連載「証言で綴る日本のジャズ」 はじめに
ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのは、外山喜雄(トランペット/ボーカル)外山恵子(バンジョー/ピアノ)夫妻。
トランペット奏者、歌手。1944年3月5日、東京都港区芝生まれ。中学二年でトランペットを吹き始め、早稲田大学時代はニューオルリンズジャズクラブで活躍。卒業後は損害保険会社に就職し、66年に結婚。
外山恵子/とやま けいこ
バンジョー、ピアノ奏者。4月15日生まれ。早稲田大学のニューオルリンズジャズクラブで外山喜雄と出会う。
洋楽に目覚めた中学時代
——まずは喜雄さんから、奥様との出会いまでをお聞かせください。その前に、生年月日と生まれた場所を。
喜雄:昭和19年、1944年の3月5日、父の家は芝の魚藍坂下で、お米屋さんをやっていたんです。親父は米屋が性に合わず、製粉会社(日清製粉)に入るんです。会社の移動であっちに行ったりこっちに行ったりですね。四歳くらいのときに宇都宮に転勤して、小学校五年まで宇都宮でした。
だから芝で生まれて、すぐ大田区の雪ヶ谷に引っ越して。3、4年して、小学校五年まで宇都宮にいて。そのとき宇都宮で行った幼稚園がキリスト系の愛隣幼稚園。バプティストの教会で、歌をよくうたわされるんです。アメリカのミュージシャン、サッチモなども、そういう体験をしていて、おかげでぼくも、歌をうたうことがとても自然になりました。だから、よく小学校や中学校で独唱させられたりしてました。
——それで音楽に親しみを持った。
喜雄:うちにSPレコードがあって。小学校前は、ジャズはまったくなくて、軍歌がいっぱいあったんです。小学校時代は、なぜかベートーヴェンの〈運命〉とシューベルトの〈未完成(交響曲第8番))がありました。大判のSPレコードです。音楽はよく知らないけど、なぜかお袋が小さな本になったスコアを買ってきて、家族で譜面を追いかける(笑)。そういうことがありました。
——お父様は?
喜雄:親父はそうでもなかったけど、お袋がけっこう好きだったですね。そうこうしているうちに九州へ転勤になる。
——これが小学校五年生。
喜雄:それから中学三年までいました。
——九州はどちらに?
喜雄:久留米のちょっと南の羽犬塚(はいぬづか)に製粉工場があったんです。それで九州に行ったころに、〈テネシー・ワルツ〉のようなレコードがだんだん増えてきて。あのころはテレビもないし、ラジオも『NHK紅白歌合戦』(注1)を会社の寮でみんなで聴くぐらいで。
(注1)NHKが51年から放送(52年まではラジオのみ)している男女対抗形式の音楽番組。テレビ放送開始以降、大晦日の夜に公開生放送されている。
だから映画が文化の窓になっていて。ぼくよりちょっと前の世代だとミュージカルの『雨に唄えば』(注2)とかで、ぼくのときはドリス・デイ(vo)の『ティーチャーズ・ペット』(注3)、『カラミティ・ジェーン』(注4)、『知りすぎていた男』(注5)とか。あそこら辺のドリス・デイの歌にすごくシビれました。
(注2)52年製作のアメリカのミュージカル映画。監督=ジーン・ケリー、スタンリー・ドーネン、音楽=レニー・レイトン、出演=ジーン・ケリー、デビー・レイノルズ。
(注3)邦題『先生のお気に入り』で知られる58年製作のロマンチック・コメディ。クラーク・ゲーブルとドリス・デイの共演で、ドリス・デイが歌った同名主題歌は日本でもヒットした。監督はジョージ・シートン。
(注4)53年製作のアメリカ映画。監督=デイヴィッド・バトラー、出演=ドリス・デイ、ハワード・キール。
(注5)56年に公開されたアメリカのサスペンス映画。監督=アルフレッド・ヒッチコック、出演=ジェームズ・ステュアート、ドリス・デイ。劇中でドリス・デイが歌った〈ケ・セラ・セラ〉が「アカデミー歌曲賞」を受賞。
——〈ケ・セラ・セラ〉ですよね。
喜雄:自分でも歌ってました。曲名がわからないからレコード屋さんで「こういう歌です」って歌ったら、「ああ、これです」って出てきた。ドーナツ盤(45回転のシングル盤)だったと思うんですけど、うちはSPのプレイヤーしかなくて。ドーナツ盤は真ん中に大きな穴があるんで、どうやって乗っけるんだろう? 針を乗っけたらグラグラに動いてダメにしちゃった、とかね。そんな時代です。
——記憶に残っている中で最初に聴いた洋楽は覚えていますか?
喜雄:〈テネシー・ワルツ〉かなあ?
——だんだん洋楽が好きになっていく。
喜雄:映画の影響と合わせて、ですね。
中学二年でトランペットを手に
喜雄:九州にいると、東京から東大を出たひととかが新入社員で来るわけです。そのひとたちがいちばん新しい文化を持ってくる。遊びに行くと、万年床の周りにレコードが転がっていて、それがたまたまルイ・アームストロング(vo, tp)の『サッチモ大使の旅』(コロムビア)。あとは、ベルト・ケンプフェルト楽団のムード音楽〈真夜中のブルース〉とか、メキシコのトランペッターのラファエル・メンデスのレコード。そういうのに興味を持って。
——ルイ・アームストロングを聴き始めたのがそのころ。
喜雄:そのころはまだ難しくてピンとこなかった。
——それが中学の……。
喜雄:一、二年だったと思います。ルイはよくわからなかったけれど、ジャケットがユニークで(燕尾服姿でボストン・バッグを持っている肖像写真)、それをすごく覚えています。
——まだ楽器はやられていない。
喜雄:楽器は、中学二年のときに始めるんです。久留米までバスで通っていて、帰りにバスを降りると町役場があって、そこにブラスバンドがあったんです。10人か12人か。窓からそれを見ていてやりたくなったのと、映画でラッパ手が吹いているのを観て、「トランペットってカッコいいな」と。それで買ってきて、見よう見まねです。
——最初からトランペットだったんですね。
喜雄:当時は3千円だったかな? 教則本も買って、どうやって覚えたかわからないけど、吹けるようになりました。
——そのときはどんな曲をやっていたんですか?
喜雄:〈セレソ・ローサ〉みたいなムード・ミュージックですかね。
——その時代、巷ではエルヴィス・プレスリー(注6)なんかのロックが流行っていたじゃないですか。興味はなかったですか?
喜雄:中学のときは、ロックがちょっと不良っぽくて抵抗感があったから、あまり好きじゃなかったです。それで、三年のときに宇都宮に転勤になるんです。そのときに、早稲田の学院(早稲田大学高等学院)を受けたら受かって。宇都宮は友だちも多かったから、そっちの学校に行きたかったんですけど、親父に「ダメだ」といわれて東京に。家族は宇都宮で、ぼくは雪ヶ谷のそばにあったおばあちゃんのうちに住んで。
(注6)エルヴィス・プレスリー(ロック・シンガー、俳優 1935 ~77年)「キング・オブ・ロックンロール」と呼ばれ、ロックの原型を作ったアメリカのシンガー。全世界の総レコード・カセット・CD等の売り上げは6億枚以上。56年に〈ハートブレイク・ホテル〉〈アイ・ウォント・ユー、アイ・ニード・ユー、アイ・ラヴ・ユー 〉〈冷たくしないで〉〈ハウンド・ドッグ〉〈ラヴ・ミー・テンダー〉で連続全米1位を記録し、以後もヒット曲を多数残す。
高校にブラスバンド部があったんですよ。そのころ『ベニイ・グッドマン物語』(注7)や『グレン・ミラー物語』(注8)がヒットしていて、いまみたいに上手じゃないけど、ブラスバンドでジャズもやっていたんです。リード・トランペットの一年先輩、奥山康夫さんが非常に上手で、いろいろ教わりました。このひとはのちにオリエンタルランドの専務になられて、日本にディズニーランドを誘致した立役者です。
(注7)56年公開の米ユニバーサル映画。監督=ヴァレンタイン・デイヴィース、出演=スティーヴ・アレン、ドナ・リード。
(注8)グレン・ミラー(tb)の半生を、アンソニー・マンが監督、ジェームズ・ステュアートとジューン・アリソンが主演で描いた54年公開のアメリカ映画。
奥山さんはモダン・ジャズも好きで、油井正一(ジャズ評論家)(注9)さんの『ジャズの歴史』(東京創元新社刊)を教えてくれて。あと、渋谷の「スウィング」や恵比寿の「ブルー・スカイ」といったジャズ喫茶にも連れていってくれました。上手いことに両親は宇都宮で、うちにはおばあちゃんしかいない。ブラスバンドの練習が終わったら渋谷の「スウィング」に寄って、10時までいて。それで帰っても、おばあちゃんは文句をいわない(笑)。そんな生活で、渋谷の「スウィング」に入り浸っちゃった。そこでぜんぶ覚えたんです。
(注9)油井正一(ジャズ評論家 1918~98年)【『第1集』の証言者】大学在学中から執筆を始め、日本を代表するジャズ評論家のひとりに。東京藝術大学、桐朋学園大学、東海大学などでジャズに関する講義も担当。96年には勲四等瑞宝章を受ける。
——それが外山さんの高校時代。
喜雄:高校時代はジャズ・メッセンジャーズが大ヒットですよね。八百屋さんの店先でも〈モーニン〉がかかっていたぐらいだから(笑)。ブラスバンド仲間はアート・ファーマー(tp)とかソニー・ロリンズ(ts)とかをやってました。ジャズはやらなかったけど、KADOKAWAの角川歴彦(つぐひこ)(注10)氏もフルートでいました。政治評論家の高野孟(はじめ)氏(注11)も同期でテナー・サックスを吹いていたんです。〈モリタート〉をやったりね。ぼくはなぜか古いほうへ古いほうへといって。
(注10)角川歴彦(株式会社KADOKAWA取締役会長他 1943年~)角川書店創業者の角川源義の子。のちに角川書店社長になる角川春樹は兄で、歌人の辺見じゅんは姉。大学卒業後、角川書店入社。71年にNHKで放送されていた『日本史探訪』の書籍化で大成功を収める。92年に副社長を辞任したが、93年に復帰し、社長に。
(注11)高野孟(ジャーナリスト 1944年~)大学卒業後「ジャパンプレスサービス」(JPS)に入社。退社後、広告・PR会社「麹町企画」勤務を経て、75年からフリーランスでジャーナリスト活動を開始。ニューズレター「インサイダー」創刊に参加。
——じゃあ、〈モーニン〉のリー・モーガン(tp)のソロはコピーしなかった。
喜雄:ちょっと難しかったですね。「ブルー・スカイ」で聴いたクリフォード・ブラウン(tp)の〈煙が目にしみる〉、ああいうのは覚えています。これも難しい感じがしました。
——あまりモダン・ジャズに興味はなかった。
喜雄:しばらく「ブルー・スカイ」にも通ったから、興味がなくはなかった。
——でも、そっちを熱心にやろうとは思わなかった。
喜雄:そうですね。
高校でニューオーリンズ・ジャズにのめり込む
——どうしてニューオーリンズ・ジャズが好きになったんですか?
喜雄:最初は油井さんの『ジャズの歴史』です。テディ・ウィルソン(p)とベニー・グッドマン(cl)とビリー・ホリデイ(vo)がレコーディングの前にご馳走を食べたとか、廓(くるわ)の話とか。ああいうのがすごく面白くて。
あと、高校のときに『五つの銅貨』(注12)が封切られました。あれを観てかなり影響を受けたんで。それから『グレン・ミラー物語』。あれにもルイ・アームストロングがジャズの王様として出てくる。『五つの銅貨』もそうですし。そういうので、「ルイってすごい」と思ったんです。
(注12)実在のコルネット奏者レッド・ニコルズの半生を描いた59年公開のアメリカ映画。監督=メルヴィル・シェイヴルソン、出演=ダニー・ケイ、バーバラ・ベル・ゲデス、ルイ・アームストロング。
それと高校のときに、ちょっと運命的ですけど、神田にある音楽専門の古本屋さん、「古賀書店」に行きまして。サッチモ(ルイ・アームストロングのニックネーム)の『Satchmo My Life In New Orleans』(Amer Reprint Service Inc刊)という、生まれてから22年にシカゴに行くまでを書いた自叙伝があるんです。やさしい口語で書かれた本で、それを見つけて買ったんです。ルイに興味があったから辞書を引いて読んで。それにとても影響を受けて、「ジャズってすごいよな」「どういう街で生まれたんだろう?」と。
いまみたいに海外の情報がない時代だから、なおさら憧れが大きくなって。それと『Hear Me Talkin’ to Ya』(Nat Shapiro & Nat Hentoff著)というミュージシャンの話を集めた本。あれも買ったんで、モダン・ジャズのほうはあまり読まず(笑)、もっぱらバディ・ボールデン(cor)とか、ああいうほうを読んで、「すごいなあ」と思っていました。それで、「一度行ってみたい」となったんですね。
——高校のころからそういう気持ちになって。その時点では、ルイ・アームストロングがいちばん好きだった?
喜雄:なんでも好きだったですね。ジョージ・ルイス(cl)も好きだったし。だけど、「やっぱりルイって特別だよなあ」って。当時はヒットしたものじゃなくて、ホット・ファイヴとかホット・セヴンとか、古いものが好きで。大学のときですけど、グループでそういう演奏をコピーして、大学対抗バンド合戦で1回優勝したことがあるんです。
——大学は早稲田。それはニューオルリンズジャズクラブがあったから?
喜雄:そうですけど、それもいい加減で。ぼくは俳優のジェームズ・スチュアート(注13)が好きで、中学のときに『裏窓』(注14)を観たんです。次に『翼よ! あれが巴里の灯だ』(注15)が来た。そうしたらもうパイロットになりたくて(笑)、ずっと、宮崎の航空学校に行きたいと思って。でも、高校に行ったら『グレン・ミラー物語』で、ジミー・スチュアートがジャズマンで、今度はすっかりそっちになって……。でも、早稲田大学に入ったときは、ジャズのクラブにするか、航空部にするかでまだ迷ってたんです。
(注13)ジェームズ・スチュアート(俳優 1908 ~97年)『舗道の殺人』(35年)で映画デビュー。40年の 『フィラデルフィア物語』 で「アカデミー主演男優賞」獲得。48年にはアルフレッド・ヒッチコック監督の『ロープ』 に主演。代表作は、『グレン・ミラー物語』(53年)、『知りすぎていた男』(56年)、『翼よ! あれが巴里の灯だ』(57年)、『めまい』(58年)など。
(注14)54年公開のアメリカ映画。ニューヨークのアパートを舞台にしたサスペンスで、ウィリアム・アイリッシュによる同名の小説が原作。監督=アルフレッド・ヒッチコック、出演=ジェームズ・ステュアート、グレース・ケリー。
(注15)57年に公開されたチャールズ・リンドバーグの伝記映画。監督=ビリー・ワイルダー、主演=ジェームズ・ステュアート。
——早稲田には航空部もあるんですか。
喜雄:グライダーですけどね。
——いちばん影響を受けたトランペッターはルイ・アームストロング?
喜雄:ルイと、あとはビリー・ホリデイをよく聴いていたんで、ロイ・エルドリッジ(tp)。ジョージ・ルイスのバンドにいたパンチ・ミラー(tp)とか。「バンク・ジョンソン(cor)がルイの先生だ」といわれて、彼にもすっかりはまって。のちに「世界でいちばんバンクに似ている」なんていわれるようになりました。
ポピュラー・ヒットを聴いていた少女時代
——今度は恵子さんのお話を聞かせてください。外山さんとは同級生?
恵子:いいえ、一年上(笑)。
喜雄:こういうインタヴューは初めてだね(笑)。
——生まれた日にちだけお聞かせください。
恵子:4月15日です。父の仕事の関係で、生まれはソウル。父も祖父も商社マンで、向こうで仕事をしていたんです。でも、里は仙台で。
——すぐに戻ってきたんですか?
恵子:終戦と同時に。それですぐ東京に移ったんです。
——東京はどちらに?
恵子:西荻(西荻窪)です。父の転勤で西宮にも行きました。
——音楽との出会いは?
恵子:音楽は好きでしたけど、譜面を見たり歌ったりとかの成績は悪いんです。
——どんな音楽が好きでした?
恵子:あのころはヒット・パレードとか、アメリカの音楽。そういうのを聴いたり、自分でピアノがやりたくて、習わせてもらったり。
——ヒット・パレードが好きだったということは、ポピュラー・ミュージックですね。
恵子:ラジオで聴いていました。ジャズとはぜんぜん出会いがなかったけれど、「ジャズって自由な音楽だ」とは、漠然と思っていました。
——いくつぐらいのころですか?
恵子:中学のころです。でも周りにそういうひとがいなかったから、自分から聴くことはなかったです。せいぜいポール・アンカ(注16)とかニール・セダカ(注17)とか、そっちを聴いていました。
ジャズでは、ヒット・パレードの番組でジョージ・ルイスの曲がリクエストでかかったことは覚えています。聴いたら、みんながガチャガチャ演奏しているんで、なんだかよくわからなかった(笑)。「これがジャズなのかしら?」。それが最初の出会いです。
(注16)ポール・アンカ(ポピュラー・シンガー 1941年~)カナダ出身のシンガー・ソングライターで、〈ダイアナ〉(57年)、〈マイ・ホーム・タウン〉(60年)、〈電話でキッス〉(61年)などのヒットで人気者に。68年フランク・シナトラに〈マイ・ウェイ〉、71年トム・ジョーンズに〈シーズ・ア・レイディ〉を提供。現在も高い人気を誇っている。
(注17)ニール・セダカ(ポピュラー・シンガー 1939年~)59年に〈恋の日記〉が全米1位となり、〈おお! キャロル〉(同年)、〈カレンダー・ガール〉(60年)、〈恋の片道切符〉(同年)などがヒットし、人気シンガー・ソングライターの仲間入りを果たす。
——ピアノはクラシックを習って。
恵子:中学から高校の途中まで習って、大学に行ってからも近所でちょっと習っています。
——演奏することは嫌いじゃなかった。
恵子:そうですね。
——大学は早稲田ですけど、早稲田を選んだ理由は?
恵子:ニューオリ(ニューオルリンズジャズクラブ)があるからじゃなくて、このひとがいるからでもなくて(笑)。慶應(慶應義塾大学)と両方受かったんですけど、早稲田のほうがピンときたんです。
——早稲田の学部は?
恵子:文学部の美術。
喜雄:ぼくは政治経済。
——美術ということは、そちらに興味があった。
恵子:父が厳しかったので、「英語で推薦がもらえるから」と一生懸命に受験勉強をして、慶應も受かったけれど。「これからは好きなことをやるんだ」って、滑り止めに受けた美術に決めて。
喜雄:慶應は英文科でしょう。
恵子:文学部。
——早稲田は?
恵子:教育学部の英文科を受けたんです。それが本命。慶應の文学部はちょっとイタズラで、ついでに早稲田の美術も受けたんです(笑)。
——それで美術に入って。
喜雄:実は藝大(東京藝術大学)に行きたかったんですって。親に「売れない絵描きと一緒になるからダメだ」。そうしたら売れないジャズマンと一緒になっちゃった(笑)。
恵子:もっと悪かったんじゃない(笑)?
——結果オーライじゃないですか?
恵子:ほんとうにですよね。
——それでは、絵も勉強されていた?
恵子:絵とか彫刻は好きです。
——ニューオリにはどういう経緯で?
恵子:稲門会っていうんですか? となりに座ったひとに、「わたし、ジャズが好きなんだけど」ってひとこといったら、「じゃあ、うちのクラブにおいでよ」「どういうクラブ?」「ニューオーリンズ・ジャズのクラブ」といわれて。ニューオーリンズ・ジャズといわれてもよくわからなかったけど、「じゃあ、行ってみるね」。
喜雄:よく「ジャズが好きだ」といったね。
恵子:なんかいっちゃったのね(笑)。動物的直感で動くことがあるんです。この方は最初からぜんぶ筋が通っていますけど、わたしは通っていない(笑)。行きあたりばったりなんです。それで入って、「これがジャズなのか」。といっても、ぜんぜんわからなくて。オタクっぽいひとがたくさんいて、「こんなの聴くのはダメだ」とか、「これ聴かなきゃダメだ」とか(笑)。
喜雄:そのころ、部員が50人いて、女性は3人だけ。そのうちふたり辞めたから、ひとりになっちゃった。
ジョージ・ルイスの来日で生まれた縁
恵子:それでジョージ・ルイスのバンドが63年、わたしが三年生のときに来日して。ニューオリではピアノが弾きたいけど、上手に弾けるひとがいないし、どういうふうに弾くのかもわからない。クエスチョン・マークがずっとついてたんですけど、ジョージ・ルイスのバンドを聴きに行って、「ああ、これはすごく興味がある」と。それ以来、だんだんですね。
——ピアノ担当になったけれど、自己流で。
恵子:理論もわからないし、アドリブもできない。
——二年生のときに外山さんが入ってこられた。
恵子:そうです。
喜雄:でも、すぐは知り合いにならなかった。
——どうやってお近づきになったんですか?
喜雄:ぼくはずっと男子校だったから、女性がそばにいなかったし、なんとなく憧れていて。部員が50人いるわけですから、競争率が激しい(笑)。でもある日、勇気を出して水道橋の「スウィング」ってジャズ喫茶に誘ったんです。それで「なににする?」って聞いたら、「トーストとなんとか」。ぼくは「リクエストはなににする?」って聞いたんですけど(笑)。
——第一印象はどうだったんですか?
恵子:顔が四角いでしょ。身体も四角いから、「黒板」っていわれてたんです(笑)。ほんとにジャズに対して真剣で、2、3年するうちに、トランペットを吹いても歌っても、「ほかのひととはなにか違うものを持ってるな」と感じるようになって。
喜雄:63年にジョージ・ルイスが日本に来て、聴きに行ったんです。そのころはおつき合いがなかったんで、別々に行きました。大阪まで追いかけて、ホテルに泊まるお金がないから、テニス・コートや橋の下で寝て。大阪では2週間ぐらいやったのかな? 彼女も、そのときに別で来ていて。
恵子:わたしはちゃんと先輩のところに泊めていただいて(笑)。
喜雄:東京では「厚生年金会館ホール」の1回しかなくて。ジョージ・ルイスはその年、日本に3か月いて、次の年もまた3か月いて。最初の年にくっつき歩いて、メンバーが「どこで寝てるんだ?」っていうから「橋の下」といったら、「可哀想だ」って、お金をくれようとしたりね。その年だけ「プリザヴェーション・ホール」(注18)のマネージャーのアラン・ジャッフェがついてきて、そのひとに気に入られて、そのうち裏から入れてもらえるようになった。
(注18)50年代にニューオーリンズのフレンチクォーターでラリー・ボレンシュタインが開いたアート・ギャラリーが前身。やがてここでミュージシャンが演奏するようになり、ライヴ・ハウスとして評判を呼び始める。61年にチューバ奏者でもあるアラン・ジャッフェが新婚旅行で立ち寄ったこの店を気に入り、ボレンシュタインに請われてマネージャーに就任。
この年(63年)はサッチモも来ましてね。それからカウント・ベイシー(p)が来ました。ライオネル・ハンプトン(vib)も初来日で。61年の正月にはアート・ブレイキー(ds)のジャズ・メッセンジャーズが来たでしょ。次の年はデューク・エリントン(p)が来て、みな初来日。強力だったですよ。
ジョージ・ルイスのときに楽屋口から入れてもらえて、「あ、楽屋口っていうのがあるんだ」とわかった。それからは、どのコンサートでも「おはようございます」で入っちゃって(笑)。図々しいから平気なんです。ステージの袖から観るのと客席で観るのとではずいぶん違う。実際にはどういうふうに吹いているのか、みたいな。遠い客席からではわからないことがわかるし。
ルイ・アームストロングとの一期一会
——バンド活動はご一緒にされたんですか?
喜雄:大学のときは一緒のグループでやらなかったです。
——バンドはいくつぐらいあったんですか?
喜雄:ニューオーリンズ・ジャズをやってるグループとシカゴ・ジャズをやってるグループと、ぼくらみたいにホット・ファイヴの演奏をしていたグループと、あのころで6つぐらい。
——恵子さんはどういうバンドで?
恵子:同じような学年のひとたちと組んで、バンク・ジョンソンとかジョージ・ルイスのスタイルで。
——スタイルが違うから一緒にならなかった。
喜雄:それで64年につき合い始めて。学生バンドの演奏旅行が12月にありまして、彼女のバンドのツアーだったんですけど、ぼくはバンドボーイで(笑)。
恵子:それ、有名な話です(笑)。
喜雄:四国に行くんで現地集合。そうしたら京都で、サッチモのコンサートがあったんです。そこで京都に行って、昼間コンサートを観て、夜行で四国に行きました。
休憩時間に楽屋に忍び込んで。トントンてノックしたら、中からあのダミ声がしたんです。ドアを開けて「ハロー」っていったら、なにか答えてくれて。彼女は外で待っていたんですけど。
恵子:わたしは入る勇気がなくて。
喜雄:ぼくは興味があったから、中に入って。そうしたらケースのふたが開いていて、トランペットが燦然と輝いている。「メイ・アイ・シー?」っていったら、「ベラベラ」。「ダメ」といったのかもしれないけどわかんないから、手に取って。ニコニコしてるから、「よし、吹いちゃえ」と思って、吹いちゃった(笑)。そうしたら少し吹かせてくれて。
当時はホット・ファイヴのソロとかやっていたんで、ちょっとできるってところを見せようと思ったんだけど、マウスピースがこんなにデカくて、フガフガしちゃって。それでもバラバラって吹かせてもらって。「ありがとう」といって、それだけですけど。
恵子:出てきたときはボーっとした顔をしてて。夢心地の顔でしたね(笑)。「トランペット吹いちゃった」。これがひとつの特徴というか、熱心さなんです。
喜雄:だからね、いろんなことをずっとやってきて、けっこうルイのスピリットが導いてくれるのか、上手くいくんですよ。きっと上から見てて、「なんだアイツ、子供に楽器をあげたり、変なことやってんな。アイツはオレの楽屋に入ってきて吹いたあの野郎だな。でも、いいことやってるじゃないか」。この一件でニューオーリンズに行きたい気持ちが強くなったけど、まだ学生だから。
恵子:わたしも行きたかったけど、学生だから行かせてくれるわけがなかった。
喜雄:それと、当時はいまみたいな時代じゃないから簡単に行けないし、行く度胸もなかった。
——卒業は恵子さんが先ですよね。
恵子:就職というほどじゃないですけど、英会話学校の事務を。
喜雄:ぼくはそこに入り浸って(笑)、英語を勉強して。
——一年後に外山さんも卒業する。
喜雄:結婚したいと思ったんですけど。レコード会社に就職したいと考えて、「ホット・クラブ」(注19)でお会いしていた油井正一さんとかに「ビクターに紹介してください」。それを親父に話したら、「ダメだ、そんなの」「はい、すいません」(笑)。
(注19)「ホット・クラブ・オブ・ジャパン」のこと。47年に発足したわが国最古のジャズ鑑賞のための会。初代会長はジャズ評論家の草分け野川香文。
当時は素直だから、「なにがいいですか?」って聞いたら、「保険会社がいい」となって、「紹介してやるから、損保に入れ」「はい、わかりました」。
結婚したいし、それには職がないと。それで日新火災海上保険に入って、5月半ばに結婚しました。そのときはジャズのことはすっかり忘れて。
恵子:父が、ジャズといったら「不良のやるもの」と思っていて。大学のクラブに入ったとたんに、父がナーヴァスになって。「合宿なんてダメ」。次の年は合宿に行きましたけど、それで険悪になっていたんです。そういう状態で大学時代をすごして。それで結婚する相手がそのクラブのひとだったから、たいへんなことになって(笑)。挙句の果てに「ニューオーリンズに行きます」だから(笑)。
——でも「結婚させてください」とご挨拶に行かれたんでしょ?
喜雄:家族同士で食事をして、「しょうがない」と。そのときは損保の社員ですから。会社には1年9か月いたんです。保険のパンフレットを作ったりしていたんです。そういう経験も役立ちましたし、なによりも、社会人としての最低限の常識を、会社組織の中で教えていただいた貴重な時間でした。
ニューオーリンズ行きを決断
——その時点でニューオーリンズに行こうと思っていた。
喜雄:そんな考えはなくなって、社長になろうと思ってました(笑)。
恵子:でも、練習はしてたわよね。
喜雄:このひとはなんか邪魔するというか、うしろから引っ張るんです。ぼくと一緒になると面白いことがいっぱいあると思ったらしいんです。
恵子:結婚生活が始まって、「これ違うんじゃない?」と思って。
喜雄:ぼくは毎日仕事があるから、一生懸命にやって。5月に結婚して1年ぐらいはその状態が続いたけど、喧嘩が絶えない。そこへ、ニューオーリンズからキッド・シーク(tp)のバンドが来たんです。結婚した次の年の4月か5月に(67年)。
それで、休みの日だけバンドのバスに乗せてもらって、三島に行ったり。それをやっているうちに、また「ニューオーリンズに行きたいな」と思って。うちじゃグチュグチュしているし。それでふたり共その気になって、準備して。
——会社に入ってから演奏活動はしていたんですか?
喜雄:練習はしていました。
恵子:バンド活動はしていない。
——ニューオーリンズに行くといっても簡単じゃないでしょ。
喜雄:大学の先輩たちが中心になって作った大阪のニューオリンズ・ラスカルズというバンドがあって、すでに66年にアメリカをツアーしていたんです。そのバンドのドラムスの木村さんという先輩は、インディアナ州のパデュー大学に留学されていて。ほかにもぼくたちが行く前には、アマチュアでニューオーリンズ・スタイルのベースを弾いていた荒井潔さんもニューオーリンズにいました。
彼は67年の初めごろに親戚を頼ってロスに行き、ぼくらが行く1か月か2か月前にニューオーリンズに移っていました。彼とは学生時代から一緒に練習などをしていたので、手紙を出して、いろいろアメリカの事情を聞いていたんです。それもあと押しになりました。
だからグズグズしながらも、けっこう早い時点で「ニューオーリンズに行きたいな」と思っていたんです。ダメ押しがキッド・シークの来日かもしれません。ぼくの給料が1万6800円でしたから、どうやって貯めたんだかよくわからない。当時、船でも片道9万円の後半で、JAL(日本航空)だと10万2、3千円とか。
恵子:とにかく節約して。
——恵子さんはお仕事をしていたんですか?
恵子:していました。
喜雄:いろんな物を売ったの、覚えてるよ。うちにあった親父の本とか。でもね、ドルが手に入らない。1ドルが360円の時代で、500ドルまでしか交換できなくて。それに関しては親父が会社の関係で助けてくれたのかな?
——それぞれのご両親は反対したでしょ?
恵子:しました。うちは諦めたみたいだけど、こちらのご両親が理解できなかったみたいです。最後はわかってもらえましたけど。
喜雄:ぼくらは12月30日に横浜から出航したので、うちのお袋も親父も正月に寝込んじゃったんですよ。
恵子:ショックで。
——いまより外国は遠いですから。
恵子:だって移民船が行ってたんですもの。
喜雄:文化の窓といったら映画か『兼高かおる世界の旅』(注20)ぐらいだったから。あれで海外に憧れましたよね。
(注20)兼高かおる(ツーリスト・ライター 1928~2019年)本名=兼高ローズ(父親はインド人)。54年ロサンゼルス市立大学留学。その後ジャーナリストとして『ジャパンタイムス』などで活躍。海外取材が多く、150か国以上に渡航した。TBS系列のテレビで59年12月13日に始まった『兼高かおる世界の旅』(当初の番組名は『兼高かおる世界飛び歩き』)は90年9月30日の終了まで30年10か月におよぶ長寿番組となった。日本旅行作家協会名誉会長。
——電気冷蔵庫とかを見て、外国とこんなに違うのかって。日本では木の箱に氷を入れていた時代ですから。
恵子:システム・キッチンなんですよ。実際にそれを体験しました。
喜雄:日本ではアパートに住んでいたんですけど、風呂がなくて。となりの風呂屋にふたりで行って。まさに〈神田川〉(注21)の世界。
(注21)3人組フォーク・グループの南こうせつとかぐや姫(のちのかぐや姫)が歌った73年のヒット曲。最終的には100万枚以上の売り上げを記録。
恵子:あの世界からいきなりアメリカの映画に出てくる世界に行って。
——相当な決意だったでしょ?
恵子:でもね、気楽だったんですよ(笑)。
喜雄:なにもわからないから。ぼくは怖かったけど。行きは船で、帰りは飛行機のチケットを買って。帰りのチケットがないとヴィザが下りない。なのでずいぶんお金がかかりました。
恵子:「プリザヴェーション・ホール」のアラン・ジャッフェに手紙を書いて。
喜雄:あと、大阪のニューオリンズ・ラスカルズが66年にアメリカを回っているんで、そのコネクションでロスのジャズ愛好家団体のひとを紹介してもらって。
恵子:いろんなひとに何度も手紙を書いて。
喜雄:いまみたいにメールがないから、手紙のやりとりだって1回で2週間ぐらいかかります。
恵子:返事が待ち遠しくて。
喜雄:それで、「来るんならいいよ」となって。
ホノルルとロサンゼルス経由でニューオーリンズへ
——ぶらじる丸に乗って、最初はどこに着いたんですか?
喜雄:行き先はロスですけど、その前にホノルルに着くんです。8日でホノルルに着いて、給油して、ホノルルにキッド・オリー(tp)が住んでいたんです。キッド・オリーは伝説的ジャズマンで、初めてニューオリンズでジャズを吹いたといわれるバディー・ボールデンのすぐ下の世代。サッチモが16歳くらいのとき、彼にやとわれてプロ初体験したほどのひとです。オリーさんとも文通していて、ホノルルには1日いれるんで「行きますから」「ぜひ来てください」となっていた。
なにしろ会いたくて会いたくて。1時間に1本くらいしか来ないバスを乗り継いで、行って、会えて、写真を撮ったり。ワイキキにも行かず、ホノルルはそれで終わり(笑)。
恵子:わき目も振らず、ハワイらしいことはなにもしなかったわね(笑)。
喜雄:使ったお金が30何セントだっけ?
恵子:バス代だけ(笑)。
喜雄:それがホノルルで、ロスに行ったらなんにもないんです。車もないし。普通、着いたら電車の駅とかがあったりと思うじゃないですか。
恵子:建物がないんですよね。
喜雄:荷物をこんなに持って。その上に腰かけて「困ったな」。それで、よくかけられたと思うけど、公衆電話でジャズ愛好家団体の方に電話したら、「ああ、もう着いたのか。手配するからちょっと待ってなさい」。6時間ぐらい待ったら来て、見ず知らずなのにメンバーのうちに連れていってくれて、ホームステイです。それが『パパは何でも知っている』(注22)に出てくるみたいなハリウッドのうちで。〈神田川〉の世界から、いきなりですよ(笑)。
(注22)49年4月25日から54年3月25日まNBCラジオで、同年10月3日から60年9月17日までNBCテレビとCBSで全203話が放送され、人気を博したホーム・ドラマ。日本では58年8月3日から64年3月29日まで日本テレビ系列で放映された。
恵子:システム・キッチンがあって。
喜雄:ブルーカラーだけど、2バスルーム、3ベッドルームで、びっくり。それで、次の日に起きたら、共働きだからふたりともいない。台所に手紙があって、「冷蔵庫の中のものはなんでも自由に食べていいですよ」。それと5ドルか10ドルが置いてあって、「こっちのほうに行ったらこういうのがあるから遊んできなさい」。いやあ、なんて親切なんだろうと思って。見ず知らずなのに、ニューオーリンズにジャズを習いに行くというだけで、すごく感激してくれて。その思い出がいまでもね。
恵子:それで毎日、愛好家団体のお仲間たちが、わたしたちを昔の有名ミュージシャンがやっているところに連れていってくれたんです。
——ロスにはどのくらいいたんですか?
恵子:1週間ぐらい。
喜雄:ジャズ・クラブと、あとはディズニーランド。ディズニーランドではルイ・アームストロングそっくりに吹くテディ・バックナーという黒人トランペッターがニューオーリンズ広場でやっていて。その仕事を、ぼくらが何十年後かに日本のディズニーランドでやることになるんですから。
恵子:不思議な縁がいろいろ起こっているんですよね。
喜雄:それも観たし、アルトン・パーネルというピアニスト、それからバンジョーのジョニー・サンシールって、ホット・ファイヴに入ってたひとの奥さんにも会えました。あとは「パームスプリングスでジャズ・フェスティヴァルがあるから連れていってあげよう」。一晩泊まりで、連れていってくれて。けっこう有名なエイブ・リンカーン(tb)とかベン・ポラック(ds)とか、ナッピー・ラメア(g)とか、そういうひとたちとやらせてもらって。
——共演したんですか。
恵子:やったんです。修行に行く前なのに(笑)。
——恵子さんはピアノ?
恵子:もうバンジョーを弾いていました。
喜雄:ニューオーリンズに行くならバンジョーをやろうといってね。
——バンジョーはいつから始めたんですか?
恵子:卒業してから。
喜雄:バンジョーとピアノの両方をやって。
恵子:でも、ニューオーリンズに行ったらバンジョーだけ。だってピアノなんてないから。
喜雄:でも、「プリザヴェーション・ホール」のピアノのすぐ脇に座って毎日聴いてて。それでかなり覚えた。
恵子:わたしの気に入ったピアニストがいて、チャーリー・ハミルトンというひとですけど、そのひとがほんとうに素敵で、いつも横で弾いているのを観て。ほかのひとはあまり好きじゃなくて、そのひとだけが好きだった。「こういうピアノが弾けるようになりたい」と思いながら聴いてました。
——ロサンゼルスに1週間いて、それからどうしたんですか?
喜雄:泣きの涙で別れて、飛行機でニューオーリンズに。着いたら、いるはずのジャッフェがいなくて。紹介されたひとから、「アパートを用意してあるから」。ジャッフェもユダヤ人なんですけどね。それが、ちょっと表現が悪いですけど……こんなに太った、いかにも「お話に出てきそうなユダヤの商人」みたいな感じのひと(笑)。場所はバーボン・ストリートに面した、クレオール料理のレストランの2階。そこへ案内されたら、汚ったない部屋で、窓ガラスは割れているし、バスタブとトイレは垢だらけ。それまでタダで1週間も甘やかされてきたから、これで「60ドルか?」でした。
恵子:ごきぶりも這い回って(笑)。
喜雄:ベッドは湿っているし、明かりもなかった。暗くなってきて、彼女はメソメソ泣き出すし。
恵子:憧れのニューオーリンズが(笑)。
喜雄:頼りにするひとがいなくて、相手は「ユダヤの商人」のおじさん(笑)。でもその辺では、そのラリー・ボレンシュタインというひとが、ぼくが頼りにしていたひと以上の大物の顔役で、60年代、ジャズをニューオーリンズで復活させた影の立役者だったんです。ひどいなと思ったアパートが、実は「プリザヴェーション・ホール」の真裏だったから、夜の8時半になると「ガーン」って音が聴こえてくる。そこにいて、「今日は誰だ」とわかる。
恵子:いちばんいい場所だったんです。
——わざわざその部屋を選んでくれた。
喜雄:そうでしょうね。うわべは冷たくても、南部のひと独特の優しさがある。よくいう「サザン・ホスピタリティ」だったんです。
恵子:ニューオーリンズでいえば、それはとくにひどい部屋ではなかったんです。ロスから来たんで、最初がよすぎたの。でも、わたしたちは順応性がありますから、すぐに慣れて。
——ニューオーリンズにはどのくらいいようと考えていたんですか?
喜雄:どうなるかまったくわからないので、「1か月いられたらいいのかなあ」なんて。結局、そのときは1年9か月いました。それで万博(日本万国博覧会)の前年(69年)でしたけど一度帰って、またアメリカに戻って。2度目のときは『スイングジャーナル』の児山紀芳(注23)さんと関係ができてたので、「特派員の資格をいただけますか?」といったら、くれて。それで、Hヴィザ(特殊技能就労ヴィザ)が申請できたんです。
(注23)児山紀芳(ジャズ評論家 1936~2019年)日本版『ダウンビート』誌編集部を経て、67~79年までと90~93年まで『スイングジャーナル』誌編集長。この間にクリフォード・ブラウン(tp)をはじめ、数々の未発表演奏を発掘。
お葬式はジャズで
——話は戻りますが、ニューオーリンズではどんな生活だったんですか?
恵子:着いて早々に「お葬式があるよ」って。
喜雄:ジャズの葬式のことはレコードなんかで知っていたんですけど、なんだか奇妙な音楽が聴こえてきてね。それに行って、また大感激。
恵子:ジャズのお葬式の本物を現地で観るのはすごいですよ。レコードとは、ブラスバンドの音がぜんぜん違います。
喜雄:ショットガン・ハウス(南部に多数建設された狭小な長方形平面の住宅)がいっぱい並んでいる寂れた黒人街からパレードが始まるんです。そこに、当時はポリビニールの袋がないから、茶色の袋に楽器を入れたミュージシャンが集まってくる。というのは、パレードではケースが持ち歩けないから。
——ミュージシャンは自主的に集まるんですか?
喜雄:それぞれでグループがあるんです。ユーレカ・ブラスバンドとか、ね。大太鼓、小太鼓がひとりかふたりに、チューバに、あとはクラリネットがひとりにトランペット3本、トロンボーン2本、テナー・サックスとかアルト・サックスとか。トータルで10人ちょっと。それで集まって、教会までパレードして。
教会の中ではお葬式をやっている。牧師さんがレイ・チャールズ(注24)とか B・B・キング(注25)みたいに歌って。みんなもそれに合わせて、ハミングでハーモニーをつける。ハモンド・オルガンが「グァーン」と鳴って、「エーメン、エーメン〜」「ハレルヤ〜」。そのうち「ギャー」って卒倒するひとが出てきて。
(注24)レイ・チャールズ(歌手、ピアニスト 1930~2004年)盲目のハンディキャップを背負いながら、59年の〈ホワッド・アイ・セイ〉が6位のヒットとなり、人気が定着。61年に〈我が心のジョージア〉がミリオンセラーを記録。以後、R&B、ジャズ、ゴスペル、黒人霊歌など、幅広い歌でアメリカを代表する黒人シンガーのひとりになる。
(注25)B・B・キング(ブルース・シンガー、ギタリスト 1925~ 2015年)49年にレコード・デビューし、52年の〈3 O’clock Blues〉がR&Bチャートの1位に。これを機に多くのヒットを送り出し、50年代から晩年まで活躍したブルース界の巨人。
恵子:あれにはびっくりしました。死んじゃうんじゃないかと思って。そうしたら何人も倒れて(笑)。
喜雄:毎週それをやっているから、看護師さんみたいなひとが何人もウチワを持って、待機している。それが終わって、今度は教会の鐘が「カーン」て鳴ると……
恵子:外で待っていたブラスバンドが演奏を始める。
喜雄:それが悲しげで、こっちまで泣きそうになる。10分ぐらいそういうのがあって、霊柩車が来て、パレードも一緒に墓地まで行く。沿道のひともゾロゾロついてくる。そういうひとたちをセカンド・ラインというんですけど、場合によっては300人くらいになっちゃう。黒人ですから、文字通り黒山のひとだかり(笑)。スコールが多いから、みんな傘を持っているんです。必ず1回は降るから、そうすると傘を開いて。
——それで、写真を見るとみんな傘を持っているんだ。
恵子:傘がつきものだから。
喜雄:「天に召されるのは悲しむことじゃなくて、この世の苦しみから解放される、祝福される」という考えなのか。白人もそうですけど、そういうのがベースにあって。ジャズのスウィング感はそこから出ているから、20年代のテレビもラジオもない時代に、世界中にジャズが野火のようにあっという間に広がったんですね。
恵子:あと、踊りがあって。「バーン」てベース・ドラムが合図をすると、フライパンの上で豆が跳ねるように踊り出す。その跳ね方がひとりずつ違うけど、揃っている。ただ踊っているんじゃないんです。ジャズのノリになっている。
——同じビート感覚を持っているから、違うことをやっても合うんでしょうね。
恵子:そうなんです。
喜雄:こんなに小さなときからみんなそれをやってきているから。
恵子:だから面白いの。それが見事で、もう魅せられちゃった(笑)。
喜雄:「なるほどな、これか」ですよ。
恵子:「これがジャズなんだ。だから楽しいんだ」と思いました。
——ジャズの原点というか、本質を体感されたんですね。
憧れの「プリザヴェーション・ホール」で
喜雄:なにせ「プリザヴェーション・ホール」が憧れで、毎日そこに出入りしていて。
恵子:サッチモの同世代、あるいはもっと上のひと、ジャズを作ってきたひとたちが毎日出ているんです。
喜雄:上手いとかそういうんじゃなくて、ひとに訴えるものが強い。サッチモがそういうひとで、そういうひとがいっぱいいたんです。
恵子:そのひとり、ジョージ・ルイスも出ていました。
喜雄:そこに毎晩タダで出入りさせてくれて、しまいには鍵まで渡してくれて。ジャッフェが「練習したいなら、病気のミュージシャンがいるから、昼間にそういうひとを呼んできて、リハビリにもなるから、ジャム・セッションでもやってくれ」という役目も頼まれました。
ジョージ・ルイスが63年に来たときのドラマー、ジョー・ワトキンスが脳溢血(脳出血)で麻痺が残っていたんです。ジャッフェには彼をカムバックさせたい気持ちがあって。そのひとを車で迎えに行って、昼間にジャム・セッションをやって。幸い彼はカムバックしましたけど、そのあとまた脳溢血をやっちゃった。
——それだけ信用されていたんですね。
恵子:そうだと思います。
——ニューオーリンズに行ったときは、さきほどお話に出た荒井さんがすでに住んでいたんですね。
恵子:1年ぐらいわたしたちとニューオーリンズにいて、彼はそのあとに帰りました。
喜雄:それで60ドルは高いし汚いんで、荒井さんと上の階の100ドルの部屋を「シェアしない?」といって、半分ずつシェアして。
恵子:それでちょっといい部屋に移りました。
喜雄:当時、スウェーデンから来ているミュージシャンもいて、よく一緒に練習していたんです。そうしたらある日、下のレストランのオーナーが上がって来て、文句をいうのかと思ったら、「練習するなら、6時から8時まで下の中庭でやったら? そうしたら2食、食わせてやるよ」。これで毎日2食がタダになった(笑)。
——『スイングジャーナル』にクレオール料理の連載をしていたじゃないですか。当時はご自分たちでも作られていた?
ふたり:当時はほとんどないですね。
喜雄:ただ、どういう味かはわかっているから。
恵子:日本に帰ってから、買ってきた食材で作ったりはしていました。
——ぼくはあの連載を見て、「アメリカに行きたい」と思ったんです。ニューオーリンズじゃなくてニューヨークに行ってしまいましたけど(笑)。
喜雄:そうですか。それはたいへん光栄です。
恵子:あのころにご馳走すればよかったわ。
——ニューオーリンズに行かれて、生活費はどうしたんですか?
喜雄:なにせ物価が高いのでケチケチしていたけど、運がいいんですね。
恵子:同じような目的で来ていたのは日本人のわたしたちに、スウェーデン人がふたりとイギリス人だけ。
喜雄:彼らは、金土日に貧乏な白人が来る倉庫街のダンスホールで演奏していたんです。ぼくらが入るとインターナショナル・ジャズ・バンドっていえるじゃないですか。うちのアパートでも練習していたんで、「一緒にやるか?」となって、荒井さんのベースとぼくらふたり、リーダーでピアノのラース・エデグランとクラリネットがスウェーデン人、あとは現地のお爺さんだったんですけどドラマーとトロンボーン。トロンボーンは戦争で腕を失くして、輪っかをつけて片手で吹いている。こういうひとたちと一緒にやって。
ほんとに場末でしたけど、助かりました(笑)。
——ご飯は食べさせてもらえるし。
喜雄:「これ、やってればいいや」と思ったけど、1年ぐらいで終わっちゃいました。そのあと、ヴィザの関係で日本に帰らなくちゃいけなくなりました。
恵子:ときどきはバンドの仕事もやらせてもらって。ユニオンが厳しかったから内緒でやったり、ノンユニオン・バンドでやったり。
喜雄:彼女はよく「プリザヴェーション・ホール」でやってたの。
恵子:わたしは、行ってすぐぐらいに「一緒にやっていいよ」といわれました。
喜雄:女は得なんですよ(笑)。
——バンジョーを始めて1年とか2年ですよね。
恵子:それなのに、最後の2、3セットをジョージ・ルイスやキッド・トーマス(tp)とやらせてもらったんですよ。
——おふたりはどなたかに習ったりはしなかった?
喜雄:そういうのはなくて、セッションとかで一緒にやって身につけていく。毎晩、8時半から12時半まで「プリザヴェーション・ホール」で聴いて。飛び入りもたまにさせてもらいました。
一度日本に戻って 再びニューオーリンズへ
——1年9か月で帰国する。
喜雄:12月に行って、翌々年(69年)の9月に帰ってきました。
——日本に帰って、どうしていたんですか?
喜雄:お金も残っていたので、またニューオーリンズには行こうと思っていました。だけど、バンドを作ったんです。ニューオーリンズ帰りなんで、多少の話題になって、「厚生年金会館」の小ホールでコンサートをやりました。
そうしたら、大阪のミナミで「ニューミュンヘン」というビアホールをやっている若い社長さんがたまたまそれを観て、「面白い」と。万博の年ですけど、6月からビアガーデンの仕事を4、5か月くれたんです。そのメンバーで大阪に行って、運転手さんの寮に入って。飯場みたいなところで、風呂もない。そこで毎日演奏していました。
——バンドの名前はあったんですか?
喜雄:そのときは外山喜雄とニューオーリンズ・セインツ。ニューオーリンズのフットボール・チームがセインツだったので。
——「ミュンヘン」のあとは?
喜雄:次の年の4月にニューオーリンズに行くんです。あてはなかったけど、また偶然で、6月ごろだったかな? イギリスのバンドが通りかかったんです。イギリスにぼくらみたいにニューオーリンズ・ジャズが大好きなバンドがあって、リーダーのバリー・マーチンはジョージ・ルイスをイギリスに呼んだり、いろんなことをしていたひとです。
彼のバンドが通りかかって、「ちょうどトランぺッターが辞めるんで、ヨーロッパに連れていってやるから、入らないか?」「いつから?」「9月から」「じゃあ、そうさせてください」。これがバリー・マーチンのインターナショナル・ジャズ・バンド。バリーがドラムスとヴォーカルで、あとは、ベース、ピアノ、バンジョー、クラリネット、トロンボーン、トランペットの編成。ミネアポリスでオープンして、そのあと向こうに行って。
恵子:本拠地がロンドンで、そこのアパートに入って。
喜雄:ところがあのころはイギリス病(注26)で、イギリスにほとんど仕事がない。それでマイクロ・バスに乗って、ドーヴァー海峡をホーヴァークラフトで渡って、ベルギー、ドイツ、オーストリア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、スイスと回って。なぜか、フランスだけ行かなくて。コンサートもありましたけど、ドサ回りというか、パブみたいなところやジャズ・クラブを回るんです。そういうのを半年やりました。
(注26)60~70年代に経済成長が長期的な停滞をしたイギリスの状況を指す。
恵子:それでアメリカに帰って、今度は国内をツアーして。
喜雄:ニューヨークから横に行きました。
恵子:けっこう細かくアメリカ中を回って。
喜雄:砂漠を通って、ダラスのほうに行って、ロサンゼルスまで。途中で車が何度もエンコして。ぼくよりみんなデカイ連中がフォードのステーション・ワゴンに乗って。スーツケースが7人分ぐらいあって、屋根の上に大太鼓とベースが乗ってるの。漫画ですよ。それがエッチラオッチラ行くと、「あ、ブレーキが効かない」。
恵子:煙が出てるのね。
喜雄:ヨーロッパのときは、マイクロ・バスといってもハイエースのちょっと大きなヤツ。みんな女の子を引っかけて、それに乗せるんです(笑)。ぎゅうぎゅうになって、「なんでオレたちこんな目に遭わなきゃいけないんだ」って(笑)。デンマークなんか、ヴァイキングの末裔みたいな女の子が2、3人乗ってきて(笑)。すごかったな、あれ。
恵子:若かったからでしょうけど、わたし、自分でよくやったなあと思ってました。いま考えると、すべてが面白かった。普通ならそんなことできませんから、いい経験をさせていただきました。
喜雄:いいミュージシャンをゲストに呼んでくれて一緒にやったりね。それから、あちこちに有名なミュージシャンが住んでいて、そういうひとにも会ったし。
恵子:ニューオーリンズのミュージシャンをゲストに呼んで、一緒にやったこともありました。
喜雄:イギリスにはコレクターが多くて、フィルム・コレクターに会ったんですよ。当時、ヴィデオもなかったですから、29年のルイ・アームストロングとデューク・エリントンの〈ブラック・アンド・タン・ファンタジー〉とかね、そういうのを持っているひとがいる。そのひとのところなんか、ボタンを押すとスクリーンが降りてきて。ベッシー・スミス(vo)の映像を観たときは、みんな泣き出しちゃったね。
恵子:ああやって映像を観るのは初めてでした。いつもは音だけでしょ。感動しちゃって、みんなで泣いてました。
喜雄:運がいいことに、帰ってきた73年に、ぼくのことをすごく可愛がってくれたイギリス人のコレクターが、「フィルムのコレクションを始めるけど、お前もいるか?」というから、「ぜひお願いします」「じゃあ、お金を送ってくれれば一緒にタビングしてやるよ」。
それで、10万とか20万とかを送って、「足りなくなったらいってください」。それでずいぶん集まりました。100万かもう少し使ったと思うけど、運のいいことに、当時、テクニクスとかのショウルームがあって、そこで毎月、上映会をやったのね。3年やったら元が取れちゃった(笑)。ヴィデオがやっと出だしたかな? というころですから。
——アメリカのツアーはどのくらいの期間?
喜雄:1か月半くらい。
恵子:でも1年くらい回っていたような気がするわね。
喜雄:ボストンに3か月居候させてもらったりしたんです。メンバーが本国に帰って、そのあとこっちも「グリーンカードを申請しようかな」といったんですよ。そうしたら、ボストンに「世話をしてあげよう」というひとがいて、そのひとのうちにペンキ塗りとかしながら居候させてもらって。結局は取れなかったんですけど。こっちも、いうわりにその気じゃない。ずっといるのが怖いのと、ずっといる自信はやっぱりなかった。
——2回目に行ったときはいれるだけいようと思ったんですか?
喜雄:このひとはノー天気で楽しかったらしいけど、ぼくには「これもいいけど、いつまでこれをやっているのかな?」という気はありました。
恵子:旅が終わって、ニューオーリンズに戻って、ジャッフェにもグリーンカードをトライしてもらったんですけど、それもダメで。それで帰ってきたんです。
アメリカ生活の経験を活かして
——ニューオーリンズだけじゃないけれど、通算5年くらい向こうにいらした。ご夫妻にとってアメリカ生活、ヨーロッパ・ツアーもありましたけど、どんなものだったんですか?
喜雄:やはり、すべてジャズの原点の街での生活と「プリザベーション・ホール」でいちばんの基礎を教わり、ヨーロッパや全米ツアーでも、夢のような出会いと貴重な体験をさせてもらいました。
恵子:いままで続けてこられた五十何年の原点であり、それがなかったらいまのわたしたちはないと思います。
喜雄:最近のアメリカには変なところもあるけど、アメリカ人のほんとうにおおらかさに、多くを学びました。ニューオーリンズやヨーロッパで、世界的なジャズのコレクターに会って珍しいものを集めるようになったことも大きいです。ニューオリンズは、ジャズの聖地ですから、世界中からジャズ・ファンがやって来て、ジャズ界の有名人にも会うわけです。ジャッフェもそうですけど、そういうひとたちの考え方とかを学べたことも大きい。
恵子:ニューオーリンズに住んだ経験を通して、帰ってきてからもずっとニューオーリンズに繋がっている。ルイ・アームストロングがどういうひとだったか、どういう演奏をしているひとだったかが、50年の間にずいぶんわかって。彼の偉大さがわかればわかるほど、わたしはニューオーリンズから離れられない。ルイ・アームストロングがいなかったら、こんなに長く「ニューオーリンズ、ニューオーリンズ」といってないと思います。
喜雄:楽器を現地の子供たちにずっと送っているでしょ。25年やって、それをみんなが知ってくれた。これはルイ・アームストロングの精神と似たところがあって、それにすごく共感してくれる部分があると思うんです。
——ご夫妻がすごいと思うのは、演奏するだけでなく、そういう文化的な面のサポートというのかな、そういうことにも力を入れているじゃないですか。
恵子:やっぱりルイ・アームストロングの考え方、いってること、やってることに大きな影響を受けていますよね。
喜雄:学生のときに『サッチモは世界を廻る』(注27)を観たんです。その中の、ガーナで子供たちに楽器をプレゼントするシーンが目に焼きついていて。2回目にニューオーリンズに行ったときに、子供たちのバンドがスタートしたんです。その昔、キャブ・キャロウェイ(vo)のバンドにいて、ディジー・ガレスピー(tp)やチャーリー・パーカー(as)ともレコーディングしたことがあるギター奏者のダニー・バーカーがニューオーリンズに帰ってきて、子供たちが麻薬や銃で非常に荒んでいるというんで、音楽で救おうと、教会をスポンサーにしてフェアヴュー・バプティスト・チャーチ・ブラスバンドというのを作ったんです。
(注27)55年のヨーロッパ・アフリカ・ツアーやニューヨーク・フィルとの共演を記録した57年のアメリカ作品。CBSのドキュメンタリー枠で放送され、その後にユナイトが配給。日本では59年に公開された。
それが可愛いバンドで、やたらスウィングする。すっかりファンになっちゃって。それから、ぼくらのことを慕ってるシャノン・パウエルという子供のドラマーがいて、彼も上手くて、一緒にやってたりして。その思い出とサッチモが楽器をあげた子供たちの嬉しそうな顔とが重なるんです。
恵子:それと、無知なわたしたちが5年ほど行って、その中でみなさんに親切にしていただいたお礼がなにかできれば、との思いもありました。
喜雄:25年前にルイ・アームストロング・ファウンデーションの支部(日本ルイ・アームストロング協会)をやらないかという話があったんです。ぼくはディズニーランドの仕事があって忙しかったんですけど、せっかくだからと引き受けて。そのときに、「なにか象徴になる活動はないかな?」と思って、サッチモが子供に楽器をあげたシーンを思い浮かべたんです。
「きっと楽器は余ってるよな。余ってるけど、捨てるのは忍びないし、かといって自分で吹くわけでもない」。服部君が撃たれた事件(注28)がちょっと前にあったんです。ルイも銃を発砲した事件を起こしている。だから送ってあげて、「銃に代えて楽器を」というのをしたらどうかなと思ったんです。それが非常にいいキャッチフレーズで、新聞で取り上げてくれたりして。そうしたら次の日にピンポーンって、楽器がどんどん届くようになった。そこについてくる手紙がまた感動的で。
(注28)92年10月17日にアメリカ合衆国ルイジアナ州バトンルージュ市の郊外で、ハロウィンの仮装をした16歳の留学生、服部剛丈さんが誤って射殺された事件。
恵子:わたしたち、多くの感動をどれだけもらったかわからない。それだけでもこの50年は素晴らしかった。
喜雄:あと、ジャズってアメリカが世界にくれた最大のプレゼントですよね。それに日本から「ありがとう」っていいたい。こういうことをいったら、「そうだよな」といって協賛してくれるかと思ったところもあるんです。協賛はこなかったですけど(笑)。
恵子:わたしたちいろいろなことをやりましたけど、お金はないです。楽器を送るにもお金がかかるでしょ。スポンサーも、頼みにいったって現れなかった。それでも寄付が集まって。
そのあとにハリケーン・カトリーナがあって(2005年)、そのときは義援金の1,500万円と楽器を送ったんです。そうしたら東日本大震災が起きて(2011年)、「今度はわたしたちが日本を助けるときだ」って、ニューオリンズが立ちあがってくれて、向こうから恩返しの楽器が届いたんです。おまけに、その後、ニューオリンズのスラムの高校生バンドを20何人日本に連れてきて、次は気仙沼の子供たちをニューオーリンズに連れていけた。バンドはほとんど女の子でした。もう大喜びで。
わたしたちにお金がなくてもそれができたのは、奇跡的だと思います。「もうこれでやめようかな」と思っているときに、そういうことがどんどんできて、ネヴァー・エンディング・ストーリーなんです。自分でもびっくりですよ。
喜雄:映画の中でサッチモが楽器をあげたとき、アフリカの子供たちの目がキラッと光った。それが出発点で、ニューオーリンズの子供たちに楽器をあげたときにも、同じキラッと光った目が。日本が被災して、あちらから日本から送った楽器への「恩帰り」の楽器が届いて、今度は気仙沼の子たちの目がキラキラと同じに光ったんです。そのとき、思ったんです。楽器をくれた街の子と、送ってもらった子たちを会わせてあげたいなって。
ニューオリンズでわたしたちが楽器をあげてきた子供たちは貧乏なんですよ。アメリカ人なのにとなりの州のディズニーランドにも行ったことがないような子供たち。そういう子たちに指導者の先生がいいことをいうんですよね。「君たち、この練習場には天井があるよ。でもこの天井の上には空が無限に広がってる。夢を持てばなんでもできるんだから」って。だから、以前からつくづく、「この子たち、一度日本に連れてきてあげたいな……」。そういうのがあって、気仙沼に楽器を届けたときに、「なんとか両方を会わせたい」と思ったら、ほんとうになっちゃったんです。
恵子:わたしたちはサッチモがいるからやっているってことです。
喜雄:ディズニーランドで演奏できたことも運命的です。サッチモに仕えて50年(笑)。その半分近く、23年間をディズニーの世界で、毎日何千人ものお客様を前に「現場のエンタテインメント」を体験した。おかげで、より深くジャズもわかったし、サッチモの世界、サッチモのジャズへの理解もとてつもなく広がったと思います。
——話は尽きないのですが、そしてもっと最近のお話もお聞きしたいのですが、それは次回とさせてください。今日はどうもありがとうございました。
喜雄:聞かれると楽しくなって、喋りすぎました。
恵子:懐かしくなって、いろいろ話しちゃいました。
2019-04-13 Interview with 外山喜雄・恵子 @ 千葉県・新浦安「外山邸」
写真提供:外山喜雄
公式サイト:日本ルイ・アームストロング協会
公式サイト:外山喜雄とデキシーセインツ