連載「証言で綴る日本のジャズ3」 はじめに
ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのはドラムス奏者の村上寛。
村上 寛/むらかみ ひろし
ドラムス奏者。1948年3月14日、東京都中央区日本橋浜町生まれ。高校時代から活動を始め、67年に本田竹彦(のちの本田竹曠・本田竹広)トリオでプロ・デビュー。69年、菊地雅章セクステットに参加。72年、渡辺貞夫カルテットに短期間参加したのち菊地セクステットに復帰し、解散する73年まで在籍。この間、ゲイリー・ピーコック、マル・ウォルドロン、ジョー・ヘンダーソンなど、来日したミュージシャンと共演・レコーディングをする。一時帰国も含めて73年から約3年間ニューヨークに滞在。78年に初リーダー作『Dancing Sphinx』(トリオ)を発表。同年ネイティヴ・サンに参加し、81年まで在籍。以後は現在までさまざまなグループや自己のコンボで活動している。
最初の洋楽体験はビング・クロスビー
——まずはお生まれから。
東京の日本橋、浜町で1948年3月14日に生まれました。
——日本橋ですから中央区。浜町で生まれたということは、ご両親がそこで商売をされていた?
親父が呉服屋、叔母が料亭をやっていたんです。呉服屋といっても芸者さん相手で。
——当時、あのあたりは盛んだったから。
そういうのをずっとやっていて。
——小学校は地元で。
はい。小学校が久松小学校(中央区立久松小学校)。久松警察の裏のあたりで、中学が久松中学校(現在の中央区立日本橋中学校)。隅田川の川っぷちにあって、両国橋のすぐそば。
——じゃあ、小・中学は地元で。音楽との出会いは?
うちは兄貴が歌をやっていたから。外国の音楽で最初に聴いたのが、小さなときに蓄音機で聴いたビング・クロスビー(vo)の〈ホワイト・クリスマス〉。あとは、家族でいろいろ聴いていました。ぼくはいちばん下なので、姉兄が聴いているのを耳にしていただけですけど。
——何人姉弟ですか?
ぼくを入れて5人。女・女・男・男・男です。
——〈ホワイト・クリスマス〉を聴いたのはいくつぐらい?
5歳とか、もうちょっと上だったかな? それで、歌をやっていた長男の友だちにドラマーの長谷川昭弘さんがいて、うちによく遊びに来ていたんです。あのひとが来て、なにか叩いている(笑)。いま考えればブラシでなにかを叩いていたんでしょう。それがカッコよくて。自分もそのうちやってみたくなって、長谷川さんのところに習いに行ったのが、ドラムスを始めるきっかけですね。
——そのお兄さんとはいくつ違い?
6歳違います。
——長谷川さんが来てたのは、お兄さんが高校のころ?
そう。
——そのとき村上さんは小学生で、「いいなあ」と思って。
というか、「なにやってるんだろう?」ですよね。
——小学生や中学生のころはどんな音楽を聴いていたんですか?
エルヴィス・プレスリーとかリトル・リチャードとか、あの辺のレコードがうちにけっこうあったんです。
——それはお兄さんのレコード?
兄弟の影響ってすごいじゃないですか。いちばん上の兄貴がやっていなかったら、ぼくはなにもやっていなかったかもしれない。
——ドラムスとの出会いもなかったでしょうし。
それで、レコードをしょっちゅううちでかけていたら、自然にそういう音楽が身についた。
——じゃあ、最初から楽器はドラムスだったんですね。
ほかに楽器がなにもなかったから、ただなっちゃったというだけで。
——最初に叩いたのはいくつぐらいのとき?
高校生のときかな? 長谷川さんのところに習いに行ったのが高校に入ってからです。
高校時代にバンド活動をスタート
——高校は成城学園(現在は成城学園中学校高等学校)ですよね。日本橋から成城ですか?
そのころは三軒茶屋に引っ越していたので。
——それじゃ、バス1本で行けますね。実は、村上さんはぼくの先輩なんです。成城ってバンドが盛んじゃないですか。
あのころはウエスタンがすごかったですね。
——バンド活動もしていましたか?
森山良子(注1)とは同級生だったからやったことがあります。最初は一緒にやっていたけど、そのうち彼女はプロになっちゃった。
(注1)森山良子(歌手 1948年~)父親がサンフランシスコ生まれの日系2世でジャズ・トランペッターの森山久、母親が元ジャズ・シンガーの浅田陽子。高校時代からさまざまなコンサートで歌い、19歳のときに〈この広い野原いっぱい〉でレコード・デビュー。以後は多くのヒット曲を残し、日本を代表するシンガーのひとりとして現在も活躍中。
——自分たちでバンドを組んで、というのは?
高校二年までバンドはやってなかった。そのあと、成蹊(高校)の友人ふたりと成城のベースでスージーQというロック・バンドを作って、ヤマハの「ライト・ミュージック・コンテスト」(注2)の1回目に出て。そのときは「ロック部門」の優勝狙いで、本田竹彦(p)さんに入ってもらいました。
本田さんは、武田和命(かずのり)(ts)さんのバンドでやっていたプロだから、審査員がサダオさん(渡辺貞夫)(as)とわかって、「ヤバイ、オレ、行けない」。こっちは「お願いだからやって」。そのときは、1位が該当者なしの2位になりました。
(注2)「ヤマハ音楽振興会」主催の音楽コンテスト。67年から71年まで開催。
——そのバンドで、村上さんは歌はうたわなかった?
歌わなかった。
——コピー・バンドですか? それともオリジナル?
ローリング・ストーンズとかアニマルズとかのコピーです。
——ちょっと黒っぽいバンドなんだ。
それでヴォーカルがいて、ギターとベースとぼくで。
——そのころって、ディスコみたいなところでやっていたんですか?
茅ヶ崎のどこかでやったり、赤坂にあった「MUGEN」(注3)でやったり。そういうところでちょこちょこやってました。
(注3)68年から87年まで港区赤坂3-8-17パンジャパンビルB1で営業していた。通説「日本で初のディスコ」。欧米で流行していたサイケデリックで強烈な色彩空間が特徴で、主に黒人バンドによる生演奏が売り物。
——それが高校二年とか三年。
三年のときかな?
——本田さんとはどこでどう知り合ったんですか?
一緒にやっていたギターの原さんの兄貴が国立(国立音楽大学)で本田さんと一緒だったんです。その関係で練習に誘って。来たら、「わぁ、野獣みたいなひとだな」(笑)。
——スージーQという名前は、当時流行っていたクリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(注4)のヒット曲から取って?
たぶんそうじゃないかな? ぼくはその辺、知らないです。成蹊のひとたちがその名前をつけていたから。
(注4)68年にデビュー曲の〈スージーQ〉が大ヒットしたアメリカの4人組ロック・グループ。
——ギターとヴォーカルが成蹊のひとで。高校の音楽活動はそのバンドがメイン。
そうこうしているうちに、本田さんが「今度、トリオでやるから来ないか」となって、「ピットイン」なんかでやるようになるんです。67、8年のころだから、大学の一、二年かな?
本田竹彦トリオでプロ入り
——ここから、本当の意味でプロになった。
そうですね。「ピットイン」の昼間、月曜から金曜まで、本田トリオでやってました。
——ベースは誰?
萩原栄次郎さん。そのあとは立川の「ミントンハウス」っていったかなあ? そこでセッションみたいなのをやって。
——その話は峰厚介(ts)さんがしていました。「ピットイン」から立川に行くときに、時間がないから新宿の駅まで走って、立川に着くとまた店まで走って。
立川というか福生のキャバレーに出ていたんです。
——キャンプじゃなくて?
キャンプの外だけど、兵隊ばっかりが来るような店。そこに、「ピットイン」が終わって、走って、立川に着くとまた走って。全部ギリチョンなんだから(笑)。それが終わると、夜中は広尾のクラブ。このときも「終電に間に合わない」とかいって、立川駅まで走る。酷いんだから。
——じゃあ、学校はあまり行かなかった。
ほとんど行かなかったですね。年に何日とか、行ったら試験だったとか(笑)。だから、ぜんぜんダメ。
——それでも通った?
四年のときの最後というのかな、卒業試験? そのときはプーさん(菊地雅章〈まさぶみ〉/p)の旅の仕事で。「あの〜、試験あるんですけど」「オマエ、どっちが大切だ」「あ、そうですか、じゃあいいです」。そのまま大学は終了ということで(笑)。
——四年までは行ったんだ。
一応ね。担当の先生にも「どうする?」といわれて、「ぼく、いま仕事をしてるんです」「その仕事、卒業証書があるとなにか違うのか?」「ぜんぜん関係ないです」「じゃあ、いいんじゃないか」。そういうところ、成城はおおらかだったから(笑)。
——なにをやっても許してくれるところがありましたからね。ということは、成城のひととはほとんどバンド活動はしていない。
ジャズをやるひとがいなかったでしょ。大学に入って、軽音楽部みたいなところに行ったけど、ぼくの年代はあまりいなかった。そのときは本田さんのバンドに入っていたし。
——あの時代はアメ民(アメリカ民謡研究会)がすごかったでしょ。フォークソングとかカントリー&ウエスタンのバンドとかが。
そうですね。
——ちょっと話が戻りますが、最初は長谷川さんに習って。それはどのくらいの期間?
長谷川さんはそんなに長くないです。基本を習って、そのあとは富樫(雅彦)(ds)さんに習っていました。
——富樫さんは厳しい? ちゃんと教えてくれるんですか?
教えてくれるけど、文男ちゃん(渡辺文男)(ds)が遊びに来ると、ふたりでサッといなくなっちゃう(笑)。
——それは富樫さんの家で?
じゃなくて、恵比寿のヤマハの教室です。
——そこで、富樫さんも教えていたんですか。
サダオさんがアメリカから帰ってきて始めた教室があったでしょ。そこで、富樫さんだけじゃなくて、プーさんも教えていたし。
——習ったのはこのふたりだけ?
あと、文男ちゃんにも。
——文男さんはちゃんと教えてくれるんですか?
ドラムス以外のいろんなことを教えてもらいました(笑)。人生勉強ですね(笑)。
——それが高校のとき?
もう大学になっていたかな?
——本田さんとやり始めたころ?
やるちょっと前。
——じゃあ、高校を卒業して、ドラムスのレッスンを受け始めて、本田さんのトリオに入って、ほぼ毎日一緒に演奏して。それはどのくらいの期間?
1年ぐらいやってたかな? だから、体は鍛えられました(笑)。
——ドラムスを叩き始めたころに影響を受けたひとや好きなひとは?
いっぱいいました。最初はロイ・ヘインズで、当然、トニー・ウィリアムス、エルヴィン・ジョーンズ、あとはジャック・デジョネットとか。
——ということは、昔のビバップ・ドラマーはあまり聴かなかった。
当時は彼らが人気だったから。その前の、アート・ブレイキーやフィリー・ジョー・ジョーンズなんかはあまり聴いたことがなかった。その年代のひとだと、ロイ・ヘインズが「すごいな、カッコいいな」と思っていました。伝統的なドラミングをするひとは、あとになっていろいろ聴きましたけど。
——ジャズ喫茶に入り浸って、というのはなかった?
行きました。渋谷の百軒店(ひゃっけんだな)の坂を上がって、左に曲がったところにあった「スウィング」。そこにはよく行ってました。あとは池袋にあった「アンデルセン」。そこは日曜日にセッションをやっていたんです。そこにちょこちょこ行ったりして。
——それはドラムスを叩きに?
そうです。「ピットイン」はもうあったのかな?
——ライヴを始めたのが66年ですから、村上さんが大学に入るか入らないかくらいのときにはありましたね。「ピットイン」の社長(佐藤良武)(注5)も成城で。
可愛がってもらっています(笑)。あと、あのころ行っていたのは銀座の「ジャズ・ギャラリー8」。あそこでは、サダオさんがアメリカ留学から帰ってきたときにちょうど行っています。
(注5)佐藤良武(「新宿ピットイン」オーナー 1945年~)。成城大学在学中の65年に新宿でカー用品を売る喫茶店「ピットイン」をオープン。翌年3月からライヴ演奏も聴ける店に発展。以来半世紀にわたり日本のジャズを支えてきた。77年には六本木にも「ピットイン」をオープン。こちらは外国人プレイヤーやフュージョン中心のライヴハウスとしての評判を獲得(2004年閉店)。現在は「岩原ピットイン」や「スタジオ・ピットイン」も運営している。
——それって鈴木良雄(b)さんや増尾好秋(g)さんも「観た」といってました。
ほんと? 彼らと知り合うのはもっとあとだから、いてもわからないですよね。
——「来るかもしれない」という噂が流れていたとか。
そうしたら本当に来たの。あそこはよく行ってたんです。オマさん(鈴木勲/b)がよく出ていて。あと、ジョージ大塚(ds)さんとか。それで、なにかのときに「サダオさんが来るかもしれない」という話が流れてきて。チンさん(鈴木良雄)たちがいたのはぜんぜん知らなかった。
——サダオさんが帰ってきたのが65年だから、村上さんが高校生のとき。そのころはライヴをたまには聴きに行って。
あとは向こうから来たアーティストとか。
——ということは、どこかの時点でロックからジャズになった。ロックはやる気があまりなかった?
そんなにはなかったですね。ジャズのほうが面白く思えたし。
20歳で菊地雅章セクステットに抜擢
——その時代、本田さん以外のひととはやらなかった?
本田さんとだけ。あとはしばらくしてセッションで、あのころギターの若手三羽ガラスみたいなひとがいたでしょ。
——増尾好秋さん、川崎燎さん、直居隆雄さん。
彼らがよく出ていた渋谷の「オスカー」のセッションとか。そういうのはあったけれど、ちゃんとやっていたのは本田さんのトリオだけ。そのころってメンバーが固定されていたでしょ。
——それが大学の……。
二年か三年のころ。そのあとはプーさんのバンドに入るから。20歳のときはプーさんのところにいましたね。
——その時代にチンさんなんかと知り合う?
プーさんのバンドに入っていたとき、チンさんはサダオさんのバンドにいて。そのあとプーさんのバンドをぼくが一度辞めて、サダオさんのバンドに入ったんです。そこで一緒になった。しばらくして、プーさんのバンドに戻るけど、そこでも一緒になって。
——プーさんのバンドに入ったときのベースは?
池田芳夫さん。あとは峰さんと宮田英夫(ts)さんで、ドラムスが岸田恵二(現在は恵士)。
——ツイン・ドラムスが特徴でした。
恵二のあとが中村よしゆき(ds)さん。最後はぼくひとりになって。
——プーさんのバンドにはどういう経緯で入ったんですか?
峰さんが声をかけてくれて。本田さんのバンドに遊びに来て吹いていたから、峰さんとはよくやっていたんです。それで、「オーディション」とはいわれなくて、ただ「遊びに来い」といわれて、銀座の「ジャンク」に行って。
——じゃあ、ライヴで叩いて?
いや、ステージが終わったあとで。それがオーディションだったんでしょうね。そうしたら、しばらくしてバンドに誘われた。
——連絡はプーさんから?
峰さんから。
——村上さんは、デビューしたときからその時代のビートというか、伝統的なものじゃなくて、自然の流れで新しいジャズをやっていた。
本田さんはブルース中心だったから、ちょっと違うかもしれないけれど、それも含めて伝統的なドラミングやビートではなかった。
——意識して新しいことをやろうというのじゃなくて、プーさんの音楽に合わせていたら自然にその時代のビートになっていたってことでしょうね。
こっちはそんなこともわかっていない時期だから、そういうものだと思っていました。
——プーさんのところではなにがたいへんで、なにが面白かったですか?
なにがたいへんって、全部たいへん(笑)。それまでは12小節のブルースとか32小節のスタンダードとか、なにも考えずにビートをキープしていればよかったじゃないですか。プーさんのバンドでは向こうの曲もやったけど、オリジナルもやる。プーさんの曲は長さが違う。そういうのが平気であるから、「ええッ? なんなんだ、これは?」みたいな。そういうのをやって、鍛えられました。あとは、サウンドに対してどういう反応をするかとかは、さんざんいわれました。
——それはしょっちゅう?
「こんなはずじゃなかった」っていうぐらい(笑)。「来い」といわれたときはにこやかにいってたのに、話が違う(笑)。行ったらたいへんで、「オレの音、ちゃんと聴けよ」とかね。
——演奏中はなにもいわない?
いや、ガンガン怒鳴ってました。寝ちゃってるか、怒鳴ってるかのどっちか(笑)。
——しかも2ドラムスでしょ。
一時はね。
——2ドラムスということは、ふたりで別々のことをやるんですか?
そうでもないけど、おんなじリズムを叩くこともありました。ステージの前で聴いてたひとはたいへんだったと思います。ふたりでバシバシ叩いていたし、「ジャンク」なんて、ステージの直前にお客さんがいたから。
——2ドラムスにした理由は聞きました?
キチンと聞いたことはないけど、ダイナミクスみたいなものが、プーさんはひとりじゃ足りないと思ったんじゃないかしら? ぼくはどっちかといえばリズム・キープで、恵二が好きにやるとか。
——岸田さんはパーカッションのときもあったでしょ?
それはレコーディングのときじゃないかな?
——プーさんはリズムとかビートについて指定するんですか?
とくになかったです。普通にやるけれど、そこの中でちょっとこっちがリズムをキープしていると、恵二が暴れるとか。
——それはプーさんの指示?
やってると自然とそうなっちゃう。それでダメ出しをされなければ「これでいいんだ」と。そういう感じでした。
——当時、ツイン・ドラムスって、ほかになかったでしょうし、ライヴ・ハウスだとステージが狭いからセットするのもたいへんだったでしょ。
よしゆきは左利きだから、セットを並べるとハイハットがとなり合わせになる。「それだったら1個でいいんじゃない?」(笑)。
——ハイハットが並んじゃうんだ。
それで、ふたりが一緒にガチャガチャガチャってやってるんだから(笑)。
——プーさんのバンドがよく出ていた「ジャンク」なんて狭いでしょ。
そこに、オルガンも持ってきて、フェンダー・ローズ(電気ピアノ)も置いて、ベースはマーシャルのでっかいアンプ。それがタイコのうしろにある。ガーンとか音が出ると、こっちはほかの音が聴こえなくなっちゃう。自分が叩くタイコの音も聴こえないから、すごかった。
海外の一流ミュージシャンとレコーディング
——レコーディングをするようになったのもこのころから。でも、本田さんとはこの時点では録音していない。
本田さんとは、もう少しあとになってから(注6)。プーさんとの『再確認そして発展』(フィリップス)(注7)がその前だったかな?
(注6)最初の共演作は『本田竹彦/I LOVE YOU』(トリオ)。メンバー=本田竹彦(p) 鈴木良雄(b) 村上寛(ds) 71年4月30日 東京で録音
(注7)『マトリックス』(日本ビクター)に続く菊地雅章セクステットによる2作目。ここから村上が参加。メンバー=菊地雅章(p) 菊地雅洋(elp) 峰厚介(as) 池田芳夫(b, elb) 村上寛(ds) 岸田恵二(ds) 70年3月16日 東京で録音
——プーさんのバンドに入った少しあとに日本滞在中だったゲイリー・ピーコック(b)ともレコーディングしています。
ゲイリーさんの『イーストワード』(CBS・ソニー)がいちばん最初かもしれない(注8)。
(注8)村上の初レコーディング。メンバー=ゲイリー・ピーコック(b) 菊地雅章(p) 村上寛(ds) 70年2月4日、5日 東京で録音
——プーさんとのトリオで吹き込んだのがその作品。
富樫さんがやるはずだったけれど、事故(背中をナイフで刺され下半身不随となる)に遭ったでしょ。富樫さんには申し訳ないけど、あれは大きな体験でした。
——このレコーディングはプーさんとゲイリー・ピーコックの世界。
こっちは邪魔しないようにと。でも最初のうちはそうだけど、「もういいや」と、あとは開き直りしかなくなっちゃって。ふたりのやり取りがすごい。それを邪魔しちゃいけないから、音を聴くようにして。くっついてみたり、スーッと離れたりとか。それが勉強になりました。それまでは、テンポが決まったらずっとそれをやる。ゲイリーさんなんか、そんなことやらないから。
——単なる伴奏じゃダメなんですね。
そんなことできないけど(笑)、あのときのふたりはすごかった。
——このトリオでライヴもやったんですか?
やりました。旅もしました。
——プーさんとゲイリーさんは、プライヴェートなところでも気が合っていた?
合ったというか、尊敬してたんでしょうね。その前にプーさんとふたりで、ゲイリーさんを探しに行ったことがあるんです。
——あるとき、「日本にいる」という噂が流れたんですよね。
プーさんのバンドで京都に行ったときに、「ここにどうもいるらしい」となって、住所もなにもわからないくせに、「北白川のあたりじゃないかな?」「この辺かなあ」とか、ふたりでワイワイ騒いで、ぜんぜんわからないで帰ってきたことがあります。本当に京都にいたらしいんだけど、そのあと、鯉沼(利成)さん(注9)が連絡を取ったんじゃないかな? それからプーさんと始めて、最初は富樫さんとの3人でやっていたんです。
(注9)鯉沼利成(音楽プロモーター)原信夫(ts)とシャープス&フラッツなどのマネージャーを経て、70年に「あいミュージック」設立(82年「鯉沼ミュージック」に改名)。初期にはアーティスト・マネージメント(菊地雅章、渡辺貞夫、日野晧正ら)をするとともに、国内外アーティストのコンサートのプロデュースとプロモートを40年以上にわたって行なった。2018年に死去。
——京都に探しに行ったときは見つけられなかった。
見つけたんだったら劇的だけど(笑)。でも、よく探しに行ったよね。
——プーさんの情熱がすごい。それでこの少しあとだと思いますが、スリー・ブラインド・マイス(TBM)(注10)ができたときに、村上さんが峰さんを紹介する。
TBMの佐賀(和光)さんを知っていたんです。あのひとの本業は建築家で、学生時代に演奏した音楽仲間だったんです。
(注10)ジャズ・ファンの藤井武が友人の佐賀和光と魚津佳也を誘い、70年に日本初のジャズ専門レーベルとしてスタート(約140枚のアルバムを制作し2014年倒産)。
——佐賀さんはピアニストで。
それで、藤井(武)さんが佐賀さんと魚津(佳也)さんとでTBMを立ち上げるときに、「最初に峰さんのレコードを作りたいから紹介してくれ」(注11)と。
(注11)TBMの1作目(カタログ・ナンバーTBM-1)として発表されたのが『ミネ』。メンバー=峰厚介(as, ss) 今井尚(tb) 市川秀男(elp) 水橋孝(b) 村上寛(ds) 70年8月4日、5日 東京で録音
——「誰かいいひと、いないか?」ということじゃなくて、峰さんを名指しで。
ちょうど峰さんもプーさんと一緒にやっていたから、話を持っていって。
——プーさんとやっていたときは基本的にプーさんとだけ?
だけなんだけど、たまに仕事がないときとか、あとプーさんがエルヴィンの仕事でアメリカに行ったときは(注12)、峰さんが作ったグループに入ったりとか。
(注12)72年1月に渡米し、エルヴィン・ジョーンズ・グループに参加。ニューヨークやトロントなど各地で演奏し、エルヴィンとジーン・パーラ(b)で『菊地雅章&エルヴィン・ジョーンズ/ホロー・アウト』(フィリップス)をレコーディング(72年2月17日)後、帰国。
——プーさんのところにいたころですが、マル・ウォルドロン(p)の日本ツアーにも参加します(71年)。あれもプーさん絡み?
鯉沼さんが呼んでたから。プーさんのグループも鯉沼さんのマネージメントだったし。
——そのころは、向こうから来るひとといろいろ共演して。
すごいひとたちとやらせてもらいました。ジョー・ヘンダーソン(ts)とかジョニー・ハートマン(vo)。もっとあとになってからはアン・バートン(vo)ともやったし。
——プーさんのところにはどのくらいいたんですか?
途中抜けたけど、3、4年かな?
——解散までいましたよね。その間、一時サダオさんのバンドに移って(72年)。
プーさんには叱られたけど(笑)。ところがサダオさんのバンドはすぐに解散したんです。それでプーさんのところに戻してもらって、そのあとは73年にプーさんがアメリカに行くまでやって。
——サダオさんのところに呼ばれたのはどういう事情から?
つのだ☆ひろがドラムスだったんだけど、急に抜けることになって。ところがサダオさんのバンドはスケジュールが入っていたから、「誰かいないか?」というんで。チンさんと増尾さんとはやってたことがあるから、そこから話がきて。
——じゃあ、急遽移籍した。
プーさんも、サダオさんじゃ文句はいえないし。
——サダオさんのバンドにはチンさんと増尾さんがいて、そのカルテットでどれくらいやっていたんですか?
そんなに長くないです。入って3か月か4か月で解散ですよ。チンさんが「ナントカかんとか」といったら、サダオさんが、「そうだな、長くやりすぎた、解散、解散」。ぼくなんか入ったばかりで、レパートリーが全部わかっていない(笑)。そのあとは板橋文夫(p)が入ったりとかして、ぼくだけちょっと残ったんです。
——そこで、プーさんのバンドに戻る。戻ったときは、チンさんは入っていた?
まだ池田さんで、しばらくしてチンさんになったんじゃないかな。
——あとはチンさんと一緒に、プーさんのバンドが解散するまで。
そうです。
ニューヨークに移る
——バンドが解散になって、チンさんと峰さんはアメリカに行くけど、村上さんも同じ時期に行ったんですか?
ぼくはもうちょっとあとだけど、ほとんど一緒ぐらいかな?
——村上さんは、プーさんのバンドのあと、誰かとやっていた?
峰さんとやって、峰さんとチンさんが「ニューヨークに行く」となった。あとはやるところがなくて、そうこうしているうちにぼくも行くことにしました。
——それがいつ?
73年の話。
——アメリカに行こうと思ったのはどうして?
みんな行っちゃったから(笑)。それで、「行ってみたいな」と思って。最初はパッと行って帰ってくるぐらいの感じだったんです。でも行ったら、「なんかいいなあ」となって。それで住むようになった。
——アパートはどうしたんですか?
最初は増尾ちゃんのところに泊まって。
——みんなそうなんだ(笑)。
そのあとは、汚ったないところだったけど、探して。
——どのあたり?
フランクリン・ストリートって、ソーホーにある通り。キャナル・ストリートの2本かそれくらい上(北)のところ。
——ウエストサイドですね。
アパートはシックス・アヴェニューとハドソン・ストリートの間。増尾ちゃんがすぐ近くだったし、厚ちゃん(峰厚介)はグリニッチ・ヴィレッジだから、みんな歩いて行けるところに住んでいた。
——川崎燎さんもグリニッチ・ヴィレッジでしたね。
でも、しばらくしたら上(北)の方に行っちゃったでしょ。
——行って、どうしていたんですか?
最初はただ聴き歩いて、あとはアルバイト。照夫(中村照夫)(b)さんがいろいろ仕事を世話してくれて。
——ファンクみたいなバンドとか?
ドゥワイト ギャサウェイといって、ヴァイブのひとのバンド。ロイ・エアーズ(vib)のバンドでパーカッション奏者として日本に来たことがあるひとで、そのバンドでやったり。自分のバンドではヴァイブを叩いて、ロイのバンドではパーカッションなんだけど、1曲くらいはヴァイブも弾かせてもらうみたいな、そういうひと。ショウアップして、それがすごい。日本に来たときもそういう感じでやってました。
——どういうお店で?
ブルックリンにあった普通のバーみたいなところ。
——仕事はけっこうあった?
そんなにないです。毎週末ぐらい。普通だと、月、火、水とかやるでしょ。そうじゃなくて、週末だけ。
——だけど、2年住むのはたいへんでしょう。
ギリチョンで大丈夫だったけど、ほんとにギリチョンでした。
——貯金はあったんですか?
最初のうちだけ。あとはなくなって、それこそ綱渡りみたいなことをやって。だからほかにアルバイトをしたり。それでちょっと余裕があると、聴きに行っちゃったり。なんか上手い具合に仕事が来るんだよね。「ああ、また生きていける」(笑)。
——向こうにずっと住む気はなかった?
どうだろう? でもやめたでしょうね。そのままいてどうなっちゃうかわからないから。
——だけど、もう1回行ったのは、なにかあったんですか?
そのときは先のことは考えていなかった。まだ、向こうにいたかったし。ちょうど向こうでも音楽がガァーって動いたときだったから。面白い時期で。
——そのころって、プーさんのバンドのメンバーがほとんどみんな向こうにいましたよね。プーさんのバンドがニューヨークで再結成されるんじゃないかと、ぼくなんか日本にいて思っていたんですけど。
そういえばメンバーのほとんどがいたけれど、そんなことを考えるより、向こうでもマイルス・デイヴィス(tp)が新しいことを始めて、いろんなことが動き出していた時代でしょ。それを直に観れたことがすごく大きい。
——4ビートからフュージョンになった時期ですから。
街も思ったほど危なくなかったし。こっちのほうが危なく見えたぐらいで(笑)。乞食みたいな格好してたから、向こうが避けて通っていた(笑)。
ライヴで刺激を受ける
——ニューヨークに行って、どんな印象を持ちました?
そこらにいるひとがみんなミュージシャンに見えちゃうぐらい(笑)、本当にカルチャー・ショックで。時期もよかった。エルヴィン・ジョーンズのバンドにスティーヴ・グロスマン(ts)やデイヴ・リーブマン(ts)がいたころでしょ。マイルスのバンドにはアル・フォスター(ds)がいて、完全にエレクトリックになっていたし。それからトニー・ウィリアムスとロン・カーター(b)とハンク・ジョーンズ(p)のグレイト・ジャズ・トリオがちょうど始めたぐらいで。
——ドラマーでいちばんすごいと思ったのは、やっぱりエルヴィン?
そうですね。あとトニーがグレイト・ジャズ・トリオで最初に「ヴィレッジ・ヴァンガード」に出たとき。3日間とも行ったけど、最初の日はトリオなのにこんなに大きなバスドラでいつものように叩いていたのね。そうしたらハンク・ジョーンズに睨まれて。ところが、2日目からはピタッとバランスが最高になった。それを目の当たりにして、「すごいなあ」と。あれが聴けたのも大きかった。
シダー・ウォルトン(p)とビリー・ヒギンズ(ds)のコンビはどこに行っても見るんだよね。なにか違うものを聴こうと思って行くと、また彼らなわけ(笑)。だけど、おんなじことをやっているのにぜんぜん違う音が出てくる。
——あの時代は、音楽もシーンもエキサイトしていた。
このひとが聴けたっていうんで嬉しかったのがグラント・グリーン(g)。増尾ちゃんと一緒に行ったの。ブルックリンだったかな? それとか、トニー(ウィリアムス)のところでオルガンを弾いていたラリー・ヤングがソーホーのちっちゃなクラブに出てたのを聴きに行って。あのころはアル・フォスターもシダー・ウォルトンとやってたし、ブレッカー・ブラザーズもいたでしょ。
——日本で体験していたジャズとはまったく違う。
やっていることはすごいけど、もっと楽しいし、面白い。日本だと、妙な意識があるのかな? 堅苦しいというか、緊張してやっているというか。考え方も違うだろうけど。コミュニケーションの取り方とか、生き方まで違うように思えました。普通にやってるけれど、それがすごい内容で。
——それもカルチャー・ショックのひとつ。
ぜんぜん違うと思いました。ソウル・ミュージックなんかでも、聴いたこともないひとがすごいし、名前のあるひとになると、ほんとにケタ違いですごい。それまでは、レコードでトニーのドラミングを聴いて、「あ、こんなことやってるんだな」と思っていただけでした。だけど実際に観ると、普通のことをやっているのにぜんぜん違う。みんな音がでかくても綺麗で。
——エルヴィンなんて、大きくても邪魔にならない。
エルヴィンを聴いたら、4ビートをやるのが馬鹿らしくなっちゃった(笑)。「こういうのが4ビートなんだ、自分のやっていたのはなんだったんだ?」みたいな気持ちになって。
——だけどドラムスをやるのがイヤにはならなかったでしょ?
ならなかったけれど、ただただすごいひとだなと思って。
——そういうことで大きな刺激を受けた。
なにを聴いたって刺激を受けますよ(笑)。あそこで子供のときから育ったら、違うでしょうね。こういうもんだって、体が覚える。日本は、だから特異な状態じゃないかと思います。
——どうしてもコピーから始めるから。
いまはオリジナルをやるようになったけれど、ぼくが行ったころは当然コピーからでしょ。
——同世代のミュージシャンの中では、ニューヨークに行ったのは岸田さんがいちばん最初かしら?
向こうに行ったの? かもしれない。増尾ちゃんのほうが先かな?
——本田さんもそのあとニューヨークに行きました。
本田さんはサダオさんのグループで来たのかな? それで日本に帰って、ツアーをするというんでぼくが呼ばれたんです。そのときはチンさんと増尾ちゃんと本田さんとぼくと。ところがチンさんがなにかで来れなくなって、オマさんにやってもらって。
——益田幹夫(p)さんも住んでいたことがありますよね。
ちょうどぼくなんかが行ってるときに、やっぱり来て。
——益田さんがいたのは74年から75年にかけてだから、時期は重なっています。
そういや、多いなあ。大野俊三(tp)もいたでしょ。板橋文夫もちょこっと来たし。あと、岡田(勉)(b)ちゃんも来たでしょ。
——山本剛(p)さんはそのあとかな?
ヤマちゃんもいました。
——でも、みんなでつるんだりはしなかった。
しなかったです。ヤマちゃんがなんとかっていう店に出ていたとき、そこに行ったりはしましたけど。
——同世代の日本のミュージシャンと一緒にはやらなかった?
ほかのひとのセッションで顔を合わせることはあったけれど、日本人同士で集まって、というのはなかったです。照夫さんが増尾ちゃんとトリオでやったりとかはあったけれど。
——どこかに遊びに行ったり、飲みに行ったりは?
それもしなかった。どこかに聴きに行って、そこで会うというのはあったけれど。
——セッションにも?
あまり行かなかったですね。
2度のニューヨーク生活から日本に戻って
——それで日本に戻って、どうされたんですか?
最初に行って、ちょこっと日本に戻って、また向こうに行って。それで1年ぐらいいて、サダオさんのツアーがあったんで帰ってきた。それをやって、あとはずっと日本。
——そうすると2年ぐらいいて、また1年ぐらいいた。
そうですね。サダオさんのあとは本田さんのところに行って、峰さんのバンドにも入って、かけ持ちをしていた時期もあります。
——70年前後はジャズがすごく盛り上がったじゃないですか。そういうときに、プーさんのバンドにいて、その間にサダオさんのバンドにもいました。盛り上がっている実感はありました?
いまじゃ考えられないけど(笑)、けっこうお客さんが入っていたじゃないですか。
——村上さんの場合、最初からそれが普通だった? それとも、あるときからそうなってきた?
プーさんのバンドのときは、もう入っていました。サダオさんのバンドは別格で、どこに行ってもお客さんが溢れ出るぐらいすごくて。プーさんのバンドにしろサダオさんのバンドにしろコンサートで、それが全部満杯だったから、すごいブームだったのは肌で感じていました。あと日野(皓正)(tp)さんも大スターだったし、ジョージ大塚さんのバンドもすごい人気だった。
——とくに地方はお客さんの数が多くて。
ライヴハウスでやると、息苦しいくらい超満員でした。
——若い女の子も多かった?
そういう子も来てたけど、ぼくたちと同じ年代のひとが多かったんじゃないかな?
——20歳前後とか。
あとは30ちょっとぐらいとか。年を取ったひとはあまりいなかった。そういうひとは、ぼくたちがやっている音楽を聴いていなかったんじゃないかしら?
——雰囲気は熱い。
手応えはありました。たくさんのお客さんがいる前で演奏すると、やっぱり上手くなる。
——注目されていると……。
変なことはできないし、お客さんとも真剣勝負だから。いいのか悪いのかわからないけれど、すごい体験でした。
——ギャラはよかったんですか?
最初はよくなかったけれど、そのうちくれるようになりました。それでも、こっちだってもらえるような腕じゃない(笑)。やらせてもらっている感じでしたから。
——アメリカから帰ってきたころから、固定のメンバーでやるスタイルが崩れてきたでしょ。
だんだんね。でも、自分の中で誰々のバンドのレギュラーだとしたら、それを第一に考える。そうすると、ほかから仕事がきても、スケジュールがバッティングしたら、当然そっちを断るし。先にほかの仕事が入っていても、レギュラー・バンドの仕事が入れば、「悪いけど」といって、ほかの仕事を断る。そうやっていると、ほかからの仕事がだんだん来なくなって(笑)、結局はレギュラー・バンドのメンバーになっちゃう。
——村上さんは自分でバンドを作ろうとは、そのころはまだ思っていない?
ぜんぜんそんなことは考えていなかったです。
ネイティヴ・サンに参加
——そうこうしているうちに本田さんがネイティヴ・サン(注13)を結成する。
そのときは本田さんのトリオでやっていて、峰さんのバンドにも入っていた。
(注13)本田竹曠(key)と峰厚介(sax)を中心に78年3月に結成されたフュージョン・バンド。結成時のメンバーは、大出元信(g)、川端民生(b)、村上寛(ds)。村上は81年まで在籍し、その間に5枚のアルバムを吹き込む。
——峰さんが仰っていたけれど、どっちのバンドもソウルっぽいというか、そういう音楽をやるようになって。「それだったら一緒にやったら」ということでネイティヴ・サンができた。
バタ(川端民生)(b)は本田トリオで一緒だったし、峰さんのところにも入っていた。だから、タイコとベースが一緒で、あとは峰さんと本田さんが「どうのこうの」って、話し合ったんじゃないかな? それでやることになった。
——ギターの大出元信さんは最初からいたんですか?
やるとなってから本田さんが引っ張ってきました。
——ネイティヴ・サン以前も本田さんのトリオはエレクトリックをやっていた?
やっていません。ぼくが入ったときは、バタがアコースティック・ベースを弾いていたし、もろアコースティックの感じ。峰さんのバンドはオルガンを入れたり、ベースがエレクトリックだったし、ギターも入れてたから、エレクトリックでした。
——村上さん的には8ビートやロックみたいな演奏は違和感なくやれた。
問題なく。あのころ、アメリカじゃそういうサウンドが一般的になっていたじゃないですか。むしろ普通のジャズのほうがない感じで。スタッフ(注14)とかマイルスとか、それが聴いていて自然だったでしょ。アメリカから帰ってきて、日本でも周りがそういう音楽をやっていたから。
(注14)ニューヨークを中心に活動していたスタジオ・ミュージシャンで結成され、70年代後半から80年代前半にかけて活動したアメリカのフュージョン・バンド。リーダーのゴードン・エドワーズ(b)、コーネル・デュプリー(g)、エリック・ゲイル(g)、リチャード・ティー(key)、スティーヴ・ガッド(ds)、クリストファー・パーカー(ds)がオリジナル・メンバー。
——アメリカにいたときはスティーヴ・ガッド(ds)あたりも……。
聴いてました。最初のころ、スタッフは「ミケールズ」とかに出てたでしょ。あそこで聴いたときに、「すごいな」「やっぱりスタジオでやっているミュージシャンだな」と思いました。ああいうところって、ジュークボックスはけっこうでかい音で音楽をかけてるじゃないですか。まだジュークボックスの音だと思っていたら、ひとがパッと集まりだして、ステージが始まっていたんです。ライヴだけど、バランスがピッタリなのね。「向こうのスタジオのファースト・コールのひとたちはこんなにやれるのか」と思いました。レコードと遜色がないんだから。
——バランスがレコードのクオリティなんですね。
バッチリで、あれには驚きました。普通、違うし、わかるじゃないですか。ぜんぜんわからなかったんですから。
——村上さんはスタジオの仕事はやってない? もう、そういう時代じゃなかったかしら?
いや、まだスタジオの仕事もあったでしょ。ぼくにそんな話が来なかっただけで。
自身の活動もスタート
——村上さんがリーダー作を作るのは。
78年かな?
——その年に吹き込んだ『Dancing Sphinx』が最初(注15)。これには、益田幹夫さん、峰さん、川端民生さんなど、村上さんの仲間が集まって。
杉本喜代志(g)さんとか。あれが終わって、ネイティヴ・サンの活動が本格的に始まるんです。
(注15)フュージョン全盛期に村上が吹き込んだ初リーダー作。メンバー=村上寛(ds) 峰厚介(sax) 本田竹曠(key) 益田幹夫(key) 笹路正徳(key) 杉本喜代志(g) 岡田勉(b) 川端民生(b) 78年4月 東京で録音
——あれは、レコーディングのために集めたグループ。
そうですね。でも、よく一緒にやっていたメンバーだから。
——あのジャケットはインパクトがありました。
あれは、なにかで見たのかな? 「これ、面白い」というんで、描いたひとを探して。それで女のひと(奥山民枝)(注16)だけど、そのひとのところに行って、「使わせてくれませんか?」と頼んで。
(注16)奥山民枝(画家 1946年~)69年東京藝術大学美術学部卒業、スペイン王立サン・フェルナンド美術大学名誉留学生。86年画集『奥山民枝・旅化生』出版。92年「第35回安井賞」受賞。98年画集『手のなかのいのち』出版。2005年尾道大学教授就任(12年退任)。2010年「第31回広島文化賞」受賞。
——すでにあった絵なんですね。
そう。あのシリーズではもっとすごい絵もあったの(笑)。それはさすがに使えなかったけれど。
——このアルバム、最近はクラブDJの間で再評価されているんですけど。
えっ、ほんと?
——そういう話は知りませんか?
ぜんぜん知らない(笑)。
——「ジャパニーズ・レア・グルーヴ」といって。
ほんとかな? そうなんですか。
——そのころから、自分のバンドでもやってみようと思っていた?
というか、それでネイティヴ・サンが始まったから。
——村上さんは途中で抜けて。
4年ぐらいじゃないですか? 78年から81年ぐらいまで。
——それからはフリーで。
そうですね。レギュラーという感じのはなかった。あと、峰さんがまた自分のバンドを始めたときは「一緒にやってくれる?」といわれて、しばらくやりましたけど。
——村上さんは曲も書くじゃないですか。
あの1枚目はだいたい書いたのかな? 「書いた」といったって、メロディを持っていって、サウンドを作ってもらうのはひとに任せて。2006年に出した『VIVO!』(ローヴィング・スピリッツ)(注17)も、ちょこちょこ書いていたものを、佐藤允彦(p)さんが曲に仕上げてくれて。
(注17)村上の単独名義では2作目。メンバー=村上寛(ds) 峰厚介(ts) 佐藤充彦(p) 加藤真一(b) 2006年 東京で録音
——全曲、村上さんのオリジナルですね。
「なんでもいいから、書いてあるのがあったら、それ寄越せ」といわれて(笑)。何小節とか、ちょこちょこ書いてあったのを持っていくと、曲にしてくれる(笑)。それを見て、「なんであれがこうなるの?」「やっぱりすごいな」とびっくりしました。
——前から曲は書いていたんですか?
一応ね。1曲分になるものもあれば、その気になっているけど4小節で終わって、ずっとそのままにしていたものもあります。あと、パターンだけ書いて、それっきりとか。
——基本はメロディが優先? それとも、リズムから考えていくタイプ?
メロディですね。あと、リズムとメロディが関係なくというのもあるから、「リズムはこういうのをやりたいけど、じゃあメロディはこの感じで」みたいな曲もあります。
——じゃあ、頭の中で思い浮かんだリズムにメロディをつけることもある。
そうそう。
——ほかに楽器はやらない?
ぜんぜんできないですよ。ピアノで音を探すぐらい(笑)。歩いていて、メロディが思い浮かぶことってあるでしょ。そのままうちに帰って、音を探しているうちにわかんなくなっちゃう(笑)。マイクで録音しても、帰ってそれを聴くと「なにやってんだろう?」(笑)。最初のレコードのときは、ひとりでどこかに籠って、書きました。あのときは6曲ぐらい作ったんじゃないかな?
——ここしばらくは佐藤允彦さんとよくやられているけれど、佐藤さんとの出会いは?
あれは、トコちゃん(日野元彦)(ds)が「ジャズ・エイド」(注18)で、舞台のソデから落ちて頭を打って、怪我したことがあったでしょ。トコちゃんはそのあと、佐藤さんや中川昌三(まさみ)(fl)さんとやることになっていて、その仕事をトラ(エキストラ)で呼ばれて。ゲイリーさんのときもそうだし、サダオさんのバンドに入ったのもそうだし、だからぼくはだいたいトラ専門なんだよね(笑)。
(注18)「オールジャパン・ジャズ・エイド」のことで、87年から92年にかけて毎年「日本武道館」で開催された。
——それが最初。
あんなに難しい譜面、見たことなかった(笑)。
——プーさんとやっていたから大丈夫だったんじゃないですか?
また、ぜんぜん違う。佐藤さんて、カッチリ決まっているから。完璧に譜面が読めるスタジオ・ミュージシャンが、佐藤さんにはいちばん合っているんじゃないかな? 譜面をパッと出したら、サッとできちゃうような。ぼくは「なに、これ?」みたいになっちゃうから。
——でも、気に入ってもらえて。
なんかねえ、ありがたいですね。「もう、しょうがない」と思っているんじゃないかな?
——そんなことはないと思いますけど。それ以前から、面識はあったでしょ?
ありました。でも、ぜんぜん相手にしてもらえないですよ。
——そんなことないと思いますけど。ということで、今日は面白いお話をお聞かせいただき、ありがとうございました。
なんか、取り留めのない話で。
取材・文/小川隆夫
2019-03-10 Interview with 村上寛 @ 麻布十番「カフェ ラ・ボエム」