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戦争が生んだ「Vディスク」という宝箱(前編)【ヒップの誕生 】Vol.1

かつて日本でもっとも「ヒップ」なユースカルチャーだったジャズ。そのジャズ文化が戦後いちはやく花開いた場所が横浜だった。横浜のジャズ文化を掘り起こすことは、日本のジャズ文化を捉え直すことにほかならない。横浜のジャズの歴史や、この地でジャズを育てジャズに育てられた人たちの歩みをたどる新連載。その第1回は、戦中から戦後にかけてジャズの貴重な演奏を記録した「Vディスク」にスポットを当てる。

米軍が兵士に配布した「官製レコード」

盤面に針を落とすと、ザーというノイズのあとに、マーチのリズムを刻むホーンの音と軽快なイントロが聴こえてくる。続いて流れてきたのは、あの馴染みのメロディだ。曲は「セント・ルイス・ブルース」。ノイズは激しいが、音は比較的クリアである。

ラベルには「418th  AAFTC Band under the direction of Captain Glenn Miller」とある。訳せば「グレン・ミラー大尉が指揮をする418番目のアメリカ陸空軍訓練作戦バンド」とでもなるだろうか。“ペパー軍曹が指揮するバンドの演奏”という設定のあのビートルズのアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」は、あるいはここあたりに着想を得たのではないか。そんな想像も膨らむ。

第二次世界大戦中および戦後の数年間に、米軍が前線や占領地の兵士に公式に配布したレコードがあった。レコードの名称は「Vディスク」。Vは「Victory(勝利者)」の頭文字である。戦中にあっては専用の蓄音機や楽譜とともにパラシュートで戦地に投下され、戦後には船便などで占領地に届けられたという。

盤の大きさはLPサイズの12インチ、回転数はSPレコードと同じ78回転だ。片面の録音時間は最長8分ほどで、片面に1〜2曲ずつ録音されている。材質は現在のアナログ・レコードと同じポリ塩化ビニールだが、手に持つとずしりと重い。初期のレコードに使われていたシェラックと呼ばれる生物由来の樹脂製の盤も存在する。

Vディスクには、ジャズ以外にもクラシックやヒルビリーなどさまざまなジャンルの音楽が録音された。

「グレン・ミラー大尉」のレコードも、そのVディスクの中の一枚である。スウィング・スタイルで演奏されることが多い「セント・ルイス・ブルース」がマーチ・アレンジになっているのは、兵士の気持ちを高揚させるためだった。映画『グレン・ミラー物語』(1954)には、自ら志願して軍楽隊の隊長になったミラーが、陸軍の伝統的な行進曲を、兵士たちを元気づけるためと、マーチ風の「セント・ルイス・ブルース」に勝手に変えてしまうシーンが出てくる。

のちにLPレコードやCDとなって発売されることになるVディスクだが、その原盤の音を、しかも日本国内で聴けるとはまさか思わなかった。Vディスクは本来日本国内に残っていてはならないレコードだからである。

50枚のVディスクが残された謎

Vディスクが録音されたのは1943年10月から49年5月まで。終戦をまたぐおよそ5年半の期間だ。陸軍と海軍がおのおの製作し、その数はそれぞれ905枚、275枚、計1180枚だったとの記録が残る。そのうちの何枚かが戦後日本に駐留していた米兵にも届けられた。数は明らかではないが、占領が始まって4年近いあいだ供給が続いたと考えれば、かなりの数のVディスクが日本に上陸したはずだ。

そのうちの50数枚を保管しているのが、横浜・野毛町のジャズ喫茶「ちぐさ」である。Vディスクの全録音はアメリカ議会図書館に保存されているというが、アメリカ以外の地でこれだけの現物があるのはおそらくここだけだろう。

横浜「ちぐさ」所有のVディスク。

盤のリストを見ると、まさに綺羅星の如きミュージシャンがレコーディングを行っていたことがわかる。先のグレン・ミラーをはじめ、デューク・エリントン、カウント・ベイシー、ベニー・グッドマン、ライオネル・ハンプトン、バディ・リッチといったビッグ・バンド・ジャズを中心に、アート・テイタム、ビリー・ホリデイ、ビング・クロスビー、クラーク・テリー、フランク・シナトラ、レス・ポールといった豪華な名前が並ぶ。これらの原盤はコレクターの視点から見てもかなり貴重なものに違いない。例えば、亡くなる3か月前のファッツ・ウォーラーのオルガン・ソロ(「バウンシング・オン・ア・Vディスク」)の原盤を売りに出したら、果たしていくらの値段がつくだろうか。

しかし、米軍が軍関係者に支給した軍用品であり、戦後米軍に接収されたオフリミット(日本人立ち入り禁止区域)の中だけで楽しまれる音源だったVディスクが、なぜ横浜のジャズ喫茶に現存しているのだろう。その謎を探るには、戦後の横浜が置かれた特殊な環境に目を向ける必要がある。

戦後の占領の中心地だった横浜

第二次世界大戦後に連合国軍による日本占領が本格的に始まったのは、敗戦から半月が経った1945年8月30日だった。この日、最高司令官ダグラス・マッカーサーが横浜に入り、以後GHQ(連合国最高司令官総司令部)は、9月17日に東京・日比谷に本拠を移すまで、現在の横浜税関を本部とした。占領政策の骨子が固まったのは、GHQが横浜に本拠を置いていた9月2日のことだ。日本の戦後の占領は、事実上、横浜から始まったのである。

GHQの本部が移転したのちも、中核部隊である第8軍司令部は横浜にとどまったため、多くの占領軍兵士が横浜で活動することになった。その数はおよそ9万4000人。占領軍全体の実に4分の1に当たる数であった。横浜市内の主要施設は中区を中心に占領軍に接収され、空襲による焼け跡にはカマボコ兵舎と呼ばれるプレハブの建物が並んだ。日本を占領したのは、米英仏ソ中を中心とする連合国だったが、占領軍の実体はほぼ米軍であった。占領の本拠である横浜は、アメリカという異国を市内に丸抱えすることになった。

ちぐさがその「異国」に接するようにして再スタートを切ったのは1948年のことである。33年に野毛町に開店したちぐさの店舗は、45年の空襲で6500枚を数えるジャズのレコードとともに焼失した。戦後の再建に当たって、以前の馴染み客をはじめとするさまざまな人がレコードを持ち寄り、その数はすぐに1000枚に達したという。そのレコードの中に、50枚を超えるVディスクも含まれていた。だが、それを誰が、どのようにして持ち込んだのか。

店舗から数百メートル離れた創業の地は、区画整理により現在はマンションが建っている。しかし、敷地内にはかつてこの場所に「ちぐさ」があったことを示す記念プレートが敷かれている。

Vディスクはなぜ流出したのか

ちぐさにVディスクが持ち込まれたルートは二つあったと考えられている。ひとつは、ちぐさでジャズを大音量で聴こうとした米兵や米軍属がVディスクを持参し、そのまま置いていったケース。もうひとつは、米軍施設で演奏の仕事をした日本人ミュージシャンが、施設内で見つけたVディスクを失敬してきて、それをちぐさに持ち込んだケースである。ディスクはドラムのシンバルケースに忍ばせれば容易に持ち出せたと言われる。

いずれも軍物資の横流しに当たる違法行為であったから、米軍はそれを取り締まらなければならなかった。「おやじ」と呼ばれて多くのジャズ・ファンに愛され、94年に亡くなったちぐさのマスター、吉田衛はこう証言している。

「MP(憲兵)がジープで突然乗りつけて、店内に入ってくることもあった。しかし、大あわてでVディスクをしまいこむ我々の仕草を眺めて、ニヤニヤしながら黙って口笛を鳴らして帰って行くのだった」(『横浜ジャズ物語「ちぐさ」の50年』)

戦時にあっても人間にはエンターテインメントが必要であるという信念と、占領地における鷹揚な「大人」の立ち居振る舞い──。当時の日本人にとってアメリカ人は敵であり、占領者であったが、彼らのマインドと文化がなければ、Vディスクが日本に残ることはなかった。そこから戦後の日本のジャズが生まれていくことになるのである。

(敬称略/後編に続く)

二階堂 尚/にかいどう しょう
文筆業。1971年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、フリーの編集ライターとなる。現在は、ジャズを中心とした音楽コラムや、さまざまなジャンルのインタビュー記事を手がけている。本サイトにて「ライブ・アルバムで聴くモントルー・ジャズ・フェステイバル」を連載中。
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