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ポスト・パンク・バンド、DNAを出発点にして、アヴァンギャルドな音楽性とブラジル音楽への造詣の深さで独自のサウンドを切り開いてきた鬼才、アート・リンゼイ。最近ではブラジルの新世代ミュージシャンのプロデュースを手掛けるなど、ブラジルの音楽シーンのキーパーソンとして重要な役割を担っている。13年ぶりの新作『ケアフル・マダム』を発表して注目を集めるなか、本作の意図や、ブラジル音楽の過去と未来について話を訊いた。
カントンブレが導く快楽の世界
——まず、新作について話を伺いたいのですが、リズムが独特ですね。
「今回のアルバムは、ブラジルでカントンブレという宗教音楽のパーカッションを録音するところからスタートした。それを録音したファイルをニューヨークに持って行って、あっちのバンドの音を混ぜて行ったんだ」
——カントンブレという音楽のどんなところに惹かれたのでしょうか。
「ブラジルで育ったこともあって昔から好きだったし、瞬間的に人に影響を与えてトランス状態に導く音楽だということに興味を持ったんだ。それにリズム・パターンが複雑で、ベースのリズムが西洋とは違う。その変則的なところが面白いと思うね」
——そんな複雑なビートに美しいメロディーが乗る。そのバランスが絶妙です。
「リズムからメロディーが聴こえてくるんだ。あと、ドラムの倍音にもメロディーがあるからね」
——ブラジルのプリミティヴな音楽性が息づいているアルバムなんですね。ブラジルには3歳から17歳まで暮らしていたそうですが、当時からブラジル音楽には触れていたのでしょうか。
「両親がアメリカとブラジルと両方のラジオを聴いていたんだ。あと、週末に市場に行くとブラジル音楽が爆音でかかっていた。思春期を迎えた60年代頃は、ビートルズやジミ・ヘンドリックスを聴く一方で、カエターノ・ヴェローゾやジョルジ・ベンといった社会的なメッセージをもったブラジルのミュージシャンを聴いてたよ」
——そうしたアーティストが文化的革命ともいえるトロピカリズモ運動を展開していくわけですが、やがてブラジルの軍事政権によって弾圧されてカエターノはイギリスに亡命します。そういう社会状況を間近に見ていたわけですね。
「周囲の大人たちが『この先、どうなっていくんだろう…』と困惑している様子を、子供ながらに理解していたよ。国民の幸福につながるものに対する警戒心のようなものが政府側にあって、サッカーを国のプロパガンダに使ったりしていたりしていたんだ」
NYで再びブラジル音楽へ
——その後、アメリカに引っ越したあなたは、70年代終わりにDNAでミュージシャンとしてデビューして、ニューヨークのアンダーグラウンドな音楽シーンで活動します。自由に音楽をやれる開放感を感じたのでは?
「いや、アメリカは決して“自由な国”とは言えないよ。だから開放感なんて感じなかった。当時のニューヨークは経済的にどん底だったしね。ただ、ニューヨークは世界に向けて文化を発信する窓口の役割を果たしていたから面白い環境ではあったね」
——DNA解散後、80年代に入って結成したアンビシャス・ラヴァーズで、あなたはルーツであるブラジル音楽に向き合います。何かきっかけがあったのでしょうか。
「じつはDNA時代にもうっすらとブラジルの要素を入れてはいたんだけど、薄過ぎてあまり伝わっていなかったと思う。DNAを解散して『これから何をしよう?』という時に、慣れ親しんだサンバとアメリカのソウル・ミュージックを掛け合わせてみたいと思ったんだ」
——アンビシャス・ラヴァーズで新境地を開いたあなたは、10代の頃のヒーローだったカエターノ・ヴェローゾのアルバムをプロデュースをします。カエターノとの共同作業から得たものは?
「カエターノとの共同作業はとても興奮したよ。彼の場合、プロデューサーに求めているのはディレクションではなく会話なんだ。まず、プロデューサーと一緒にじっくり話し合い、その会話を通じてどういうものを作っていくのかを考えていく。そうしたアプローチは、自分がプロデューサーの仕事をしていくうえでとても影響を受けたよ」
トロピカリアの先にあるものは…
——ここ数年、あなたはプロデューサーとして、さまざまな若手ミュージシャンの作品を手掛けています。例えば、トノ『アクアリオ』。彼らの作品を手掛けることになったきっかけを教えてください。
「前のアルバムに収録されている曲が好きで、一緒にやってみたいと思ったんだ。男性と女性がユニゾンで歌うヴォーカルも良いと思った。ただ、最初に彼らが書いた曲がいまひとつだったので何度も書き直してもらったよ。時としてプロデューサーとミュージシャンの間にはパワーバランスが生じて、SM的な関係になってしまうんだ(笑)」
——この時はあなたがSだった?
「さあ、どっちかな(笑)。このアルバムはミックスをとても楽しんだ作品だったね。どんなサウンドにするか考えるのもプロデューサーの楽しみのひとつなんだ」
——ローレンソ・ヘベッチス『オ・コルポ・ヂ・デントロ』もあなたのプロデュースですが、ジャズ系のミュージシャンということで、意外でした。
「彼と私はどちらもオルケストラ・フンピレスが好きで意気投合したんだ。フンピレスは、いまブラジルでいちばん面白いグループだと思う。ローレンソは私の仕事先によく顔を出していたから、最初はプロデューサーになりたくて私の作業を見に来ているのかと思っていたんだ。でも、どうやら自分の作品を私にプロデュースして欲しかったらしい。これまでジャズの作品をプロデュースしたことがなかったから、とても面白かったよ」
——チアゴ・ナシーフ『トレス』では、プロデュースだけではなく、プレイヤーとしても参加していますね。
「このアルバムは、ソングライティングの段階からサウンドをタイトに仕上げるところまで、チアゴと一緒に作り上げていった。彼は素晴らしいミュージシャンだから、すごく楽しい作業だったよ」
——ブラジルでは、彼らをはじめ個性的な若手ミュージシャンが次々と登場しています。トロピカリアを体験しているあなたが新世代のアーティストたちと接してみて、どのようなことを感じますか。
「音楽だけじゃなく、思想面でもトロピカリアはブラジルにとってあまりにも影響力が大きいムーヴメントだった。だから、この50年くらいの間、ミュージシャンのなかでトロピカリアを超えられないジレンマがあったと思う。でも、最近ようやくその呪縛が弱まってきて、若い世代がトロピカリアの次に向かって新しいことを実験する余裕が出てきたと思う。今後、何か面白いことが起こるかもしれないね」
——若手に期待したいですね。いまあなたはリオに住んでいるそうですが、リオでの暮らしはいかがですか。
「すごく大変だよ。いま、国がすごく難しい局面を迎えてるからね。政治的にも経済的にもかなり厳しい。すでに問題があった国なんだけど、近年はさらに悪化している状況だ。人種差別、暴力、貧富の差もひらく一方だしね」
——それでも、リオを愛している?
「もちろんだ! まだ学校に通っている息子がいるし、素敵な鳥や猿たちもいるからね(笑)」
ARTO LINDSAY
『Cuidado Madame』