャーリー・パーカー(as)。貧乏だから雑魚寝ですよね。ラジオから、なにかわからないけれど鳴っていて、夜中なのに音を大きくしたら、「芳夫、こんな夜中になにしてるの」(笑)。「いやー、聴かせて」。
(注2)ミッキー・カーチス(歌手、俳優 1938年~)日英混血の両親の長男。50年代末からロカビリー歌手として人気を集め、その後は司会や役者をこなし、67年にはミッキー・カーチスとザ・サムライズでヨーロッパ巡演。プログレッシヴ・ロックのバンドとして70年に帰国。以後も多彩な活動で現在にいたる。
(注3)山下敬二郎(歌手 1939~2011年)父は落語家・喜劇俳優の柳家金語楼。創立間もない渡辺プロダクションの専属になり、58年2月に開かれた「第1回日劇ウエスタンカーニバル」で大々的に売り出される。持ち歌はポール・アンカの〈ダイアナ〉の日本語カヴァー。2008年には「第50回日本レコード大賞功労賞」を受賞。
(注4)平尾昌晃(歌手 1937~2017年)オールスターズ・ワゴンで活躍後、58年〈リトル・ダーリン〉でソロ・デビュー。その後、ミッキー・カーチス、山下敬二郎と「ロカビリー3人男」として「ウエスタンカーニバル」などで人気に。60年代半ば以降は作曲家として〈霧の摩周湖〉(66年)、〈よこはま・たそがれ〉(71年)などがヒット。
——その演奏になにを感じたんですか?
カッコいいなと思ったんです。
——まだジャズは知らないでしょ?
まったく知りません。
——でも、こういうのがジャズだとはなんとなくわかっていたんですか?
わかっていたような、わかっていなかったような、ですよ。
就職先でバンドを始める
——偶然だけど、これがきっかけで。
それが16ぐらい。中学を卒業して、松下電器に就職したんです。入るなり、先輩と会社の中で音楽部を作ろうと。それでベースを弾き始めたんです。
——ベースはたまたまですか?
最初に弾いたのは15か16のときです。
——それまではまったく。
木琴を叩いていただけ(笑)。
——バンドがやりたかったんですか?
やりたかったんですね。ちょっと前後しますけど、その前に「ハワイアン・バンドをやろう」と友だちにいわれて、それでなんにも弾けないのに始めたのが最初です。松下電器のバンドでやっていたのは、いまから思えばディキシーランド・ジャズなのかなあ。ロカビリーが好きだったから、リズムのいいのが好きだったのかなあ?
——ロカビリーをやろうとは思わなかった?
思わなかったです。
——その時点で音楽のことはわかっていないでしょ?
なんにもわかってないです。だから適当もいいところ。最初のハワイアン・バンドでは、自分ではなにもできないからリーダーがチューニングしてくれました。GもDもAもEもなんにもわからなくて。
——ベースは誰かにいわれて始めたんですか?
松下電器でバンドを組んだときは、絶対にアルト・サックスかテナー・サックスで、サム・テイラー(ts)の〈ハーレム・ノクターン〉が吹きたかったんです。でもテナーがなくてアルトがあったんで、「オレ、アルト・サックス」といってやったけれど、ぜんぜん音が出ない。プッと出たときには頭がクラクラするみたいな(笑)。「これじゃダメだ」となって、「なにをやる?」。譜面ではベースがいちばん簡単そうなんで、「これやります」。
——楽器はあったんですか?
ありました。でも、なんであったんでしょうね?
——ほかにも楽器は揃っていたんですか?
揃っていました。誰かがバンドを作っていたのかもしれません。誰もやらなくなって、楽器だけが残っていたのかもわからない。
——どんな編成だったんですか?
クラリネットとトランペット、そしてトロンボーンがいたかな? だからディキシーになったのかな? ドラムスもいて。
——それは会社のパーティとかで。
仕事をしながらやってました。松下みたいなところはアルバイトがダメなんです。それでも「やりたい」。屋上でハワイアンなんかをやっているビアガーデンのアルバイト、それを会社に内緒で、抜け出してはやってました。
——それは、会社のバンドではなくて。
個人で加わって、ですね。最初に「ハワイアン・バンドをやらないか?」といってくれたスティール・ギターのひとの紹介だったと思います。
——会社のバンドと並行して、ハワイアンのバンドも。
音楽の内容はまったくわかりませんから、やれるところがあればなんでもよかったんです。会社ではディキシーのような、中には歌謡曲みたいなものもやっていました。内緒でやっていたのは完全にハワイアン。
——会社のバンドを始めたのは就職してすぐから。
早かったですね。
——ハワイアンのバンドもすぐに?
そうです。
——ビアガーデンだから、その年の夏ですかね。
ええ。そんな中で、タンゴ・バンドにも引っ張られたんです。それも、もちろん内緒で。それで、やってるときに、会社のひとが飲みに来てたと思いますけど、バレちゃった。それと同じ時期に、タンゴ・バンドをやっていたリーダー、ピアノのひとだったかどうかわからないけど、「ベースを弾いてるけど、弓は弾けるの?」。「タンゴ・バンドをやるのになんで弓を使わない?」「弓ってなんですか?」。
ぼくの中では、タンゴもディキシーもハワイアンもロカビリーもごっちゃですよ。そんな中で、「あ、ベースって音程みたいなものがあるんだ」。だんだんわかってきて、クラシックの先生につくんです。