投稿日 : 2019.06.13 更新日 : 2021.09.03
【証言で綴る日本のジャズ】外山喜雄・恵子|古書店で出会った「サッチモ自叙伝」に導かれ…
取材・文/小川隆夫
連載「証言で綴る日本のジャズ」 はじめに
ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのは、外山喜雄(トランペット/ボーカル)外山恵子(バンジョー/ピアノ)夫妻。
トランペット奏者、歌手。1944年3月5日、東京都港区芝生まれ。中学二年でトランペットを吹き始め、早稲田大学時代はニューオルリンズジャズクラブで活躍。卒業後は損害保険会社に就職し、66年に結婚。
外山恵子/とやま けいこ
バンジョー、ピアノ奏者。4月15日生まれ。早稲田大学のニューオルリンズジャズクラブで外山喜雄と出会う。67年、夫婦で移民船に乗りニューオーリンズに渡る。老舗ジャズ・スポット「プリザェーション・ホール」の裏に住み、国際色豊かなメンバーとバンドを結成。69年に一時帰国し、この間は外山喜雄とニューオーリンズ・セインツで活動。71年に再びニューオーリンズに移り、73年まで滞在。途中、イギリス人のバンド・リーダーに誘われ、ヨーロッパ各国とアメリカ国内をツアー。75年に外山喜雄とデキシー・セインツ結成。83年の東京ディズニーランド開業から2006年まで人気バンドとして演奏。94年にルイ・アームストロング・ファウンデーション日本支部(98年から日本ルイ・アームストロング協会)を設立。「銃に代えて楽器を」をスローガンに、ニューオーリンズ市の子供たちに楽器をプレゼントする運動に取り組み、05年に外務大臣表彰を受ける。こうした楽器の活動と、半世紀を超えるデキシーランド・ジャズの演奏と普及活動により、12年「国家戦略大臣感謝状」、18年「文部科学大臣表彰」、17年「ジャズ大賞」、18年アメリカで「スピリット・オブ・サッチモ賞生涯功労賞」を受け、19年夫婦連名で「ミュージック・ペンクラブ音楽賞」を受賞した
洋楽に目覚めた中学時代
——まずは喜雄さんから、奥様との出会いまでをお聞かせください。その前に、生年月日と生まれた場所を。
喜雄:昭和19年、1944年の3月5日、父の家は芝の魚藍坂下で、お米屋さんをやっていたんです。親父は米屋が性に合わず、製粉会社(日清製粉)に入るんです。会社の移動であっちに行ったりこっちに行ったりですね。四歳くらいのときに宇都宮に転勤して、小学校五年まで宇都宮でした。
だから芝で生まれて、すぐ大田区の雪ヶ谷に引っ越して。3、4年して、小学校五年まで宇都宮にいて。そのとき宇都宮で行った幼稚園がキリスト系の愛隣幼稚園。バプティストの教会で、歌をよくうたわされるんです。アメリカのミュージシャン、サッチモなども、そういう体験をしていて、おかげでぼくも、歌をうたうことがとても自然になりました。だから、よく小学校や中学校で独唱させられたりしてました。
——それで音楽に親しみを持った。
喜雄:うちにSPレコードがあって。小学校前は、ジャズはまったくなくて、軍歌がいっぱいあったんです。小学校時代は、なぜかベートーヴェンの〈運命〉とシューベルトの〈未完成(交響曲第8番))がありました。大判のSPレコードです。音楽はよく知らないけど、なぜかお袋が小さな本になったスコアを買ってきて、家族で譜面を追いかける(笑)。そういうことがありました。
——お父様は?
喜雄:親父はそうでもなかったけど、お袋がけっこう好きだったですね。そうこうしているうちに九州へ転勤になる。
——これが小学校五年生。
喜雄:それから中学三年までいました。
——九州はどちらに?
喜雄:久留米のちょっと南の羽犬塚(はいぬづか)に製粉工場があったんです。それで九州に行ったころに、〈テネシー・ワルツ〉のようなレコードがだんだん増えてきて。あのころはテレビもないし、ラジオも『NHK紅白歌合戦』(注1)を会社の寮でみんなで聴くぐらいで。
(注1)NHKが51年から放送(52年まではラジオのみ)している男女対抗形式の音楽番組。テレビ放送開始以降、大晦日の夜に公開生放送されている。
だから映画が文化の窓になっていて。ぼくよりちょっと前の世代だとミュージカルの『雨に唄えば』(注2)とかで、ぼくのときはドリス・デイ(vo)の『ティーチャーズ・ペット』(注3)、『カラミティ・ジェーン』(注4)、『知りすぎていた男』(注5)とか。あそこら辺のドリス・デイの歌にすごくシビれました。
(注2)52年製作のアメリカのミュージカル映画。監督=ジーン・ケリー、スタンリー・ドーネン、音楽=レニー・レイトン、出演=ジーン・ケリー、デビー・レイノルズ。
(注3)邦題『先生のお気に入り』で知られる58年製作のロマンチック・コメディ。クラーク・ゲーブルとドリス・デイの共演で、ドリス・デイが歌った同名主題歌は日本でもヒットした。監督はジョージ・シートン。
(注4)53年製作のアメリカ映画。監督=デイヴィッド・バトラー、出演=ドリス・デイ、ハワード・キール。
(注5)56年に公開されたアメリカのサスペンス映画。監督=アルフレッド・ヒッチコック、出演=ジェームズ・ステュアート、ドリス・デイ。劇中でドリス・デイが歌った〈ケ・セラ・セラ〉が「アカデミー歌曲賞」を受賞。
——〈ケ・セラ・セラ〉ですよね。
喜雄:自分でも歌ってました。曲名がわからないからレコード屋さんで「こういう歌です」って歌ったら、「ああ、これです」って出てきた。ドーナツ盤(45回転のシングル盤)だったと思うんですけど、うちはSPのプレイヤーしかなくて。ドーナツ盤は真ん中に大きな穴があるんで、どうやって乗っけるんだろう? 針を乗っけたらグラグラに動いてダメにしちゃった、とかね。そんな時代です。
——記憶に残っている中で最初に聴いた洋楽は覚えていますか?
喜雄:〈テネシー・ワルツ〉かなあ?
——だんだん洋楽が好きになっていく。
喜雄:映画の影響と合わせて、ですね。
中学二年でトランペットを手に
喜雄:九州にいると、東京から東大を出たひととかが新入社員で来るわけです。そのひとたちがいちばん新しい文化を持ってくる。遊びに行くと、万年床の周りにレコードが転がっていて、それがたまたまルイ・アームストロング(vo, tp)の『サッチモ大使の旅』(コロムビア)。あとは、ベルト・ケンプフェルト楽団のムード音楽〈真夜中のブルース〉とか、メキシコのトランペッターのラファエル・メンデスのレコード。そういうのに興味を持って。
——ルイ・アームストロングを聴き始めたのがそのころ。
喜雄:そのころはまだ難しくてピンとこなかった。
——それが中学の……。
喜雄:一、二年だったと思います。ルイはよくわからなかったけれど、ジャケットがユニークで(燕尾服姿でボストン・バッグを持っている肖像写真)、それをすごく覚えています。
——まだ楽器はやられていない。
喜雄:楽器は、中学二年のときに始めるんです。久留米までバスで通っていて、帰りにバスを降りると町役場があって、そこにブラスバンドがあったんです。10人か12人か。窓からそれを見ていてやりたくなったのと、映画でラッパ手が吹いているのを観て、「トランペットってカッコいいな」と。それで買ってきて、見よう見まねです。
——最初からトランペットだったんですね。
喜雄:当時は3千円だったかな? 教則本も買って、どうやって覚えたかわからないけど、吹けるようになりました。
——そのときはどんな曲をやっていたんですか?
喜雄:〈セレソ・ローサ〉みたいなムード・ミュージックですかね。
——その時代、巷ではエルヴィス・プレスリー(注6)なんかのロックが流行っていたじゃないですか。興味はなかったですか?
喜雄:中学のときは、ロックがちょっと不良っぽくて抵抗感があったから、あまり好きじゃなかったです。それで、三年のときに宇都宮に転勤になるんです。そのときに、早稲田の学院(早稲田大学高等学院)を受けたら受かって。宇都宮は友だちも多かったから、そっちの学校に行きたかったんですけど、親父に「ダメだ」といわれて東京に。家族は宇都宮で、ぼくは雪ヶ谷のそばにあったおばあちゃんのうちに住んで。
(注6)エルヴィス・プレスリー(ロック・シンガー、俳優 1935 ~77年)「キング・オブ・ロックンロール」と呼ばれ、ロックの原型を作ったアメリカのシンガー。全世界の総レコード・カセット・CD等の売り上げは6億枚以上。56年に〈ハートブレイク・ホテル〉〈アイ・ウォント・ユー、アイ・ニード・ユー、アイ・ラヴ・ユー 〉〈冷たくしないで〉〈ハウンド・ドッグ〉〈ラヴ・ミー・テンダー〉で連続全米1位を記録し、以後もヒット曲を多数残す。
高校にブラスバンド部があったんですよ。そのころ『ベニイ・グッドマン物語』(注7)や『グレン・ミラー物語』(注8)がヒットしていて、いまみたいに上手じゃないけど、ブラスバンドでジャズもやっていたんです。リード・トランペットの一年先輩、奥山康夫さんが非常に上手で、いろいろ教わりました。このひとはのちにオリエンタルランドの専務になられて、日本にディズニーランドを誘致した立役者です。
(注7)56年公開の米ユニバーサル映画。監督=ヴァレンタイン・デイヴィース、出演=スティーヴ・アレン、ドナ・リード。
(注8)グレン・ミラー(tb)の半生を、アンソニー・マンが監督、ジェームズ・ステュアートとジューン・アリソンが主演で描いた54年公開のアメリカ映画。
奥山さんはモダン・ジャズも好きで、油井正一(ジャズ評論家)(注9)さんの『ジャズの歴史』(東京創元新社刊)を教えてくれて。あと、渋谷の「スウィング」や恵比寿の「ブルー・スカイ」といったジャズ喫茶にも連れていってくれました。上手いことに両親は宇都宮で、うちにはおばあちゃんしかいない。ブラスバンドの練習が終わったら渋谷の「スウィング」に寄って、10時までいて。それで帰っても、おばあちゃんは文句をいわない(笑)。そんな生活で、渋谷の「スウィング」に入り浸っちゃった。そこでぜんぶ覚えたんです。
(注9)油井正一(ジャズ評論家 1918~98年)【『第1集』の証言者】大学在学中から執筆を始め、日本を代表するジャズ評論家のひとりに。東京藝術大学、桐朋学園大学、東海大学などでジャズに関する講義も担当。96年には勲四等瑞宝章を受ける。
——それが外山さんの高校時代。
喜雄:高校時代はジャズ・メッセンジャーズが大ヒットですよね。八百屋さんの店先でも〈モーニン〉がかかっていたぐらいだから(笑)。ブラスバンド仲間はアート・ファーマー(tp)とかソニー・ロリンズ(ts)とかをやってました。ジャズはやらなかったけど、KADOKAWAの角川歴彦(つぐひこ)(注10)氏もフルートでいました。政治評論家の高野孟(はじめ)氏(注11)も同期でテナー・サックスを吹いていたんです。〈モリタート〉をやったりね。ぼくはなぜか古いほうへ古いほうへといって。
(注10)角川歴彦(株式会社KADOKAWA取締役会長他 1943年~)角川書店創業者の角川源義の子。のちに角川書店社長になる角川春樹は兄で、歌人の辺見じゅんは姉。大学卒業後、角川書店入社。71年にNHKで放送されていた『日本史探訪』の書籍化で大成功を収める。92年に副社長を辞任したが、93年に復帰し、社長に。
(注11)高野孟(ジャーナリスト 1944年~)大学卒業後「ジャパンプレスサービス」(JPS)に入社。退社後、広告・PR会社「麹町企画」勤務を経て、75年からフリーランスでジャーナリスト活動を開始。ニューズレター「インサイダー」創刊に参加。
——じゃあ、〈モーニン〉のリー・モーガン(tp)のソロはコピーしなかった。
喜雄:ちょっと難しかったですね。「ブルー・スカイ」で聴いたクリフォード・ブラウン(tp)の〈煙が目にしみる〉、ああいうのは覚えています。これも難しい感じがしました。
——あまりモダン・ジャズに興味はなかった。
喜雄:しばらく「ブルー・スカイ」にも通ったから、興味がなくはなかった。
——でも、そっちを熱心にやろうとは思わなかった。
喜雄:そうですね。
高校でニューオーリンズ・ジャズにのめり込む
——どうしてニューオーリンズ・ジャズが好きになったんですか?
喜雄:最初は油井さんの『ジャズの歴史』です。テディ・ウィルソン(p)とベニー・グッドマン(cl)とビリー・ホリデイ(vo)がレコーディングの前にご馳走を食べたとか、廓(くるわ)の話とか。ああいうのがすごく面白くて。
あと、高校のときに『五つの銅貨』(注12)が封切られました。あれを観てかなり影響を受けたんで。それから『グレン・ミラー物語』。あれにもルイ・アームストロングがジャズの王様として出てくる。『五つの銅貨』もそうですし。そういうので、「ルイってすごい」と思ったんです。
(注12)実在のコルネット奏者レッド・ニコルズの半生を描いた59年公開のアメリカ映画。監督=メルヴィル・シェイヴルソン、出演=ダニー・ケイ、バーバラ・ベル・ゲデス、ルイ・アームストロング。
それと高校のときに、ちょっと運命的ですけど、神田にある音楽専門の古本屋さん、「古賀書店」に行きまして。サッチモ(ルイ・アームストロングのニックネーム)の『Satchmo My Life In New Orleans』(Amer Reprint Service Inc刊)という、生まれてから22年にシカゴに行くまでを書いた自叙伝があるんです。やさしい口語で書かれた本で、それを見つけて買ったんです。ルイに興味があったから辞書を引いて読んで。それにとても影響を受けて、「ジャズってすごいよな」「どういう街で生まれたんだろう?」と。
いまみたいに海外の情報がない時代だから、なおさら憧れが大きくなって。それと『Hear Me Talkin’ to Ya』(Nat Shapiro & Nat Hentoff著)というミュージシャンの話を集めた本。あれも買ったんで、モダン・ジャズのほうはあまり読まず(笑)、もっぱらバディ・ボールデン(cor)とか、ああいうほうを読んで、「すごいなあ」と思っていました。それで、「一度行ってみたい」となったんですね。
——高校のころからそういう気持ちになって。その時点では、ルイ・アームストロングがいちばん好きだった?
喜雄:なんでも好きだったですね。ジョージ・ルイス(cl)も好きだったし。だけど、「やっぱりルイって特別だよなあ」って。当時はヒットしたものじゃなくて、ホット・ファイヴとかホット・セヴンとか、古いものが好きで。大学のときですけど、グループでそういう演奏をコピーして、大学対抗バンド合戦で1回優勝したことがあるんです。
——大学は早稲田。それはニューオルリンズジャズクラブがあったから?
喜雄:そうですけど、それもいい加減で。ぼくは俳優のジェームズ・スチュアート(注13)が好きで、中学のときに『裏窓』(注14)を観たんです。次に『翼よ! あれが巴里の灯だ』(注15)が来た。そうしたらもうパイロットになりたくて(笑)、ずっと、宮崎の航空学校に行きたいと思って。でも、高校に行ったら『グレン・ミラー物語』で、ジミー・スチュアートがジャズマンで、今度はすっかりそっちになって……。でも、早稲田大学に入ったときは、ジャズのクラブにするか、航空部にするかでまだ迷ってたんです。
(注13)ジェームズ・スチュアート(俳優 1908 ~97年)『舗道の殺人』(35年)で映画デビュー。40年の 『フィラデルフィア物語』 で「アカデミー主演男優賞」獲得。48年にはアルフレッド・ヒッチコック監督の『ロープ』 に主演。代表作は、『グレン・ミラー物語』(53年)、『知りすぎていた男』(56年)、『翼よ! あれが巴里の灯だ』(57年)、『めまい』(58年)など。
(注14)54年公開のアメリカ映画。ニューヨークのアパートを舞台にしたサスペンスで、ウィリアム・アイリッシュによる同名の小説が原作。監督=アルフレッド・ヒッチコック、出演=ジェームズ・ステュアート、グレース・ケリー。
(注15)57年に公開されたチャールズ・リンドバーグの伝記映画。監督=ビリー・ワイルダー、主演=ジェームズ・ステュアート。
——早稲田には航空部もあるんですか。
喜雄:グライダーですけどね。
——いちばん影響を受けたトランペッターはルイ・アームストロング?
喜雄:ルイと、あとはビリー・ホリデイをよく聴いていたんで、ロイ・エルドリッジ(tp)。ジョージ・ルイスのバンドにいたパンチ・ミラー(tp)とか。「バンク・ジョンソン(cor)がルイの先生だ」といわれて、彼にもすっかりはまって。のちに「世界でいちばんバンクに似ている」なんていわれるようになりました。
ポピュラー・ヒットを聴いていた少女時代
——今度は恵子さんのお話を聞かせてください。外山さんとは同級生?
恵子:いいえ、一年上(笑)。
喜雄:こういうインタヴューは初めてだね(笑)。
——生まれた日にちだけお聞かせください。
恵子:4月15日です。父の仕事の関係で、生まれはソウル。父も祖父も商社マンで、向こうで仕事をしていたんです。でも、里は仙台で。
——すぐに戻ってきたんですか?
恵子:終戦と同時に。それですぐ東京に移ったんです。
——東京はどちらに?
恵子:西荻(西荻窪)です。父の転勤で西宮にも行きました。
——音楽との出会いは?
恵子:音楽は好きでしたけど、譜面を見たり歌ったりとかの成績は悪いんです。
——どんな音楽が好きでした?
恵子:あのころはヒット・パレードとか、アメリカの音楽。そういうのを聴いたり、自分でピアノがやりたくて、習わせてもらったり。
——ヒット・パレードが好きだったということは、ポピュラー・ミュージックですね。
恵子:ラジオで聴いていました。ジャズとはぜんぜん出会いがなかったけれど、「ジャズって自由な音楽だ」とは、漠然と思っていました。
——いくつぐらいのころですか?
恵子:中学のころです。でも周りにそういうひとがいなかったから、自分から聴くことはなかったです。せいぜいポール・アンカ(注16)とかニール・セダカ(注17)とか、そっちを聴いていました。
ジャズでは、ヒット・パレードの番組でジョージ・ルイスの曲がリクエストでかかったことは覚えています。聴いたら、みんながガチャガチャ演奏しているんで、なんだかよくわからなかった(笑)。「これがジャズなのかしら?」。それが最初の出会いです。
(注16)ポール・アンカ(ポピュラー・シンガー 1941年~)カナダ出身のシンガー・ソングライターで、〈ダイアナ〉(57年)、〈マイ・ホーム・タウン〉(60年)、〈電話でキッス〉(61年)などのヒットで人気者に。68年フランク・シナトラに〈マイ・ウェイ〉、71年トム・ジョーンズに〈シーズ・ア・レイディ〉を提供。現在も高い人気を誇っている。
(注17)ニール・セダカ(ポピュラー・シンガー 1939年~)59年に〈恋の日記〉が全米1位となり、〈おお! キャロル〉(同年)、〈カレンダー・ガール〉(60年)、〈恋の片道切符〉(同年)などがヒットし、人気シンガー・ソングライターの仲間入りを果たす。
——ピアノはクラシックを習って。
恵子:中学から高校の途中まで習って、大学に行ってからも近所でちょっと習っています。
——演奏することは嫌いじゃなかった。
恵子:そうですね。
——大学は早稲田ですけど、早稲田を選んだ理由は?
恵子:ニューオリ(ニューオルリンズジャズクラブ)があるからじゃなくて、このひとがいるからでもなくて(笑)。慶應(慶應義塾大学)と両方受かったんですけど、早稲田のほうがピンときたんです。
——早稲田の学部は?
恵子:文学部の美術。
喜雄:ぼくは政治経済。
——美術ということは、そちらに興味があった。
恵子:父が厳しかったので、「英語で推薦がもらえるから」と一生懸命に受験勉強をして、慶應も受かったけれど。「これからは好きなことをやるんだ」って、滑り止めに受けた美術に決めて。
喜雄:慶應は英文科でしょう。
恵子:文学部。
——早稲田は?
恵子:教育学部の英文科を受けたんです。それが本命。慶應の文学部はちょっとイタズラで、ついでに早稲田の美術も受けたんです(笑)。
——それで美術に入って。
喜雄:実は藝大(東京藝術大学)に行きたかったんですって。親に「売れない絵描きと一緒になるからダメだ」。そうしたら売れないジャズマンと一緒になっちゃった(笑)。
恵子:もっと悪かったんじゃない(笑)?
——結果オーライじゃないですか?
恵子:ほんとうにですよね。
——それでは、絵も勉強されていた?
恵子:絵とか彫刻は好きです。
——ニューオリにはどういう経緯で?
恵子:稲門会っていうんですか? となりに座ったひとに、「わたし、ジャズが好きなんだけど」ってひとこといったら、「じゃあ、うちのクラブにおいでよ」「どういうクラブ?」「ニューオーリンズ・ジャズのクラブ」といわれて。ニューオーリンズ・ジャズといわれてもよくわからなかったけど、「じゃあ、行ってみるね」。
喜雄:よく「ジャズが好きだ」といったね。
恵子:なんかいっちゃったのね(笑)。動物的直感で動くことがあるんです。この方は最初からぜんぶ筋が通っていますけど、わたしは通っていない(笑)。行きあたりばったりなんです。それで入って、「これがジャズなのか」。といっても、ぜんぜんわからなくて。オタクっぽいひとがたくさんいて、「こんなの聴くのはダメだ」とか、「これ聴かなきゃダメだ」とか(笑)。
喜雄:そのころ、部員が50人いて、女性は3人だけ。そのうちふたり辞めたから、ひとりになっちゃった。