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2015年7月1日の記事を再掲
本邦ジャズ界の “ゴッドファーザー” こと鈴木勲。齢八十を越えたいまも現役のベーシストとして活動し、日々の訓練を怠らないという。そんな鈴木に教えを請う門弟たちも多数。そしてこの風貌。これらすべてを加味すると(ゴッドファーザーというより)さしずめ “ジャズ仙人”といったところか。
そんな鈴木勲が初めて自分の楽器を手にしたのは1953年。19歳のときだったという。
ストリップ劇場でデビュー
――鈴木さんがベースを始めたのは、ルイ・アームストロングの公演を観たのがきっかけだとか。
「そう。ベースのミルト・ヒントンの演奏を見てね。俺は絶対これだーっ! て思ったね」
――それまで音楽は?
「まったく知らない」
――他の楽器ではなく、なぜベースに惹かれたのでしょう?
「なんていうんだろう…感動したんだよね。親父がたまたま招待券を持ってたから行ってみたのよ。行ったら、いちばん前の席だった。目の前でベースのソロを聴いて、感動して泣いちゃってさ。その日に、おふくろに楽器欲しいって言ったよ」
――当時、コントラバスを手に入れるのは簡単なことではないですよね。しかも高価な楽器です。
「昔、有楽町に日劇って大きなビルがあってね。そこの4階でおふくろが美容院を経営してたんだ。お弟子さんも、いま名前を聞くとすごい人たちがいてね。まあ、それくらいおふくろは腕が達者で稼いでくれてた。それに顔も広かったから、コンサートや音楽関係者にベースのことを聞いて、買ってくれたんだよね」
――最初の仕事場はストリップ劇場だったとか。
「そうそう。ルイ・アームストロングの公演を観た帰りに、『ベース奏者募集』って貼り紙を見つけたんだ。そこは東劇バーレスクっていうストリップ劇場だった。それで、ベースを手に入れて1週間くらい経ってたのかな? もう一度行ったらまだ募集してて。何も知らないけど『ベース弾きたいんです』ってお願いしたら『じゃあ坊や、弾いてみな』って言われてね」
――ベース歴はまだ1週間ですよね。
「うん。とりあえずボンボンって弾くんだけど、全然弾けてないんだよ。それでも『僕はルイ・アームストロングを聴いて、どうしてもこれをやりたいんです』って。すると『その根性、いいね』って言われてさ。そこのバンドの人たちに教えてもらえることになったんだよね。それで毎日お昼頃から行って練習して。ポンポコポンポコしか弾けなかったけど、半年くらい練習してけっこう弾けるようになっていった」
米軍基地で鍛錬の日々
「そのストリップ劇場に毎日来る兵隊が2人いるんですよ。ある日、彼らが僕に話しかけてきた。『お前はジャズをやるのか?』と。『Yes』って答えると、『じゃあ立川のキャンプに来い』って。彼らは軍楽隊のメンバーで、毎朝、基地内で旗を揚げたら(国旗掲揚とともに国歌を演奏)その後はやることないから、みんなジャズをやってたんだ。基地に行くと、楽器がたくさん並んでてね、ベースもドラムもピアノも何台もあって。僕はそこで米兵たちと一緒にジャズの練習を始めたんだ」
――上手いプレイヤーも大勢いるわけですよね。
「もちろん。たとえば、トニー・テキセイラっていうギターの人。僕は1970年にアメリカへ行くんだけど、そのとき彼はボストンのバークリー音楽大学で先生やってた。そんな人が兵隊として日本に来てたんだよ。彼とは仲が良くて、いろんなことを学んだよ。彼がいなかったら、いま俺はベースやってないかもね」
――当時、基地に出入りしている日本人プレイヤーは、鈴木さん以外に誰かいましたか?
「兵隊のバンドを聴きに来てる奴らがいた。その中に、貞夫ちゃん(渡辺貞夫)がいたよ。俺のことを日系2世の米兵だと思ってたらしい(笑)」
――それが20歳くらいですよね?
「そうだね。貞夫ちゃんも俺もそのくらいだったね」
――米軍基地で鍛えられた後は?
「当時、自由が丘にファイブ・スポットっていうお店があったんだよ。そこに“いソノてルヲ”っていう名司会者がいて、お世話になってた。菊池雅章の弟とか、渡辺香津美とかも来ててね、彼らに楽器を教えてたんだよ」
――ベース以外の楽器も弾いていたんですか?
「なんでもいじってたよね。そういった土台もあって、自分ひとりで作ったのが『SELF-PORTRAIT/自画像』(1980年)。ピアノからドラムから何もかも自分で全部やった。あと『BLOW UP』(1973年)の録音も、全部俺がやったんだよ。マイクにどれだけの音が入るか、すべてチェックして。アメリカにいるとき、レコーディングエンジニアのルディ・ヴァン・ゲルダーと知り合って、彼の仕事を見ながら研究したんだよ。それで『BLOW UP』はめちゃくちゃ売れた」
――どれくらい売れたんですか?
「LPだけでも30万枚くらい。ジャズは1万枚売れれば大ヒットだったときにね。じつはジャズファン以外に、音響機器の業者やエンジニアが、試験用に使ってくれてたみたいでね。それも手伝って、大当たりしちゃった(笑)」
――いまも聴き継がれる名作ですが、ヒップホップ界隈ではサンプリング・ソースとしても有名です。
「あ、そうなの? ずるいよねぇ、自分で作りなよね(笑)。演奏するの難しいのに。けっこう多いんですよ、そういうの。たとえば俺の曲で〈45th street 8th avenue〉ってのがある。あれは俺がニューヨークにいたときに作ったんだ。サビはウディ・ショウっていうトランペット演奏者に作らせてね。ところが俺が東京に帰ったら“あの曲は自分が作った”って言ったんだよ(笑)。で、ウディ・ショウが死んだら、今度はジャッキー・マクリーンが“あれは俺が全部作った”なんて言ってる。ひどいもんだよね(笑)」
特別な楽器
――楽器にも大変なこだわりがありますね。
「僕の楽器は独特なんですよ。特注で作ってるから世界に1本しかない。アメリカでアート・ブレイキーのバンドにいた頃に使っていたチェロなんだけど、チェロって4弦でしょ? そのチェロにダブル弦を付けて、全部で7本弦にして使ってたんだよ。それとベースの両方をやっていた」
――いま使っているものは?
「自分で設計して作ったんだよね。弦を替えればチェロになる仕様です」
――長く使っているのですか?
「40年くらいかな。持ち運びも楽なんですよ。大きいのは大変じゃないですか。海外へ行って楽器を用意してくれるのはいいけど、ひどいのがきたらさ、一生懸命やろうとしてもやっぱりいい音は出ないんだよね。だから、どこへ行くにもあの楽器があれば大丈夫」
――サイズ以外に、重視したポイントは?
「イタリアの木を材料にしてね。これを買うのにだいたい150万円くらい。最初に作ったやつは全然音が鳴らなくて、また木を買い直して、3回目でようやく成功したときには400万円くらい使ってた」
――それはやはり“自分だけの音を出したい”という思いで?
「そう、もちろん。どこにもないやつが欲しいんだよ」
自作のスカートでステージに
――“どこにもないやつが欲しい”のは、ファッションにおいても? 鈴木さんは個性的なファッションでも有名です。しかもスカートをよく着用していますよね。
「スカートは全部自分で縫ってるから。もう何十着と作ってるんだよね。手縫いで」
――ミシンは使わず?
「手縫いですよ。ミシンじゃ感じが出ないんだ。ふわっという感じはやっぱり手縫いじゃなきゃ。僕が小学生のときは男も女も学校で習ってたんですよ。で、腹巻を縫ったりするのよ。僕くらいの年齢の人はみんな針できるよ。手縫いやったことある?」
――あります。指貫をはめて、ちくちくと運針を。リズムも大事ですよね。
「そうなんだよ。あれも音楽と同じで、リズムだから(笑)」
――スカート以外も作るんですか?
「なんだって作るよ。あ、次のライブでワンピース着ようと思ってんだよ。真っ赤なワンピースでさ、バラの花が付いてるやつ。かっこいいんだよ。膝上だから、ストッキング穿くじゃん。で、ハイヒールも履くんだけど、それがまた、ちょうどいいんだよ。楽器の高さに」
――すいません。ちょっとワケわかんないです(笑)。
「別にオカマでもなんでもないんだけどさ(笑)。なんていうのかな…、女の人もこういう格好したらどうなの? って思うものを着てるんだよね。で、みんなに見せてるの」
――普段はどんな1日を過ごされてるんですか?
「楽器の練習を毎日4時間やって、あとはもうテレビ見たり、散歩したりさ。パチンコやったりとか」
――パチンコですか。
「今日もここに来るまでパチンコやってて2万くらい勝ったよ」
――お酒やタバコは?
「お酒は昔から全然飲まない。タバコはやめたの。昔は1日1カートン吸ってたよ。パーラメント。フィルターが付いてるタバコはパーラメントが最初なの。それでパーラメントが欲しいわけ。当時はどこのタバコ屋にも売ってなくて、ホテルオークラにしかなかった。だから朝1番であそこまで買いに行くわけよ。 『お客さん昨日買ったから今日1箱ですよ』なんて言われて。毎日1箱しか売ってくんないの」
演奏の“上手さ”とは何か
――鈴木さんは、若手プレイヤーの育成にも熱心ですね。
「小沼ようすけとか井上銘とかね。ギターが多いね。ギターと2人でやるのが好きなんだよ。ギターとベースって同じ弦楽器だから、よくわかり合えるし、お互いを活かしやすい。何もわかってない自分勝手なサックスがバーンとやったら死んじゃうでしょ? そういうやつとは俺はやらないよ」
――サックスというと纐纈雅代(こうけつ まさよ)さんともアルバムを出されてましたよね?
「纐纈も俺が教えたんだよ。うちのバンドだよ。俺がやってるスクール的な活動のOMA SOUNDから、たくさんの子が勉強して出ていった」
――若いプレーヤーを大勢見てきて、何か思うところは?
「これまでたくさんの人を見てきたけど、ダメな子は、一緒にやるとすぐにわかる」
――どういうことですか?
「自分のことしか考えてない人はダメ、ってこと。たとえば4人でやったら4人全員の音を全部きちんと聴かなきゃ。その上で“自分はどこで活きるか”を考えなきゃいけない。そこで自分が変なことやったら全部が死んじゃうからさ、自分が活きる場所すら作れない。そういうことがわかってないと、いい音楽は生み出せないよ」
――これまで一緒に演奏してきた人で、いちばん気持ちよくセッションできたのは誰ですか?
「気持ちいいっていうか、“わかってるな”って思うやつは日野皓正」
――“わかってる”というのは、ただ上手に弾けるだけじゃダメ、ってことですね。
「みんなで一緒にやった時に、いかにみんな(の音)を聴けるか、その耳があるか。そこが大事。たとえば自分が前に出る場面であっても『バックはこういう演奏をやりたいだろうから、俺はそのバックを活かしつつ自分も活きるために、どんなプレイをすればいいのか』を感知する力が必要ってことなの。それを瞬間でとらえて、考えるより先に手が反射しないと。タイミングを見極めながら新たな局面をどんどん作り上げる “瞬間芸” が必要だよね」
――瞬間芸…。
「ジャズはその一瞬で“最高のこと”をやらないとね。周りの音をよく聴いて、100分の1秒レベルでプレイする。その、わずかに早いか遅いかで人の心を捉えることができるかどうかが変わるからさ。それを今も研究してるよ」
――いまも研究ですか。
「いまでも毎日ひとりで4時間は練習してるよ。まだ誰もやってないこと(プレイを)やらなきゃ。普通に曲を演奏するなんて誰でもできますよ。でもそれじゃあね…。進化しなきゃ。昨日より今日、今日より明日。それをずーっとやってる。82歳になった今も、新しい音を出したいと思ってるから」
1933年、東京生まれ。ベース奏者。1956年に米軍キャンプ内の空軍(軍楽隊)バンドに加わり、本格的にベースを弾き始める。米ジャズドラマーのアート・ブレイキーに見い出され、1970年に単身渡米。ジャズ・メッセンジャーズの一員として活動し、アメリカ全土とヨーロッパ公演を経験する。以降、数多くの伝説的ジャズミュージシャンと共演(セロニアス・モンク、エラフィッツ・ジェラルド、ウイントン・ケリー、ロン・カーター、ジム・ホール、チャールズ・ミンガス、マル・ウォルドロン、ポール・デスモンド、ケニー・バレル、ボビー・ティモンズ、フィリー・ジョー、デューク・ピアソンなど)。これまでに50作を超えるリーダーアルバムを発表するほか、若手ミュージシャンの育成にも貢献。