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今年4月上旬、マイルス・エレクトリック・バンドが来日公演をおこなった。その名の通り、マイルス・デイヴィスの“エレクトリック期”に着想を得たグループ(総勢10名)で、メンバーも超一流。なかでもコアメンバーとしてバンドを牽引する3名はマイルス本人との関係も深い。
まずは、マイルスの甥でもあり、『デコイ』(84年)、『ユア・アンダー・アレスト』(85年)といったアルバムにドラマーとして参加したヴィンス・ウィルバーンJr.。
同じく80年以降、マイルスバンドに在籍し、マイルス最長のコラボレーターのひとりとして知られるロバート・アーヴィング3世。
さらに同時期、ベーシストとしてバンドに参加し、現在もローリング・ストーンズのサポートメンバーとしても知られるダリル・ジョーンズ。
彼らは“あの当時”を最もよく知るマイルス門下生であり、とりわけ「エレクトリック期のマイルス作品」への再評価の機運が高まる現在において、重要な証言者ともいえる存在。そんな彼らが語る「いま、なぜエレクトリック・マイルスなのか?」そして「マイルス・デイヴィスとは何者だったのか」。聞き手は、マイルスに最も接近したジャーナリストのひとりとしても知られ、みずからも、エレクトリック期のマイルスに触発されたバンド“Selim Slive Elements”を率いる小川隆夫。
マイルスの音楽を前進させるために…
小川隆夫 まず始めに、このバンドの結成の経緯を教えてください。
ヴィンス・ウィルバーンJr. ロスのサンセット・ジャンクションっていうフェスティバル。それが最初だ。
ダリル・ジョーンズ あれはたしか2010年だったな。
ヴィンス 結成当時はマイルスのトリビュート・バンドではなく、マイルスの音楽を俺たちなりに解釈して演奏する、っていうテーマでスタートした。この2人(ダリル・ジョーンズとロバート・アーヴィング3世)は俺にとって兄弟同然だから、最初は彼らのようなコアなメンバーで話し合ったんだ。実際に俺たちはマイルスと一緒にプレイしてきたからね。彼の音楽を最高の解釈で表現できる方法とはなんだろう? と、一緒に話し合った。その過程も楽しかったよ。みんなが素晴らしいアイディアを持っていて、全員が提案してきたんだ。すべては「マイルスの音楽を前進させるため」という気持ちでね。
小川 具体的にはどんな話し合いを?
ダリル サウンドに関することは、すべてさ。
ヴィンス 例えば、どの曲をプレイするか? ってところから、どの町(国)で、どのトランぺッターをフィーチャーしようかってことまで徹底的に話し合う。ニコラス・ペイトンのときもあれば、ウォレス・ルーニーのときもある。今日はエティエンヌ・チャールズ。オーストラリアではクリスチャン・スコット。ハワイに行けば(マイルス映画の)サントラでも吹いているキーヨン・ハロルド。ダリル・ジョーンズがトランペットをやる可能性だってある。
ダリル はぁ!?
ヴィンス 冗談だよ。ははは。
小川 でもほとんどのメンバーは固定しているんだよね?
ヴィンス 固定っていうより、コアメンバーがいる、って感じかな。
ダリル 俺が(2010年の)サンセット・ジャンクションで気づいたのは、かなりの数のバンドが、マイルスのそれぞれの時代の音楽を演奏していたってことだ。そのとき思ったのは、俺たちがマイルスと演奏していた時期(のマイルスの音楽)は敬遠されることもあるから、そんな状況の中でどう演奏するか? ってことだった。
ダリル それともうひとつ。俺たちがなぜ若い世代のミュージシャンを使うのかというと、音楽を前進させるためなんだ。「俺たちがマイルスと一緒に演奏したときはこういう感じだった」という表現方法や形式を、若い世代に理解してもらうためなんだよ。いまのエレクトリック・ミュージックは『ビッチェズ・ブリュー』あたりのサウンドの延長線にあるわけだろ? あの頃のマイルスが発展したんだよ。
ロバート・アーヴィング3世 そうだね。あれは音の変換期だったといえる。まるで化学反応のように、純粋なアコースティックから変換したわけだよ。現在ではみんながエレクトリカを高貴なサウンドにするために生楽器を取り入れようとしてる。でもそれはマイルスがすでにやったこと。マイルスがドラムマシーンと生楽器の音を、シーケンサーもだけど、融合してただろ? たぶんそんなことをしたのはマイルスが最初だったんじゃないか?
リハ現場にマイルスからの電話
小川 ところで、みなさんはシカゴ出身で、マイルス・デイヴィス・バンドに加入する前から、お互いを知ってたわけですよね。
ヴィンス そうだね。ダリルがいちばん年下。ベイビーってことだな(笑)。ロバートと俺は昔から一緒にファンクバンドをやっていたり……、ほら、俺たちはそういう関わり方なんだよ。一緒にバンドやったりもするし、各々が街のどこかでプレイしてて、ライバルではなく、どこかで繋がってる……そんな関係だったね。
小川 マイルス(との関係)以前に、お互いを知っていた?
ヴィンス 知ってたよ。ドラマーもキーボーディストもみんな一緒にツルんでた。
ロバート もちろん、一緒にプレイすることもあった。
ヴィンス そういえば当時、ロバートと俺が一緒にバンドをやってて、マイルスがリハーサル現場に毎日電話してきてたよな。電話越しに意見をあれこれ言うんだ。そして、ある日マイルスが「お前たちレコード作らないか?」って言い出した。それが『マン・ウィズ・ザ・ホーン』(マイルス・デイヴィス/81年)になったんだ。
ダリル いま、ふと思いだしたんだけどさ、2人がマイルスと会った夜、町に戻って来て、俺と一緒に過ごしたよな。
ヴィンス あのとき、お前はキース・ヘンダーソンとギグやってたよな。
ダリル 場所はストーニー・アイランド……だっけ?
ヴィンス いや、あの隣だよ。
ダリル ヘラルド・チキンの隣? っていうか、そんなことはどうでもいいんだよ(笑)。俺たちは古くからの仲間だったってことを言いたかったんだ。
ヴィンス お前の家の前で車を停めたのは覚えてるんだ。あのとき誰が一緒に車に乗ってた?
ダリル お前らは俺の家の前にしょっちゅう車を停めて話してたじゃないか(笑)。それより、俺はロバートに訊きたい。ロバートは俺のことをいつ知った?
ロバート いい質問だ。
マイルス作品への参加経緯
ダリル その前にひとつ言わせてくれ。俺をここまで仕込んでくれたのはロバート、あんただ。初めてのレコーディング・セッションのときも一緒だった。それにたぶん、俺が初めてクラブでギグをやったときも一緒だったはずだ。クラブで(法的に)演奏できる年齢に達してなかったからね。たしか俺がまだ16歳だか17歳ぐらいのとき。
ヴィンス ロバートはきっと噂で聞きつけたんだぜ。若くてホットなヤツがいる、って。そうだろ?
ロバート そうさ、俺はどこかでお前の噂を聞いたんだ。
ダリル そういえば、高校1年のときに、オーケストラのディレクターにこう言ったのを覚えてる。「今日のオーケストラのリハーサルには参加できません。23rd通りとコッテージ・グルーヴ・アベニューの角にあるブーチーズ・ブルーズ・クラブの2階でレコーディング・セッションがあるから」って(笑)。それが俺にとっては最初のレコーディングだ。あの頃からずっと一緒にいるんだな……。
小川 それって70年代の話だよね。
ダリル そうだね。77年くらいか? ヴィンスと俺が一緒にプレイし始めたのは……あれは俺が大学から戻ってきたときだから……79年か80年だね。ギグに向かうときは、いつもヴィンスが俺を迎えにきて、帰りも送ってもらってた。で、うちの前に車を停めて、シートに座り込んで考えるんだ。「俺もいつかマイルスとプレイしたい」って。そんなことを夢見てた。彼とライブで演奏できたらどんなにクールだろう、ってね。
小川 その時にはすでに、彼(ヴィンス)がマイルスの甥だってことは知ってた?
ダリル あぁ。もちろん。彼らが『マン・ウィズ・ザ・ホーン』をレコーディングしてた時だからね。
小川 『マン・ウィズ・ザ・ホーン』のレコーディングは1980年の5月だったよね。
ヴィンス 1979。
ロバート そう。1979年だよ。
小川 本当に? 僕が持ってる資料では80年になってたな。
ヴィンス あれは長いプロセスを経て完成したものだからね。79年の夏から80年にかけてレコーディングして、レコードが発売されたのが81年。「1980s」って曲があったぐらいなんだから。
思い出のレストランはいま…
小川 ロバートは、そのとき初めてマイルスに会った?
ロバート さっきヴィンスが言ってたように、俺たちのバンドがリハーサルしてるのを、電話口でマイルスが聴いてるのさ。リハーサルが終わるとそれぞれがマイルスと直接電話で話すんだ。褒めてもらったり、アドバイスをもらったり、いろいろさ。彼はとにかく新しい音楽が生まれてくることに興味を持って聴いていてくれた。彼自身がプレイを休んでたこともあって、俺たちの音が彼の耳を引き寄せたんだろうね。
小川 当時、マイルスと音楽を作ることに不安は感じなかった?
ロバート 不安? まったくそんなものはなかったね。すごく楽しみにしてたよ。自分たちがいつもやってることの延長線上で、楽しくやった。進化し続けるワークショップのような感覚だったな。
ヴィンス 彼は常に温かく俺たちを迎え入れてくれた。厳格にオーディションしたりとか、そんな感じじゃなく、食事をオーダーしてくれたり……。彼のリビングルームでリハーサルしたこともあったぜ。いろんな機材を持ち込んでな。近所にキューバ料理のレストランがあってさ。今でもあるけど。
ダリル 今もあんの!? マジか!! あそこ好きなんだよ俺。
ヴィンス あぁ、最高だ。そこの料理をいつもオーダーしてくれて……。
ロバート キューバン・チャイニーズな。
ダリル そうそう! キューバン・チャイニーズ!
ヴィンス 当時働いてた人たちは、今でもいるんだぜ。
ダリル すげぇ!
小川 アッパー・ウエストだよね。
ダリル そう、78th通りとブロードウェイ。
ヴィンス そこでいろいろ買い込んで、ひたすらプレイしまくったよな。サンドウィッチとかペリエとか、好きなものを買ってきてさ。
ダリル あぁ、オレンジーナとかな。じつは昨日ここ(東京)のスーパーでふと顔をあげたら目の前にオレンジーナがあったんだ。その瞬間、思い出したんだ。あの日、マイルスにオレンジーナを勧められて飲んだことを……。俺が何を言いたいのかっていうと、お前(ヴィンス)にマイルスを紹介された日のことさ。あのとき、マイルスとのオーディションをセッティングしてくれたよな。
ヴィンス あぁ。でも、そこはもっと詳しく話さなきゃダメだよ。
ダリル その話はもう何度もしてるじゃないか……。
ヴィンス いいじゃないか、言えよ。
仲間だけが知るマイルスの人間性
ダリル わかったよ。じゃ最初から話そう。俺が初めてマイルスに会った時の話だ。あの日、ニューヨークに到着してすぐ、ヴィンスに言われたんだ。「52nd通りと8thアヴェニューのハワード・ジョンソンズ・ホテルに行って、そこで待ってろ。電話するから」って。まるでスパイになったような気分だったよ。「そこで俺の電話を待て」なんてさ(笑)。で、ホテルで待ってたら電話が鳴って「今から言う住所をメモしろ」って(笑)。言われた住所に移動してしばらく待ってたら、でっかいリムジンが目の前に停まった。そこからヴィンスが出てきて、その後でマイルスが出てきた。2人がロビーに入って来て、ヴィンスがマイルスに俺のことを紹介してくれた。そしたらマイルスが俺を見て、ヴィンスを見て、また俺を見た。そしてまたヴィンスを見て、こう言ったんだ。「おいヴィンス、こいつ、変な顔の男だな」って(笑)。そこで俺はマイルスに訊いた。「ジャコ・パストリアスを知ってます?」と。マイルスの答えはイエスだったから、俺はこう返したんだ。「彼(ジャコ)は、僕があなたに似てる、と言ってました」。そしたらマイルスは「……うん、確かに似ている。目の周りが」って(笑)。
小川 あははは。
ダリル で、そのあと一緒にエレベーターに乗って上階にあがるとき、俺がガムを噛んでたんだ。そしたらマイルスが「ガムを一枚くれ」っていうから、「いまのが最後の一枚だったんです」って答えたら、マイルスが「お前はニューヨークまでわざわざ来て、ガムを一枚しか買わなかったのか?」って(笑)。じつはそうやって俺をリラックスさせてくれてたんだよ。俺の顔が変だとか、そういうとこから始まって、最初から俺の緊張をほぐそうとしてくれてたんだ。すっごいチャーミングだろ? おかげでオーディションに対して恐怖は一切なかった。あなたの「不安だったか?」って質問の答えがここにある。彼は本当にチャーミングなやり方で、肩に手を回して、俺の緊張をほぐしてくれた。「この人はマイルス・デイヴィスなんだ」ってことはわかっていても、すごく温かい人だったから、その事実はあまり考えずに過ごすことができたんだ。偉人の前にいさせてもらってる、というよりも、その場にいていいんだって気分にさせてもらえたんだ。
ヴィンス マイルスはそういう相手の緊張感や不安に敏感だった。
小川 確かに、彼は温かくてチャーミングで……
ダリル そう、すごくファニーな人だった。あまりこのことについては語られないけど、彼は本当に優しい人だったんだ。あの(オーディションの)日、俺がプレイする前に彼がこう言った。「いいか? もしここでお前が採用されなくても、お前が下手だというわけじゃない。ただ俺が違うものをいま求めているだけ、ということだ」って。俺がまだ一音も発してないのに、先に俺の気持ちを考えてくれるなんて、普通じゃできない。彼の素晴らしい側面だ。
小川 ロバートはマイルスと一緒にプレイすることで何を学んだ?
ロバート 俺は初めてマイルスと会った日、目の前でピアノを弾いてくれって言われた。俺のバックグラウンドはブルース、ゴスペル、ジャズ、フュージョン……それら全部を少しずつミックスして弾いたんだ。すると彼が俺のところに来た。俺が慌てて立ち上がろうとしたら、彼は「いいから、座ってろ」って言いながら、俺の肩越しに腕を伸ばして、鍵盤に手を置いた。で、ものすごく複雑なハーモニーを弾いたんだ。俺はそのセオリーがわかったから、彼がなぜそれを弾いたかのもすぐに理解できた。彼が創り上げていたのは、テンション、リリース、テンション、リリース……。衝撃的だったよ。ハーモニーにこれだけの可能性があるんだ! って。目が覚める思いだった。そこから俺は完全に変わった。その瞬間ですべてが変わったんだ。彼はまるで医者が診断を下すかのように、俺が次のレベルに上がるためには何が必要かすぐに分かったんだ。それから俺は1時間そのピアノの前に座って、自分が思うままに弾いたよ。マイルスはソファに座って「そうだ、いいぞ、わかるか? そうだよ」って。あれは俺にとって一生残る最高の学びであり、今でもそれを感じながらやってる。
バスケの試合会場に行った理由
小川 ダリルは? マイルスから何を受け取った?
ダリル 俺は「聴く」ことを学んだね。マイルスと一緒にやり始めて3、4か月くらい経った頃、シンディ・ローパーの「タイム・アフター・タイム」を覚えろって言われたんだ。俺は「マジかよ、マイルスは俺たちにポップソングをプレイさせる気なんだ……」って動揺したんだけど(笑)、リハーサルをはじめたとき、彼がメロディを口ずさみながら「この部分を弾き続けろ」って。それからまた別のメロを口ずさんで「この部分になったら一気に盛り上げるぞ」って言うんだ。それに対して俺は「16小節でいくべき? 32小節でいくべき?」って訊いたんだ。すると、知るかテメェーこのボケが!って勢いで「俺が盛り上げたらお前も盛り上げればいい。それだけだ」って。俺は若かったし「そ、そ、そうか、わかったよ……」って、シュンとしちゃってな(笑)。で、それ以来、彼の意図を感じながらついていく、とでも言うのかな。ステージで彼が演奏しながら行ったり来たりしてるのを見ながら「やるべきこと」に備えた。聴いている以上のことをしたのさ。彼の向かおうとしている場所を察知し、彼の意図を理解するためにな。この感覚は、俺の音楽キャリアで経験した全ての状況で役立っている。もしその方法を学んでなかったら、今のように成功はしていなかったと思うよ。よく自分の生徒に言ってるよ。「ここには俺よりも優れたミュージシャンがいるかもしれない。でも俺ほど“聴く”ことができる奴はいないはずだ」って。
ヴィンス 俺はやっぱり状況が違うよな。彼の甥であるわけだから。いつも彼を喜ばそうと頑張っていたし、そうしなきゃという思いに苛まれていたことは事実だ。彼はドラマーには厳しかったとは言いたくないけど……。
ダリル いや、厳しかったよ。ものすごく。マイルスはお前だけじゃなくて、トニー(ウィリアムス)にも同じだったし、アル・フォスターや、リッキー・ウェルマンにも厳しかった。まるで彼自身が“叩かないドラマー”みたいだったな。プレイしながら盛り上がってくると、マイルスは「俺の頭に流れているチューンをやれるか試してみよう」ってモードになるんだ。当然、うまくいかないこともあるんだよ。
ロバート 彼はある程度、俺たちを拘束していた部分もあって、実際に痛めつけられたこともあった。かなり厳しく「自分自身の伴奏をするな」とか「バンドは即興するな」とか。ブルースをやるときに「オクタトニック・スケールはプレイするな」って言われたこともあるよ。ブルースでその音を使わないってのはありえないんだよ。でも「他の方法を考えろ」って。制限を与えることで音を作っていったんだ。ただし、ドラムの場合は、ドラマーに制限を与えすぎると問題が発生する。ドラマー全員が不満を言ってたよ(笑)。以前、マイルスがTVのインタビュー番組『60 Minutes』で、こう訊かれたんだ。「レイカーズ(バスケ)の試合会場でよく見かけるけど、ファンなんですか?」って。するとマイルスはこう答えた。「ゲームを観に来てるんじゃない。リズムを聴きに来てる」。彼はどんなものにも常にリズムを感じていた。それをそのままドラマーに再現させようとしたんだ。アル・フォスターがイタリアのポンペイでのショーで、いきなり叩くのをやめた日があった。
ダリル ああ。あの夜のことは覚えてるよ。
ヴィンス プレイするのをやめて、ただドラムセットに座り込んでた。マイルスにいちいち指示されるのにウンザリしたんだ(笑)。観客は1万人ぐらいか? みんな茫然としてたよ。ステージがシーンとなって、マイルスが言った。「アル、頼むよ」って(笑)。
一同 (爆笑)
ヴィンス あれ以来、アルには必ずソロの時間が与えられることになった(笑)。マイルス自体が常に欲求不満のドラマーみたいなもんだったよ。
伝承者たちに課せられた責務
小川 マイルスは叔父としてはどんな存在でしたか?
ヴィンス 俺にとって? とても過保護だったよ。甥としてはすごく大切にしてもらった。それは間違いない。マイルスと一緒にしたことやバンドでの経験は、いま俺がやっていることの準備期間だったと思っている。彼から言われたんだ。「俺がこの世を去ったら、甥のお前が引き継ぐんだ」って。だからいま、それをやってる。しかも、ひとりじゃないんだ。このブラザーたちと一緒にやってる。俺は一人っ子だから、このふたりが俺にとっては兄弟なんだ。マイルスは今でも俺たちのそばにいる。このふたりと一緒にいると、マイルスの存在を感じるんだ。感じ過ぎて眠れない時もある。特にツアーでマイルスの曲を演奏するってときは、彼の存在を感じるのさ。「おまえ、やっとわかってくれたんだな」って言ってる気がするよ。ダリルに教えたこと、ボビーに教えたこと、3人一緒にちゃんとわかってやってる、って。俺たちはいまでも、マイルスと初めてプレイした時と同じような感覚のままさ。俺たちの中には熱いものが残ってる。メンバーの中にはマイルスが生きていた時代にまだ生まれてない者もたくさんいる。それでも一緒にやれるということは、俺たちがやってることは間違いないってことさ。いまは一緒にやってないメンバーもいるが、いまでも連中のことを俺は大好きだし、彼らも俺を慕ってくれてる。ダリルだってそうさ。いまは一緒にやってなくても、みんなと連絡を取り合ってる。ゲイリー・バーツも俺たちとプレイしたがってたんだぜ。
ダリル ゲイリーはサンフランシスコに引っ越して、先週サンフランシスコでプレイしたときに会ったよ。みんな一緒にプレイしたいと言ってくれるんだけど、タイミング、スケジュールがなかなか合わなくてね。エディ・ヘンダーソンもそうだし、テレンス・ブランチャードもそう。これまでたくさんの人たちに連絡したけど、みんな一緒にやりたいって言ってくれた。それもクールだよね。
小川 ところで、映画『Miles Ahead』(ヴィンスがエグゼクティヴ・プロデューサーを務める)が公開されましたよね。お二人も観ていると思いますが、感想を教えてください。
ヴィンス おいダリル、言ってやれよ(笑)。
ダリル いいのか?(笑) これは俺の個人的な意見だが、あの映画は、誰もが納得いくように完成させるのは不可能だと思うよ。マイルスは本当に不思議な人物だったから、そもそも「彼のような人を、俳優が演じるなんて」って思ってたんだ。そういう意味では、ドン・チードルの演技には本当に感銘を受けたよ。彼は本当に素晴らしい俳優だと思う。
ロバート 俺にとっては、写実的ではなく印象的に描かれたものだと思っている。つまり、観念的な本質を感じ取ることができても、鮮明な現実を観ることはできない。だからまず、あの映画は内容のほとんどは脚色されているってことを明確にしておきたい。それを理解して受け入れることができれば、楽しむことができる。でも実際に起こったことがありのままに表現されているシーンはフラッシュバックのように頭に甦ったよ。例えば冒頭のシーン。最初の30分は、俺たちが実際にいたときのことだ。あのシーンを観ていて「あぁ、覚えてる」と過去に戻った感覚だった。ただ、やっぱり現実的ではなかったよ。
小川 彼らのコメントを聞いてどうですか?
ヴィンス 俺も正直、脚本を読んで、ちょっと待ってくれよ、って思うところもあったわけさ。ドン、マジかよ!? って(笑)。マイルスをマーケティングする奴が現れて、マイルスを部屋に缶詰にするなんて、そんなことができる奴はいないからね。でも、俺自身がドンと会って、ドンを選んで、ドンに演じてもらいたいと思ったんだ。脚本に関しては、完成させるまでにいくつかの障害があることは予想できていた。家族の中に、意見する人もいるだろうということも。でも、俺個人としては、成功した作品だと思っている。ドンがこの作品のために自分自身を注ぎ込んだことに、本当に感銘を受けているんだ。監督デビューな上に、マイルスを演じるんだぜ。元々はアントワーン・フークアが監督で、スコアはハービー(ハンコック)で、ドンが演じることになってたんだ。
小川 途中で制作プランが変わった?
ヴィンス いろいろ調整がつかなかったり、バジェットの問題もあったからね。だから、ドンが脚本も書いて、あれもこれもやって……。それで、俺がドンをサポートしなきゃと思ったのさ。正直に言って、最初の頃のスクリーニング(試写)は見てて辛かったよ。さっきロバートも言ってたように、信じられる部分とそうでない部分がある。つまり、フィクションなわけだ。マイルスのキャリアを1本の映画で許される時間に収めるなんて、所詮は無理な話。だから俺はただ(マイルスの)映画が存在する、それだけで満足なのさ。じつはいま、ドキュメンタリーとして彼の生涯をまとめているんだ。映画でカバーできてない部分をまとめるんだよ。インディ映画で自分で監督できる。そうできるってだけでちゃんと夜眠ることができる。俺は自分がやったことに誇りを持ってる。だってさ、ハリウッドが相手だろ? 映画を作るのは本当に大変なんだ。制作会社に売り込みに行ったときも、思わず退席して「ドン、俺にはできない」って言ったくらいだ。
ダリル あれの4、5倍の長さがなきゃ無理さ。
ヴィンス だよな。続編があるべきなんだ。他にたくさんのミュージシャンから、いろいろな意見を聞いたよ。レニー・ホワイトが連絡してきて「あれ一体どうなってるんだよ」とかな(笑)。でも俺に言えるのは「これは映画だから」ってことだけだ。まぁ、俺はあの映画のエグゼクティヴ・プロデューサーだからさ。すっごく気に入ってるよ。映画は映画だ。
小川 ドキュメンタリーでなくて。脚色された部分もあるわけで。
ヴィンス そう。エンターテイメントだから。あれとは別に、ちゃんとしたドキュメンタリーを出そう。それだけだ。
小川 いまでもたくさんの人たちがマイルス・デイヴィスと彼の音楽を愛していますからね。それがいちばん重要なこと。
ヴィンス その通りだ。例えばあの音楽(サントラ)は、マイルスのものに間違いない。それがグラミー賞を獲ったんだ。最高だよ。彼の音楽がいまでも人の心に響くということがわかったわけだから、素晴らしいよね。彼が亡くなったのが91年だから、もう28年? それでも愛され続けている。それが重要なことなんだ。そして俺たちはそれぞれ別のバンドにいたり、違う仕事をやっていたとしても、こうして腹を割って話ができる。俺たちは永遠にマイルスで繋がってるんだ。
ダリル そのことを誇りに思ってるぜ。
ロバート ああ。俺も同じ気持ちだ。
ヴィンス 俺たちは“マイルス・デイヴィス学校”の卒業生だからな。そのことは本当に誇りに思うよ。
協力:ビルボードライブ東京 http://www.billboard-live.com/