普段、クラシックを聴かないリスナーは、“ピアノ・リサイタル”に対して、どのようなイメージを持っているだろうか? 公演プログラムの中には、たいていショパンが含まれているとか、演奏者のプロフィールには、師事した先生だの、数々のコンクール受賞歴だのが、仰々しく記載されているとか……。ところが、そんな“因襲”と完全に断絶し、独特の美意識とユニークなプログラミングで、熱狂的なファンを獲得しているピアニストがいる。今年35歳を迎えるルクセンブルク生まれのフランチェスコ・トリスターノだ。
フランチェスコはショパンはおろか、リストやシューマンといったロマン派の名曲を弾くことがほとんどない。バッハ以前に書かれた音楽か、あるいは20世紀の作品――ストラヴィンスキー、ベリオ、ケージなど――を好んで演奏する。加えて、カール・クレイグやデリック・メイなど、デトロイト・テクノのアーティストたちの影響を受けた彼は、“ピアノ・リサイタル”の中でミニマル・テクノを弾くことも辞さない。
例えば、三鷹市芸術文化センター・風のホールで5月28日に開催されたリサイタル。“チャコーナ”と題されたこの日のプログラムは、フランチェスコの自作曲のほか、フレスコバルディとブクステフーデという2人のバロック作曲家をフィーチャーしたもの。自作はともかく、バロック曲のほうはチェンバロやオルガンのために書かれた作品なので、必ずしもグランド・ピアノでの演奏に適した楽曲とは言えない(というか、普通のピアニストは絶対に手を出さない)。なのに、どうしてこんなプログラムを弾くのか?
コンサート前半は、即興色の強い自作「Prolegomenon」で幕を開け、そのままフレスコバルディ「パッサカリアによる100のパルティータ」へと流れ込む。演奏時間わずか8分のあいだに数秒の変奏(バリエーション)を100曲続けて演奏するという変わった作品だが、フランチェスコが弾くと、チェンバロ演奏でありがちな“ブツ切り感”が消え、ほとんど“トリップ”と呼びたくなるようなグルーヴがジワジワと押し寄せてくる。前半の最後は、ブクステフーデ「アリア『ラ・カプリチョーザ』による32の変奏曲」。一説には、バッハの名曲「ゴルトベルク変奏曲」(グレン・グールドの名盤やキース・ジャレットらジャズ・ピアニストの演奏でも有名)の“元ネタ”とされている作品だ。変奏が最終段に差し掛かると、フランチェスコは何かに取り憑かれたように鍵盤をエネルギッシュに叩き始め、金属的な強打音が会場全体に共鳴し始める(しかも、ポリフォニックなラインを崩すことなく!)。コンサートホールというより、もはやクラブのダンス・フロアと呼ぶのがふさわしい、凄まじい大音響。この瞬間、フランチェスコの演奏が何を意図しているのか、はっきりわかった。
要するに彼は、バロック音楽もミニマル・テクノも“ループ”を多用した舞曲(ダンス・ミュージック)とみなし、数百年の時間の隔たりはあっても、基本的には同じ考え方で作られた音楽なのだ、と主張しているのである。このリサイタルのタイトルにもなっているチャコーナ(シャコンヌ)は、同じベースラインを延々と繰り返していく技法(オスティナート・バス)に基づく舞曲のことを指すが、その繰り返しを“ループ”と考えれば、ミニマル・テクノはまさに “現代のチャコーナ”と言えるだろう。だから、彼がバロック音楽と自作のミニマル・テクノを一晩のコンサートで弾くことの意味が生まれてくる。コンサート後半に演奏されたフレスコバルディのトッカータ4曲と「ラ・フォリアに基づくパルティータ」、それに自作の「バルセロネータ・トリスト」「ラスト・デイズ」「グラウンド・ベース」の3曲も、同様の観点で上演された楽曲だ。
こういうリサイタルを実現するため、フランチェスコは使用する楽器にも独特のこだわりを持っている。
現代のコンサートホールではスタインウェイのグランド・ピアノがたいてい常備されているが、フランチェスコが使用するのは、6年前にヤマハが発売開始したフラッグシップ・ピアノ、CFX。1900万円という高額な楽器ゆえ(市販のグランド・ピアノとしては現時点で最高額)、国内では常備しているホールが少ない。そのため、この日もヤマハからわざわざ楽器を搬入しての演奏となった。なぜ、そこまでフランチェスコは楽器にこだわるのか? バロック音楽特有のポリフォニックなラインをクリアに浮かび上がらせる繊細さと、ダンス・ミュージックの“ループ”を激しく弾き続ける時のダイナミズムを同時に表現できるのは、CFXしかないからである。その事実を、これまでの来日公演以上にはっきり示した、当夜の演奏であった。
フランチェスコ・トリスターノは演奏曲目から使用楽器に至るまで、現代の“ピアノ・リサイタル”の標準からは完全に逸脱している。しかし、そこには21世紀に生きるミュージシャンらしい現代的な感性、これまでの常識に囚われない奔放さ、そして知的で論理的な裏付けがある。同じような名曲を無批判に弾き続けるピアニストが飽和状態に達した現在、彼のような独自の個性を持ったアーティストが確固たる支持を得ているのは、これからのクラシック音楽の方向性を指し示しているようで、大変に興味深い。