原節子が、去る9月5日に肺炎により亡くなっていたことが報じられた。享年95。
翌月の24日には、同年生まれのモーリン・オハラが死去している(原節子が小津安二郎や成瀬巳喜男といった巨匠の戦後代表作に欠かせぬ存在だったとすれば、モーリン・オハラはジョン・フォードの1940年代以降の重要作の数々におけるヒロインである)。この映画史的偶然には震撼させられてしまうが、4月には、105歳まで映画を撮りつづけたマノエル・ド・オリヴェイラも永眠しているわけだから、2015年は、映画界の偉大な物語が相次いで幕を閉ざしたことにおいても記憶されるべき年になりそうだ。
今回は、日本映画界におけるレジェンド中のレジェンドたる原節子の追悼をかねて、1960年の小津安二郎監督作『秋日和』を取り上げたい――そう思い立ち、2年前に購入しておきながらも今日まで再生機にかける機会を逸してきた「ニューデジタルリマスターBlu-ray」とやらをやっと手にとり、何年かぶりに同作を見直してみると、これがまあ、呆気にとられるほど素晴らしく、うろたえながらの鑑賞となったことをまず告白する。
4Kスキャニングなる技術をもちいておこなわれたという映像の調整なり修復なりが、ほとんど初見の鮮度をあたえるくらいに作品を鮮明化しているわけだが、そうすると、ますます明らかになってくるのは、監督小津安二郎による演出の、嘘みたいな厳密さである。
たとえば、それは小津作品としては特に珍しい趣向ではないとはいえ、建具の格子や布柄等々の背景に見られる直線の交差が異様に際立つなかに食器や置物等々の小道具に見られる曲線を適宜に配した、一分一厘の狂いもない空間造形と統一感を維持する画面設計はもちろんとして、滞ることのないリズミカルな芝居の流れとその変遷を構図におさめるカメラの位置とカットの切り替わるタイミングがあまりにも的確かつ絶妙すぎるため、日替わりなどの時間経過がたしかに示されているにもかかわらず、すべては時間も空間も介さずに起こった、長さも広さもない夢の出来事であるかのように思えてしまうのだ(法事ではじまり婚礼でおわる儀式間円環構造がそうした印象を余計に強めているわけだが、そもそも『秋日和』自体、同型ドラマの先行作『晩春』とのあいだで円環構造を形成していたのだと言えないこともない)。
小津作品にあって、それらすべてはわかっていたことのはずなのに、久方ぶりの再見で、しかも「ニューデジタルリマスターBlu-ray」とやらでの鑑賞となると、こちらが受ける印象もいちだんと更新がはかどり、どこを目にしても感嘆の溜め息がもれるばかりだ。
そんななか、デジタル的鮮明化によってあらためて明らかになった(かのような錯覚から見てとれる)のは、なだらかな持続のうちでも表現のアクセントは可視化できる、という小津安二郎の演出意図だ。皆さんとりあえずはここをじっくり見てください、と指でもさされているみたいな感覚が、画面を追うごとに浮かびあがってくるのだが、そうしたなかで小津が観客にとりわけ注目させようとしている(かのように思えてくる)のは、作中のどのあたりなのか――これはもちろん、『秋日和』の全体を通して殊に強調されている(かのように見えてくる)のはなんなのか、という問いだが、結論からいえば、それは芝居する役者たちの口もとなのである。
小津作品のひとつの傾向として、作中人物たちのテーブルトークで主に芝居が構成されるという特徴があるが、『秋日和』も例外ではない。つまり作中人物たちはよくしゃべる。また、おしゃべりを演ずる役者たちの姿は、ひとりひとり個別のショットに切り取られて示されることが多い。そして当のショットは、たいていほぼ真正面から撮られている――そうでない場合でも、会話を交わす役者たちはカメラのほうに顔だけを向けてくる。するともっぱら画面中央には、男女の俳優たちの口もとが位置することになるのである。
むろんこれは、スクリーンのどまんなかに役者の口があるからそれこそが作品の要だというような単純な話ではない。小津の映画では、口もとの芝居にも周到な演出がほどこされている(かのように見える)ことをここであらためて特筆しておきたいのだ。少なくとも、『秋日和』からはそのことが強くうかがえる。
ならばその演出は、いかなる形で作中に反映されているのか。『秋日和』に見られる口もとの芝居は、男女によって明確なちがいが認められる。具体的には、それは歯の有無として確認できる。男の俳優たちは歯を隠しながらしゃべるのに対し、女の俳優たちは微笑むように口角をあげたまま台詞を口にするのが基本形になっている。すなわち、原節子をはじめとする女優たちが話す際、ほとんどの場合、白い歯がきれいに見えているのだ。
この、歯の有無として見てとれる男女間の差異は、もともと監督が指示したものか、単に出演俳優たちの表情づくりにたまたま男女別にあらわれただけの共通点か、どちらなのかは定かでない(ちなみに、意図的と思えるほど歯を隠す女優や屈託なく歯を見せる男優という例外的場面も皆無ではない)。が、完成した作品に、明らかな特徴と受けとめられるくらいにはっきりと組み込まれているのだとすれば、それは創作面の最終決定権を持つ作者の意図した結果と見るべきだと筆者は考えている。
いずれにせよ、『秋日和』に関しては、そのたまたまの結果かもしれない歯の有無が、ドラマ上の出来事の意味合いを巧みに補完する働きも果たしており、作品の完成度を大いにあげることに貢献しているのはたしかだろう。たとえば作中、歯を隠し通してしゃべる存在として最も目立っているのは、悪友三人組の熟年男たちだが、彼らは原節子と司葉子演ずる母娘に要らぬお節介を焼くべく悪だくみを話し合ってばかりいる役柄だからこそ、そうした口もとの隠伏ぶりがいっそう効果的に見えるのである。
佐分利信、中村伸郎、北竜二演ずる悪友三人組が、歯を隠す側の代表的キャラクターだとすれば、歯並びを最もあらわにしながら振る舞うのが、言うまでもなく、原節子演ずる熟年の寡婦である。『秋日和』の原節子は、初の小津作品『晩春』での芝居のごとく素早く階段を駆け上がったりはしないし、激情に身を震わせることもなく、いつものように、いや、いつも以上にあのトレードマーク的な微笑みを形作るばかりだが、そのきわめてシンプルな演技によるコントラストの表現は、ここにきてついに、最小にして最大級の効果をあげるまでにいたっている。
なにがあっても、ほうれい線がくっきりと際立つくらいに口角をあげた表情をつらぬこうとしているかに見える原節子は、隠し事などひとつも持たぬと周囲に訴えているかのごとく、白くきれいに並んだ歯を常にさらしているかのようでもある。逆に見れば、だからこそ、原節子の歯が見えなくなった瞬間の緊迫感はただごとではないものとなるわけだ。
いつも笑顔を絶やさぬものの、瞼の開き具合や目力の加減で感情の微妙な変化を伝えてくる原節子は、稀にすっと口を閉ざして一気に深刻な顔色を組み立てることもある。たとえば作品前半、司葉子が非婚主義を宣言する場面。笑顔が常の原節子が口を閉ざして歯を隠すと、その動揺や悲哀が途端に画面全体に波及するだろう。理想的な形でのミニマリズムの実践例だが、それがひとつの伏線として機能しているところにも『秋日和』の隙のなさが認められる。
作品終盤、司葉子の婚礼に出席した夜、悪友三人組は悪だくみのいちおうの成功を祝って酒を酌み交わし、「おもしろかった」などと言って笑い合う。女優たちほどではないにせよ、そこで彼らは抜け目なく、歯が見えるようにして語らっているのである。
すなわち、『秋日和』が作品全体を通して展開させていたのは、口もとのしぐさにおける逆転劇でもあるのだ。作品の最終場面、気づかって訪ねてきてくれた岡田茉莉子を玄関で見送ったあと、本当にひとりきりとなった原節子は、寝床に座り込むと、わずかに涙を浮かべながら口を閉ざしたまま微笑んだような表情を見せる。あれほどまでに歯並びをあらわにしてきた彼女が、あたかもその権利を三人組の熟年男たちに奪われてしまったかのごとく、唇の隙間から白い歯をのぞかせることはもはやない。彼女はただ、ひとり娘を嫁がせた母親の喜びや悲しみがないまぜになったかのような、なんとも言えない顔つきをさらすばかりなのである。恐るべき芝居の構成であり、呆気にとられるしかないほどに見事な映画の構造だ。
看板に偽りありと言われかねないので、最後に少しばかり、音楽面にも言及しておこう。小津作品の音楽については、「小津安二郎の映画音楽 SOUNDTRACK OF OZU」(http://soundtrack-of-ozu.info/)というサイトに詳細な情報が載っていて参考になる。悲しい場面だから悲しげな曲が流れるのではなく、頭上の空のごとく作中人物の心情に左右されぬ「お天気のいい音楽」を流すことに小津はこだわっていたという逸話があるそうだが、『秋日和』の主題曲もやはり軽快なポルカだ(小津は特にポルカを好んで使っていたようだ)。その曲調もまた、原節子の微笑みと重なり、必ずしも見た目通りとはかぎらない、『秋日和』のドラマにおける複雑なコントラストの表現に寄与していると言える。おなじ曲調がつづいても、音量の強弱やドラマ上の内容が音楽自体のおもむきも変えてしまうからだ。
– 作品情報 –
タイトル:【Blu-ray セル】 小津安二郎生誕110年・ニューデジタルリマスター 秋日和
メディア:セルBlu-ray
レーベル:Victor Entertainment
発売日:2014年3月8日
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