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【ゲイリー・バートン】栄光のキャリアを静かに追想 そして、現役最後のステージへ 前編

1961年にアルバム・デビューを果たして以来、ポスト・ビバップの混沌としたジャズ界の最前線で、前例のない実験的な活動を展開しながら、ポピュラリティーを確保。その一方で、教育現場での二足のわらじを履きながら後進の育成に尽力してきたのが、ヴィブラフォン奏者のゲイリー・バートンである。

プレイヤーとしてはグラミー賞獲得6回。教育者としてはバークリー音楽大学の学長まで勤め上げた偉人。そんな氏が、今年6月の来日公演を最後に「現役引退」を表明した。この来日直前のタイミングで、現役最後(?)の独占インタビューを敢行。74歳を迎えた重鎮が、いま改めて、自身の半生を振り返る。

家族揃って音楽に興じた
イノベーターの夜明け前

——あなたが幼い頃の話から聞きたいのですが、音楽的にはどんな環境で育ったのですか?

「バートン家は音楽一家で、両親や兄弟姉妹で“ザ・バートン・ファミリー・バンド”を結成していたんですよ。私は8歳から13歳までそのバンドで演奏していました。そこでジャズにも親しむことができたし、よい音楽との出会いを与えてくれたと思っています」

——ヴィブラフォンやマリンバを演奏するようになったのはその頃?

「そうです。近所にマリンバとヴィブラフォンを演奏する女性が住んでいて、教室も開いていたんです。両親が私に『やりたい?』と訊いてくれたので、レッスンを受けられるようになった。それがきっかけでした」

——“ザ・バートン・ファミリー・バンド”は、あなたにとって遊びの場だったのですか? それともプロフェッショナルな自覚がありましたか?

「うーん……、“遊び”とか“仕事”という意識よりも、楽譜の読み方や演奏方法を家族で一緒に“学ぶ場”といった感じでしょうか。私がアレンジをしたり練習の指揮をとったりしていましたね」

——インディアナ大学で開催されたスタン・ケントンのサマー・キャンプに参加したことが、あなたのジャズ・キャリアのスタートだとされています。そのサマー・キャンプにはどんな想い出がありますか?

「スタン・ケントンのサマー・キャンプへの初参加は、私が16歳のときでした。とてもいい経験でしたね。その経験があったからこそ、私は生涯ジャズを演奏したい、ジャズで成功したいと思うようになりました。そして幸運に恵まれ、私は人生を通してジャズを続けることができた。あれがまさに、私にとって本格的にジャズとの出会いを作ってくれた大きな出来事だったと思っています」

退却も視野に入れた
プロデビュー戦略

——17歳のときのハンク・ガーランドのレコーディング・セッションが初レコーディングですね。

「はい、そうでしたね」

——その経験はあなたにどんな影響を与えましたか?

「あのレコーディングで気づかされたのは、やはり自分はスタジオで演奏するよりも実際にコンサートやクラブでオーディエンスを前にして演奏するほうが好きだということでした」

——それはつまり、スタジオ・ミュージシャンへの興味ではなく、違う道が自分には適しているということを気づかせてくれたという意味ですか?

「そういうことになりますね。それで私はツアー・バンドに参加したいと思うようになったのですから」

——ただ、高校時代からすでにプロとして音楽活動を始めていたのに、バークリー音楽大学(当時は音楽院)に進学していますね。

「17歳の私は、プロとして活動を始めたものの、学ぶべきことはまだ山ほどあると気づいていたのです。例えばニューヨークに出て、フルタイムにドップリとミュージシャンの仕事を始めるなら、その前にもっと自分の音楽的教養や知識を充実させる必要がある、ということですね。それで、バークリーに入学し、かけがえのない2年間を過ごしたというわけです」

——1962年にジョージ・シアリングのオーディションを受けています。バークリー卒業前でしたが、もうその時点では学ぶことはないと判断していたということですか?

「いつだって自分が学ぶべきことはまだまだたくさんありますよ。74歳という現在の年齢になってもね。それとは別に、1962年のあのときは、ジャズというビジネスに身を投じるべきタイミングだと感じたんです。それでオーディションを受けました。ただし、そのタイミングで仕事にありつけない可能性もあることも想定していました。つまり、オーディションに受からず無職のままだったら、それまで貯めていた資金が底をつく前にバークリーに戻る。そこでもう1年ほど修行し直してから、また挑戦しよう。そんな計画を立てた上でのチャレンジでした」

——1967年にゲイリー・バートン・クァルテットを立ち上げたとき、勝算はあったのですか?

「バンドを組んで、リーダーとして世間に認められるには、おそらく1~2年を要するだろうと予想していました。もし成功しなかった場合は、またサポート側のミュージシャンとして活動を始めればいいとも思っていたんです。でも、バンドは早い段階で成功し、ゲイリー・バートン・クァルテットの名は世界に知られるようになりました。幸運だったと思っています」

——その結果、1968年にあなたは『ダウン・ビート』誌のジャズ・マン・オブ・ザ・イヤーを最年少で受賞しました。どんな気分でした?

「ジャズ・マン・オブ・ザ・イヤーの受賞は、記録に残る明確な評価だったので、正直言って、とても嬉しかったですね(笑)」

——その3年後(1971年)、モントルー・ジャズ・フェスティバルでのソロ・ステージのオファーを受けましたね。これは結果的に、あなたに最初のグラミー賞をもたらすことになった重要なステージです。

「『アローン・アット・ラスト』と題してリリースされたモントルー・ジャズ・フェスティバルでのソロ・ステージは、その名のとおり、私にとって最後のソロ・パフォーマンスにするつもりでした。まさに“実験”をするためにモントルーへ乗り込んでいったのです。そのステージでやろうとしていたコンセプションが聴き手に受け入れられるのかどうかは、まったく未知数のまま。そして確証がないまま、ライブ・レコーディングが行なわれたのです。レコーディングが終わった時点で、やろうとしたことができていたという感触はあったのですが、実際にモントルー・ジャズ・フェスティバルのコンサート・ホールにいた観衆のリアクションを見たときに初めて、それが成功したんだという実感が湧いてきました」

ふたたび母校へ……
バークリー帰参の真相

——1971年にはもうひとつの重要な出来事がありました。かつて学んだバークリー音楽大学に教員として舞い戻りましたね。

「1960年代の後半、私は多くのワークショップを行なっていました。同時に、ジャズを教えているときの自分がとても自然体でいられることに気づいたのです。そんな頃、アメリカ中西部の大学から、教師として招聘したいという提案がありました。しかし、場所がイリノイ州だったこともあって、各地をライブで飛び回るミュージシャン生活をしながら教鞭を執るのは難しいだろうと思って、引き受けられませんでした。でも、それがニューヨークからも近いボストンだったら可能なことに気づいて、ボストンにあるバークリー音楽大学なら自分の母校だし、教授陣やスタッフにも知人たちがまだ在籍していたので、逆にこちらから『ぜひ教鞭を執らせてくれないか』と掛け合ってみた、というのが真相なんですよ」

──その後、バークリー音楽大学の学長(Executive Vice President、1996~2003年)まで引き受けるわけですが、教員として教えるだけでは足りないものがあったということですか?

「私は1971年に教鞭を執るようになってから、退職する2003年まで、バークリー音楽大学に約30年間ほど関わっていたわけですが、教員として活動をするうちにレッスンだけではもの足りなくなり、より多くの生徒のために何かもっと大きな役割を果たしたいという想いが強くなっていきました。その想いが、私を学部長にして、最終的には学長へ導くことになりました。結果的に、この長年のバークリーとの関係が、大学の未来を築くための多くの選択肢を私に与えてくれたように思います」

後編に続く

来日公演情報
http://www.kajimotomusic.com/jp/news/k=2647

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