投稿日 : 2015.07.01 更新日 : 2020.01.28
Montreux Jazz Festivalの魅力―モントルーサウンズ・エンタテイメント 株式会社 代表取締役社長 酒井捷八 インタビュー
取材・文:山本将志 写真:難波里美
世界3大ジャズ・フェスティバルの1つに称される「Montreux Jazz Festival」だが、その魅力とはいったい何なのだろうか? それは歴史なのか、ロケーションなのか、ラインナップなのか。通常2万人が住む街に20万人以上もの人が訪れ、過ごすのだ。なかなか情報が少ないMontreux Jazz Festivalではあるが、主催者であった、故クロード・ノブスとも親交が深く、モントルーサウンズ・エンタテイメント株式会社 代表取締役社長の酒井氏に話を伺うことができた。いわば日本でいちばん、Montreux Jazz Festivalに詳しい人物だ。彼がクロード・ノブスの傍で見てきたものとは何だったのだろうか。
「理念はダイバーシティ(多様性)と即興性。ジャズセッションにも表れているように、この2つを守っていこうと」
ーーまず、Montreux Jazz Festivalが始まった経緯を教えてください。
Montreux Jazz Festivalは、1967年に始まるんですが、それ以前は、大きな放送機器展や国際テレビ祭がモントルーで行われていました。それが違う国や都市に移ってしまいまして、夏枯れになってしまったんですよ。スイスは観光立国でもあるので、この状況を打破せねばならず、モントルー観光局経理担当のノブスが即座にジャズ・フェスティバルを提案したんです。それがMontreux Jazz Festivalの始まりです。でも、当時ジャズっていったらアメリカだったんですね。それで彼は、アメリカに出張するわけです。でも、行っても知り合いがいるわけじゃない。そして出演オファーはことごとく断られる。でも、アトランティック・レコードのオーナーに紹介されたジャズ・シンガーのエラ・フィッツジェラルドからはじまり、いろんな方を紹介頂けたようです。初年度は3日間でたった1200人しか集まらない。そこへ来たキース・ジャレットが「もう二度と来ないぞ」って怒ったみたいですね。それで本当に20年間来なかったんですよ(笑)。
ーーでは、Montreux Jazz Festivalが有名になる最初のきっかけとは何だったのでしょうか?
そんなフェスが一躍有名になったのは、68年に出演したビル・エヴァンス・トリオの演奏をライブレコーディングした『At The Montreux Jazz Festival』というレコードのおかげですね。それで3回目ぐらいからは存続できるようになりました。
ーークロード・ノブスはいったいどのような人物だったのでしょうか?
「美的感性の優れた人」であり、文化、伝統、情緒、自然を愛し、他国の人にも尊敬される真の国際人でした。彼は人が好きでした。人が好きで人が喜ぶことをしたいと。そして、人がやらないことをやりたがる子供のような人でした。でもなかなかそれは、商売にならないですよね(笑)。とにかく見るもの聞くもの、何にでも好奇心旺盛でいましたね。そういったこともあり、彼はドリーマーってよく言われていたのですが、それをすごく嫌ってました。「ドリーマーじゃなくて実際に私はやる人なんだ」と。似たようなことで、賛成多数で決まるのを嫌がっていましたね。人が悪いと言っても、良いものがあるんだと。だから彼は、頑として人が「ダメだ、無理だ」って言ってもやることはやる。何て言ったと思います? 「Why not? Do it!」っていつも言うんですよ。あと彼はアーティストとオーディエンスを非常に大切にしていました。それは、オーディエンスがいるからアーティストは良いパフォーマンスができる。つまり良いオーディエンスを育てないと良いアーティストが育たない。というのが彼の持論なんですね。それと、会場の音にもこだわっていましたね。「音が良くなければ音楽じゃない」と言っていましたからね。それで、私が最初に連れて行かれたのがクイーンがベースにしてた当時のマウンテンスタジオでしたから。ついでに、お金の話は大っ嫌いでしたね。私がSONYにいた時、放映権の話をしたらすごく怒られたんです。「金のことは分からないから、俺に金の話をするな」と。使うのは得意なんですけどね(笑)。
左がMontreux Jazz Festivalを立ち上げ、成功に導いたクロード・ノブス氏
ーー酒井さんがMontreux Jazz Festivalに関わった経緯というのは?
1991年、ノブスから「ハイビジョンでMontreux Jazz Festivalを収録をしてくれ」とオファーがあったのが、彼との最初の出会いでした。ノブスはなにかと記録に残したがっていました。それも最新技術で。しかし、会社はMontreux Jazz Festivalのことは知らないし、社内の許可を取るのにすごい苦労しました。2台の中継車と600本のハイビジョン用の1インチテープを送らないといけないわけですから、相当なお金がかかったんです。それが成功して、それから彼との友人関係がスタートしました。1993年まで3年間ハイビジョンでの収録を手伝いました。それから、現地にモントルーサウンズという会社があるんですけど、その日本支社を作ってくれと言われたんですね。それで2002年にモントルーサウンズ・エンタテイメントを始めました。
ーーモントルーサウンズ・エンタテイメントの日本での役割というのは何ですか?
Montreux Jazz Festivalって、日本でせいぜい1パーセントの方ぐらいしか知らないと思うんです。往年のジャズファンにとっては憧れのフェスティバルだと思うのですが、一般的にはほとんど知られていない。だからMontreux Jazz Festivalを広めるための活動をしています。日本でのフェスの開催はもちろんなのですが、アーティストの方が自分を発表する場を提供するためにジャズ・カフェ事業導入を推進しています。彼はFood & Musicって言っていたかな? 「Food & Musicは必須だ」って言うんですよ。何という当たり前のことを言うんだと思いましたね。Food & MusicなんてBlue Note Tokyoでやっているじゃないかと。それで、「何をやるの?」って聞いたんです。彼は、Montreux Jazz Festivalを世界に広めるには、1日や2日のフェスを年に1回やったって何にも役に立たないと言うんですね。お金ばかり使うだけだと。一方、ちゃんとビジネスになるんだったら、ジャズ・クラブ(後にMontreux Jazz Cafeと命名)を作って毎日そこでやっていけば、売れていない人も売れている人もみんな音楽に接することができるじゃないかと。それを聞きながら、まさか自分がやると思わないから、「面白い夢だね」なんて言ってたんです。彼は真剣に考えてたんですね。とにかく若いアーティストを育てたいと。
ーー本国では若手アーティストの育成のためのコンペティションも行われていますしね。
本当かどうか分かりませんが、彼が1番気にしていたことがあったそうです。それは、ジャズをやる人は、クラシックの落ちこぼれって聞いたことがあるらしいんですよ。なぜクラシックがよくてジャズが落ちこぼれなのかってことのないようにしたいと。そして、アーティストの育成のためにコンペティションが始まりました。ビー・ビー・キングなどに頼んでワークショップを開いたり、何よりいきなりストラヴィンスキー・ホールに出しちゃうんですよ(笑)。人間てのは不思議なもので、みんなから見られたら絶対悪いことしない、良くなると(笑)。それを中途半端なとこに置くとそのまんまで育っていっちゃうと。だから毎年優勝者は、ストラヴィンスキー・ホールに出るわけなんですが、ガチガチですよ(笑)。先日、第1回目のコンペティションの優勝者が来て、悩みを話してくれたんです。優勝から十何年経ってそれなりに有名なのですが、ソロでやるべきか、バンドとしてやるべきかって。少なくとも頂点を極める前から悩む事はないと。自分で心がときめくのはどっちだって言ったらソロだって言うんですよ。だったらソロに決まってると。ソロでやっていれば人は寄ってくるんだからやってみなさいって言って。身も蓋もない言葉かもしれませんが、虜にできるだけのリズムと音感と、それからアトモスフェアを作れる人だったら誰でもいいんじゃないかって。人を育てると言ってますけれども、やっぱり一緒に育っていくような環境がモントルーの会場の中にあるんだろうなと思います。もちろん音も大事でしょうけれども。
ーーMontreux Jazz Festivalの理念とは何でしょうか?
Montreux Jazz Festivalの理念といいますと、やはりダイバーシティ(多様性)なんですね。あと即興性ですね。まあジャズセッションにも表れているように、この2つを守っていこうと。ですからどんなに皆さんから言われようが多様化した音楽を紹介する。これが変わらない理念ですね。
ーーその多様性という部分がラインナップにも表れているととらえてよいでしょうか?
そうですね、それもありますがラインナップに関して言えば、今は、経済効果70億円をあげるスイス国家文化事業となっているので、ジャズだけでは採算がとれないという面もあります。ただ、ジャズという音楽は誕生からさまざまな音楽に影響を与え広がってきましたよね? 現在耳にする音楽のルーツとしてとらえれば、さまざまなジャンルのアーティストが出演するのも納得いただけると思います。以前、私がハワイアンの人にお願いされてロビーのようなところでやってもらったんですよ。でも、さっそくジャズじゃないってお客さんに言われたんです。でもそのことをノブスは全然気にしなかった。音楽の中のジャズっていうのはルーツだと。そのルーツがいろんな形になっていくんだから、ロックだろうがブルースだろうが、いいじゃないかと。だけどかなり彼は堪えてました。もうボロクソに言われてた。最後は誰かがMontreux Jazz Festivalと言わずに嫌味として“Claude Nobs Festival”って言うんです。それで彼はものすごく頭にきて、名前を変えて23日間やったことがあるんですよ(笑)。でもやっぱりジャズ・フェスティバルがいいやっていうのでまた戻したんですけど、ちょっと茶目っ気があるのと、とにかく1人で決めてるんですよ、何でも。私が、みんなからダメだって言われても彼に電話するとオッケーになる。でもあんまりそれをやるとおかしくなるんです。現在の最高責任者になったマシュー・ジャトンは、すごくバランス感覚の良い人で、計算が全部できる人なんですよ。さすがに後継者として3年目ともなると、もう立派なMontreux Jazz Festival最高責任者そのものです。
ーーMontreux Jazz Festivalの成功と失敗を挙げるとすると?
失敗というよりノブスが苦労した点に、行政との熱量の差がありました。赤字や黒字というよりも行政側は無事にこなしてくれればいいと思っていたんです。ただ、新しいことにチャレンジしたがるノブスが、こなすだけの運営をするはずがない。失敗というよりも、そこが彼が1番苦労した点ではないでしょうか? 成功はやはり、モントルーがジャズ・フェスティバルを通じて世界的に有名になったことでしょう。
「何のためにやってるの? って聞いたことがあるんですが、そうしたらたった1人でもいいから自分の好きな音楽家を見つけてほしいんだと」
ーー会場の特徴について教えてください。
まず、私たちはお客さんのことをファミリーと呼んでいます。ですからおじいさんもお父さんも若い人もみんなが行けるような会場配置になってることが重要なんですね。そして数ある会場の3分の2はチャージがかかりません。3分の1だけが有料、有料エリアは3つありますけれども、2,800人(着席)~4000人(アリーナ立ち席)が入るストラヴィンスキー・ホール、約350人が入るクラブ、そして旧マイルス・デイビス・ホールの約2,000人が入るラボですね。ストラヴィンスキー・ホールはジャンルを超えてのヘッドライナーが、クラブは最高級のジャズを聴ける場所、ラボは新進気鋭のアーティストが出る場所になっています。あとは全部無料になるのですが、3,000人ぐらいが入る公園を使ったり、ボート、トレイン、シヨン城、ホテルなどとにかく多様です。多様性とはジャンルのことを言うと思ったら、ノブスは聴き方が多様だというんですね。それで「あれが良いとか悪いとかを決して言っちゃいけない」と。「アーティストは、みな自分が世界一なんだから」と言っていました。「何のためにやってるの?」って聞いたことがあるんですが、そうしたら「たった1人でもいいから自分の好きな音楽家を見つけてほしいんだ」と。
ーー日本人のお客さんはどうですか?
日本の方は本当に少ないですね。日本人は全体の1パーセントくらいではないでしょうか。80パーセントくらいがスイス人で、あとの19パーセントがイタリア人、フランス人、ドイツ人、イギリス人です。モントルーって、往年のジャズファンにとっては憧れの地という印象があると思うので、ぜひ体験してみてほしいですけど、日本には海外のようにバカンスのカルチャーがないですからね。
ーー開催期間中、現地で生活されている方っていうのは仕事とかどうなってるんですか?
日本とスイスとの大きな違いは、朝の仕事のスタートが早いんです。だから夕方の4時、5時で仕事が終わるんですね。だから夜は、たっぷり遊べるんですね。
ーー開催後のモントルーはどのようになるのですか?
開催中も開催後もそう大きく変わらないといったら語弊があるのですが、カジノがあったりたくさんの国際会議が開催されたり、ワイン祭りがあったり。冬が1番すごいのですが、クリスマスマーケットってのがあって23万人ぐらい来ますし、アニメのお祭りもあって40万人くらい集まるそうで。とにかくスイス人はお祭りが好きなんですね。2016年はMontreux Jazz Festival 50周年なのですが、やはり50周年を機に世界戦略を考えていって、世界でさらにMontreux Jazz Festivalを広めるための策を考えたいですね。以前アトランタとかでもやってみたのですが、みんなうまくいかないんです。なぜだかわかりますか? 結局、みんな“おらが街”なんです。Montreux Jazz Festivalのブランドがほしい、アーティストを呼ぶためにMontreux Jazz Festivalの冠を利用したいんですね。だから実際は、Montreux Jazz Festivalが考える“文化事業”からかけ離れた“地元を前面に出すことに専念する”フェスティバルとなってしまうのです。ですから彼がいつも嘆いてたのは、「酒井、おかしい。酒井のとこのSONYの名は世界中で通用するのに、なんでこのモントルーはダメなんだろう」と。クロード・ノブスという名前は残っていくけれども、Montreux Jazz Festivalっていうものはどんどんフェスティバルの品格を高めて変革していくと思います。でも、それにはあまり憂いがないと思います。
ーー酒井さんが開催されたMontreux Jazz Festival in Kawasakiも4年になりましたよね。どんな経緯があったんですか?
かつての僕の部下がたまたま川崎に在住していて、その元部下と10年来のお友達という方を紹介されたんです。そのお友達の方が、私がMontreux Jazz Festivalに携わっていることを知っていて、ぜひ川崎でMontreux Jazz Festivalを開催してくださいと言ってくれたんです。でもその時は、私は工業地帯のイメージしかなかったのですが、音楽の街ですと言うんですね。昭和音楽大学と洗足音楽大学、2つの音楽大学がありますと。それからミューザ川崎シンフォニーホールという素晴らしいホールがありますと。そのことをノブスに言ったら、地理的にどうなってるって聞かれて、羽田空港から10分くらいだって言うと、もう即決でやろうって言ってましたよ(笑)。それで2011.3.11(東日本大震災)が来るわけなんですけど、ホールの天井が落ちてしまって。それで、開催は見送ろうと思ってたんですけど、ノブスに「こんな時だからこそ、音楽で元気を出してもらわなきゃ」と檄を飛ばされ開催することになりました。日本でやっている以上、Montreux Jazz FestivalっていうのはMontreux Jazz Festivalのコンセプトから少しずつ離れていくことにはなるんです。本国的な多様性は取らないでジャズオンリーなんですね。もちろん、私はそれでいいと思っています。来年は本国が50周年なので、今までと違う展開ができたらと考えています。
ーー2014年のJapan Dayはいかがでしたか?
9年前ぐらいからJapan Dayをやろうって話はあったんです。ただ、なかなかまとまらず(笑)。ここ数年、Montreux Jazz Festivalに日本のアーティストの出演がなかったので、日本のアーティストを世界に紹介できたというのは良かったんじゃないかなと思います。印象的だったのがギタリストの布袋寅泰さんでした。布袋さんの前に演奏していたブルーノート東京・ジャズ・オーケストラの時から人は徐々に集まって来ていたのですが、布袋さんが音を出したら、一気に人が増えたんです。それを見て、やっぱり布袋さんはすごいなと痛感しました。余談ですが、前日から雨がすごい降っていたこともあって、それを心配されて奥様とお子さんがてるてる坊主を作ってたみたいですよ。
ーー今までの長い歴史で歴史的プログラムを挙げるとしたら何でしょうか?
やっぱり25周年(1991年)に集まったマイルス・デイビスとクインシー・ジョーンズの楽団とスティング、レイ・チャールズなどとにかく超大御所たちが一堂に介した時ですね。
ーーMontreux Jazz Festivalが長く続く理由とは?
人間の鼓動って1分間に約60回なんですよね。時計の1秒とほぼリンクしていて、私たちってリズム、音楽の中で生きてるんですよね。そこに美しい山と湖があって空気も美味しい。それからスイス料理はちょっと好き嫌いがあるかもしれないけど美味しいワインがある。ノブスが言うには「天国の途中」だとたとえるんですよ。天国の途中にいるようなスイスのリヴィエラ。英語で言うと景勝地というか綺麗な場所を称してリヴィエラっていうらしいんですけどね。とにかく景色や空気がいいと幸せなんですよ。もうそれだけで。僕も毎年行ってるんですけど、毎年新しい発見があるから不思議なもんですね。あとリラックスしている雰囲気もいいですね。ハービー・ハンコックが歩いてたんで、「ハイ、ハービー」って言ったら、「ハイ」って歩いてきて一緒に写真を撮ってくれるぐらいですからね。ジョージ・ベンソンが歩いてて、「ハイ、ジョージ」とか言ってね。町の中でも護衛がいないんですよ。でもリンゴ・スターが来た時は、彼だけガードマンがついていましたね(笑)。
酒井捷八(さかい しょうはち) プロフィール
ソニーに入社後、15年間ヨーロッパ海外駐在員としてフランス/ベルギーを中心にソニー製品のマーケティング、営業、宣伝に携わる。帰国後一貫して映像ソフトの企画・制作の責任者として、多くの映画人(黒澤明、ヴィム・ヴェンダース 、ワダ・エミ他)、音楽家(坂本龍一、クインシー・ジョーンズ、ミック・ジャガー他)との知遇を得る。特に1991年から1993年まで3年間、Montreux Jazz Festivalをスイス政府観光局の要請でソニー株式会社として中継車2台をスイス・モントルーに持ち込み16日間すべての映像・音声をハイビジョン映像/デジタル音声にて世界3大ジャズ・フェスティバルを初めてのハイビジョン収録に成功し、ソニー(株)として各種権利を取得後は、幅広い映像制作の経験と実績を買われMontreux Jazz Festivalの創始者で最高責任者であるクロード・ノブスの経営するスイス・モントルー・サウンズ社の日本での代理人としてのモントルー・サウンズ・エンタテイメント株式会社を2002年創業し日本側でMontreux Jazz Festivalを中心とした「イベント」「ライセンス」「マーチャンダイジング」「ジャズ・カフェ」等の導入サポートを行っている。(http://www.montreuxjazz.jp/より転載)