投稿日 : 2017.05.09 更新日 : 2023.11.10
【小川隆夫 インタビュー】“衝撃的著作を連発”のジャズ・ジャーナリストに訊く
取材・文/楠元伸哉 撮影/天田 輔
青年時代はギター演奏に没頭
──小川さんが生まれたのは1950年。その頃の日本は、まだ大戦の名残りもあり、また、高度経済成長に向かう時期でもあります。
そうだね、まさにそんな時期。僕は渋谷で生まれ育って11歳のときに世田谷に引っ越すんだけど、自分の中に残っているいちばん古い記憶は、3歳とか4歳くらいの渋谷の風景ですね。
あの頃の渋谷は、駅の周りにバラックがあって、東急百貨店もバラックの食料品売り場みたいなのが出発点。いまバスターミナルになっている場所は当時、無料の駐車場だった。砂利が敷いてあってね。父親は渋谷で医者をやってたので、いつもそこにクルマを停めてた記憶がある。
真横に246(国道246号)あるでしょ、あれを僕ら子どもたちは “50メーター道路”って呼んでて、本当は50メートルもないと思うけど、それを横切って桜ヶ丘の幼稚園に行くのが、僕にとっては大冒険だった。
──いまの渋谷と比べると、のどかでのんびりしたイメージですけど、ちょっと危険な一面もあったのでは?
駅の周りには傷痍軍人がいてね、脚を失って松葉杖をついていたり、盲導犬を連れていたり、スチールギター弾いてる人もいた。それから、火事場から持ってきたような炭だらけの万年筆を「本当は1500円するけど300円でいいよ」っていう物売りの人がいたり、バナナのたたき売りもいた。それが僕の子供時代。まあ、決して良い環境ではないね(笑)。
だから、僕が小学5年生のときに、親父は世田谷に家を建てた。親父は渋谷で開業していたから、自宅から渋谷の医院まで通ってたけど、僕は中学も高校も世田谷の学校に通うんです。
──成城学園ですよね。
そう。ところが僕が中学くらいになると、渋谷が繁華街になってきて。ゲームセンターに遊びに行くのが楽しくてね。学校の帰りに渋谷に寄っては補導されたりしてました(笑)。
──それが60年代の半ばですよね。東京オリンピックを間近に控え、街はどんどん活気づいていく時期。
高校生になった頃には、ジャズ喫茶がいっぱいあったから、まず親父の診療所に行って、高校の制服を脱いで私服に着替えて、ジャズ喫茶に行く。
──その頃にはもうジャズに夢中だったんですか?
ジャズもロックも好きでしたよ。中学の頃からアマチュアでバンドやってて、高校の頃にはセミプロみたいな状態になってましたね。
──楽器は?
ギターです。クラシックギターをやっていたのもあるけど、中学の時にはすでにエレキギターを入手していたので。
──その時代に、中学生でエレキギターって、いなかったでしょ?
いなかったね。
──どんなところでプレイしてたんですか?
ゴーゴーホールみたいなところ。
──今でいう、ディスコやクラブみたいな場所ですね。
そう、年齢を偽って出演してました。あと、当時はまだ進駐軍のキャンプでも仕事があった。横須賀とかで。高校生の僕にとって、米軍基地でやるのは夢みたいな話でね。なんせ、そこはアメリカですから。
──まだ一度も、勉強の話が出ていませんが大丈夫ですか?(笑)。このあと、医大受験が控えているはずなんですが。
そうなんだよ(笑)。ちなみに、僕が通ってた学校は大学まであるから周囲は遊びまくってるわけ。当然、バンド仲間もそんな調子だから、勉強しなきゃいけないことはわかってるんだけど、したくない。しかも、バンドでプロになりたいって思ってたから。
──家族からの圧力はなかったんですか?
僕は四人兄弟の三番目なんですよ。上の二人は医者になる意思を見せてたけど、結局逃げちゃってね。で、弟は子供の頃から「医者にはならない」って宣言してたんだ。とはいえ、一人は医者になってくれないと困る、っていう親父の立場もあり……結局、僕の逃げ場がなくなって(笑)。
でもね、勉強しないでバンドばっかりやってたんですよ。それで受験したら、当然まったくわからないわけ。問題が解けないレベルで、さすがにちょっと怖くなってきて…。
「弾く」から「聴く」への転向
──その頃、バンド仲間たちは音楽漬けなんですよね。
そう。僕だけつまらなくなっちゃって「しょうがねぇなぁ……勉強するか」って。一浪して最後の3~4か月かな、必死になってやりました。もともと凝り性だから、ご飯食べる以外は勉強をやろう、みたいな感じになって。
──で、結果は?
その年、3校受けて3つとも受かりました。偏差値からいくと順天堂が一番上だったのかな。次は東邦大学の医学部。ところが僕が入ったのは東京医科大学。
──なぜ!?
まず、順天堂は最初の2年間は千葉に行かなきゃいけない。しかもあそこは体育学部があって、寮生活で体育学部と医学部が同室になるんですよ。そんなのイジメられちゃうじゃないですか、俺みたいなナンパな奴が入ったら。
──なるほど。じゃ、東邦大は?
あそこも同じく、最初の2年間は富士山の方に校舎があって寮生活。これも嫌だった。それに比べて、東京医大は新宿。最高じゃないか! と思って。
──新宿なら、ジャズ喫茶もライブハウスもいっぱいあるし。
で、東京医大に入ったわけ。それでまたバンドをやろうと思って、昔の仲間がセミプロみたいになってたから、彼らに合流して。その頃は、いわゆる “70年安保” が落ち着いてちょっと能天気な時代になりつつあったから、そのゴーゴーホールみたいなダンスクラブは結構仕事があって、そういうところで演奏したりして、学校ほとんど行かなかった。
──ダメじゃないですか…(笑)。
そんな感じで二年になって、二年の時もほとんど大学行かなかったんだけど進級できたんです。ただし、三年からは専門課程になるから、二年から三年に上がるのはハードルが高い。
と、わかっていながらもバンドをずっとやってて、5月くらいになって進級は絶対無理だと感じた。バンドもやりたいし、どうしようかな? これで一生食っていけるほどの実力も才能はない、って分かってるんだけど楽しい。しかも、やれば仕事もあるし小遣い稼ぎにもなる。
──で、結局どうしたんですか?
1年間休学させてくれ、と。このまま中途半端にやってもどうせ留年しちゃうし、1年やったらきっぱり諦めるから、バンドをやりたいだけやらせてくれ! って親父に言ったわけ。で、仕方なくやらせてもらって。
──いよいよ本格的にロックバンドを?
ロックもやってたけど、ジャズも勉強した。ジャズの学校みたいなところで理論を勉強したり。それでようやく理屈がわかってジャズのバンドを始めるんです。ホテルのラウンジとかピットインの朝の部とかに出たりしてね。
かたや友達とはロックのバンドやって、その頃、日本のロックって結構盛り上がってきていて。グループサウンズの時代が終わって、日比谷の野外音楽堂なんかで春から秋にかけて毎週末ロックのコンサートがあって、そういうとこも出るようになって。だけど、これで食ってくわけにもいかないだろうな……と思いながらも、レコード会社のオーディションとか受けると受かっちゃったりしてね。
──プロデビューはしなかった?
オーディションは受かったけど、結局それ以上先には行かなかった。怖くなってね。まぁ、やりたいことをやって自分としては納得いく1年だったし、親にきっぱりやめるって約束したから、ギターも倉庫にしまって。それから一生懸命 “聴く”ようになったんです。それまでは楽器をやってレコードも集めてたんだけど、演奏をやめて、聴くことを専門にしようと。
──よくそんな決心がつきましたね。
僕が育った時代がちょうどよかった。バンド活動する環境もあったし、そういう場もいっぱいあった。音楽的にはロックも好きだし、ジャズも好きだし、ソウルミュージックも好き。そういうのがごっちゃにできるフュージョンじゃないけど、刺激的で楽しいものがたくさん出現していたからね。僕にとってはピッタリの時代だった。