投稿日 : 2017.05.29 更新日 : 2019.02.26
【ゲイリー・バートン】栄光のキャリアを静かに追想 そして、現役最後のステージへ 前編
取材・文/富澤えいち
退却も視野に入れた
プロデビュー戦略
——17歳のときのハンク・ガーランドのレコーディング・セッションが初レコーディングですね。
「はい、そうでしたね」
——その経験はあなたにどんな影響を与えましたか?
「あのレコーディングで気づかされたのは、やはり自分はスタジオで演奏するよりも実際にコンサートやクラブでオーディエンスを前にして演奏するほうが好きだということでした」
——それはつまり、スタジオ・ミュージシャンへの興味ではなく、違う道が自分には適しているということを気づかせてくれたという意味ですか?
「そういうことになりますね。それで私はツアー・バンドに参加したいと思うようになったのですから」
——ただ、高校時代からすでにプロとして音楽活動を始めていたのに、バークリー音楽大学(当時は音楽院)に進学していますね。
「17歳の私は、プロとして活動を始めたものの、学ぶべきことはまだ山ほどあると気づいていたのです。例えばニューヨークに出て、フルタイムにドップリとミュージシャンの仕事を始めるなら、その前にもっと自分の音楽的教養や知識を充実させる必要がある、ということですね。それで、バークリーに入学し、かけがえのない2年間を過ごしたというわけです」
——1962年にジョージ・シアリングのオーディションを受けています。バークリー卒業前でしたが、もうその時点では学ぶことはないと判断していたということですか?
「いつだって自分が学ぶべきことはまだまだたくさんありますよ。74歳という現在の年齢になってもね。それとは別に、1962年のあのときは、ジャズというビジネスに身を投じるべきタイミングだと感じたんです。それでオーディションを受けました。ただし、そのタイミングで仕事にありつけない可能性もあることも想定していました。つまり、オーディションに受からず無職のままだったら、それまで貯めていた資金が底をつく前にバークリーに戻る。そこでもう1年ほど修行し直してから、また挑戦しよう。そんな計画を立てた上でのチャレンジでした」
——1967年にゲイリー・バートン・クァルテットを立ち上げたとき、勝算はあったのですか?
「バンドを組んで、リーダーとして世間に認められるには、おそらく1~2年を要するだろうと予想していました。もし成功しなかった場合は、またサポート側のミュージシャンとして活動を始めればいいとも思っていたんです。でも、バンドは早い段階で成功し、ゲイリー・バートン・クァルテットの名は世界に知られるようになりました。幸運だったと思っています」