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【エグベルト・ジスモンチ】ブラジルの至宝 ジスモンチが明かした作曲の奥義と「あの日の出来事」

作曲家、ピアニスト、ギタリストとして、ブラジル音楽からジャズ、クラシックまで飲みこんだ壮大な音楽の宇宙を創造するワン・アンド・オンリーのマエストロ、エグベルト・ジスモンチ(1947年、ブラジル、リオデジャネイロ生まれ)。4月に3年ぶりの来日公演を行なった。

今回の公演は、70年代後半から80年代前半にかけてデュオを組み、日本を含む世界中を公演してきた、ナナ・ヴァスコンセロス(パーカッション&ビリンバウ奏者、ボイス・パフォーマー)とのコンビのリユニオン・コンサートと発表されていた。ところが、ナナ・ヴァスコンセロスが今年3月に71歳で他界。名コンビの復活は果たせなかったものの、ジスモンチは予定どおり来日し、ソロ(1部がギター、2部がピアノ)によるナナ・ヴァスコンセロス追悼コンサートを行なった。

コンサートはナナとの思い出を語りながら進行。ギターとピアノの至芸を堪能できただけでなく、ともすれば孤高の天才として近寄りがたい印象を与えがちなジスモンチの暖かい人柄が伝わり、これまでの来日公演と比較しても、彼とその音楽を最も身近に感じることができた。

このインタビューは、コンサートの前日に行なった。

バーデン・パウエルの家で…

——いまは亡き、ナナ・ヴァスコンセロスと初めて出会ったのは、70年代のパリだったと聞いています。

正確には、私たちが最初に会ったのはブラジルで、ルイス・エサ(タンバ・トリオのピアニスト/作曲家)の家だった。プロフェッショナルな意味で出会ったのがパリで、そのあと2年間で365回のデュオ・コンサートを行なった。

——それ以前、あなたはパリに留学してクラシックを勉強していましたね。一方、当時のナナは、ネイティブな音楽を演奏する打楽器奏者でした。音楽のバックグラウンドが異なる2人が、何故デュオを組んだのでしょうか。

その質問に対しては、別の角度から答えたい。私はコンセルヴァトワールで勉強していたときから並行して、ブラジルのポピュラー音楽やフォルクローレも聴いてきた。ブラジルの音楽家は、つねにそうだった。

たとえば、クラシックの作曲家ととらえられているエイトール・ヴィラ=ロボスは、ブラジルのフォルクローレの要素を自身の作品に取り入れていた。ヨーロッパ伝来のオーケストラ音楽にブラジリダーヂ(ブラジル人の気質)を反映させたのだ。クラシックを学んだアントニオ・カルロス・ジョビンの作品は、ポピュラー音楽として世界中で聴かれている。突然だが、マイケル・ジャクソンの『スリラー』が出たのは何年だ?

——1982年でした。

そうか。ASCAP(アメリカ合衆国の音楽著作権団体)の発表によれば、1980年からの4年間、世界中で最も多くの楽曲が演奏、放送された作曲家は、アントニオ・カルロス・ジョビンだったんだ。マイケル・ジャクソンの『スリラー』がヒットした年を除いてね。つまり何を言いたいかというと、ブラジルの音楽にはクラシックとポピュラーやフォルクローレとの区別が存在しないということだ。

——あなたが作曲して、それをピアノもしくはギターで演奏するにあたって、作曲の段階ですでにどちらの楽器で演奏するか決めているのでしょうか。それとも曲が出来てから演奏する楽器を決めるのでしょうか。

いい質問だ。その質問を25年前に受けていたら、答えは違った。現在、私は作曲する際に、ピアノかギターか、あるいはオーケストラか決めている。そして作曲するにあたって、私はピアノの前に座ることもないし、ギターを手に取ることもない。なぜなら“私が演奏できる範囲内”に楽曲を制限してしまうからだ。

だから、たとえばピアノのための曲を作って譜面にして演奏すると、演奏家である私が作曲家である私に対して怒るんだ。「なんだ、このクレイジーな作曲家は! こんな曲、演奏できない!」と(笑)。そのかわり作曲家としてつねに新たなものを覚え、学ぶことができる。結果として、ピアノのために書く曲とギターのために書く曲が近づいてきた。

また、私が演奏するピアノはギターの奏法に近づき、私が演奏するギターはピアノの奏法に近づいてきた。ピアノは、普通は左手でコードを、右手でメロディーを演奏するが、いまは左右の手が独立して“それぞれの声”を出す。そんな演奏になってきている。昔の私だったら考えられないことだ。

——ピアノに関しては正式な音楽教育を受けたと聞いていますが、ギターは?

私はギターを正式に学んだことはなく、クラシックピアノの練習曲をギターに置き換えて演奏していた。ブラジルのギタリストではバーデン・パウエルが大好きだった。彼が60年代にパリで録音したアルバム『モンド・ムジカル』を聴き返し、バーデンのギター演奏をすべて譜面に書き起こしてコピーした。

のちにアントニオ・カルロス・ジョビンがバーデンに「君の演奏を完璧にコピーしている若者がいる。目を閉じて聴いていると君が演奏しているみたいだ」と紹介してくれて、バーデンの家に呼ばれて初めて会うことができた。初対面の彼の前で『モンド・ムジカル』の曲をすべて演奏したら「誰が君に教えたんだ?」と言われたので「あなたですよ」と答えた(笑)。以来、私たちは良い友人になった。

私は“6千万人の中の一人”にすぎない

——作曲の話に関連した質問です。あなたは8弦、10弦、12弦などのギターを演奏してきました。通常のギターでは自分の楽曲を表現しきれないことが理由ですか?

もっと多くの音がギターに必要だという欲求があった。最初は8弦ギターを、ナナ・ヴァスコンセロスと一緒に演奏していた70年代に弾き始めた。その後、もっと音がほしいと思って10弦ギターを弾き、独自の弦の調律も研究した。私が演奏するギターはピアノの技法に基づき、ピアノで学んだことをギターに取り入れている。左手と右手の演奏は、それぞれ独立している。私はピアニスト的な発想のギタリストであり、伝統的な意味でのギタリストとは違うんだ。

——70年代前半までのアルバムには、インストゥルメンタルの曲だけでなく自ら歌った曲もありました。当時のあなたには、MPB(ブラジリアン・ポピュラー・ミュージック)のシンガー/ソングライターとしての側面もあったと思います。でもその後、歌うのをやめてしまったのは何故ですか?

私の家族は歌うことが大好きで、いつも歌に囲まれて育ったから、私もキャリアの初期はギターやピアノを弾いて歌っていた。でもその後、自分が目指す音楽のスケールが大きくなり、一般的な歌曲とは違うものになった。それに私は、そこそこ歌えるけれど、誰もが歌う国であるブラジルの中では、6千万人いる歌手の一人にすぎない。今でも家や友人たちの前では歌うけれど、わざわざ録音する必要があるとは思わない。

ただ、自分で歌わなくなってからも、映画や演劇やバレエの音楽を作曲するにあたって歌曲は作ってきた。私がいちばん好きな自分の歌曲は『ノ・カイピーラ』(78年)に入っている〈カンサォン・エスペーラ〉だ。女優でもあるゼゼ・モッタが歌っている。

——最後に、最近の活動内容を教えてください。

この3年ほど、リオデジャネイロとクリチーバで、若者たちの管楽器のオーケストラを指導している。最近、弦楽器のオーケストラの指導も始めた。コラサォンイス・フトゥリスタス(未来派の心。ジスモンチの76年のアルバム・タイトル)という、17歳から25歳までの男女19人のオーケストラだ。ブラジル国内とヨーロッパでも公演を行ない、私の曲だけでなくアストル・ピアソラやストラヴィンスキーの曲なども演奏する。彼らのためにストラヴィンスキーの作品を編曲してフォホー(ブラジル北東部のダンス音楽)に仕上げた。

ほかにも、私が運営する音楽プロダクションのカルモでは、年間に国内の約15州を巡回して数日間単位の音楽のワークショックを行なっている。私自身がエイトール・ヴィラ=ロボスやアントニオ・カルロス・ジョビンやバーデン・パウエルといった上の世代の音楽家から多くを学んだように、私が下の世代に音楽を伝えていく必要がある。残念ながらブラジルは教育環境がきわめて悪い国だから、私たち音楽家の手で若い世代にブラジル音楽を教えていかなければならない。苗を植えて、植えて、植えていくんだ。

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