連載「証言で綴る日本のジャズ3」 はじめに
ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのはドラムス奏者の原田イサム。
原田イサム/はらだ いさむ
ドラムス奏者。1931年9月28日、神奈川県横浜市中区本牧生まれ。47年、京都の米軍キャンプで演奏するバンドでプロ入り。50年に上京して紙恭輔(かみ きょうすけ)率いるアーニー・パイル・オーケストラ(アーニー・パイル交響楽団)に参加。翌年 “多忠修(おおの ただおさ)とゲイスターズ” に抜擢。53年には “鈴木章治とリズムエース” に移籍し、58年に録音した〈鈴懸の径〉がジャズとして空前の大ヒットを記録。61年に原田イサムとソフト・スティックス結成。その後はスタジオ・ミュージシャンとして活躍し、60年代後半以降は、秋満義孝クインテット、宮間利之ニューハード、世良譲トリオ、ザ・ハーツ、小原重徳とジョイフル・オーケストラなどに参加。現在も現役最長老ドラマーとして達者なプレイを聴かせている。
戦時中の苦労
——まずはお生まれについてお聞かせください。
生まれは横浜の本牧で、昭和6年9月28日、西暦なら1931年です。
——お父様がジミー原田(ds)さんで、弟さんが原田忠幸(bs)さん。ミュージシャンの一家に生まれた。
まあそうですね。
——ご家族は、ご両親がいて、原田さんが長男。
次が妹で、その下が忠幸、さらにもうひとり妹が。
——記憶の中でいちばん最初に聴いた音楽は?
戦後すぐは進駐軍で流行っていた音楽をぜんぶ耳にしたんですけど、戦前でも親父がちょろちょろっと聴いていたのは耳にあったんです。でもなにを耳にしていたかは、記憶にないです。戦争中の4年間はまったく聴けない時代ですから、きちんと聞くようになったのは戦後ですね。
——戦前からお父様はジャズのバンドをやられていた。そういうライヴに行かれたことは?
こっちは子供でしたし、あまりないです。
——家ではジャズのレコードが流れていて。
親父はかけていましたけど。
——原田さん自身は意識していなかった。
ぜんぜん。
——31年生まれということは、41年に戦争が始まりますから、10歳のときが開戦。そのころラジオから流れる音楽を聴かれた体験は?
ジャズとかの洋楽も流れていたんでしょうけど、戦前の日本は洋楽を重視していなかったから、それほど記憶に残るものはなかったです。
——歌謡曲は?
そういうのはいっぱい聴きましたし、いいものもありました。戦前の日本の曲でしたら、なんだろうなあ? 向こうの歌を日本語の歌詞で歌っているディック・ミネ(注1)さんとかね。でも向こうの歌ですから。〈ダイナ〉や〈リンゴの木の下で〉とかはいっぱい耳にしていました。
(注1)ディック・ミネ(vo 1908~91年)34年テイチクレコードと契約。同年みずからが訳詞・編曲をした〈ダイナ〉が大ヒット。47年の〈夜霧のブルース〉も代表曲のひとつ。日活と同社が提携したミュージカル映画をはじめ、多数の映画にも出演。
——楽器はまだやられていない。
やってないです。
——お父様はイギリスと……。
アメリカとのハーフです。だから日本の血は入っていない。
——それで戦争になるじゃないですか。忠幸さんは「スパイじゃないか?」といわれたとおっしゃっていましたけれど。
学校ではずいぶん痛めつけられました。いまのイジメ以上です。でも、その時代はそんなのが当たり前だったから。
——でも、お父様は徴兵されて横須賀の基地におられた。
召集令状で海軍に。私服刑事が家に土足で上がってきて、お袋に、「親父からの葉書を見せろ」というわけですよ。親父は読むのはいいけど、書くのが苦手で。だからカタカナとひらがなで「みんな元気か?」とか、その程度のことしか書かれていない。
——憲兵ではなくて?
私服刑事です。
——相当横柄な感じで?
ひどいですよ。さすがにお袋が可哀想なので、ぼくも子供でしたけど、「血は向こうだけど、日本に帰化して日本人になってる。なおかつ横須賀に兵隊で行ってます。なにが悪いんですか?」と、食ってかかったことがありました。
——お父様は相当苦労されたんでしょうね。
そうですね。でも親父がいってましたけど、「総員罰直」というのがあるそうですね。それ以外はあんまりイジメられた話は聞かなかったです。佐官級以上のひとたちには戦前からジャズ好きなひとがいて、海軍の場合はとくに。
それでダンス・ホールなんかに行っていたから、親父のことを知ってるわけですよ。みんなが一緒のときはできないけど、夜なんか、「ちょっと原田さん」と佐官級のひとに呼ばれて、宿舎で「あなたのことよく知ってる」(笑)。「ここだけの話だけれど、気にしないで、今日は飲んで」。そういうのはあったみたいです。
栃木に疎開
——本牧で生まれて、しばらくはそこで?
いや、生まれたときだけだと思うんですよ。
——京都にも行かれたとか。
京都はいくつぐらいのときかな? 忠幸は京都で生まれましたから(36年)。京都には数回行ってるんです。親父が「東山ダンスホール」と契約しまして。あとは、戦後も京都に行きましたし。親父は戦争が終わると、米軍の仕事ですぐ京都に行っちゃったんです。どういうことで行ったのか、そのへんは聞いたことがないのでわからないですが。
——忠幸さんのお話では、関西で吉本興業みたいなところに入って、花菱アチャコ(注2)さんと仕事をしていたとか。
(注2)花菱アチャコ(漫才師 1897~1974年)関西新派の山田九州男一座を振り出しに、その後漫才師に転向。26年吉本興行の専属となる。30年横山エンタツとのコンビで会話による新形式の漫才を確立。
それは戦争中です。ジャズができない時代ですから。それで親父が、トランペットがリーダーのバンドで吉本興業の専属になって、コミック・バンドみたいなものをやっていたんです。なんていったかな? あひる艦隊(注3)だ。クレイジー・キャッツとかの前身ですね。
(注3)40年に木下華声がに中心になって結成され、「あきれたぼういず」などのボーイズと人気で肩を並べていたコミックバンド。
そういうので日本の民謡をアレンジして、アドリブになったらジャズをやる。検閲に来ているひとはなにもいえないし、わからない。それで楽しんでいたみたいです。ジャズなんて「ジャ」の字もできなかった時代ですから。
——原田さんは戦前戦中は音楽をやるつもりではなかった?
つもりもなにも、なんにも考えてないですから(笑)。
——終戦のときが14ですもんね。
そうです。
——開戦のときは横浜ですか? それとも京都?
始まったのは横浜の小学校に通っているときで、四年でした。たまたま12月8日は、全体だったかは記憶にないですけど、学校から『川中島合戦』(注4)という映画を「横浜宝塚劇場」に観に行ったんです。
(注4)41年11月29日に封切られた東宝映画。演出=衣笠貞之助、作曲=山田耕筰、作詞=西條八十、出演=大河内伝次郎、市川猿之助ほか。
——観た時点では、戦争が始まったというニュースは入っていなかった。
終わって、帰ってきてからじゃないですかね。
——それまではいつもの日常で。
そうです。
——始まった次の日も普通に学校はあったんですか?
はい。
——戦争が始まったときって、どんな思いでしたか?
開戦のときは、みんなと一緒にワイワイ、ペースに巻き込まれてやってましたけど、何年か経ってから、「(ハワイの)奇襲攻撃って、ずいぶん卑怯なことをやるなあ」とは、子供心に思っていました。
——そういう時代ですから、だんだん戦火の足音が近づいてきて、ついに戦争になったという感じですか?
昭和16年からの1年間くらいは周りのひとと一緒になって、こっちも子供ですし、「それ勝て」「やれ行け」といってましたけれど、そのうちだんだん落ち着いてきて、今度はガダルカナルですとか、日本側がガンガンやられてきた。そういうことになって、そのうち「こんな戦争、なんで始めたんだろう?」と。
——子供同士でそういう話はできたんですか?
いや、してないです。自分で思っていただけです。
——そのあとに京都に移られて、京都から栃木に疎開される。その途中、掛川の駅で機銃掃射に遭われたとか。
ひどい目に遭いました。駅員さんが機銃掃射でザクロみたいになっていて。敵から見えるといけないから、「(列車の)鎧戸を閉めろ」といわれるんですよ。だけど、隙間からその光景が見えて。みなさんお気の毒でした。それが疎開するときです。
——どうして栃木だったんですか?
横浜にいたときは東横線沿線の妙蓮寺に住んでいたんです。そのとき、親父が仲よくしていたとなり組の方が栃木にある古河電工の偉いひとだったんです。
たまたま古河電工の敷地に海軍の兵隊たちが、まあ小隊ぐらいが入っていたらしいんです。その中に親父がいて、ご近所にいらした方もいたわけです。「やあ、しばらく」「自分はこっちに来ているけど、家族は京都にいるんです」「じゃあ、ここには社宅がいっぱいあるから、よければいらっしゃい」。それで疎開したんです。
戦後
——終戦の日は覚えていますか?
ホッとしました。いちばん嬉しかったのはうちの中が明るくなったことです。灯火管制というのがあったんですよ。一年中電灯に黒い布を被せて。それをぜんぶ外して明るくなった。それがなにかわからないけど、嬉しかったですね。気持ちが明るくなりました。
——そのときは栃木の中学校に通われていた。
そうです。
——栃木にはいつまでいらしたんですか?
その年の秋か冬の近いときに京都に行きました。
——横浜の家は焼けちゃったんですか?
残っていたと思いますが、借家ですから。ですから戦争中に京都から疎開して、終わったらまた京都に戻った。
——終戦になって、「このあと、どうなるんだろう?」といった不安はなかったんですか?
それはなかったです。ほんのちょっとあとに親父が帰ってきて。ただし帰ってはきたけれど、すぐひとりで京都に行っちゃったんです。家族全員が京都に移るのはそれから数か月後です。親父がぼくたちのことを忘れちゃってるんですよ(笑)。わからないでもないですけど。
戦争中に嫌な思いをしたでしょうし、軍隊で辛かったこともあったんでしょう。それが、戦争が終わったとたんに米軍がガッーと来て、ジャズがガンガンできる。嬉しくなっちゃったんでしょう。
それで、米軍にはいろいろ宿舎があるんですが、軍属(注5)の宿舎の一部屋をあてがわれて。そこに住んで、米軍の仕事、オーケストラとコンボのふたつを持って。それをやってたから、一瞬ね、家族のことを忘れちゃったんです。
(注5)軍人(武官または徴集された兵)以外で軍隊に所属する者のこと。軍の組織に所属しない民間の米軍関係者をそう呼称する場合もある。
あとの話ですけど、シャンソン歌手の石井好子(よしこ)(注6)さん、あのひと親父ともけっこう仲がよくて、仕事で一緒になると、お客さんに受けるから、ステージで必ず「親父が忘れちゃった」話をするんです。実際は3、4か月だったんですけど、だんだん話が大きくなって、いつの間にか3年になっちゃった(笑)。
(注6)石井好子(vo 1922~2010年) 東京音楽学校卒業後、渡辺弘とスターダスターズの専属歌手などを務めたのち、サンフランシスコ留学を経て52年に渡仏。パリでシャンソン歌手としてデビューする。日本シャンソン界の草分けであり、日本シャンソン協会初代会長。
でもその3、4か月の間、連絡がないんで、お袋が「イサム、京都まで行ってきておくれ」。戦後の列車は、客車だけじゃなくて、貨物からなにからなんでも繋げて。それで、京都まで真っ黒になって行ってね。そうしたら親父がビックリして、「イサム、なにしに来た?」「なにしに来たって、あんまり連絡がないから、お母さんが心配して。だから来たんだ」。それで親父はハタと気がついて、慌てて京都に全員呼び寄せてくれたんです。
——家族で京都に戻ったときの住まいは?
家を借りました。
——それも軍属の宿舎?
関係ないです。そのときは京都の御室(おむろ)、龍安寺の近くで、撮影所なんかがすぐそばにあったところです。そこへまずは行きました。
——京都の中でも何回か引越しをして。
何か所か行きましたね。
——それで、お父様は米軍のクラブに出て。
滅茶苦茶忙しかったです。
——当時は給料がかなりよかった。
ぼくたちだってよかったですから、いくら貰っていたかは知らないですけれど、親父たち先輩はみんな、ねえ。
——生活は楽だった。
そうですね。
15でプロ・デビュー
——最初、原田さんはトランペットをやられたとか。
親父もトランペットが好きだったんです。それで「イサム、ラッパ、やってみるか?」。ぼくはとにかくジャズならなんでもいいから「やりたいな」と思って。それで親父がラッパを買い求めてくれてやったんですけど、「きついなあ」と思って、数か月で辞めました。
——それでドラムスに転向する。
そのとき、ドラムスはなんとなく魅力があったんですね。
——お父様には習ったんですか?
ぜんぜん教わりません。先輩のところに行きました。親父の仲間のドラマーですね。親父が「構わないから、痛めつけてやってくれ」といって(笑)。そのころはみんなそうですから。それで鍛えられて。親父は「なにやってるんだ」と文句をいうばかりで。「じゃあ、どうすればいいんですか?」なんていったらたいへんですよ。「そんなもん、自分で考えろ」。昔のひとは、先輩はみんなそうですから。
——それで、どのくらいしてプロになったんですか?
割に早かったですね。ドラムスでプロになったのが47年ですから、15のときです。その前に、知り合いのバンドに遊びに行ったりして、いたずらながらに叩いたなんてことはやっていましたので。そこのタイコのひとにいろいろ教わって。
ですから、少しは心得があったんです。それでバンドボーイみたいにして入ったところでは、昼間、なんにもないと、楽器が置いてあるから、ひとりで練習をして、そこでやっちゃったとかね。ドカドカやって、はた迷惑だったと思うんですけど。
それで、47年にプロ・デビューとしてるんですけど、ほんとうは46年のクリスマスからなんです。人手が足りないから、「とにかくやれ!」といわれて、やり出したんですが、クリスマスは1週間か10日ぐらいすると年が変わっちゃう。それで47年にしたんです。
米軍の仕事はほとんどが夜ですから、朝の眠いのを我慢すれば、高校に行きながらでもできたんです。土曜と日曜は米軍の仕事が昼間もあります。でも土曜と日曜だけですから、学校には影響がない。居眠りはしてましたけど、それだけのことで。
われわれの年代ってみんなそうですよ。戦後のどさくさのころは、だいたい14、5で始めて、学校に行きながらっていうのが。そのあとになると、大学を出てからプロになってというひとが多いですけど。
——どんなバンドで演奏をしていたんですか?
オーケストラもありましたし、コンボもありました。
——ひとつじゃないんだ。
たくさんありました。親父がいくつか任されてやっている。それで自分が行けるところへは行くんですけど、ひとりでいくつもできないから、そういうのを何人かでやってたんです。「イサム、今日はあそこに行け」「今日はここに行け」。4、5人のコンボですとか、トリオのときもありました。親父が「今日は自分がこっちに行くから、イサム、行け」って、ビッグバンドをやったりね。ビッグバンドといっても、あのころのビッグバンドはだいたい9人編成のナインピースです。
——仕事はすべて米軍関係。
ぜんぶそうです。
——原田さんの世代の方にお話を聞くと、みなさん、それまで食べたことのないハンバーガーが出てきたり、コカ・コーラがあったり。
そうです。食べるものは嬉しかったですね。ハンバーガーとコカ・コーラがね。ハンバーガーといっても、いまは美味いところがいっぱいありますけど、そのころはなんにもないですから。米軍に行きだしてから、食べるものは苦労しなかったです。初めてカエルも食べました。
——仕事はいくらでもあった。
山ほどあったんじゃないですか?
——ということは、日替わりじゃないけど、毎日いろんなバンドに入って。
そうそう。親父のところにいる間は、親父の指示にしたがってですね。
アーニー・パイル・オーケストラに抜擢
——どのくらいの期間、そういうことをやられていたんですか?
3、4年でしょうか。紙恭輔(注7)さんのアーニー・パイル・オーケストラに入るため、50年か51年ですけど、ぼくだけちょっと早めに東京に帰ってきたんです。
(注7)紙恭輔(作編曲家 1902~81年)中学時代から波多野オーケストラで主にベース奏者として無声映画の伴奏を開始。大学時代は新交響楽団(NHK交響楽団の前身)にコントラバスで参加。草創期のジャズ界でもサックス奏者として活躍し、30年から2年間南カリフォルニア大学留学。帰国後はシンフォニック・ジャズの演奏会を開くなど、作編曲家としての活動に主軸を置いた。
——「東京宝塚劇場」が接収されて「アーニー・パイル劇場」(注8)になった。そこの専属バンドに入られて。
そのオーケストラで棒を振っていたのが紙恭輔さん。「USOショウ」(注9)といって、アメリカからいろんなショウが来るんです。伴奏が必要な場合はこのオーケストラがオーケストラ・ピットに入るし、ステージに上がってやるときもある。劇場の前に「帝国ホテル」があります。あそこも接収されていましたから、劇場の仕事がないときはオーケストラのメンバーがそのままぜんぶ行くわけです。いずれにしても進駐軍の仕事ですよね。
(注8)45年から55年までGHQに接収され、駐留兵士の慰問用施設として利用された。日本人観客は立入禁止。アーニー・パイルは45年に沖縄の戦闘で殉職した従軍記者の名前。
(注9)USOはThe United Service Organizations(米国慰問協会)の略。コメディアン、俳優、ミュージシャン、施設、そのほかのイヴェントなど、エンターテインメントを米軍兵士やその家族に提供する、41年発足のNPO団体(現在も存続)。
——アーニー・パイル・オーケストラにいたときはその仕事だけですか?
そうです。
——たまに個人で仕事をするとかは?
個人で動くのはもう少しあとになってからです。そこだけで忙しいですから。
——これは給料制ですか?
月給です。
——何人ぐらいの編成ですか?
紙さんのところは、普通のビッグバンドに、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロが入って。ときどきホルンなんかもいたから20何人、伴奏の内容によっては30人ぐらいのときもありました。向こうから来る譜面によるんでしょう。そのころは小僧っ子ですから、いわれたことをやってるだけで。いろいろたいへんなこともあったでしょうけど、中のことはよくわからないし。
——これが……
18、9のころです。
——原田さんがいらしたときに、のちに有名になったひとは?
いっぱいいました。もう亡くなりましたけど、河辺公一(浩市)(tb)さん、のちに芸大の教授になられた阪口新(あらた)(注10)さんてアルト・サックスの方、アメリカに行って、つい最近向こうで亡くなった厚母(あつぼ)雄次郎(ts)。あとは大先輩でピアノの松井八郎さん。怖くてね。河辺さんと厚母雄次郎とかは年代がそれほど離れていない。3、4歳くらいは上ですけども、あとの方は、ぼくから見れば大先輩。だから、怖くて怖くて。何回うちに帰りたくなったか(笑)。
(注10)阪口新(sax 1910~97年)東洋音楽学校チェロ科卒業後、サクソフォンに転向、53年イベールの〈サクソフォン小協奏曲〉、55年グラズノフの〈サクソフォン協奏曲〉を日本で初演。日本のクラシック・サクソフォンの先駆者として、演奏と教育で活躍。東京藝術大学名誉教授、日本サクソフォン協会名誉会長。
——これはオーディションがあったんですか?
いや、引っ張られて。
——引っ張られるってことは、この時点で認められていた。
いやあ、ほかにいなかったんじゃないですか?
——だけど関西にいたところを呼ばれたんですから、認められていたんだと思います。
親父のところに「イサムちゃんをこっちに寄こせ」って連絡がきたみたいです。
——やっぱり、東京でも知られていたわけですよね。
いやあ、さほどじゃないでしょう。
——ご謙遜を。
次いでゲイスターズに
——50年代の初頭ですから、アメリカではビバップとか、そろそろハードバップが出てくるころですが、日本ではどうだったんでしょう?
ぼくがアーニー・パイルにいたころ、小編成でやってる連中はけっこうビバップをやっていました。(渡辺)貞夫(as)ちゃんはまだ宇都宮にいましたけど(上京は51年)、無二の親友だった清水閏(じゅん)(ds)なんかはビバップをやっていましたから。
——原田さん自身はどんなドラマーに影響を受けたんですか?
いちばん最初はジーン・クルーパ。
——クルーパは、当時の日本で圧倒的な人気があった。
そうですね。それからしばらく経ってシェリー・マン。だいたい白人系です。黒人系はそのあとからいろいろと。マックス・ローチにしろ、黒人系は手がつけられないんです。血ですね。どうにもできない。
——白人だとなんとなく。
それだって、向こうは桁違いに上手い。でも、黒人のドラマーよりリズム感とかは白人のほうがいくらかやりやすいというか。黒人のはあまりにも難しい。理屈じゃないんです。なんだろう?
——アーニー・パイル・オーケストラに1年ぐらいいて、51年に多忠修(ts)(注11)さんのゲイスターズに移られる。
ゲイスターズはすぐに辞めちゃったんですけど、テナー・サックスに与田輝雄さんがいたんです。ぼくは、フランキー堺(ds)さんが辞めるんで呼ばれました。秋吉敏子(p)さんもいたけれど、与田さんが秋吉さんとフランキーを引っ張ってシックス・レモンズを作ったんです。秋吉さんのあとのピアノは、あんなことをやるひととは思わなかったけど、クレイジー・キャッツに入った桜井センリ。クソ真面目にピアノを弾いていたんですよ。
(注11)多忠修(ts cl 1913~96年)宮内省楽部楽生を経て、31年三上秀俊(ds)バンド、37年多忠修とミュージック結成。戦後は渡辺弘とスターダスターズを経て、49年多忠修とゲイスターズ、多忠修とビクター・オールスターズで50年前後のジャズ・ブームに乗る。
——いいピアノを弾くんですか?
上手いですよ。線は細いけど、品のあるピアノ。のちにクレイジーで、あんなすっとこどっこいのことをやるとは夢にも思わなかった。面白いもんですね。
——ゲイスターズは何人ぐらいの編成で?
これは普通のビッグバンドです。
——基本はダンス・ミュージック?
ダンスホールやクラブに出るときはダンス・ミュージックですけど、コンサートのときはコンサート用のスペシャル・アレンジメントがありますから、ジャズを演奏します。ゲイスターズはウディ・ハーマン(cl sax)とスタン・ケントン(p)の曲が多かったですよ。
——どこかの専属だったんですか?
そういうのはなくて、ナイトクラブみたいなところに短期間入ってというのはありました。
——進駐軍のクラブでも?
銀座のクラブが多かったです。「銀馬車」っていいましたか、そこで。下に「チョコレート・ショップ」というコーヒー・ショップがあって、あれの上にしばらく入ったことがあるんです。あと、米軍のクラブはワンナイト・スタンドで行ってました。
——ゲイスターズは米軍クラブの査定でトップクラスのバンドでしたよね。
はい。紙さんのところも同じスペシャルAでした。
——多さんのところはどういういきさつで入られたんですか?
フランキーが辞めるときに、多さんに声をかけられました。
——その後はビクター・オールスターズのメンバーに。これはレコーディングがメイン?
そうです。でもコンサートなんかもやってました。どこかの時点でゲイスターズの名前がなくなって、それがビクター・オールスターズになるんです。
——ということは多さんがリーダー。
そうです。
——多さんも怖いひと?
多さんは出身がお公家さんで、雅楽の出ですから、品はいいです。怒鳴りつけるとか、そういうのはあんまりなかったです。
——このころからジャズコンが盛んになりますよね。オーケストラとコンボがいくつか出て、歌手が何人かいて、カントリーやハワイアンのバンドもあるという。
ひたすらやってました。「日比谷公会堂」「神田共立講堂」「ビデオホール(東京ヴィデオ・ホール)」とか。ほかにも何か所かでやってました。多さんや、そのへんのオーケストラでは野外のコンサートもやりました。東京は「後楽園球場(現在の東京ドーム)」ですね。大阪に行くと「(阪急)西宮球場」。なぜか「(阪神)甲子園球場」はなかったですけど。
——そういうところが満杯になる。
すごかったですね。戦後から10年間くらいは娯楽がないですから、それは入りますよ。
人気絶頂のリズムエースに移籍
——原田さんはこの時代、ずっとオーケストラ畑で。
そうです。そのあとにリズムエースに入って(53年)、そこからはけっこう長い間スモール・コンボをやってました。ただし、多さんとリズムエースは2回ほど行ったり来たりをしました。
——原田さんがリズムエースを抜けると、ジミー竹内(ds)さんが入って。そのたびにギャラが上がったという話をマネージャーの方から聞いたことがあります。
はっはっは。
——リズムエースに入ったいきさつは?
リーダーの章ちゃん(鈴木章治)(cl)から話がきて。章ちゃんは池田操(p)のリズムキングにいたんですよ。秋満ちゃん(秋満義孝)(p)と南部(三郎)さんのヴァイヴとベースが浅原哲夫さん、ギターが永田暁雄さん。「今度バンドを作るけど、やらないか?」といわれて、すぐ「やるやる」。それでリズムエースがスタートしたんです。そこに1年くらいいて、またゲイスターズに呼ばれて、それからまたすぐ章ちゃんのところに戻って。
——リズムエースの大ヒット曲〈鈴懸の径〉が58年の録音。ベニー・グッドマン(cl)が57年に来日して、その少しあと。
ぼくらはリズムエースでコンサートをやりながら、ナイトクラブに出たりしていたんです。そのときに、ベニー・グッドマンのバンドで来日したピーナッツ・ハッコー(cl)と仲よくなって。章ちゃんとはクラリネット同士ですから。〈鈴懸の径〉を遊びでやってたら、それをすごく気に入って、「一緒にやらせてくれ」。
それで章ちゃんとクラリネット2本で。最初はレコードを作るつもりでやったわけじゃないんですよ。放送用なんです。ラジオ東京で帯の番組をリズムエースが持っていて、そのための演奏です。石原さんてご存知ですか?
——プロデューサーの石原康行(注12)さんですね。
石原さんと宿谷(高彦)さんという方が、ラジオ東京でリズムエースの番組を帯でやっていたんです。1週間、毎日同じ時間の放送です。ぼくらは朝から夜まで暇がないので、2週間から3週間分ぐらいを夜中に収録しに行く。そのときにピーナッツも「じゃあ遊びに行く」といって、来て。
その日は〈鈴懸の径〉を放送で使うことになり、ピーナッツが即席でヘッド・アレンジをして。クラリネット2本でやったのがよかったんですね。それからしばらく経って、石原さんが「すごく評判がいいんで、どこかでレコードにしよう」。それでキング・レコードに話をして。
(注12)石原康行(プロデューサー 1923~2010年)日本コロムビアを経て、51年ラジオ東京(現在のTBSラジオ)開局時に入社。53年JATP日本公演をはじめ、さまざまな来日アーティストのコンサートを放送。後年はユピテル・レコードなどでプロデュースも。
——この番組名は覚えていますか?
ちょっと忘れました。
——毎日ということは1回15分くらい?
そうでしょうね。演奏だけを流す音楽番組でした。
——この番組から生まれたヒット曲が〈鈴懸の径〉。
もとを正せば灰田勝彦(注13)さんのヒット曲ですけどね。原曲はワルツで。
(注13)灰田勝彦(vo 1911~82年)ハワイアンやヨーデル、流行歌で第2次世界大戦前後に一世を風靡。映画俳優としても活躍。兄は作曲家でスティール・ギター奏者の灰田晴彦。〈鈴懸の径〉は42年のヒット曲。
——4ビートにしたのも最初の録音のときですか?
いえ、ピーナッツがクラブに遊びに来る前から4ビートでやってました。
——リズムエースは当時すごい人気で。
ものすごかったですね。仲間内の話ですけど、「鈴懸章治」っていわれたくらい〈鈴懸の径〉が売れて(笑)。ジャズ喫茶は昼の部と夜の部がありますでしょ。昼に出て、夜は違うところに行くとか。銀座の「テネシー」なんかだいたい4回くらいステージをやるんです。それで、ワン・ステージに1回はやらないとお客さんが帰らない。それが昼夜のジャズ喫茶だと8回から10回はやるわけですよ。
——労音(注14)や民音(注15)の仕事も多かった。
やってました。1度ツアーに出ると1か月くらい続きます。大阪労音はとくに長かったです。最後の1週間くらいは九州に行ったりもしました。民音もけっこうありましたけど、労音のほうが華やかでした。
(注14)会員制音楽鑑賞団体「全国勤労者音楽協議会」の略称。49年11月大阪で創立。
(注15)「一般財団法人 民主音楽協会」の略称。音楽文化の向上や音楽を通して異なる文化との交流などを目的に、創価学会の池田大作会長(当時)によって63年10月18日創立。
——これは単独のコンサート。
リズムエースは単独で、1曲か2曲だけ歌が入るときもあります。
——会場はホールですよね。
それが満杯になります。感心するのは大阪。1か月やって、1か月「フェスティバルホール」が毎日満杯ですよ。
——リズムエースにはいつまで?
60年くらいまでですね。
——その間にメンバーも少しは替わって。
あんまり替わらなかったですね。ピアノが最初は秋満さんで、そのあとは章ちゃんの兄貴(敏夫)になったんです。それでけっこう長くやっていました。
自身のコンボを結成
——ここを辞めて、ご自分のソフト・スティックスを結成される。
ちょっとやってみようかなと思って。
——リーダーになったバンドはこれが初めて。
そうです。
——メンバーは?
ご存知ないと思うんですけどねえ。アルト・サックスとテナー・サックスが斉藤健二郎といいまして、もう死んじゃいましたけど。オーケストラとコンボ、コンボの場合は吉本栄(ts)と2テナーでやっていたひとです。ぼくのところにはアルトで来たんですけど。
あとは若い連中。ピアノは藤家虹二(cl)のところにいた倉本駿四郎君で、ベースが方波見君といったかな? ギターは御旗(みはた)といって、レイモンド・コンデ(cl)さんのところにいたひとです。このバンドをやったのは5年弱です。それで解散しました。
——そのバンドではどういう演奏を?
そのときはモダン・スウィング。そういうのをやりたかったんです。リズムエースの音楽もよかったけれど、ちょっと違うものをやりたいなあと思って。
——ということは、リズムエースよりもう少しモダンなサウンド。
ぼくが目指したものですか? そうです。最近亡くなったけれど、アンドレ・プレヴィン(p)とかシェリー・マンとかレイ・ブラウン(b)とか、ウエストコートの連中のああいうのがやりたいなあと思って。要するに白人系のジャズですよね。
——スウィングするけどモダンな響きのジャズ。
そうです。バド・シャンク(as)ですとか。
——それでアルト・サックスを入れた。
そうですね。
——ホーンはアルト・サックスだけで。
ギターを加えた4リズムです。
——クインテットですね。割とウエストコート・ジャズっぽい。
それを目指したんです。ならなかったですけど(笑)。
——どういうところで演奏していたんですか?
リズムエースと同じように、ジャズ喫茶とか。あとは米軍のクラブにもちょっと入りました。しばらく経ってからは、六本木の、昔の「バードランド」、あれの目の前の「瀬里奈」の地下にクラブがあって。
——会員制の「六本木クラブ」。
8人編成のバンドを組んで、入っていました。チェンジのバンドが荒川康男(b)君とかを入れた稲垣次郎(ts)さんのカルテット。ほんのちょっとですけど、そんなこともやってました。
——そのあとはスタジオ・ミュージシャンとして活躍されます。
その前からときどきはやってましたけど、忙しくて行ける状態じゃなかったんです。スタジオ・ミュージシャンになってもスタジオだけをやってたわけではないので、ほんのちょっとだけスタジオに専念した、といったところです。
——どういう音楽を?
流行歌から、映画から、なんでもやりました。
——どこかのスタジオの専属じゃなくて?
専属ということでは、その昔、ビクターの専属でしたから。そのときは、多さんはもちろんですけど、オーケストラの中で専属は3、4人だけ。ぼくと、あと2、3人。それ以外は専属じゃなかったです。
——このビクター・オールスターズもなんでもありで、歌謡曲からムード・ミュージックから。
そうです。
——60年代のときもそういう感じで。
そうです。美空ひばり(注16)もやりましたし、映画の撮影所にもひと通りは行ってます。松竹がいちばん多かったかな。山本直純(注17)さんの『男はつらいよ』(注18)とか、やりました。松竹、東宝、新東宝、東映、日活……ぜんぶ行ってますね。
(注16)美空ひばり(vo 1937~89年) 8歳で初舞台を踏む。49年に『のど自慢狂時代』でブギウギを歌う少女として映画初出演。同年に〈河童ブギウギ〉でレコード・デビュー。52年、女性として初めて「歌舞伎座」の舞台に立ち、同年、映画『リンゴ園の少女』の主題歌〈リンゴ追分〉が当時最高の売り上げを記録(70万枚)。この前後から歌手および銀幕のスターとしての人気を確立した。
(注17)山本直純(作曲家 1932~2002年)東京藝術大学在学中から多方面で才能を発揮。『男はつらいよ』のテーマ音楽、童謡の〈一年生になったら〉(66年)など、広く親しまれる作品を生み出す。72年小澤征爾と新日本フィルハーモニー交響楽団設立。73年から10年間『オーケストラがやって来た』(TBS系列で放送)の音楽監督。
(注18)主演=渥美清、原作、脚本、監督(一部作品除く)=山田洋次のテレビ・ドラマおよび映画シリーズ。主人公の愛称から「寅さん」シリーズともいわれる。映画は全48作が69年から95年にかけて松竹で制作された。
——スタジオ・ミュージシャンを一緒にやっていた方で、どなたか有名なひとは?
みんな死んじゃったんですよね。それこそさっき話に出た河辺さんとかね。撮影所でやっていたひとでいまも元気なのは、弟の忠幸、アルト・サックスの五十嵐明要(あきとし)、ベースの荒川康男君、彼は松竹によく行ってました。あとは稲葉國光(b)さん。この間亡くなった前田憲男(p arr)や杉原淳(ts)もそうですね。この数年、亡くなられる方が多いですね。これだけはしょうがないです。なんといったって、今度の誕生日が来ると88ですから。
——米寿ですね。お元気で、とてもそうは見えません。
いやいや、カラ元気ですよ。カラ元気ででもいないと、ねえ。お客さんの前に出て、しょぼくれていてはいけないから。
——ひと前でなにかをやる方は気の持ちようが違いますね。
多彩な活動
——秋満さんのクインテットや宮間利行さんのニューハードに参加するのはこのあとになるんですか?
自分のバンドを解散して、秋満ちゃんのところに行ったんです。これが昭和でいうと41、2年(66、7年)。そこに2、3年いて、ニューハードに入ったのが70年か、その1年ほどあと(71年から翌年にかけて在籍)。ニューハードには1年くらいしかいなかったんですよ。
——70年前後のニューハードは実験的なジャズを始めた時期ですよね。
やってました。リーダーの宮間さんがフリー・ジャズが好きでね。
——そういう時代に入られて。
そうそう。ぼくと、あと一緒に入ったのが、当時は新人だった土岐英史(as)君。ビッグ・ネームになりました。大阪から来てね。それで、別々のバンドに行くんですけど、一緒に辞めて。
——そのころからニューハードは海外でも演奏するようになります。外国には行かなかったですか。
行かなかったです。そのあとに行ってるんですよね。
——世良譲(p)さんのトリオにもいました。
栗田八郎(b)とのトリオで。そのあとが忠幸の結成したザ・ハーツとかグルーヴィン・エイト。フリーランスになっていましたから、このあたりは行ったり来たりをしています。グルーヴィン・エイトには小川俊彦(p)と小西徹(g)、そういうひとと五十嵐明要、福島照之(tp)なんかがいて、小川ちんがメンバーをまとめて譜面を書いてたグループです。コマーシャルなバンドではないですよね。
——小川さんがやってたから、いい譜面があって。
そうですね。楽しかったです。
——小原重徳(指揮)さんのジョイフル・オーケストラは「ホテルニューオータニ」に出ていらした。
これはできたときから解散までいました。ぼくと五十嵐明要と……。
——稲葉さんも。
稲葉ちゃんもいました。あと、伏見哲夫君というトランペットも。77、8年にできたんじゃないですか? 少なくとも10年はやりました。ジョイフル・オーケストラは週末だけで。ジョイフルは解散するちょっと前に小原さんが亡くなって、山屋(清)(p)君が引き継いで。
そのあと、オーケストラはなくなりましたけれど、「残ってて」といわれて、3管の小編成でしばらくやってました。ウィークデイにもポツンポツンとやり出したのは3管になってからです。
——このバンドが80年代に入っても続いていた。それで現在にいたるわけですが、プロになって70年以上。原田さんにとって、音楽とはどんなものでしょうか?
そうですねえ。いい面と悪い面があるんですけど、楽しかったこともいっぱいありますし、苦しいことも。最初の何年かは、お話したように先輩が怖かったですから、怒られ、怒鳴られ、蹴っ飛ばされ。
それはよかったんですけど、そういうことじゃなくて、音楽で行き詰まって、「できないなあ」となって。「どうやったらいいんだろう?」とかね。そういうんで、何回か「辞めようかなあ」と思ったことはありました。でも、だいたいが楽しかったですね。
——いろいろな意味で先輩は厳しかったと思うんですが、ミュージシャンとしてはいい時代だったですか?
戦後のどさくさから始めて、まあ恵まれていたと思います。仕事の内容は別にして、困らないだけのお金を稼がせてくれて(笑)。米軍に行けば食べるものに困らないし。だから、そのへんは幸せだったと思うんです。
——ジャズは、戦前からいまにいたるまでいろいろ変遷してますよね。原田さんは、基本的に終始一貫ウエストコースト・ジャズの流れを汲んだスタイルで。
そうですねえ。小編成でいくときは、いまも心しているのが、清水のキンちゃん(清水閏)みたいな大ビバップはできないんで、ウエストコーストのモダン・スウィング。そういうのがいちばん好きですね。ただしオーケストラは決まりがありますから、「ああだ、こうだ」とはいえません。
——それはそれで面白い。
面白いですよ。最近、オーケストラをやると体力的に疲れるんですよ(笑)。
——いままでいろいろなミュージシャンと共演して、強く印象に残っているひとは?
日本のプレイヤーだったら、アーニー・パイルのころから一緒だった厚母雄次郎、河辺さんもそうです。そのちょっとあとになると、いまでも元気な五十嵐明要とか。モダン・スウィングではないけど、いまも一緒にやってる秋満ちゃん。あと、世良ちんや稲葉ちゃん。たまにしかやるチャンスはなかったですけど、前田憲男もね。まだいっぱいいますけど。
——アメリカのミュージシャンともいろいろやりました。
強烈に覚えているのはズート・シムズ(ts)ですね。ツアーをしましたけど、彼はすごかった。
——原田さんと共通の音楽性を持ってますものね。
そうです。上手いですよ。あと、ズートさんみたいに長いツアーはやってないけど、ハンク・ジョーンズ(p)とかね。ちょっとタイプが違いますけど、マル・ウォルドロン(p)ともやりました。 「クラリネットとは凄まじいな」と思ったのがピーナッツ・ハッコー。〈鈴懸の径〉がヒットしたあと、コンサートもご一緒しましたし、ツアーもやりました。でも、グッドマンとは1回だけ。
——グッドマンが来たときにジャム・セッションがありました。
やらなかったですけど、行きました。そのときじゃなくて、ほかで彼とは1曲やりました。
——そういうご体験が原田さんの血となり肉となっているんですね。今日は貴重なお話をどうもありがとうございました。
こちらこそありがとうございました。
取材・文/小川隆夫
2019-04-13 Interview with 原田イサム @ 大森「Tully’s Coffee