改めてフェスの最終日を振り返ってみると、文字通りのジャズというよりも、ボサノバを含めたラテン・フレイバーが特徴的なラインナップであった。ワールド・ミュージックといってしまうと陳腐に聞こえてしまうが、まさに世界を旅しているかのような感覚、音を通じて映像が見えてくるような不思議な体験を得ることができた。
本イベントまで、事前の下調べもしないままでいたのは、とにかくフラットな気分で音楽に身を委ねてみようと思っていた。それは、今まで慣れ親しんだロックやポップスなら、一聴しただけで好きか嫌いかが瞬時に判別できてしまう自分が、馴れ親しみのない音楽にどのような反応をするのか、自分自身が知りたかったからでもある。
暖かな日差しとひんやりした風が心地いい三連休の日曜日、集まっていたオーディエンスからもリラックスしたムードが感じられる。年配の方も見かけるが、メインとなるのは30~40代くらいの方である。どちらかといえばコンサバが優勢であるが、ハット使いでさりげなく個性を感じさせるきれい目カジュアルの男性、自然体のカジュアルながらも上質そうなニットやストールでエレガンスを感じさせる女性も散見できた。
しばらくラウンジスペースでファッションチェックをしてから、メインステージへ。
お辞儀をしながらスポットライトに照らし出されたのは、現代アルゼンチン音楽における最重要アーティストと評される、アンドレス・ベエウサエルトである。アカ・セカ・トリオの中心メンバーとして知られ、ソロでも精力的に活動している。
アンドレスが1曲目に披露したのは、静謐な空間にすっと広がっていくようなエレクトリックピアノの音色。そこへ歌詞のないヴォーカルが重なっていく。水の波紋に音を付けるとしたら、こんな感じかも知れない。あえて変化の少ないブルーの照明と相まって、なんとも優しく、ゆったりとしたムードに包み込まれていく。2曲目はエレピの音色を変え、軽快なテンポのナンバー、3曲目は民謡のようなメロディーが印象的な楽曲を披露。曲間には英語のMCを挟みながら、スムーズに進行して行く。終始エレクトリックピアノと本人の歌声のみだが、それゆえこうした曲調のちょっとした変化がとても心地よい。
アンドレスの奏でる音楽に没入していくうちに、何となく思い出してしまったのが、グラミー賞を受賞したことでも知られる、米国人フォークシンガーのボン・イヴェールである。決して音楽的、地理的、人間的な接点があるわけではないが、静謐な中から立ち上がる澄んだ音が次第に広がって、やがて全体を包み込んでいくような感覚が共通しているように思えた。そんなことを考えているうちに、抑揚の効いたタッチで紡がれた旋律が印象的なラストソングへ。歌とエレピだけで、ここまでたくさんのイメージを表現することができるのかと感心し、心地よい余韻に浸ることができた。
そして本日の目玉である三宅純の登場を待つ。いよいよ、あの“ロスト・メモリー・シアター”の世界を生で体感できるのだ。しかも「16人編成の多国籍部隊を引き連れ、ジャズフェスティバルの常識を破り、ほぼワンマンショー的な内容で2セットやります」という氏の事前のコメントに、いやがおうにも胸が高まる。やはりフェスの大トリというだけあって、会場は次第に来場者が増えて賑やかになっていった。
薄暗いステージに照明が点ると、上手側の手前に三宅純、後方にストリングス、ホーンセクションが構え、下手側はピアノとパーカション、そしてあのブルガリアンヴォイスである。そして、女性ヴォーカルのリサ・パピノーと勝沼恭子、男性ヴォーカルのブルーノ・カピナンが中央に出揃う。
ストリングスが立ち上がり、ふくよかなベースラインとリムショットが追いかけていく。ブルーノのポルトガル語のヴォーカルがゆったりとしたメロディーを描き、リサのパートへ。次第にパーカッションが力強いリズムを刻み、静かだが力強く前へ踏み出すような印象を受けた。まさに一曲目にふさわしく、旅立ちを想起させる曲で幕を開けた。リサがメインヴォーカルを担当する曲を挟んで、いよいよブルガリアンヴォイスが本領を発揮していく。
南米の田舎町から抜け出しパリへ、そして東欧のどこかの国へ、そうしてイベリア半島のどこかの酒場へ。本当に世界を旅しているかのような、たくさんのイメージを想起させる。曲によっては中近東を思わせるようなメロディーまで飛び出してくる。ブルーノが歌うのは優しく寄り添うようなラテンの曲調が多く、リサが歌うのはフランス映画に出てくるようなシャンソンやポップスからの影響を感じさせる。
意外なほどにとっつきやすく、驚くほどにキャッチーだ。先入観を捨てて、ただ音に身を委ねればいい。ジャズなのかボサノバなのか現代音楽なのか、そうしたカテゴリー分けが、いかに無駄なことかを痛感させられた瞬間でもあった。どこかで聞いたことがあるような懐かしいメロディーに引き込まれ、様々な情景が入り混じり、オーディエンスを“ここではないどこか”へ連れ出してくれる。
ポルトガル語、フランス語、英語、日本語、聞きなれない東欧かどこかの国の言葉。リードヴォーカルが変わるたびに、曲調もイメージも大きく変わっていく。けれど、全体の統一感は損なわれず、ますますアンサンブルは心地よく重なり合い、力強く駆動していく。途中でメンバー紹介を挟みながら、テンポよく進行していくと、あっという間に第一部は終了。初体験となるロスト・メモリー・シアターは、まさにライブだけがもつダイナミズムに溢れ、iTunesを通じて耳にしていた印象とは全くの別物であった。
しばらく休憩してラウンジに戻るとKAZ TAP COMPANYによるパフォーマンスが展開していた。じつは彼らのパフォーマンスは以前に2度、ファッション関係のイベントで目にしたことがある。やはり生で耳にするタップは迫力と躍動感がたまらない。そうこうしているうちに、早くも三宅純の第二部が幕を開ける。最新アルバム『Lost Memory Theatre act-3』のリリース直前にライブで味わえるのだ。
冒頭のコズミック・ヴォイセズによるパフォーマンスは、どこか宗教的なモチーフを感じさせる。昔、昭和女子大学のホールで運よく体験できたビョークのライブでも、こうした神秘的なムードを味わったことを思い出した。続くのは、優しくも切ないボサノバギターとブルーノのヴォーカルが折り重なる曲。東欧のどこかの教会から、雨が降るブラジルの街中へ。曲によって目に浮かぶ風景も一気に変わる。そして、恋人へ訴えかけるようなリサがリードヴォーカルを取るナンバーへ。まさに映画のワンシーンを想起させる。
様々な記憶とイメージを呼び起こしながら、淀みなくライブは進行していく。絶え間無い拍手の中、アンコールも披露し終演へ。二部構成のボリューム感と、完璧な布陣による質の高い演奏、立体感があり輪郭のはっきりとしたサウンドシステムが渾然一体となり、すべてのオーディエンスを満足させたことだろう。
今回のレビューを書くにあたり、三宅純が下記のようにコメントしていたことを改めて記しておこう。
「どこかに失われた記憶が流れ込む劇場があったとしたらどうだろう? 記憶を渇望するブレードランナーのレプリカントのように、そこには記憶に焦がれた人たちが集まり、その記憶の疑似体験をしていく。そこで流れている音楽はどんなものだろう?」
こうしたロスト・メモリー・シアターのコンセプトが、現実のライブとなっていたのだ。ちょうど映画『ブレードランナー』の続編が公開されていることもあって、この“記憶を渇望するレプリカント”という言葉が胸に突き刺さった。新作の『ブレードランナー2049』では、失われた過去の記憶を辿って、主人公のレプリカントは自らの命も顧みずに危険な冒険を続ける。その行動はもはやレプリカントではない。慌ただしい現実に即応するだけの「機械的な日常」から、忘れかけていた記憶や旅の光景を追い求める非日常へ。手垢にまみれた文脈や解釈で音楽を語ってしまいがちだったが、アンドレスや三宅の音楽にはそうしたものは不要だった。そもそも音楽は言葉を超え、魂を揺さぶるものだから。
自分には親しみのない音楽に、これほど深い感銘を受けたのは何年ぶりだろうか。フェスの最終日を締めくくるにふさわしい貴重な体験となったのは、僕だけではあるまい。