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2016年11月2日のインタビュー記事を再掲
パリを拠点に、映画、ドキュメンタリー、舞台、コンテンポラリーダンスなど、多岐にわたって活躍する音楽家、三宅 純。その名は日本よりも海外のほうが知られているかもしれない。
しかし近年、リオ五輪閉会式(2016年)のハンドオーバーセレモニーで流れた『君が代』のアレンジに日本列島が震撼。さほど音楽に興味がない者でさえも、その名を「検索」する事態が起きた。そんな氏は「物音を立てるだけで怒られる」ような父親のもとで育ちながら、小学6年生のときに友人宅で聴いたジャズに衝撃を受ける。
その後、高校生となり「音楽家として生きて行ける才能があるか否か」を問うため、日野皓正氏の門を叩く。すると半ば強引にバークリー音楽大学への留学を勧められ、即興をモットーとするジャズ・トランペッターとして成長していく。
その後の活躍も目を見張るものばかりだが、じつのところ「三宅 純」とはどんな人なのか? 創作の源泉には何があるのか?
スタジアムで映えるアレンジに…
——まずは日本のみならず世界を騒がせた、リオ五輪のハンドオーバーセレモニーでの『君が代』についてお聞きします。パフォーマンス全体の企画・演出メンバーの一人として椎名林檎さんがいましたが、どういった経緯で三宅さんへのオファーがあったのでしょうか。
「2014年にパリで僕のコンサートがあって、そこに林檎さんが聞きにいらしていたようなんです。その数日後に東京へ向かう仕事があって、羽田空港で荷物が出てくるのを待っていたら『コンサート、とっても素敵でした』と声をかけてくださる女性がいて。名刺を頂いたら、そこに椎名林檎と書かれていまして」
——名前はご存知だったんですよね?
「はい、お名前は。そこから交流が始まって、今年(2016年)の4月くらいに『君が代』アレンジの相談を受けました。その際に、私がパリのコンサートで取り入れていた『ブルガリアン・ヴォイスのスタイルでできないか?』と打診されまして」
——椎名林檎さんの中ではすでにイメージがあったのですね。
「そうなのかもしれません。とはいえ、かなり挑戦的というか前例のないアレンジになりそうなので、本当にその方向性で問題がないか、諸方面に許諾をとって頂けますか? とお願いしたんです。僕としてはやるならば妥協したくなかったですし。調整は難航したようですが、それからひと月ほど後に(椎名さんからの)ゴーサインをもらいました」
——その時点で、ある程度の形は見えていた?
「いや、ブルガリアン・ヴォイスのスタイルそのままでやることには抵抗があったので、まずは『君が代』を歴史から掘り下げました。そこから過去のアレンジもいろいろと聴いてみて。でも、タブー度の高さゆえかバリエーションがほとんどないんですよ。唯一面白かったのは雅楽で演奏しているもの。あまり知られていない録音だったので、あえて『雅楽直球はどうですか?』と林檎さんに打診したんです。でも、彼女は『声のインパクトをスタジアムで出したい』と。それならば、当初の路線でやりましょうということになりました」
——『君が代』をアレンジするにあたって、具体的にはどんなコンセプトを立てたのですか?
「念頭に置いたのは、まずはメロディ本来の美しさを引き出すこと。東欧的なハーモニーを基調としながらも、雅楽の要素や近代クラシックなど西洋音楽の影響、さらにジャズの影響をハイブリット化させることでした。また、スタジアムという環境はどうしてもたくさんの残響があるので、複雑なハーモニーが重なっていくと濁ってしまうんです。その対策として、音が最低限ぶつかり合わないような間を入れています。あと、ブルガリンヴォイスにはこぶし回しがあって、それは日本の民謡とも近いので、できる限り多用しようと。今回は四声でのアレンジですが、当初は全員がこぶしを回すのではなく、上が回したり下が回したり、いろいろトライしたのですが、これは最終形まで残りませんでした」
——そんな話を聞くと、改めて聴きたくなります。でも『君が代』ってそもそも不思議な曲ですよね。
「いちばん不思議なのは終止感がないところで。えっ、どこで終わったの? っていう(笑)」
——音楽的に見ると、どういう楽曲なのでしょう?
「和的な5音音階の旋律に、あとから西洋和声を付けているので、現代国語と距離感のある歌詞ともあいまって、ああして不思議な感じに聞こえるのかもしれないですね」
同じ服を50着。廃番も自分で復刻
——本番のハンドオーバーセレモニーは、どこでご覧になったのですか?
「パリで観ました。フランスは明け方でしたね」
——そのときの率直な感想は?
「うわぁ、本当に流れた! っていう(笑)」
——ははは。その2日後のツイッターでは「支持して頂いた皆さんのキャパシティに感謝いたします」と書かれていました。やはり不安が大きかったですか?
「それもあるんですけど、和声の変化を素直に聴き取ってもらえた喜びのほうが強かったですね。また、声の質感を『何これ?』ではなく『おぉ!』という感じで受け取ってくれたことに感謝しました」
——私も今まで聴いた『君が代』のなかで一番かっこいいと思いました。
「ありがとうございます。これまでアンタッチャブルな領域でしたから。今後はさまざまアレンジが林立するかもしれないですね」
——パリの自宅でご覧になったとのことですが、普段はどんな毎日を過ごされているのでしょう。
「僕はどこに行っても同じリズムで過ごしています。7時くらいに起きてメールチェックをして、返事すべきことを20分くらいで終わらせて家を出る。15分くらい歩いてプールに着いて、30分くらい泳いで、また15分歩いて帰ってくる。そうするとお腹がすくのでご飯を食べます。その後に仮眠を取って、起きてからが仕事の時間。そこから集中して作曲や楽器の練習などをして、夕食はたっぷり時間をかけます。さらに仕事をしてしまうと覚醒して眠れなくなってしまうので、夕食後は放電タイム。夜中に散歩をして2~3時に就寝です。結果論ですけど、睡眠を2回に分けているので時差がある国に行ってもどちらかになんとなく当てはまるんです」
——過去のインタビューでは、パリを選んだ理由に「さまざまなミュージシャンやアーティストと出会えるハブ的な街だから」と答えていますね。とはいえ、住んで10年以上も経つといろいろな側面が見えてくると思います。
「そうですね、悪い側面には最初から遭遇しているんですけど。まず日本みたいにすべてが時間通りにキチッとしているわけではなく、日常生活に関しても水漏れがあるとか暖房が止まるとか、郵便が届かないとか宅急便が家まで来ないとか、そういうことは果てしなくあります。でも、路面を見なければ街はとても綺麗だし、ワインとか食材は美味しいですよね。食材とあえて言ったのはレストランの質が若干落ちてきてるから。と、話がそれましたが、コラボレーションのためのハブというコアな部分は変わらず存在します」
——三宅純さんといえば、変わらないファッションスタイルも魅力ですが、ほとんどがオーダーメイドだとか。
「えっ、なんでそんなこと知ってるんですか??」
——ロストバゲージで大変だったっていうツイッターを見まして。
「あれには参りました、いろいろ見て回ったけど気に入る服がお店に売っていなくて……。このパンツはヨウジヤマモトですが、いまは生産してないので特別に作ってもらっています。そうそう、昔、東京の家に出入りしてくれていたクリーニング屋さんが、毎日これと同じパンツが来るから『どうなってるんだ?』って思ったらしく、勝手にタグの後ろに番号をつけ始めたんですよ。僕もまぁほっといたんですけど、あるとき見たら“54”と書かれていて。『そんなにあるのか!』って自分でも驚いたんです。それが既に12年前くらい。パンツ以外にもタートルネックの定番があったり、お気に入りのベストやジャケットはすでにブランドがないので型をおこしてテーラードで作っています」
——それはすごいこだわりですね。いつからそのスタイルなのですか?
「たぶん80年代後半くらいかな。本当はしっくりくれば何でもいいんですよ。
着て落ち着くものが着たいだけなんです。年齢を重ねると派手な服でも似合うときがたまにあるので、今後は意外な服を着たりすることもありえるかも」
マイルスに落胆して「CMの帝王」に
——80年代といえば、東京でCM音楽をたくさん作られていた頃ですよね。僕はそのきっかけとなるお話が好きで。バークリーを卒業し、コンクールで賞も取って意気揚々と帰国するはずが、その直前に観たマイルス・デイヴィスのカムバックコンサートに落胆。ジャズは死んだ…と悲嘆に暮れる。その後、アンディ・ウォーホルの出演したCMに曲を提供し、これををきっかけに「CMのほうがジャズじゃないか!」と目が開き、多方面で活躍される。
「そうそう、そうでした」
——それまではジャズしか聴かなかったとか。
「そうです。小学校6年生からマイルスのカムバックコンサートを観るまで、純粋培養というか、他のものはカットしていました」
——あえて入れないようにしていたんですか?
「だと思います」
——でも、日本にいればテレビや商店街などで何かしら流れていますよね。当時は「歌謡曲なんて!」という気持ちが強かったんですか?
「シャットアウトしようと思いつつ、なかには気になって入ってくるものもあって。昭和歌謡とか、グループサウンズとか自然と流れていたものに関しては間接的に影響されていると思いますよ。後に、そういう要素が欠落してきたなと思って演奏したこともあるし」
——多様な音楽を吸収するようになったのは、やはりマイルスのカムバックコンサート以降なんですね。
「そうです。そこで急に耳がパーンと開けて。とにかくいままで制御してたものを取り払ったんです。そのタイミングでCMを始めたので、自分から行くばかりではなくお題としていろいろな話も急に来るので……」
——そこで面白い音楽に出会ったり。
「明日までに“100年歌い継がれたようなカンツォーネ”を書け、とかあるわけですよ」
——そういうオーダーがあると、まず何をするんですか?
「まずは『すでに100年存在している曲を聴かせてください』と。そこから模倣に入るとダメなんです。これは個人差があると思いますけど……僕の場合は、ある種、巫女のようになって『その土地の人はどんなものが鳴るとカラダが喜ぶのか?』。それを想像するようにしています。なので『カンツォーネならこんなコード進行だ』ではなく『あの景色のなかで、こんな魚を食べてこんな生活をしていたら、こんなメロディが流れると嬉しいだろうな』っていう」
——気持ちいいポイントを掴むみたいな感じですね。
「そうです。極めて感覚的ではありますけど、もともと即興を目指してきたので。そういう意味ではいつも理論的ではないんです」
——80年代のいわゆるバブル期にCMの仕事をしていた人たちは、みんな楽しそうに当時のことを話すんですよね。
「いや~、楽しかったですよ。自由度が高かったから。いまは映像にあらかじめサンプルの音楽が付けられていて『これに限りなく近い世界観で行け』って言われるけど。当時は、ギリギリまで何が出てくるかわからなくてもOKだったから。でも日本の発注って、付け焼き刃でもそれらしくできると『おーっ!』って言ってもらえるんです。パリに移っていちばん違った点は、その世界の本物がゴロゴロいるわけで。たとえば、ジプシー・キングスらしさが欲しければ本人を連れてくればいい。そんな状況に身を置いてみて、今まで通りではマズいと思いましたよね。でも、逆に日本人的というか、自分の肌合いに合うよう異種交配するっていうのは誰もやっていないわけです。その辺で自分の定位置が見つかったともいえますね」
ーー本物をすぐに呼べる感覚っていうのは日本にいるとわからないですよね。ゆえに、三宅さんのハイブリット感は彼らにとって新鮮なんですね。
「もちろん単体としてメロディに普遍性があることが前提だとは思いますけど」
「姿勢としてのジャズ」に感じるスリル
——バブル期の終わりとともにクリエイティブの制約が厳しくなる。それと呼応するように海外生活を志すわけですが、同時期に離婚も経験されて。子育てもあって10年間は日本に残ったわけですよね。アーティストとしての焦りや葛藤はありませんでしたか?
「正直にいえばありました。『軸足が広告に傾き過ぎている。もう少しアーティスティックな部分に戻らなくては』って。そのためには、まったくの異邦人になったほうがいいという考えが膨らみつつ、なんの保証もなくやっていけるのか? という不安がありました。それは行ってみるまでありましたし、行ってからも、そして今でもないとは言えない。でも、あの10年間はいろんなことを考えてしまい、原因不明のめまいとかもありました」
——パリに渡ってからは、舞台音楽や映画音楽などさらに多岐に渡って活躍されています。舞台を観るなど、音楽以外の領域に興味を持ったのも“マイルスショック”の後なのですか。
「そうです。興味はもともとありましたけど、それよりもまずは演奏家になることばかりを考えて修行僧のような生活を送っていたので」
——その当時は、「自分はジャズミュージシャンだ!」という意識で生活されていたわけですよね。
「はい」
——現在はもっと広義の「音楽家」として活動されていますが、いまの日本のジャズシーンを覗いたときに何か思うことはありますか?
「ジャズ自体を否定する気はまったくないですが、僕自身、(音楽的な)様式としてのジャズではなくて、メンタルとしてのジャズにスリルを覚えていて、そこを追いかけているわけです。でも、いまの時代に飽和していない音楽ジャンルなどなくて、だからこそ自分はハイブリット化しようとしていて。一方で、昔よりもテクニカルレベルの高い、若いミュージシャンはたくさんいます。でも、大きく欠けているのはイノベーションが次々と起こっていた時代のマインドなんですよね。それを従来型のジャズで取り戻すのは大変なことだと思っています。もちろん、それを実現できている人もおられるんでしょうけど」
——そうした創作の面で、最近の関心事は?
「まだ形にはしていませんが、サウンドデザインに興味があって。もう長いあいだ自分の作品にアンビエント音みたいなものを取り入れているんですけど、そこを少し発展させようかなっていうのはあります。どこに活かせるのかまだわからないですけど。可能性を感じるんです」
——ご自身名義のアルバムを制作中と聞きましたが。
「はい、常に作ってはいるんですけど」
——現在進行形は『Lost Memory Theatre』のact.3ですか?
「そうです。act.3で一応、終わりにしようと思っていますが、完結編らしさを出せるかが難しくて。『Lost Memory Theatre』はライフワーク的なテーマなので続けますが、このタイトルで発表するのは最後だと思います」
——『Lost Memory Theatre』は、時間や時代がよくわからなくなくなる音楽ですよね。
「わからなくなっちゃってください(笑)。僕は、音楽を“時間の芸術”だと思っていて。時間を操作できるということが音楽のひとつのマジックだと思うんです。だからこそ、その高みに行きたい」
——“音楽の中で流れている時間”をコントロールする、ということですか?
「音楽の力で聞いている人の時間を圧縮したり、引き延ばしたり、あとはひとつの音、一瞬に永遠を封じ込めること。例えば、コルトレーンが吹いたひとつの音は僕にとって永遠を感じる。そういうことが自分でもできたら嬉しいですし、いろんな意味での時間です」
——なるほど。ますます次のアルバムが楽しみになってきました。今日は長い時間ありがとうございました。
取材・文/富山英三郎
写真/JAMANDFIX(REALROCKDESIGN)
2016年11月2日のインタビューを再掲
PROFILE ◆ 三宅 純/Jun MIYAKE
1958年京都府に生まれ、鎌倉で育つ。高校時代よりプロとしてライブ活動を開始。高校卒業後の76年にバークリー音楽大学へ入学。在米中は自己のグループを率いて、ボストン、ニューヨークで演奏活動。81年にはマサチューセッツ州アーティスト・ファウンデーション主催の作曲コンクール・ジャズ部門で優勝。同年に帰国後、ジャズミュージシャンとしてライブ、スタジオワークを開始。作曲家としても頭角を現し、CM、映画、ドキュメンタリー、コンテンポラリー・ダンス等多くの作品に関わる。
83年にデビューアルバム『JUNE NIGHT LOVE』をリリース。同作収録曲がアンディー・ウォーホル出演のTDKのCMで起用され、以降、本格的にCM音楽制作を開始。のちに「CM王」の異名をとるほどCM音楽界では有名に。これまでに手がけたCM曲は3000作を越え、カンヌ国際映画祭などでの受賞作も多数。96年にはオリバー・ストーンの推薦によりクリエイティヴ・アーティスツ・エージェンシー(CAA)と作曲家として正式契約。海外アーティストとの交流も深く、パリ・シャイヨー宮におけるフィリップ・ドゥクフレとの即興セッション(2000年)、ロバート・ウィルソンの『The White Town』の音楽監督(2002年)、北京での京劇俳優との即興セッション(2002年)、ベルリン・ジャズ・フェスティバルへの参加(2003年)、ピナ・バウシュ、フィリップ・ドゥクフレ、カトリーヌ・ウィードマン等ダンス作品への楽曲提供(2005−2010年)、ヴィム・ヴェンダース監督作品『ピナ』への楽曲提供(2011年)等で 国際的な評価を受けている。
05年秋よりパリにも拠点を設け、精力的に活動中。オリジナルアルバム『Stolen from strangers』(2007年)、および『Lost Memory Theatre act-1』(2013年)は、欧米の音楽誌で「年間ベストアルバム」「音楽批評家大賞」などを連続受賞。ギャラリー・ラファイエット・オムの「2009年の男」に選出され、同年5月にはパリの街を三宅純のポスターが埋め尽くした。主要楽曲を提供したヴィム・ヴェンダース監督作品『ピナ/踊り続けるいのち』はEuropean Film award 2011 ベストドキュメンタリー賞を受賞、またアカデミー賞2012年ドキュメンタリー部門、英国アカデミー賞2012年外国語映画部門にノミネートされた。