書店でジャズ関連のコーナーを眺めていると、必ず目に飛び込んでくる「小川隆夫」という著者名。さまざまな媒体への寄稿はもちろん、これまでに50以上の音楽関連書籍を上梓している著述家だが、整形外科医としての顔も持ち、音楽プロデューサー兼プレイヤーとしても活動。本人は「ジャズ・ジャーナリスト」を自称するが、ロックやブルース、ソウルミュージックへの造詣も深い。ちなみに、これらのジャンルを融合したジャズマンの代表がマイルス・デイヴィスだが、そんなマイルスから慕われた人物であることも容易に納得できる。
きっかけは“二人の訪問者”
──私が初めて小川さんの存在を知ったのは『ジャズ批評』の別冊『全ブルーノート・ブック』でした。たしか80年代半ばの刊行だったと思います。
ああ、あれは1986年ですね。
──あの本は、ブルーノート・レーベルの作品を番号順にカタログっぽく紹介したガイドブックですけど、小川さんや行方均さんによる座談会みたいな記事も載っていて。
そうだったね。そもそも僕がこの業界に入ったのは、行方さんが見つけてくれたっていうか、彼がいろんなきっかけを作ってくれたことに始まっているんですよ。
──これは多くのジャズファンが知るところですが、行方均さんは当時、東芝EMIの洋楽部にいてブルーノートの諸作品を担当していました。
かつてブルーノートの日本盤はキングレコードが出していたんだけど、1983年に東芝に権利が移って、その時の担当ディレクターが彼だった。で、まずは、出す作品のジャケット写真を撮らなきゃいけない、ということで、渋谷のJAROってレコード店に相談したらしいんだ。
すると店主が「だったら小川さんって人が持ってるよ。ただしニューヨークに住んでるけどね」と。そんなわけで、当時ニューヨークに住んでいた僕を訪ねてきた。ちなみに、当時『スイングジャーナル』の編集者で、のちに編集長になる中山(康樹)さんも一緒に来た。
──当時、小川さんはニューヨークの大学病院に勤務していた。
でもレコードは日本にあるから、貸す約束だけして。それで日本に帰ってきて、行方さんと中山さんと僕の3人でメシを食いながら話してた時に、ジャケットの提供だけじゃなくて、ライナーノーツも書いてみては? って提案があったんです。
──そんなに詳しいなら解説も書いてくれ、と。
僕は文章なんか書けないって言ったんだけど「なんでもいいから書けそうなやつ選んで、好きなこと書けばいいから」って言われて。そしたら中山さんからも「ニューヨークにいると、いろんな面白い話あるでしょ? それ書いてください」って言われて、スイングジャーナルにも書くことになった。“もの書き”としては、そこがスタートですね。
──それまで、ジャズに対しては “いちファン”として接していたけれど、報じたり論じたりする側になった。
意識としては、いまだに “ファン”ですよ。自分じゃ絶対に “評論家”とは名乗らない。ジャズ・ジャーナリストとか言ってるけど、ただのジャズファン。
そもそも僕は評論とか、そういうものは書けないと思ったのね。だけど、例えば “ミュージシャンの言葉”は伝えられる。あと、当時はしょっちゅうニューヨークに行ってたから、そこで起こってることとか、最先端の情報を自分で伝えられると思ったわけ。
──そのスタンスは、レポーターに近いですよね。
そうです。ある事象を客観的に見て「いま、こんなことが起こっていますよ」とレポートする。そこに僕の意見は入れない。でもまあ、ジャズ・レポーターよりはジャズ・ジャーナリストの方が聞こえがいいかなと思って。
著作にも顕れる“ドクター気質”
──小川さんの著作はいろいろなテイストのものがありますが、ほぼすべてにおいて、そのスタンスは共通していると思います。徹底した取材と調査を基にした “データ主義”です。
うん、それはあるかもしれない。
──ひとつの事象に対して、まず徹底的に材料や証拠を集める。もちろん反論や反証も集める。マスコミ的には「ファクト(事実)」という言葉を使いますが、医学界的には「エビデンス(根拠)」といったところでしょうか。
そうだね。医者だから、っていうのはやっぱりあると思う。最近は書いてないけど、学会で論文とか発表するんですよ。そうすると過去の論文を全部精査して、それを盛り込んだ上に新しい論説を自分なりに述べないと意味がない。
例えば、ある病気に対して、自分としてはこういう発見をしました。でも、過去にはこういう発見とこういう発見とあって……って、いろいろぶつけるの。一方通行じゃないんです。いくつもの意見をミックスした上で自分の論を述べないと、医学論文って成立しない。
──そういった、医師の気質みたいなものが著作にも表れている?
そう思います。あとね、僕は整形外科だから手術をすることが多いんですよ。そうすると責任はすべて僕にかかってくる。手術は一人ではできないから助手が二人いて、僕がメインで手術して看護師がいてチームでやるんだけど、何かあったら僕が全部の責任を負わなきゃいけない。
で、責任を負うからには、それぞれに確認しなきゃいけない。麻酔かかりました、はいどうぞ、って。綿密な確認の上に成り立っているわけです。確認しておかないと心配で仕方ない。そういう癖というか性分が、こっち(音楽)の仕事にも出るんだろうね。
──ときに、医師というより刑事を連想させるときがありますよ。
いや、その疑り深さも、やっぱり医者なんですよ。例えばマイルスが「あのときは、こういう経緯で、この曲を演奏した」って言ってるけど、本当かな? と。まあ、本人が言うからには本当だろうとは思うけど、でも、聞くチャンスがあれば他の当事者にも「マイルスがこう言ってたけど本当にそう?」って聞くんです。そこで違う答えが出ても、別に悩む必要はない。両方書けばいいんだから。そういうスタンス。
──ことの虚実はさておき「当事者たちはこう言っている」という現実をまず揃えるわけですね。それぞれの言い分に食い違いがあっても、「食い違いがある」という事実を提示する。著書『マイルス・デイヴィスの真実』でも、そういうくだりがありますね。
マイルスはこう言った。だけど本当かどうかわからない。そうするとサイドマンのハービー・ハンコックにも聞くし、他のサイドマンにも聞く。皆が同じこと言う場合もあるし、それぞれが違うことを言う場合もある。もちろん“印象”の面で食い違う場合もある。でも、それらは全部述べちゃった方がいい。で、あとの判断は読者の皆さんに任せます、と。それが僕の基本的な手法。だから、ひとつの出来事に対しても、できるだけいろんな人に話を聞くんです。
──その取材姿勢で大きな成果をあげたのが、一昨年に刊行された『証言で綴る日本のジャズ』だと思います。あの本は “戦後日本のジャズの実態を探る”という内容で、しかも当事者の証言を軸に構成されています。
昔から、日本のミュージシャンの話を聞きたいと思ってはいたけれど、発表の場がなかった。発表する媒体も決まってないのに取材するのは申し訳ないから、ずっと心の中ではスタンバイしてたんです。で、あるときラジオ番組で扱えることになって、そこから始まったんですね。
戦後のジャズって、僕は全く知らない世界だったから、進駐軍のシステムも何も知らないゼロの知識から聞くわけ。そこで得た知識を踏まえて、また次の人にも聞く。そういうことを繰り返して、積み重ねながら、完成させました。あの本は僕にとっての学習過程の歴史ストーリーでもあります。
──取材を進めるうちに、少しずつ人間関係や事実関係がわかってくる。それを読者も追体験できる、という作りですね。
そう、僕の学習の過程が分かる。最初のうちは知識がないから質問内容も稚拙なんですよ。だんだん知識が増えてくると、おのずと「聞くべきこと」がわかってくる。だから実際にインタビューした順番に並べたわけ。
──あれは本当に優れたドキュメンタリーだと思います。あの時代の日本人ミュージシャンについては「伝説」でしか知らなかったので、驚きの連続でした。
僕も当事者から話を聞いてゾクゾクしたよ。あの本では、基本的に70歳代後半から80代前半くらいの元気な人に聞いてるんだけど、じつはまだやりたいことがある。その次の世代まできちんと検証したいんだよね。
──日本のジャズ・ミュージシャンを追った本としては、『スリー・ブラインド・マイス コンプリート・ディスクガイド』も該当すると思います。こちらはディスクガイドですけど、図らずも、日本のジャズ・ミュージシャンたちがどんな表現をしてきたのかが浮き彫りになっている。
スリー・ブラインド・マイスは、日本で最初のインディペンデントなジャズレーベル。その全作品を紹介した本ですね。
──そのひとつ前に出された本『ジャズメン死亡診断書』も非常に刺激的でした。こちらは「ジャズ・ミュージシャンの死」を扱った本ですが、以前に弊誌で書評を掲載させていただきました。
読んだ! 嬉しい書評だったなぁ。あんな読み方をしてもらえたのは本当に嬉しかった。
──あの本の面白いところは、記者として求める「ファクト」と、医師として求める「エビデンス」が見事に両輪として機能している点です。そこで質問ですが、ファクトとは全く関係ない、音楽作品の “良し悪し”という不確かな現実に向き合わなければならないこともありますよね。
それも大事なところですね。例えばソニー・ロリンズの『サキソフォン・コロッサス』は名盤であると言われているけど、その評判だけを鵜呑みにして「これは名盤である」と判断するのはおかしいよね。
──しかし、小川さんのような人が「これは素晴らしい演奏だ」と言えば、たぶん私も「これは名演だ」と吹聴すると思います。
僕がいつも心しているのは「人が言ってることは参考にするけど信じない」ってこと。自分で耳で聴いて「これは名盤だ」と思えるならそれでいいんです。とにかく自分で確認しないと嫌なんだよね。
──小川さんには、純粋に「知りたい」という欲求があって、その欲求の源泉は好奇心なんでしょうね、きっと。
まあ、基本はファンだから。33歳でこういう仕事を始めるようになって、周りの人と比べたら、完全に遅れてきた新参者なわけ。とりあえず評論家にはなれないな、とは思ったけど、知識はあるよ、と。例えば、こういうことやる前から「俺はブルーノートには詳しい」という自負があった。どんな評論家にも負けない知識とデータを持っている。そういうファンがいてもいいんじゃないの、と。
青年時代はギター演奏に没頭
──小川さんが生まれたのは1950年。その頃の日本は、まだ大戦の名残りもあり、また、高度経済成長に向かう時期でもあります。
そうだね、まさにそんな時期。僕は渋谷で生まれ育って11歳のときに世田谷に引っ越すんだけど、自分の中に残っているいちばん古い記憶は、3歳とか4歳くらいの渋谷の風景ですね。
あの頃の渋谷は、駅の周りにバラックがあって、東急百貨店もバラックの食料品売り場みたいなのが出発点。いまバスターミナルになっている場所は当時、無料の駐車場だった。砂利が敷いてあってね。父親は渋谷で医者をやってたので、いつもそこにクルマを停めてた記憶がある。
真横に246(国道246号)あるでしょ、あれを僕ら子どもたちは “50メーター道路”って呼んでて、本当は50メートルもないと思うけど、それを横切って桜ヶ丘の幼稚園に行くのが、僕にとっては大冒険だった。
──いまの渋谷と比べると、のどかでのんびりしたイメージですけど、ちょっと危険な一面もあったのでは?
駅の周りには傷痍軍人がいてね、脚を失って松葉杖をついていたり、盲導犬を連れていたり、スチールギター弾いてる人もいた。それから、火事場から持ってきたような炭だらけの万年筆を「本当は1500円するけど300円でいいよ」っていう物売りの人がいたり、バナナのたたき売りもいた。それが僕の子供時代。まあ、決して良い環境ではないね(笑)。
だから、僕が小学5年生のときに、親父は世田谷に家を建てた。親父は渋谷で開業していたから、自宅から渋谷の医院まで通ってたけど、僕は中学も高校も世田谷の学校に通うんです。
──成城学園ですよね。
そう。ところが僕が中学くらいになると、渋谷が繁華街になってきて。ゲームセンターに遊びに行くのが楽しくてね。学校の帰りに渋谷に寄っては補導されたりしてました(笑)。
──それが60年代の半ばですよね。東京オリンピックを間近に控え、街はどんどん活気づいていく時期。
高校生になった頃には、ジャズ喫茶がいっぱいあったから、まず親父の診療所に行って、高校の制服を脱いで私服に着替えて、ジャズ喫茶に行く。
──その頃にはもうジャズに夢中だったんですか?
ジャズもロックも好きでしたよ。中学の頃からアマチュアでバンドやってて、高校の頃にはセミプロみたいな状態になってましたね。
──楽器は?
ギターです。クラシックギターをやっていたのもあるけど、中学の時にはすでにエレキギターを入手していたので。
──その時代に、中学生でエレキギターって、いなかったでしょ?
いなかったね。
──どんなところでプレイしてたんですか?
ゴーゴーホールみたいなところ。
──今でいう、ディスコやクラブみたいな場所ですね。
そう、年齢を偽って出演してました。あと、当時はまだ進駐軍のキャンプでも仕事があった。横須賀とかで。高校生の僕にとって、米軍基地でやるのは夢みたいな話でね。なんせ、そこはアメリカですから。
──まだ一度も、勉強の話が出ていませんが大丈夫ですか?(笑)。このあと、医大受験が控えているはずなんですが。
そうなんだよ(笑)。ちなみに、僕が通ってた学校は大学まであるから周囲は遊びまくってるわけ。当然、バンド仲間もそんな調子だから、勉強しなきゃいけないことはわかってるんだけど、したくない。しかも、バンドでプロになりたいって思ってたから。
──家族からの圧力はなかったんですか?
僕は四人兄弟の三番目なんですよ。上の二人は医者になる意思を見せてたけど、結局逃げちゃってね。で、弟は子供の頃から「医者にはならない」って宣言してたんだ。とはいえ、一人は医者になってくれないと困る、っていう親父の立場もあり……結局、僕の逃げ場がなくなって(笑)。
でもね、勉強しないでバンドばっかりやってたんですよ。それで受験したら、当然まったくわからないわけ。問題が解けないレベルで、さすがにちょっと怖くなってきて…。
「弾く」から「聴く」への転向
──その頃、バンド仲間たちは音楽漬けなんですよね。
そう。僕だけつまらなくなっちゃって「しょうがねぇなぁ……勉強するか」って。一浪して最後の3~4か月かな、必死になってやりました。もともと凝り性だから、ご飯食べる以外は勉強をやろう、みたいな感じになって。
──で、結果は?
その年、3校受けて3つとも受かりました。偏差値からいくと順天堂が一番上だったのかな。次は東邦大学の医学部。ところが僕が入ったのは東京医科大学。
──なぜ!?
まず、順天堂は最初の2年間は千葉に行かなきゃいけない。しかもあそこは体育学部があって、寮生活で体育学部と医学部が同室になるんですよ。そんなのイジメられちゃうじゃないですか、俺みたいなナンパな奴が入ったら。
──なるほど。じゃ、東邦大は?
あそこも同じく、最初の2年間は富士山の方に校舎があって寮生活。これも嫌だった。それに比べて、東京医大は新宿。最高じゃないか! と思って。
──新宿なら、ジャズ喫茶もライブハウスもいっぱいあるし。
で、東京医大に入ったわけ。それでまたバンドをやろうと思って、昔の仲間がセミプロみたいになってたから、彼らに合流して。その頃は、いわゆる “70年安保” が落ち着いてちょっと能天気な時代になりつつあったから、そのゴーゴーホールみたいなダンスクラブは結構仕事があって、そういうところで演奏したりして、学校ほとんど行かなかった。
──ダメじゃないですか…(笑)。
そんな感じで二年になって、二年の時もほとんど大学行かなかったんだけど進級できたんです。ただし、三年からは専門課程になるから、二年から三年に上がるのはハードルが高い。
と、わかっていながらもバンドをずっとやってて、5月くらいになって進級は絶対無理だと感じた。バンドもやりたいし、どうしようかな? これで一生食っていけるほどの実力も才能はない、って分かってるんだけど楽しい。しかも、やれば仕事もあるし小遣い稼ぎにもなる。
──で、結局どうしたんですか?
1年間休学させてくれ、と。このまま中途半端にやってもどうせ留年しちゃうし、1年やったらきっぱり諦めるから、バンドをやりたいだけやらせてくれ! って親父に言ったわけ。で、仕方なくやらせてもらって。
──いよいよ本格的にロックバンドを?
ロックもやってたけど、ジャズも勉強した。ジャズの学校みたいなところで理論を勉強したり。それでようやく理屈がわかってジャズのバンドを始めるんです。ホテルのラウンジとかピットインの朝の部とかに出たりしてね。
かたや友達とはロックのバンドやって、その頃、日本のロックって結構盛り上がってきていて。グループサウンズの時代が終わって、日比谷の野外音楽堂なんかで春から秋にかけて毎週末ロックのコンサートがあって、そういうとこも出るようになって。だけど、これで食ってくわけにもいかないだろうな……と思いながらも、レコード会社のオーディションとか受けると受かっちゃったりしてね。
──プロデビューはしなかった?
オーディションは受かったけど、結局それ以上先には行かなかった。怖くなってね。まぁ、やりたいことをやって自分としては納得いく1年だったし、親にきっぱりやめるって約束したから、ギターも倉庫にしまって。それから一生懸命 “聴く”ようになったんです。それまでは楽器をやってレコードも集めてたんだけど、演奏をやめて、聴くことを専門にしようと。
──よくそんな決心がつきましたね。
僕が育った時代がちょうどよかった。バンド活動する環境もあったし、そういう場もいっぱいあった。音楽的にはロックも好きだし、ジャズも好きだし、ソウルミュージックも好き。そういうのがごっちゃにできるフュージョンじゃないけど、刺激的で楽しいものがたくさん出現していたからね。僕にとってはピッタリの時代だった。
ボサノヴァ・ギターの衝撃
──小川さんが最初に衝撃を受けた “ジャズ的なもの” って何でしたか?
中学二年の時でしたね。その頃、兄貴たちは高校生と大学生で、彼らの間でアイビールックが流行りだしたの。で、二人がそれっぽいシャツとかジャケットとか着てるわけ。
──VANとか。
そうそう。中学生のぼくとしては憧れるわけですよ。で、その夏、マドラスチェックのシャツを着たくてね、親にねだって銀座のテイジン・メンズショップに行ったんだ。1800円をもらってね。
で、シャツを買おうと店に入ったんだけど、店内で何とも言えない魅惑的な音楽が流れてるの。アコースティック・ギターなんだけど、これまで聴いたこともない旋律でね。僕はクラシックギターをやってたから、すごいシンパシーを感じて、思わず店の人に聞いたんだ。この音楽はなんですか? って。すると、レジの横に『ゲッツ/ジルベルト』のジャケが置かれていてね。
──これだよ、と。
すぐに店員に訊きましたよ。これはどこで売ってるんですか? って。すると「すぐそこのヤマハで買ってきたんだよ。まだあると思うよ」って言うから、すぐに銀座のヤマハに行って、シャツを買うはずのお金でレコードを買って、家で一生懸命コピーしたわけ。ボサノバなんか全然わかんないし、ジャズのコードもわかんないけど。
それからクラシックギターの先生のところへ行って、このレコードの、こういうギターをやりたい! って言ったら「これはクラシックじゃないからダメ」って(笑)。せめて押さえ方だけでも教えて欲しい、って頼んだら、先生が弾きながら譜面を書いてくれたんだよ。
──なるほど。コードではなく音符で。
クラシックギターって、譜面はあってもコードの概念がないからね。例えばドミソって言われればわかるけど、Cって言われてもわからない。そこから始まったわけです。
──『ゲッツ/ジルベルト』の “ゲッツ要素”ではなく、ジルベルト要素。つまりボサノヴァに惹かれたわけですね。
そのすぐあとに、別の作品で、ジャズマンとしてのスタン・ゲッツの魅力を知るんだけど、あのときはボサノヴァ・ギターに惹かれたんだよね。ちなみに、同じ時期(1965年頃)にベンチャーズのコピーバンドみたいなことも始めて、さらにその年にマイルスのステージを観るんですよ。
──マイルス・デイビスの初来日公演ですね。
そう、場所は新宿厚生年金会館。じつは、兄貴が行けなくなってチケットもらって行ったんだけど、そのときの僕はマイルスの名前も聞いたことあるかないかくらいの認識だったし、もちろん曲も知らないし、ジャズって音楽のことも知らないし。でもまあ、聴きに行って。
──どうでした?
何も感銘を受けなかった。というのも、席が後ろの方でね。米粒くらいにしか見えなかったんだ。ただ「突き刺さるような強烈な音がするなぁ」とは思った。
──その時に見た米粒大のマイルスが、いつしか等身大で目の前に現れるなんて、当時は想像もしなかったでしょう。
そうだね(笑)。ちなみにそのときはジャズのこと知らなかったけどね、66年くらいにはジャズ喫茶によく行くようになったし、自分でもレコード買ったりギター弾いたり、結構のめりこんできて。そんな時期に、NHKのジャズ番組で『マイルス・スマイルズ』が流れたのね。
──66年ということは、新譜として番組で紹介されたわけですね。
そう、新譜紹介のコーナーだった。それをすごくカッコイイと感じてね。そのとき初めてマイルスを意識した。以降はマイルスが最優先の人になって、アルバムが出たら必ず発売日に買いに行ってました。それまでは僕の中でビートルズが一番だったけど、優先順位はマイルスが上になった。
──60年代の後半になると、マイルスの演奏スタイルに大きな変化が現れますよね。その変化の様子をリアルタイムで体感しながら、何を思いました?
66年の段階ではまさしく最先端のモダンジャズをやってて、68年くらいから、ちょっとエレクトリックなサウンドが入ってきてね。69年にはロックやエレクトロ要素も入ってきて。その頃の僕は、自分の中では(プレイヤーとして)ジャズもやりたいけどロックもやり、他にもリズム&ブルースやソウルミュージックとか、いろんな音楽が頭の中にあったわけ。だから、あの頃のマイルスって、僕が思い描いてる音楽を最高にかっこいい形でやってた。そんな印象。
だから、大学時代にはスタンダードのジャズを演奏してたんだけど、同時にビッチェズ・ブリューっぽいこともやりたくて、エレクトリック・マイルス風のバンドもやってましたね。
──それって、現在、小川さんが率いるバンド Selim Slive Elementzに近い感じじゃないですか?
うん、ちなみにその時代でいちばん好きなアルバムは『ライヴ=イヴル』なんですよ。『ビッチェズ・ブリュー』の僕のイメージは陽なんだけど『ライヴ・イヴル』は陰。怪しくて危なくてヤバい音楽なの。その危なさが好きなんですよ。
マイルスって他のアルバムは割と明るいんだよね。気持ちを高揚させてくれる。ところが『ライヴ=イヴル』は僕の中で違うんですよ。あれは異色。サウンド的には似たようなもんなんだけど、まったくイメージが違う。そこは、ライブを見てると時々出るんだけど、あの危なさを自分なりにやりたくてバンドを作った。
僕の考えからいくと、マイルスが70年代半ばで辞めちゃったのは、もちろん体調もあったんだけど、ほとんど音楽的に進歩してないんだよ。それまでは2、3年でどんどん変わってきてるじゃない。でも『ビッチェズ・ブリュー』を出してからは75年までの6年間ほとんど変わってない。
──創意の面では、停滞期と言えるかもしれませんね。
そうかもね。創造力が低下したのか、変化しなくなっちゃったわけ。たぶんマイルス自身も音楽的に行き詰まってることを感じて、それもあって休止したと思うんだよね。それでカムバックしたら、前とは違う音楽になってたけど、それは僕にとって進化形ではなかった。進化形だったら万々歳だったんだけど、僕の思い描いてたものとは違った。だから僕が思い描いたものをやりたいわけ。本当はそこにマイルスが一緒に入ってほしい。それがSelim Slive Elementzというバンドなんですよ。
必要なのは “究極の気づかい”
──ところで、マイルスと初めて会ったのはいつですか?
インタビューしたのは85年。ちなみに、73年にも僕はマイルスに接近遭遇してるんです。
──それはどんな経緯で?
その年、マイルスのバンドが来日したんだけど、同じタイミングで歌手のアビー・リンカーンがレコーディングで来日してたの。で、そのレコーディングにマイルスのバンドのリズムセクションを使うっていう話を、パーカッションのエムトゥーメから聞いて。しかも「スタジオにマイルスが来るかもしれないからタカオも連れて行ってやる」って。
──そこでマイルスには会えたんですか?
本当に来たのよ、マイルスが。スタジオに入ってきて、ピアノ弾いたりしてるわけ。もちろん僕は遠目で見てるだけなんだけど、それが最初の接近。その後、本当の意味でマイルスと言葉を交わしたのは1985年。
──その経緯は、著書『マイルス・デイヴィスが語ったすべてのこと──マイルス・スピークス』に詳細が書かれていますね。あの本の中で、小川さんがマイルスにリハビリのアドバイスをする。そのとき小川さんは「自分はこのために医者になったのかもしれない…」と自問自答しますね。今日の話(医師になるまでの紆余曲折)を聞くと、あの自問自答がすごく面白く感じますよ。
じつは整形外科も適当な理由で選んだし、大学病院って大変だから僕みたいな遊びたい人間がいる場所じゃないし、嫌になっちゃったわけ。毎日こき使われてね、まるでブラック企業だから(笑)。それで留学っていう手で逃げちゃおうと思ってニューヨークに行ったの。マンハッタンにある大学に行きたくて、本当は整形外科が良かったんだけど、空きがなくてリハビリテーションなら受け入れるよって言うんで、そこに飛びついちゃった。
──それって、新宿の医大を選んだときと同じパターンですね(笑)。
基本的にはね、すべて流れに身を任せてるんですよ。ジャズの仕事もそうだし、人との出会いもね。誰かに頼んで無理して紹介してもらう必要はなくて、出会うべき人にはちゃんと出会うことになってる。
──ちなみに、気難しい猛獣のようなマイルスに、あそこまで接近できた要因は何だと思いますか?
なんだろう…。わからないけど、まずマイルスが嫌がることはしなかった。マイルスが何を考えてるのか、わからないけど、わからないなりに僕は一生懸命その場の空気を嗅ぎ取ることがうまくできたと思う。あと、話していて思ったのは、境遇が似てるな、ってこと。彼は歯医者の息子で、僕も医者の息子。家庭環境も似ていたし、ボクシングが好きっていう共通点もあった。
──小川さん、ボクシング好きなんですか?
親戚にボクサーがいたの。大川寛っていう。
──え!? 有名ボクサーじゃないですか!
本名は小川なんだけどね、フェザー級とライト級で日本王座を獲って、東洋チャンピオンにもなった。たしか日本で何番目かに試合数が多いの。110何戦やってる。引退後は明大前に大川ジムを作って。引退した当時、僕は中学生だったからそこのジムでボクシング習ってたの。
で、マイルスもボクシングのジムに行ってたって言うんで、2人でスパーリングしたこともあった。その時にちょっと心が通い合ったかなって。あと、マイルスはすごくシャイなの。僕もそうだから、ずけずけとは行かなかったのね。それがマイルスにとっては心地よかったのかもしれない。彼は質問されるのが嫌いだったからね。
──とは言っても、小川さんはマイルスに質問したいことが常にいっぱいあったわけでしょ?
もちろん。聞きたいことも言いたいこともたくさんあった。例えばマイルスが話をしてて、メンバーの名前を思い出せないことがある。僕は知ってるから言いたいんだけど、すぐ言っちゃうとダメなんだよね。で、結局思い出せないから話を飛ばすんだけど、次の話題になった時に、ちょっとひと呼吸おいて「さっきのあれ、〇〇じゃないですか?」って言う。すると「おお、そうだよ!」ってなる。
その場で言うと「なんだよ、こいつ」になるわけ。こっちも一生懸命思い出したんだなっていうふうに思わせるテクニックじゃないけど、その方が心地いいんだよね。
──究極の気づかいですね。
なんとなく無意識のうちにそういう言い方をしてるんだよね。マイルスはたぶん、僕が彼をよく知ってるのはわかってたと思う。だけど僕は自分から絶対言わないし、それが心地良かったのかもしれない。彼が話せば僕もうなずくし、たまにマイルスが訊くこともあるから、その時は答える。その距離感が大事。知ってるからって先走って何でもかんでも言っちゃうのはNG。
──つい、やりがちですよね。
マイルスに限ってはやっちゃいけない。
マイルスとの約束を果たすために
──そんな付き合いの中で、ある日突然、マイルスから問われますよね。「どうしてお前は俺を追いかけ回すんだ?」と。そのとき小川さんは改めて自分自身と向き合う、という場面が(著書『マイルス・デイヴィスが語ったすべてのことーーマイルス・スピークス』に)あります。
僕はマイルスのことを書きたかったのは確かなんだけど、自伝を書こうなんて大それたこと思ってないわけ。ただマイルスのファンだから会いたい。たまたま連絡先とか教えてくれたし、会えるなら会いたいじゃない。その思いの方が最初は強かった。そもそも “会いたい” 以外の目的がないんだよ。記事にするためでもないし、誰かから依頼されてるわけでもない。ただ会いに行ってたの。
──マイルス自身も、小川さんはいい話し相手みたいな感じだったのでしょうか?
最初のうちは取材かと思ってたらしいんだ。でもカメラマンを連れて来るわけじゃないし。だから2回くらいまではそれでオッケーだったけど、回を重ねるうちに疑問に思ったんだろうね。なんの目的もありません、あなたに会いたくて来ました、なんて言えないから、とっさに「あなたに会ってあなたの話を聞いて、いつかそのことを書きたい」と正直に言ったの。すると彼は「ちゃんと書くなら話してやる。ただし、テープレコーダーは回すな」って。
──それはちょっと大変ですよね……。
最初のうちはメモを取ることさえ困難だったけど、だんだんマイルスの反応もわかってきて、ここまでは大丈夫だろう、って感じで少しずつ距離を縮めていくわけ。
でも話してることをその場で書くわけにはいかないから、マイルスが話し疲れて、他のことやり始めた時に少しまとめたり、トイレに行ってる時にわーっと書いたり。逆に僕がトイレに行って書いたりもした。あとはキーワードをわーっと書いて後でわかるようにしといて、マイルスの部屋から出たとたんにキーワードと記憶を頼りに、近くでまとめ直してた。
──その行動は、小川さんの「マイルスが好き」という気持ちが原動力になっていると思うのですが「音楽史における重要発言を後世に残す」という使命感みたいなものもあった?
そんなことは、まったく思ってない。結局、僕は自分の総括をしたかったわけ。マイルスが亡くなったとき、ものすごい喪失感だったのね。ジャズの仕事を辞めようかなって思うとこまでいっちゃって。少なくともマイルスの音楽が聞けない時期があった。
マイルスが亡くなったから今日はマイルスを聞いて夜を過ごします、って人はいっぱいいたけど、僕はまったく逆の反応で、自分でもびっくりしたんだけど、マイルスの音楽が聞けなくなっちゃった。で、原稿も書けなくなっちゃった。僕の中で時代が終わったというか、嫌になったんだろうね。書くのも聴くのも。
1か月くらい経ってもマイルスの喪失感は消えなかったんだけど、またジャズとかロックとかを聞いたり原稿を書くようになって、少しずつ社会復帰じゃないけど戻っていって、それで2~3年経ってからかな、マイルスの原稿とか頼まれて書いたりライナーノーツとかも書いたりしたけれど、前みたいにマイルスのことを無邪気に書けなくなってた。そんなときに『スイングジャーナル』で無期限の連載でやりませんか? って。
──それは、マイルスとの“あの濃密な日々”について書いてください、という依頼ですよね。
でも、細かいメモばっかりで、ちゃんとまとまってないんだよね……って言ったら「マイルスの話をメインに、いろんな人の証言を入れて、小川さんの思いとか考え方とかを入れて、マイルスのストーリーを作りませんか?」って言われて。あぁ、これがマイルスに言った『あなたのこと書きたいんです』になるな、と。そして、これを書けば僕の心のリハビリにもなるかな、と思って書き出した。
──隠れてメモを取った甲斐がありましたね。
いろんな人にいろんな話を聞いてるのも重要だったし、マイルスがあそこまでいろんなことを話してるってのもなかったし、結果としてそうなったけど、自分としてはそんなつもりで書いたわけじゃない。後に残そうとかそういうことじゃなくて、自分のために書いてたわけ。
──あくまでも自分のリハビリのために。
そう。リハビリと総括と、マイルスとの約束を果たすため。
──「本が完成したら50冊よこせ」って、マイルスに言われてたんですよね。
だからあの本ができた時にはマイルスのお墓に持っていったよ。それまではお墓の場所は知ってたけど行けなくて。やっぱり約束を果たさないとマイルスには会えないな…という思いだったから。本を持って「できましたよ」って行ったわけ。
──まあ、お墓に50冊置いて帰るわけにもいかないでしょうから(笑)、「ちゃんと約束は果たしましたよ」と報告したわけですね。
そう、それでようやく完結した。
──今後、着手する予定の書籍や、取材テーマはありますか?
さっきも話したけど、一昨年に刊行された『証言で綴る日本のジャズ』の続編というか、あの本に登場するジャズマンの、次の世代の人たちをじっくり取材したいですね。
──次の世代というと……。
日野(皓正)さんや山下(洋輔)さんの世代から、いちばん若くて渡辺香津美さんくらいの世代。つまり、60年代の半ばから70年代の終わり頃までの日本のジャズシーンはどうなっていたのか? を、きちんとやりたい。
──その世代の方でも、残念ながらお亡くなりになることはありますね。
今年2月に辛島文雄さんが亡くなって、僕の中でトップにいる人だったから、聞きたいことがたくさんあった。本当に残念です。
いま僕が66歳なんだけど、僕より少し上の世代で、面白い活躍をした人の人生を僕は個人的に知りたいし、彼らのストーリーを遺したいんです。同時に、そういう人たちの話によって、リアルに60~70年代のジャズシーンが見えてくると思うんですよ。そこは僕のライフワークのつもりでやってきたから、ぜひ続けたい。僕が元気な間はずっとね。
小川 隆夫/Takao Ogawa
1950年、東京生まれ。東京医科大学卒業後、81~83年のニューヨーク大学大学院留学中に、アート・ブレイキー、ウイントンとブランフォードのマルサリス兄弟などのミュージシャンをはじめ、主要なジャズ関係者と親交を深める。帰国後、整形外科医として働くかたわら、音楽(とくにジャズ)を中心にした評論、翻訳、インタヴュー、イヴェント・プロデュースを開始。レコード・プロデューサーとしても数多くの作品を制作。著書は『TALKIN’ジャズ×文学』(平野啓一郎との共著、平凡社)、『証言で綴る日本のジャズ』、『同 2』(駒草出版)、『マイルス・デイヴィスが語ったすべてのこと』(河出書房新社)、『マイルス・デイヴィスの真実』(講談社+α文庫)など多数。2016年にはマイルス・ミュージックにオマージュしたバンド、Selim Slive Elementzを結成。2017年8月にデビュー作を発表した。