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カウント・ベーシースウィング・ジャズチャーリー・パーカードリス・デイビ・バップビング・クロスビーモカンボ ・セッション横浜ちぐさ連載「ヒップの誕生」
投稿日 : 2019.08.06 更新日 : 2021.09.09
取材・文/二階堂尚 撮影/高瀬竜弥 協力/一般社団法人 ジャズ喫茶ちぐさ・吉田衛記念館
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第二次世界大戦中に日本国内で禁止されたジャズは、終戦後に再び大衆音楽として広まることになる。戦後最も早くジャズに接したのは、占領の中心地である横浜の人々だった。ジャズ評論家・瀬川昌久氏(1924年生まれ)の証言とともに、終戦直後のジャズの動きを辿る。
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山下公園そばに繋留され、現在は「博物館船」となっている氷川丸。そのデッキに立つと、横浜みなとみらい21の全景を眺め渡すことができる。日本の高層ビルで2番目の高さを誇る横浜ランドマークタワー、風にはためくヨットの帆を模したというヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル、よこはまコスモワールドの巨大な観覧車、赤レンガの倉庫群──。74年前、この同じデッキから見えた横浜の風景はどのようなものだっただろうか。
海軍主計少尉として敗戦を迎えた瀬川昌久が氷川丸に乗船したのは、復員作業員の募集に応じてのことだった。1930年に日本と米シアトルを結ぶ貨客船として建造された氷川丸は、第二次世界大戦が始まると日本海軍に徴用され、病院船となった。戦地でけがをした兵士や海難者を国籍を問わず救助し治療するのが病院船の役割で、氷川丸は戦時中、白地に緑の線と赤十字をあしらって航海していたという。戦後はGHQ指揮下の引き揚げ船となり、戦地となっていた南方からおよそ4万5000人の旧兵士たちを日本に運んだ。その乗組員300人のうちの一人が瀬川だった。
「船内の作業を監督していたGHQのMP(憲兵)は、携帯ラジオを常に持ち歩いて音楽を流しっぱなしにしていました。おかげで私は朝から晩までアメリカのジャズやポップスやカントリーを聴くことができたわけです。よく流れていたのが、ドリス・デイが歌う〈センチメンタル・ジャーニー〉とビング・クロスビーの〈ホワイト・クリスマス〉でした」
瀬川は当時をそう振り返る。戦前から熱狂的なジャズの愛好家であった瀬川にとって、これ以上の職場はなかっただろう。復員兵を乗せた氷川丸が寄港したのは横浜港である。ここから瀬川と横浜の縁が始まることとなった。 もっとも、アメリカの音楽をリアルタイムで聴くことができたのは、船上の人であった瀬川らの特権というわけではなかったようだ。
「横浜の街を歩くと、そこかしこでラジオからジャズが流れていました。WVTR、いわゆる進駐軍放送です」
のちのFEN、現在はAFNと呼ばれている米軍の海外基地向け放送の前身である。駐留兵とその家族向けの電波を日本人が聴取できるようにしたのは、アメリカの占領政策の一環であったと見ていいだろう。エンターテイメントによって国威を拡大していくのは彼の国のお家芸である。しかし、その意図がどこにあったかとは別に、街角に流れる軽快なスウィングや甘いバラードが戦争に疲れた日本人の耳を大いに癒したことは間違いない。この進駐軍放送こそが、戦後の日本のジャズの出発点であった。
瀬川が『ちぐさ』に出会ったのは、氷川丸が引き揚げの任務を終えて、船を降りた頃だった。ジャズが流れる野毛の街をぶらぶらと歩く彼の目に『ジャズ喫茶ちぐさ』の看板が映った。扉を開ければ大音量のジャズが聴こえ、店の奥にはメガネを掛けた気難しそうな男がいた。その男、マスターの吉田衛(まもる)と瀬川が親しくなるまで、そう時間はかからなかった。吉田は瀬川より10歳ほど年上だったが、音楽の趣味がよく合ったからだ。
「戦前のジャズの話でずいぶんと盛り上がりましたね。日本で発売されていたカウント・ベイシーのレコードの曲名まで記憶されていて、いろいろと楽しく話をさせていただいたことをよく覚えています」
氷川丸での体験と『ちぐさ』での吉田との交流を経て、瀬川はジャズ評論家として頭角を現していくことになる。吉田の唯一の著書『横浜ジャズ物語』の聞き書きを担当したのも彼だ。瀬川の戦後の出発点もまた横浜であったのである。
当時のジャズはビッグ・バンドを主体とするスウィング・ジャズである。スウィングはあくまでも踊るための音楽であり、演奏されるのは主にダンスホールであった。戦後の日本でジャズを涵養したのもやはりダンスの現場である。当時のダンスの現場は二つ、すなわち、進駐軍専用のナイトクラブと、主に大学生らが主催するダンスパーティだった。
「終戦後、ダンスパーティは若者の間でたいへんな流行になりました。当時の数少ない娯楽であり、若者のほぼ唯一の社交場がダンスパーティでした」
まだ20代前半であった瀬川自身、何度となくパーティに足を運んだという。ダンスパーティには大学生が主催するもののほか、会社員や高校生が主催するものもあった。その点では、大衆的な娯楽であったと言っていいだろう。現代で言えば、ディスコやクラブの感覚に近いだろうか。違いは、そこで演奏される音楽が生バンドによるものであることで、ジャズ・ミュージシャンにとってダンスパーティは、重要な収入源であり、技を磨く修養の場でもあった。
当時流行したダンスの一つがジルバである。ジルバの名称は英語の「jitterbug」が転訛したもので、男女がペアになりスウィング・ビートに合わせて軽快にステップするダンスを意味する。そのジルバをより激しくしたのが「横浜ジルバ」、通称「ハマジル」だ。横浜の黒人兵のダンスが発祥と言われるハマジルは、スウィングよりもR&Bやロックンロールのビートに合いそうなスピード感のあるダンスである。ジルバはまた、英国で「ジャイヴ」と呼ばれるスタイルに発展し、社交ダンス界の一ジャンルとして定着することになった。
「最近、1920年代にニューヨークのハーレムで生まれたアクロバティックなダンス“リンディポップ”の流れを受けたダンスを、“スイングダンス”と呼んで楽しむ若者のグループが増えています。敗戦直後のダンスブームのリバイバルと言っていいかもしれませんね」
しかし、「踊るジャズ」の隆盛は戦後それほど長くは続かなかった。スウィング・ジャズは1940年代後半にまったく新しいジャズに主役の座を明け渡していくことになる。チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー、バド・パウエルらによって主導されたビバップである。
「ビバップの音自体(早いスピードと複雑なリズムと不協和音を含んだハーモニー)が、スウィングの付随物だったダンスを、その後のジャズ界から追放してしまった」
名著『戦後日本のジャズ文化』の中でマイク・モラスキーはそう書いている。スウィングと比べて極端に踊りにくい、というより聴衆を躍らせることを端から想定していないビバップを瀬川に初めて聴かせたのは、日本のジャズ評論の草分けの一人であった野川香文だったという。
「どこでどうやって手に入れていたのかわからないのですが、野川さんは新しいレコードを次々に入手して、私にもよく聴かせてくれました。チャーリー・パーカーを聴いたときは“わからないけれど、理解しなければならない”と感じたことを覚えています。〈ナウズ・ザ・タイム〉くらいならまだメロディを口ずさむことができましたが、〈アンソロポロジー〉あたりになるとお手上げでしたね。フレーズをほとんど覚えられませんでした」
これはのちの話となるが、ビバップの登場によって急速に廃れていった「踊るジャズ」は、1990年代になって再び脚光を浴びることとなる。英国を震源とするアシッド・ジャズのムーブメントがそれだ。ファンキー・ジャズ、ソウル・ジャズ、R&B、ファンク、ラップ、ラテンなど多彩なジャンルのミックスによって成立したアシッド・ジャズは、英国北部のいわゆるノーザン・ソウルのDJカルチャーとも結びついて、「クラブ」という場の価値を世界中に広める役割を果たした。
正統派の4ビート・ジャズの愛好家からは「こんなもののどこがジャズか」と罵られながらも、現代のジャズのスタンダードなスタイルとなっている多ジャンル混淆の方法論をつくったという意味でも、アシッド・ジャズは意義あるムーブメントだった。その方法論は、ロバート・グラスパーやカマシ・ワシントンなど現代ジャズ・シーンを代表するミュージシャンまで脈々と受け継がれている。
話をビバップに戻そう。米国においてビバップを先導したのは、マーケットや聴衆ではなく、ミュージシャンであった。自由気ままに突っ走るミュージシャンたちに業界とオーディエンスが必死についていったというのがビバップをめぐる実情である。 事情は日本でも同様であった。日本初のビバップ・バンドであった「グラマシー・シックス」が結成されたのが1947年7月、続いて、横浜を本拠とする「クラムベーク・ナイン」が結成されたのが48年12月である。そこから日本のジャズ・ミュージシャンたちの新しい音楽との格闘が始まった。
横浜の進駐軍クラブなどで練磨されていった日本のビバップは、54年7月、伊勢佐木町のジャズ・クラブ「モカンボ」における伝説の「モカンボ・セッション」において一つの頂点を迎えることになる。 スウィング・ジャズに合わせて陽気にステップを踏んでいた人たちが、この新しいジャズについていくのは簡単ではなかったはずだ。そこで重要な役割を果たしたのが、世界中で日本にしかない独自の「メディア」、すなわちジャズ喫茶であった。
(敬称略)
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