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日本の音楽家がニューヨークでサバイブする方法【BIGYUKI インタビュー】

キーボーディストのBIGYUKIは、いまやニューヨークで最も名の通った日本人ミュージシャンのひとりだ。現代のジャズ・マスターとして知られるロバート・グラスパーやカマシ・ワシントンとの共演をはじめ、R&B、ヒップホップ界の名だたるスターからもお呼びがかかるプレイヤーである。そんな彼が渡米したのはおよそ20年前。このタフな街で力強くサバイブし続ける秘訣は何なのか。

米国で開眼したブラック・ミュージック

──アメリカに渡ってどのくらいになりますか。

「18歳でバークリー(音楽大学)に入学したのが2000年だから、もう19年ですね」

──ジャズやブラック・ミュージックに本格的にのめり込んだのは、渡米してからだそうですね。

「ずっとクラシックをやっていたんですけど、ジャズにも興味はあったんです。バークリーに行っていたという人と高校のときに話す機会があって、その人に段ボールひと箱ぶんのCDを貸してもらって、キース・ジャレットとか、マイケル・ブレッカーとか、ケニー・カークランドを聴いたりしていました。でも、アメリカに来る前はマイルスも知りませんでしたね」

──アメリカでジャズの魅力にはまったきっかけは何だったのですか。

「授業でとにかくたくさんのジャズを聴いたんですが、スウィングのフィールが初めてかっこいいなと思ったのは、ケニー・バロンでした。そのあと、Dr.ロニー・スミスが好きになって、一時はオルガン・ジャズにもかなりハマりました」

──しかし、ジャズ一辺倒というわけではなかったのですよね。

「ストレート・アヘッドなジャズはめちゃくちゃかっこいいとは思いました。でも、それが心から好きかというと、正直そこはよくわからなかったですね。メイシオ・パーカーを聴いてファンクのフィールがすごくしっくりきて、自分にはそっちのほうが合うような気がしました」

──クラシックをやってきた人は、ジャズのフィーリングに合わせるのが難しいですよね。

「ジャズは、クラシックのようにパルスがきっちり決まっていなくて、感情によって伸び縮みしますからね。最初はその感じがまったくわからなくて、ピアノをやっている奴らにかたっぱしから声をかけて、『一緒に弾いてくれ』って頼んでいました。でも、自分の体の中にもともとスウィング・フィールがないですから、ジャズっぽく弾こうとするとすごく嘘くさくなるんですよ。むしろ、ファンクとかヒップホップのビートの方が自然に演奏できる感じがありました」

──学校に通いながら仕事もしていたのですか。

「ウォーリーズ・カフェという地元で有名なライブ・ハウスで演奏するようになってから知り合いが増えて、教会のゴスペルの伴奏やウェディングの仕事を紹介してもらうようになりました。とにかく片っ端から仕事をしていましたね。バークリーがあるボストンは小さな街なので、名前と顔を知られると自然と仕事が来るようになるんですよ」

ニューヨークからLAへ移る音楽家たち

──その後、ニューヨークを目指したわけですね。

「ボストン(マサチューセッツ州)には7年いましたけど、独自の音楽シーンがあるわけではないので、これ以上やっても広がりはないだろうなと。俺がやりたかったのは、個々のメンバーのヴァーチュオシティ(卓越した技術)に頼るのではなくて、全員がイメージを共有しながら、バンド全体で大きなうねりをつくっていくような、いわゆるグループ・インプロヴィゼーションと言われるような音楽でした。そういうシーンを求めてニューヨークに来たんです」

──モダンジャズのようにプレーヤーがソロを回していくのではないスタイルですね。

「そうそう。エレクトリック・マイルスのイメージが近いですかね。ジャンルもクロスオーバーで」

──ニューヨークにそういうシーンはあったのですか。

「なかった(笑)。もちろん、尖った奴もうまい奴もいっぱいいたし、ジャンルをクロスオーバーする音楽を志向している奴もいたけれど、ニューヨークだとそういう奴らは目立たないんですよ。俺がニューヨークに来たばかりのときもそうだったし、今もそう。尖がった奴らはみんなLA(ロサンゼルス)に行っちゃう」

──カマシ・ワシントンもサンダーキャットもLAが拠点ですね。

「マーク・ジュリアナも最近LAに移ったし、ロバート・グラスパーも移ると言っていたと思う。ジャズ以外でも、フライング・ロータスとかケンドリック・ラマーとか、先端の音楽をやっている奴はLAの方が圧倒的に多いですよね」

──となると、ニューヨークはいまやジャズの本場とは言えなくなっているということでしょうか。

「いや、正統派のジャズということで言えば、まだ本場と言っていいんじゃないですかね。ライブ・ハウスがたくさんあって、ひと晩でいろいろな店を歩いて回ることができて、いつでも質のいいジャズに触れることができる。こういう街は世界でニューヨークだけだと思いますよ。ただ、俺みたいにクロスオーバーをやりたがっているミュージシャンから見ると、どうしてもLAが魅力的に見えてしまうということです」

──ジャズというジャンルの射程は時代とともに広がっているわけですが、現在のニューヨークにおいてジャズはどう定義されているのでしょうか。

「プレーヤーによって違いますよね。ジャズのトラディションを大切にしているピュアリストもいるし、ジャズに足場を置きながら、正統派のジャズとは違うフィールドで勝負しようとしている人もいるし。そこはほんと人それぞれだと思いますよ」

危機感が、気合いと勇気をくれた

──ボストンからニューヨークに行った頃に話を戻します。最初から仕事はあったのですか。

「まったく(笑)。最初の1年間は全然でした。だから、毎週ボストンに通って、教会やウェディングの仕事をしていました。金曜の夜にチャイナタウンから出ている小さなバスに乗ってボストンに行って、日曜の夜にニューヨークに帰ってくるという生活です。片道4時間半かけて」

──しかし、その後はニューヨークでも売れっ子になりました。きっかけは何だったのでしょうか。

「バークリーで一緒にやっていた仲間の何人かがニューヨークに来ていて、そいつらから声をかけてもらってクラブのギグによく出るようになったのが、ひとつのきっかけでした。ひと晩で50ドルとか100ドルくらいにしかならないんだけど、そこでタリブ・クウェリのバンドのドラマーと知り合いになって意気投合したんです。しばらくしたら『タリブとリハしているんだけど、遊びに来る?』と連絡があって、その後ちょくちょくタリブと一緒にやるようになって、ちょうど同じ頃にビラルとも知り合いになって。その頃からですね、徐々に仕事が入ってくるようになったのは。しばらくしてグラスパーとも顔見知りになって、セッションに呼んでもらえるようになりました」

──みんなニューヨークの重鎮のようなミュージシャンですよね。そういう人たちと一緒にプレイできるようになった理由を、自分ではどう考えていますか。

「ひと言では説明できないけど、概念的なところから話すと、いちばん大きかったのはセンス・オブ・アージェンシー(危機感)があったことだと思います。こっちの音楽シーンで存在感を発揮しないとどうしようもない。時間ばかりが経って、すべて無駄になってしまう──。そんな意識がアメリカに来た当初からありました。だから、スタンダードも弾けないのに、学校の奴らに“一緒に弾いて”と頼んだり、毎週ウォーリーズに通って、演奏をMDに録音して何度も聴いたり、勇気を出して“俺にもやらせて”と言って弾かせてもらったり。そんなふうにして場数を踏んでいきました。もともと、すげえビビりなのに」

──その危機感がニューヨークに来てからもずっとあったわけですね。

「危機感があったから、とにかく現場で体験して体で覚えなきゃと思いました。身体を音楽の現場にもっていって、感覚で学ぶということです。頭で考えるんじゃなくてね。海外に行くと、日本人は日本人同士で固まって安心したりするけど、そうやって安心しちゃったら、何かを成し遂げることはできないと思っていました。結局、気合いで飛び込むことなんですよ。気合いがなかったら、何万人に一人くらいのクソ天才じゃない限り、なんにも成し遂げられないと俺は今でも思っています」

──一方で音楽的な才能ももちろん必要ですよね。

「グループ・インプロヴィゼーションの話をさっきしましたけど、グループ・インプロヴィゼーションで大事なのは、演奏中に常に周りの状況を把握することなんです。誰かがすげえ音を出したら、それを聴いて、認識して、それに対して即座にアクションしなければいけない。肉体的に、反射神経的に。そのアクションにセンスが集約されるんです。俺がアメリカで成功しているとはとても言えませんけど、生き残ることができているのは、そういう状況把握能力や、そこで俺が出している音のセンスを評価してもらえているからなんじゃないかと自分では思っています」

「ジャズ=ニューヨーク」という意識は捨てた方がいい

──現在のニューヨークをどう見ていますか。

「どんどん変わっていますよね。俺なんかの所得レベルとは比べものにならないような金持ちがどんどんニューヨークに入ってきていて、すべてがビジネスになっているように思います。街の中を歩いていても、高級レジデンスがどんどん建って、俺が来た頃のニューヨークとはかなり様変わりしているし、人種的にも白人が増えています。街が変われば、そこから生まれるものも変わっていきますよね。今後、生活の中からアートが生まれるような土壌がなくなっていくんじゃないかなと思っちゃいますね」

──そうなると、ますます才能のある人はLAなどに移っていきそうですね。ニューヨークに行くことを目指している日本の若いジャズ・ミュージシャンにアドバイスするとしたら。

「あくまで個人的な意見ですけど、“ジャズ=ニューヨーク”という意識は、一度捨てた方がいいと思いますよ。さっきも言ったように、ニューヨークは今も”ジャズの本場”ではあるんだけど、音楽をやるならもっと大きな視点で、自分はどんな音楽が好きか、そういう音楽をやっているのは誰か、その人はどこで活動しているのか──。そんなことをイメージしてみるのがいいんじゃないかな。アメリカって国はほんとクソ広くて、ニューヨークはその中の一つの泡みたいなものですから。とにかく視野を広くもつことだと思います」

──今年のフジロックへの出演が決まりました。日本のオーディエンスにどんなふうにBIGYUKIの音楽を届けたいと考えていますか。

「フジロックでやるのは、今までの2枚のアルバムでやって来たことの延長線上の音楽になると思います。1時間以内のセットなので、それをものすごく凝縮して、めちゃくちゃ濃い音楽をみんなに浴びせたいですね」

──楽しみにしています。最後に、日本の読者に向けてメッセージをいただけますか。

「俺は既定路線ではない生き方をしてきたけれど、それでも何とか死なずにサバイブしていますよ、という感じですかね(笑)。こういう奴もいるということが、人生の選択をするような場面でポジティブな刺激になればいいかなと思います。結局人間って、やっちゃう奴とやらない奴と、その二種類しかいませんから、そのどっちを選ぶのかということですよね」


BIGYUKIビッグユキ
6歳からピアノを習い始める。さまざまなコンクールで優秀な成績を収め、高校卒業後に奨学金を獲得してアメリカの名門音楽大学「バークリー音楽院」へ入学。 2008年、NYに活動の拠点を移す。ほどなくして、タリブ・クウェリやビラルのバンドへ加入。その後、ジャズ界で最も権威ある賞である「セロニアス・モンク・コンペティション」で優勝。2016年には、大手ジャズ専門誌の『JAZZ TIMES』で読者投票のキーボード奏者部門でハービー・ハンコック、チック・コリア、ロバート・グラスパーと並んで入賞するという快挙を達成した。 ア・トライブ・コールド・クエストのアルバム『We Got It from Here… Thank You 4 Your Service』では8曲に参加し、Qティップと3曲を共作、さらに楽曲を1曲提供。この作品が全米アルバム・チャート1位を獲得。また、J. Cole『4 Your Eyes Only』にもミュージシャンとして参加しており、同作も全米1位を獲得した。現在、ジャズ~ソウル~ヒップホップが交差するニューヨークのミュージック・シーンで最も注目されているアーティストのひとり。
BIGYUKI『Reaching For Chiron』

 

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