投稿日 : 2019.03.01
【コム デ ギャルソン/オノ セイゲン】「ランウェイのための音楽」はここから始まった ─ 伝説の作品がリバイバル
取材・文/川瀬拓郎 写真/石井文仁
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30年を経て「あの衝撃作」ふたたび
ファッションショーでモデルが歩く舞台を「ランウェイ」と呼ぶが、そこで流れる音楽を、ランウェイ・ミュージックという。つまり「ファッションショーの最中に流れている音楽」のことだ。
このランウェイ・ミュージックには、ショーのテーマに合わせてさまざまなタイプの「音」が使用される。誰もが知るポップミュージックが流れることもあるし、ジャズやクラシック音楽が採用されることもある。もちろん、その多くは「既存の楽曲」だ。が、この常識を打ち破ったのが、コム デ ギャルソン(注1)だった。いまから30年ほど前の話である。
注1:ファッションデザイナーの川久保玲によって1969年に設立。
コム デ ギャルソンは、1987年から89年の5シーズンにわたって、完全オリジナルの「ランウェイのための音楽」を制作し、ショーの現場で使用した。当時この楽曲制作を担当したのが、オノ セイゲンである。
ミュージシャン/レコーディングエンジニアとして知られる同氏は、当時、世界中の著名音楽家たちを巻き込み、ファッションショーのための音楽を制作。それらの楽曲は実際にショーで使用され、同時にこの楽曲群はオムニバスアルバム『COMME des GARÇONS SEIGEN ONO』(1987年)としてもリリースされた。
同作には、アート・リンゼイ、ジョン・ゾーン、ビル・フリゼール、ジョン・ルーリーなど、20組以上の著名ミュージシャンたちが参加。「ファッションショーのBGM」に用途を限定するのはもったいない内容であり、ここでしか聴くことのできない貴重トラック集ながら、CDは長らく絶版状態。そんな伝説的作品集が、30年の時を経て復刻されることになった。
デザイナー川久保玲の依頼
今回の復刻盤の詳細に触れる前に、そもそも、この「30年前の画期的プロジェクト」がどんな経緯でスタートしたのか。その発端を、制作者のオノ セイゲンが語る。
「1987年、川久保さん(注2)に呼ばれて、初めてファッションショーの音楽を手がけることになりました。川久保さんからのリクエストは2つあって、まず『服をキレイに見せる音楽であること』。それから『まだ誰も聴いたことのない音楽であること』。このエピソードは、いまや伝説になっていますが(笑)」
注2:川久保 玲(かわくぼ れい)/ファッションデザイナー。1969年にCOMME des GARÇONS(コム デ ギャルソン)を設立。
川久保氏の意図はよくわかる。デザイナーの世界観を表現するショーにおいて「オリジナルの効果音(楽曲)を使用したい」という欲求は、至極まっ当な感覚であろう。
「既存の曲を使用すると、“知っている曲”という安定感を得られると同時に、どこでも似たような曲のパターンになるのかな。コレクション中に、同じ曲を(さまざまな会場で)何度も聞かされるジャーナリストたちを退屈させないように、という狙いも大前提としてありました」
観る者を退屈させない音。そんなブランド側の要求に対して、オノ セイゲン氏はこんな提案も。
「ライブで即興演奏は? と提案しましたが、却下でした。観客の注意がパフォーマンスに行ってしまうのはよくない。主役は服であって、音楽はあくまでも引き立て役ですから」
そう語る同氏に「なぜ自分が指名されたのか?」を問うと。
「それは僕の方が聞きたいです(笑)。これはあくまで想像ですが、信頼できる方々の推薦だったのでしょうね。1987年の私は、調子に乗ってる29歳でした(笑)。“オノセイゲンなら何か面白いことをやるんじゃないか”という期待があったのでしょうか…」
こうして、ショーのための楽曲制作は始まった。しかし、アート・リンゼイ、ジョン・ゾーン、ビル・フリゼール、ジョン・ルーリーといった面々を起用するのは、そう簡単なことではないはずだが…。
「ジョン・ゾーンとアート・リンゼイは1985年に初来日しました。そのときからの友人です。アート・リンゼイと共作した曲では、初めて全部自分たちだけで打ち込みによるリズムトラックを作りました。収録曲〈Something To Hold On To〉はそうした曲です。コム デ ギャルソンが求めるものはいつも抽象的で、強いもの、美しいもの、涙が出るような…とかね。この曲はリズムからして、普通のポップやロックにない強い印象を残すものにできた」
音楽業界の変革期に…
人脈だけではない。彼一流のアイディアや行動力も、楽曲に色濃く反映されている。
「87年の12月末にコム デ ギャルソンの打ち合わせがあって“3月のショーに赤を使う”ということを知りました。もちろんトップシークレットです。で、そのまま年が明けて、渡辺貞夫さんの名盤『ELIS』のレコーディングでブラジルに滞在していたところ、リオのホテルまで電話がかかってきて『3月のショーに使う赤は“フォークロアの赤”です』と伝言が入った。ちょうどそのときに現地で出会ったのが、ブラジルの国民的スターであるマーレーニ。なんというミラクルでしょう(笑)。僕の中で化学反応が起き、“フォークロアの赤=1950年代のスローなカー二バル”が繋がってしまったんですね(注3)」
注3:Vo.2の2曲目に収録されたメドレー「Pastorinhas/Bandeira Branca/Mascara Negra」
本作に収録された楽曲は、ジャズ、ロック、ファンクなど多彩なテイストが含まれるが、エレガントなラテン要素も重要なアクセントになっている。さらに、こうした楽曲たちが、いまも不思議な新鮮さを保持しているのも本作の大きな特徴だ。ちなみに、この楽曲が制作された80年代後期、音楽業界は大きな変革期を迎えていた。
「当時はデジタル・レコーディングの幕開け。それまで4トラックや8トラックで一発録りしていたものが、アナログマルチも16トラックや24トラックまで使えるようになりました。同時に、シンセサイザーやシーケンサーも普及し、サンプリングした音をコンピューターで演奏することができるようになった。そこにいち早く目をつけたのが、トレヴァー・ホーンでありビル・ラズウェルでした。マイルスがヒップホップに近付いて行ったのもこの頃からですね。新しい音楽が次々と生まれていきました」
こうしてレコーディングされた楽曲たちは、先述の通り1987年にCDでリリース。そして、このたび30年の時を経て華麗に蘇った。もちろん、リマスタリングはオノ セイゲンの手によるものだ。
ちなみに本作(CD)に収録された楽曲は、1988年(春夏コレクションのコム デ ギャルソンとコム デ ギャルソン オム プリュス)と、翌年(秋冬のコム デ ギャルソン)のショーで使用されたものだが、じつはもうひとつ、別のショーで使われたユニークな作品集『CDG Flagmentartion』も同時リリースされる。こちらは、当時CDでは発売されなかった幻の音源集だが、いったいどんな内容なのか。
“未発表音源”の中身
ことのはじまりは、最初のリリース(87年)から10年が経った頃。オノ セイゲン氏は再び、コム デ ギャルソンのオファーを受ける。しかし、その依頼内容は「音楽ではない音」というものだった。
「(依頼されたのは)1997年3月11日のパリのショウで使うための音でした。テーマは、Adult Punk(アダルトパンク)。じつは96年3月から、300人ほどの小さな会場(以前は1000人規模の会場)となり、そこでは“音”が一切使用されなかった。ランウェイを歩くモデルたちも、普通なら『音楽に合わせて軽快に』と言われるところなのに、音楽がない。プロとはいえ、かなりのプレッシャーだったでしょう」
この会場で流すサウンドのコンセプトは「“音”と“音楽”の境い目」。レコーディングに集まったのは、前作に参加したメンバーたちだった。彼らの演奏(単音またはフレーズ演奏の一部)やノイズ、生活音なども含めた多種多様な70種以上の「音素材」を録音し、それらをキーボードに割り付け、オノ セイゲンみずからショーの進行に合わせて現場で再生(=演奏)したのだ。
「ニューヨーク滞在中に1日で素材を準備して、パリに渡ってから音をキーボードの鍵盤に割り付け、本番ではショーの進行に合わせて“音の断片”をライブで配置しました」
このときの状況(演奏)を、そのままパッケージしたのが、本作『CDG Flagmentartion』なのである。
「現場ではカメラマンの声やシャッター音だけが響いていて、その緊張感がたまらない。ショーが始まる前から、ポジション取りするカメラマンたちが今にも喧嘩しそうになってたり、待たされた観客たちの『早くやれ!』というムードが会場に満ちて(笑)、独特なテンションがある。こちらが即興で鳴らしていく音にも、そのムードが反映されていています。今回の最大の発見は、40分のドキュメント録音には“緊張感という空気”が、音を通して記録され得るということでした」
その即興演奏がどんな「音楽」として存立しているのか、にわかには想像しにくいが、こんな聴き方で楽しむ人もいた。
「その40分のドキュメント録音を、写真家の操上和美さんのオフィスでかけていたら、『この音いいねえ! スタジオ撮影で音楽をかけたくない時に最適だよ』と。まさにそういうトラックなのです。音楽をかけたくない時に流す“緊張感”。新ジャンルです(笑)」
さらに本作には、同時代に制作された他の未発表作品をはじめ、ポーランドのサックス奏者、クバ・ヴィエンツェクを起用した新録なども収録。コム デ ギャルソン史伝としての価値はもちろん、オノセイゲンの作家性や創作の裏側が垣間見える、非常に興味深い作品集となっている。
1982年の「坂本龍一/戦場のメリークリスマス」のエンジニアとしてキャリアをスタート。その後、ジョン・ゾーン、アート・リンゼイ、デイヴィッド・シルヴィアン、マンハッタン・トランスファー、オスカー・ピーターソン、キース・ジャレット、マイルス・デイビス、キング・クリムゾン、渡辺貞夫、加藤和彦、今井美樹など多数のアーティストのプロジェクトに参加。84年にはソロ・アーティストとしてデビューアルバム「SEIGEN」を発表し、87年に日本人として初めてヴァージンUKと契約。翌年には「The Green Chinese Table」をリリース。96年「サイデラ・マスタリング」を開設。CD、SACDなどのマスタリング、ミキシング、ライブ、DSDレコーディグ、立体3Dサラウンドについても各オーディオ規格の開発当初から取り組み、DSDライブストリーミング、音響空間のコンサルティングなども手がける。