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【カマシ・ワシントン/インタビュー】LAのジャズ遺産とヒップホップをつなぐ、話題のサックス奏者を直撃

フライング・ロータス主宰のレーベル〈Brainfeeder〉から、CDにして3枚組(全17曲)というボリュームのフル・アルバム『The Epic』をリリースした、サックス奏者のカマシ・ワシントン。最近ではケンドリック・ラマーの『To Pimp A Butterfly』にもフィーチャーされ、ジャズのみならず、ヒップホップのシーンでも、その名を聞くようになった。

そんな彼が、新アルバムのリリース・コンサートを実施した(5月4日)。場所はロサンゼルスのリージェント・シアター。出演メンバーも、今回の “壮大なアルバム” にふさわしい布陣。カマシ自身のバンドに加えて、サンダーキャットやミゲル・アトウッド・ファーガソン、ダディ・ケヴやラス・Gなど、ジャズとビート・ミュージックを横断するアーティストが出揃った。そんな記念すべきコンサートの直後、このインタビューは敢行された。

——まずは、これまでのキャリアについて教えてください。音楽を始めたきっかけは? 

父はサックス奏者で、母はフルート奏者。だから俺も2歳から楽器を演奏してたよ。最初に演奏し始めたのはドラムで、5歳からピアノ、8歳からクラリネットを演奏し始めた。

——クラリネットからサックスへ?

本当はサックスをやりたかったんだけど、クラリネットが先だった。これには理由があって、父の時代(70年代)のサックス奏者は、サックス、フルート、クラリネットの全部を演奏できることを求められた。だから、サックスより難しいクラリネットを先に習わされたんだよね。

で、10歳か11歳くらいからジャズにのめり込んで、ウェイン・ショーター、チャーリー・パーカーみたいな人にハマった。彼らが演奏していたレコードを、クラリネットでコピーしようとしたんだけど、すごく難しかったよ(笑)。

そんなある日、父がサックスを家の中の見えるところに置いてたんだ。触ってはいけないと言われてたけど、俺はそれを手に取った。そのとき何故か、すぐに自分の好きな曲を演奏できたんだよ。ただ、どの音符を演奏しているかもわかってなかった。ウェイン・ショーターの「Sleeping Dancer Sleep On」という曲だったんだけど、サックスの仕組みがクラリネットと似ていたから演奏できたんだろうね。

——ロサンゼルスのどのエリアで育ったんですか?  

サウスセントラルだよ。

——そのエリアで、ジャズを聴く子供は珍しかったんじゃないでしょうか?

そうだね。けっこう危険なエリアだった。小学生の頃、友達はみんなN.W.A.(注1)とかギャングスタ・ラップを聴いてたよ。でも俺は、父の影響でジャズに慣れ親しんでいた。年上の従兄もジャズを聴いていて、あるときアート・ブレイキーのミックステープをくれたんだ。そのテープを聴いていくうちに、俺はなぜかアート・ブレイキーの音楽がN.W.A.に似ていると思うようになったんだ(笑)。

注1:1986年に米カリフォルニア州コンプトンで結成されたヒップホップグループ。イージー・E、アイス・キューブ、ドクター・ドレーなどが在籍していた。

叔父や親戚もジャズが好きでね。俺が真剣にジャズを演奏したがっていることを知って、レコード、テープ、CDを聴かせてくれた。あのエリアでジャズが好きな若者がいることを喜んでくれてるみたいだった。

——リリース・コンサートで、ドラマーのロナルド・ブルーナー・ジュニアや、ベーシストのサンダーキャット(二人は兄弟)も出演していましたが、彼らは子供時代からの友達だとか。

そうなんだ。俺の父親と、ロナルドたちのお父さんが一緒にゴスペル・フュージョン・バンドをやってて、それで友達になったんだ。俺が6歳か7歳のときに、父はそのバンドを辞めたから、以来、ロナルドとサンダーキャットとは会わなくなった。でもその後、高校生になった俺はマルチ・スクール・ジャズ・バンド(さまざまな地域の高校から才能あるミュージシャンを集めたバンド)に加入して、そこで、ロナルドたちと再会したんだ。

——師事したミュージシャンはいましたか? 

父はミュージシャンから音楽の先生に転身したんだ。だから、父親が俺の先生だった。音楽理論も父から学んだよ。あとは、アイザック・スミス、ロナルド・ブルーナー・ジュニア、テラス・マーティンといった、友人のミュージシャンからも学んだね。

サックスにのめり込んでからは、仲間と毎日8、9時間は練習してたよ。これには、ピアノ奏者のキャメロン・グレイヴスの父さんやロナルドの父さんも関わってたから、家族ぐるみの “小さな音楽村” みたいなものができあがっていた。そこでレコードを見せ合ったり、お互いのプレイに影響し合いながら、自然に学んでいく感じだね。だから堅苦しい環境のなかで勉強してたわけじゃないんだ。

——練習場所は家のガレージだった聞きましたが。

そう。父の家の裏に部屋があって、そこにロナルドやキャメロン、サンダーキャットが来て、ジャム・セッションをやったりしてた。そのあとはワールド・ステージ(注2)に行って演奏したりした。家に戻ってから、さらにまたみんなで朝の4時まで演奏した理。そんな日々だったよ(笑)。

注2:故ビリー・ヒギンズがロサンゼルスのラマート・パークに設立したジャズ・ミュージシャン育成のための文化センター。

——音楽以外の関心事は?

俺たちは音楽しか興味がなかったから、パーティも行かなかったし、クラブにも行かなかった。ただ、ジャズ・ミュージシャンが来ると、クラブに行ったんだけど、お金がなかったから忍び込んでたよ(笑)。

高校生のときに、ロナルド、サンダーキャット、キャメロンと一緒にザ・ヤング・ジャズ・ジャイアンツというバンドを始めた。ジョン・コルトレーン・コンペティションというジャズ大会があって、それに出場するために結成したんだ。結果、俺たちが優勝したんだけど、そのときの会場にはラヴィ・コルトレーンがいて、まだ13歳のフライング・ロータスを連れてきてたよ。そのときがフライング・ロータスとの初対面だったね。これが、ザ・ヤング・ジャズ・ジャイアンツが今やってる、ザ・ウェスト・コースト・ゲット・ダウンというバンドの出発点だね。

——セロニアス・モンク・インスティテュート・オブ・ジャズでも演奏したそうですが、どんな組織なのでしょうか? 

学生にジャズを広める団体だよ。マルチ・スクール・ジャズ・バンドをスポンサーにしたり、ジャズのレジェンドを招待して、一緒に演奏させてくれたり。そのときにウェイン・ショーターに会って、ジャズ・フェスティバルで一緒に演奏させてもらえた。そのプログラムで、テラス・マーティンとも出会ったんだよ。一緒に演奏して、仲良くなったんだ。テラスの紹介で、俺はスヌープやケンドリック・ラマーと仕事できるようになったんだ。

——大学でも音楽を勉強したんですか? 

UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)に入って、そこで民俗音楽学と作曲を専攻した。ワールド・ミュージックの勉強はもちろん、クラシックの作曲法を学んだり、ビッグバンドに加入して演奏したり。インドネシアのガムランとか、いろいろな音楽に触れて幅広い勉強ができたよ。

——近所の他の子供と同じように、ヒップホップには傾倒しなかった?

ヒップホップも好きだったよ。ジャズもヒップホップも俺の人生の一部で、子供の頃、ヒップホップは友達と一緒に聴く音楽だった。そんな時期に、ジャズやサックスにのめり込むことで、ジャズとヒップホップの関係性も見えるようになったんだ。ア・トライブ・コールド・クエストの曲を聴くようになったとき、すぐに元ネタのジャズがわかったんだ(笑)。

わかりづらいかもしれないけど、俺の音楽にはヒップホップの要素も入っている。 高校生のときに、初めてサックス奏者としてプロの仕事をしたのが、スヌープのライブ・バンドだった。大規模なツアーで演奏するようになったのも、スヌープやラファエル・サディーク、ローリン・ヒル、パフ・ダディのようなヒップホップ・アーティストだったよ。ジャズを仕事としてできるようになったのは、ずっと後のことだ。 だから、俺のジャズの演奏は、間違いなくヒップホップに影響されてる。

ヒップホップのアーティストは、独特のアングルからジャズをとらえてるんだ。スヌープと演奏したときは、技術的なことよりも、どういうフィーリングで演奏しているか、を重要視された。だから俺がジャズを演奏するときも、どんなフレーズを演奏するかだけじゃなくて、どういう気持ちで演奏するかが大事なんだ。それはジャズではなく、ヒップホップから学んだことなんだ。あと、ジャズのエモーショナルな面に魅力を感じた。ウェイン・ショーター、ジョン・コルトレーン、ファラオ・サンダースのようなパワフルな音楽を演奏している人が大好きなんだ。彼らから多大な影響を受けたね。

——最新アルバム『The Epic』には、スピリチュアルなジャズの要素もあれば、ストレート・アヘッドなジャズ、アフロ・ジャズ、あるいはソウル、R&Bの要素もあります。これらを見事に、ひとつのアルバムにまとめ上げていますね。

このアルバムに含まれてる音楽的要素は、すべて俺の一部なんだ。俺たちのありのままの姿を表現した結果で、吸収してきたさまざまな音楽スタイルとメンバーの個性が、このサウンドを作りあげている。過去は未来を作り、未来は過去によって生み出されるんだ。

〈Brainfeeder〉からアルバムを出すことが決まったとき、ザ・ウェスト・コースト・ゲット・ダウンのメンバーと一緒に1か月とじこもってレコーディングすることにした。毎日レコーディングしたから、45曲も出来上がったよ。で、このレコーディングと同時に、アルバムの方向性を決定づける夢を見たんだ。

——夢というのは、リリース・コンサートであなたが語っていたアルバムのコンセプトとなった物語?

そうなんだ。その45曲をフライング・ロータスに聴かせたら「そこからアルバムに使う曲を決めたら教えて」と言われて。それで17曲選んで、アルバムに仕上げるつもりだったけど、ストリングスとコーラスを追加したくなった。で、まずは “Change of the Guard”という曲の、ストリングス・パートを作曲したんだよ。何度も何度も曲を聴き返しながらね。

すると、そのあとに夢を見たんだ。門を守るゲートキーパー(門番)の夢だ。山の頂上に門にあって、門番がそれを守ってるんだ。門番には家族もいなくて、ひたすら門を見張っている。その山の麓には村があって、村人の中には門番を倒すために修行をしている連中がいるんだ。何人かの若い修行者が門番と戦うためにやってきて、彼(門番)は一人の村人に倒されるんだけど、彼はそれが夢だったということに気づくんだ。

すごく不思議な夢だったけど、また次の日も同じ夢を見た。その記憶が明確に残ってたから、ストーリーを事細かに書き留めたんだ。そこからさらに、他の曲にまつわる夢も見るようになった。こうして壮大なストーリーが生まれたんだよ。結局、俺はストーリーを書き留めることに夢中になって、ストリングスのアレンジメントが二の次になっちゃったんだ(笑)。

ストリングスのレコーディングとアルバムのミックスが終わった頃には、長編の壮大なストーリーができあがっていた。そこで、これはひとつの作品にすべきだと思ったんだ。フライング・ロータスにまたアルバムを聴かせたときに、俺は彼に、このアルバムは3枚組にして、ストーリーを伝えたいと説明したんだ。彼は笑ってたけど、17曲を聴いたときに、それを短くできないと納得してくれた。そのままの形でリリースしようということになったんだ。

——リリース・コンサートでは、何十人ものプレイヤーが一緒にステージに立っていましたが、このコンセプトは?

アルバム・レコーディングの状況をコンサートで再現したかったんだ。ステージに立ったミュージシャンのほとんどはアルバムに参加した人だった。35人をコントロールするのは難しかったけど、素晴らしいライブで感慨深かったし、とてもパワフルだった。バンドではいつも即興で新しいものを作り出しているけど、ストリングスとコーラスでそれをやったのは初めてだった。ミゲルが、マーカーボードに即興で譜面を書いて演奏させたり、ストリングス奏者が即興で演奏することもあった。または、他の曲の譜面をストリングスに演奏させることもあった。とてもクリエイティブなコンサートだったよ。

——リリース・コンサートにはダディ・ケヴやガスランプ・キラーも出演してましたが、ロサンゼルスのビート・ミュージックからも影響を受けている?

ビート・ミュージックは今のロサンゼルスの音楽シーンで最もインスパイアされる音楽のひとつだね。特にガスランプ・キラーは好きだよ。この間、Low End Theory(注3)に行ったときに、ガスランプのDJセットがすごく良かったよ。あらゆるジャンルをミックスしてるところが好きなんだ。彼は世界中からいろいろなレコードを掘り起こしてるからね。彼をライブでフィーチャーしたのは、そのストーリーを伝えたかったから。例のゲートキーパー(門番)のストーリーを表現しようとしてたんだ。ラス・Gが最初にライブに出演したけど、彼がゲートキーパーを象徴してたし、出演者はそれぞれ、ストーリーの登場人物を象徴してたんだ。

注3:2006年、ロサンゼルスで始まったパーティー。西海岸のビートシーンを牽引する重要イベントとして機能していた。

——あなたのバンド “ザ・ネクスト・ステップ”について教えてください。

昔から一緒に演奏してた仲間の10人がザ・ネクスト・ステップとして演奏してるけど、実際は15人から20人のミュージシャンが昔から一緒に演奏しながら育った。その仲間と、あるクラブでライブをやったときにザ・ネクスト・ステップが誕生した。一緒に育ったミュージシャンが作る音楽が素晴らしいと信じているし、俺たちが作った音楽を無駄にしちゃいけないと思うんだ。俺の父やその仲間を見ていて、素晴らしい音楽を作ったのに、世の中に発表されないものがほとんどだったから、それを繰り返したくなかった。

俺は仲間のミュージシャンに「自分たちの音楽を発表して次のレベルに進まないといけない」といつも言ってるんだ。サンダーキャットのアルバムがリリースされて注目されたときに、俺はそうなると予測してた。彼がデビューして話題になったとき、俺は20年前から彼がそういう演奏をしているのを見ていたから、不思議だったよ。ザ・ネクスト・ステップには、“俺たちの才能をもっと高いレベルで世界と分かち合いたい”というメッセージが込められてるんだ。

——ロサンゼルスのジャズ・シーンの特徴を教えてください。そして現在の状況はどうですか?

素晴らしいシーンだと思うよ。ロサンゼルスの音楽シーン全体と溶け込んでるからいいと思うんだ。ロサンゼルスのアフリカ系アメリカ人のジャズ・シーンは、基本的にラマート・パーク(西海岸のハーレムと呼ばれる地区)だけで起きていたんだけど、いまはロサンゼルス中で演奏してるよ。俺たちはLow End Theoryでも演奏したことがあるし、ロック・クラブとか、いろいろな場所で演奏してきた。ロサンゼルスは音楽のるつぼだから、いろいろなタイプの人が聴いてくれるんだ。大きな街だから、それぞれのシーンが隔絶してるように思えるときもあるけど、繋がっていることがわかるんだ。

俺たちより上の世代のジャズ・ミュージシャンとの繋がりもある。ロサンゼルスのジャズ・シーンはお互いにサポートし合ってるんだ。先輩のジャズ・ミュージシャンは、アドバイスしてくれたり、俺たちの成功を喜んでくれるし、同じ過ちを犯さないように指導もしてくれる。俺たちも先輩たちのことを忘れてないし、尊敬してる。俺たちは数々の偉大なミュージシャンを見て育ってきたけど、彼らの多くは脚光を浴びなかった。成功するだけの才能をもっていたのに、世間一般からは評価されなかっただけなんだ。

——ロサンゼルスの先輩ミュージシャンで誰に影響されましたか?

ホレス・タプスコット、ジェラルド・ウィルソン、アーサー・ブライスなどには影響されたよ。彼らは有名だったけど、その功績を考えれば、もっと有名になってもよかったと思う。ホレス・タプスコットと演奏できる前に彼は亡くなったけど、子供の頃に彼の演奏をよく見た。彼が亡くなってからも、彼が作り上げたパン・アフリカン・ピープルズ・アーケストラは続いたんだ。俺もそのメンバーとして演奏したことがあるよ。

——ケンドリック・ラマーの『To Pimp A Butterfly』への参加の経緯は?

テラス・マーティンに俺のアルバムを聴かせたら「ケンドリック・ラマーのアルバムに参加させたい」と言ったんだよ。もともと、俺はケンドリックのアルバムの最後の曲 “Mortal Man” で演奏することになってたんだけどね。あの曲で、ケンドリックは2パックをインタビューしてるんだ。あのトラックを聴かせてもらったとき、2パックの声も入っていて衝撃を受けたよ。彼らから、曲の意味を教えてもらったんだけど、そのときにアルバム全体を3、4回聴かせてもらったんだ。

そうやって曲を聴かせてもらってるうちに「他にも演奏してほしい曲がある」って話になって、3、4曲に参加することになったんだ。テラス・マーティンはケンドリックのアルバムにプロデューサーとして参加してるけど、素晴らしいサックス奏者でもある。テラスもマルチスクール・ジャズ・バンドのメンバーだったし、ザ・ウェスト・コースト・ゲット・ダウンのメンバーでもあるんだ。俺は彼と育ったんだ。テラスの新作アルバム『Velvet Portraits』(※2015年末にリリース予定)にも俺は参加しているよ。

 

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