投稿日 : 2019.08.22 更新日 : 2021.09.03

【証言で綴る日本のジャズ】大隅寿男| “陸上部のヒーロー” がアート・ブレイキーでジャズに開眼

取材・文/小川隆夫 撮影/平野 明

大隅寿男 インタビュー

バイトでプロのドラマーに

ぼくは一流企業を目指してました(笑)。でも優が1個か2個しかなかったもんで、学校の推薦はもらえない。兄貴たちには会社で偉くなっているひともいたもんですから、紹介をしてもらって。いわゆる一流企業っていうところを何社か受けたんです。強いコネがあれば別でしょうけど、通るわけないじゃないですか。見事にぜんぶ落ちました(笑)。兄貴たちにも骨を折らせちゃったから、謝りに行って。

そうしたら、落第もしてたんです。これはショックでした。大学の本部長に、「大隅君、就職決まりましたか?」「まだですけど」「幸いだった。人生、長いから、もう1年頑張りなさい」(笑)。いまでも覚えていますよ。落としたのは8単位だけど、絶対に落としちゃいけないのを落としてたんだから、しょうがない。憲法、これは必須なんです。あと、経済原書。日本語で読んでもわからないのに、英語で経済学の本を読むんですから。そのふたつを落としたもんで、絶対にダメでした。再試験もしてくれないし。

来年の手続きをして、8単位で授業料が3万円。明大は割と安かったんです。それでもその3万円を作らなきゃいけない。そのときに、「ドラムス募集」というのが石井音楽事務所であったんです。なにも知らずに行ったら、テストで「これ1曲やって」といわれて、ジョージ・シアリング(p)の曲が出てきたんです。そういうのも聴いていましたから、イントロとエンディングもわかっていて。それで合格。

給料は月30回の仕事でF万(4万円)。1回増えるごとに何パーセントか歩合がつく。わけもわからずに「ありがとうございます」。当時、NHKの初任給が3万8千円だったんです。それが「F万」といわれたもんですから、「これはいいや」と思って。まだ、楽器も持ってなかったんですよ。でも、次の月からいきなり連日仕事になりました。

——そのアルバイトはどうやって見つけたんですか?

友だちの口伝えだったんですよ。ぼくは石井音楽事務所がなんの事務所かもわからなくて。あそこは石井好子(注7)さん、シャンソンの大御所の方の事務所で。そこに所属していた岸アツシとラテンエースというバンドに入ったんです。

(注7)石井好子(シャンソン歌手 1922~2010年) 大学卒業後、渡辺弘とスターダスターズの専属歌手などを務めたのち、サンフランシスコ留学を経て52年に渡仏。パリでシャンソン歌手としてデビューする。日本シャンソン界の草分けであり、日本シャンソン協会初代会長。

——それがいまからちょうど50年前の69年のこと。これはラテン・バンド?

ラテンもやるけど、いろいろです。石井音楽事務所のシャンソンの歌伴はすべてやりました。リーダーの岸さんはピアニストで。ラテンエースは、ピアノ、ギター、ベース、ドラムス、コンガの編成で、コンガのひとが歌って、みんなでコーラスもつける。だからコーラス・グループですね。ぼくも歌わされました。「ハモれないです」「じゃあ、メロディ、歌って」(笑)。

——どういうところで?

「銀座日航ホテル」の地下、「銀巴里」、「ホテルオークラ」の「エメラルドルーム」、いろんなところに行きました。銀座のクラブ、あの当時はクラブが華やかで。そんな世界があるとは知らないじゃないですか。

——学校は?

二部(夜間部)に行かされるんです。授業が毎日あるわけじゃないから、なんとか調整しながらですね。バンドはほぼ毎日ありましたから、代返もしてもらって(笑)。

バンドに入ったときは、アルバイトと考えていたんです。でもやっているうちに、「お前のブラシ、いいよ」とかいわれたりして、ちょっと面白くなってきた。音楽はなにかもわからないけど、イントロとエンディングは運動神経がいいから、見よう見まねで上手くやれたんですね。パッと切り替えるとかもね。ジョージ・シアリングとかカル・ジェイダー(vib)とかのラテンの感じは耳では知っていましたから、なんとなくできちゃう。

いちばん失敗したのが、銀座のクラブで武井義明(vo)(注8)さんの伴奏をしたとき。いきなり出てきて、なんの曲をやるのかわからない。「ワン、トゥ、ワン、トゥ、スリー」。怒られましたよね。リーダーに「お前、譜面できないの?」。岸さんは音大を出ているから、譜面が読めないのを不思議に思ったんでしょうね。でも、そういうことにも対処しながら、意外と真面目なんで(笑)、どんどん吸収して。

(注8)武井義明(ジャズ歌手 1934~94年)中央大学在学中にフランク武井の名でジャズののど自慢大会で優勝し、プロ入り。疋田ブラザーズ楽団の専属歌手を経て、ジョージ川口、与田輝雄らのコンボで歌い、その後に独立。59年『第10回NHK紅白歌合戦』に初出場。  

岸さんはラテンに詳しくて、マンボ、ルンバとか、教えてもらいました。モダン・ジャズしか聴いてないから、そんなのやってないじゃないですか。それが財産ですね。給料はもらう。毎日楽しい思いはできる。ミュージシャンと知り合う。歌のお姉さんたちには可愛がられる。音楽がわかるようになってきて、嬉しかったですね。

そのころはシャンソンの一流のひとが揃っていたんです。丸山明宏(現在の美輪明宏)(注9)さんもいました。なぜか学生服を着ていましたね。ちょっと不思議なひとでした。それから、マーサ三宅(注10)さんもいました。シャンソンでは大木康子(注11)さん。このひとは抜群でした。金子由香利(注12)さんも素晴らしいなと思って。ジャズの世界より、日本語で歌うこういう歌に感動しちゃうというか。

(注9)丸山明宏(シャンソン歌手 1935年~)進駐軍のキャンプ巡りを経て、57年日本語カヴァーの〈メケ・メケ〉で注目される。独特の装いから「シスターボーイ」と評されたのがこの時代。以後は役者としても活躍し、71年美輪明宏に改名。
(注10)マーサ三宅(ジャズ歌手 1933年~)【『第2集』の証言者】高校時代から銀座のキャバレーで歌い始め、53年に本格的なプロ・デビュー。56年に大橋巨泉と結婚(64年離婚)。72年、後進を指導する場として「マーサ三宅ヴォーカルハウス」開校。その後も精力的な活動を続け、わが国を代表するジャズ・シンガーとしての地位を確立。
(注11)大木康子(歌手 1942~2009年)シャンソンを深緑夏代に師事し、62年に平岡精二クインテットの専属歌手でデビュー。64年〈踊り明かそう/君住む街〉でレコード・デビュー。68年〈誰もいない海〉がヒットする。
(注12)金子由香利(シャンソン歌手)60年代から「銀巴里」で高い評価を受ける。77年『いつ帰ってくるの・銀巴里ライヴ』でクローズ・アップされ、87年『第38回NHK紅白歌合戦』出場。代表曲は〈再会〉〈時は過ぎてゆく〉など。

ジャズに転向

——仕事も充実して。

ところがだんだんプロ意識に目覚めてきて、「ここにいちゃいけない」と思い出したんです。なんにもできなかったのに、精いっぱい教えてくれて、使ってくれて、上手くなってきて。向こうは、「これから稼ぎどき」と思ったんじゃないですか? なにもいわれなくてもパッパとできるようになっていましたから。

だけど、「申し訳ないですけど、来月で辞めさせてください」。岸さんには怒られました。いいひとで、ほんとにお世話になったんです。ほかに行こうと思っただけで、あてはなかったけれど、とにかく辞めて。ここにいたら、歌謡曲で沈んじゃうと思ったんです。ぼくの勘で、これは世界が違うなと。

——それはジャズがやりたいと思ったから?

そうです。シャンソンも素晴らしいし、シンガーの方も素晴らしい。でも、それが好きでドラムスを叩いていたわけじゃない。なんだかわからないけど、この時代のモダン・ジャズがやりたい。それで辞めたんです。

ところが、そのときの石井音楽事務所に、のちに『砂の器』の音楽をやられる菅野光亮(かんのみつあき)(p)(注13)さんがいたんです。「辞めたの?」というから、「はい」「じゃ、うちでやる?」。「事務所が同じだからばれちゃうけど、いいのかな?」と思ったけれど、「お願いします」。でも、2、3か月は間が空いていましたから。

(注13)菅野光亮(p 1939~83年)東京藝術大学在学中の66年「第35回日本音楽コンクール作曲部門第2部」3位。卒業後は主にジャズ・ピアニストとして活躍。74年映画『砂の器』のテーマ曲を作曲・演奏し、「第29回毎日映画コンクール音楽賞」「モスクワ映画祭ソビエト作曲家同盟賞」受賞。その後も映画やテレビ・ドラマの音楽を多数手がけた。

——岸さんのバンドは丸1年?

ちょうど1年。大学を卒業する前に辞めたのかな? 卒業式には行ってないんです。証書だけいただいて。当時は卒業式ができなかったのかもしれません。日大闘争の時代ですから。

菅野さんのバンドは基本がトリオで。「お前、譜面読めないんだってな」「はい、ぜんぜんわからないです」「ト音記号、書いてみな」。書いたら、「あ、お前、やっぱりわかってないんだな」。ばれちゃって。本当に知らなかったんですよ。「じゃ、少し教えてやるから、仕事が終わったら、オレを送れ」。毎晩、国立まで送りました。それで教えてもらって。

あのひとは藝大(東京藝術大学)を出て、現代音楽をやっていて、弦楽四重奏が専門だったんです。バルトークとか、わけのわからない音楽を聴かされて。「いちおう、聴いておけよ」「感じたままに弾くんだよ」とか、いろいろ教えていただきました。

菅野さんは、「オレもジャズがやりたい。だけど学校で現代音楽の作曲を学んでいるから、譜面がないとできなくなっちゃった。オレから見ると、お前がちょっと羨ましい。なんにも知らないで一緒に演奏してて、パッと変化を読み取ってつけるっていうのは、やっぱりジャズに向いているんだな。オレはジャズがやりたいけど、いまの若手のピアニストを見ていると、やっぱりオレは自分が駄目だなと思うんだ」といってました。

「だから、お前はそのままやったほうがいい」といわれたんです。「駄目だったらダメだっていうから。でも、お前は大丈夫だと思うよ」ともいってくれました。音楽の教育も受けていないのに、そういう言葉に後押しをされて。いろんなひとに後押しされたんですけど。

——ジャズ・ドラマーとしては初期の時点で、そういうことがあって。

だから、なお調子に乗っちゃって。

——菅野さんのところにはどのくらい?

2、3年いました。その間に大野雄二さんからも誘われだしたんです。菅野さんはヤマハ財団のお偉いさんになったので、代わりに大野さんとか八城一夫(p)さんとか、いろんなひとを紹介していただきました。

クラシックのお偉い方にも何人か紹介していただいて、口もきけないような方ばっかりでしたから、いまでもありがたかったなと思うんですけど。指揮者の渡邉暁雄(注14)さんとか山田一雄(注15)さんとか。渡邉暁雄さんは優しいひとでしたね。山田一雄さんは怖い方でした。菅野さんがいたからできたんですけど、山田さんとは1回仕事をしたことがあります。

(注14)渡邉暁雄(指揮者 1919~90)45年東京都フィルハーモニー管弦楽団(現在の東京フィルハーモニー交響楽団)専属指揮者。50年米国ジュリアード音楽院指揮科に留学。56年日本フィルハーモニー交響楽団創設に尽力し、初代常任指揮者に就任。終生日フィルと緊密な関係にあった。
(注15)山田一雄(指揮者 1912~91年)日本のクラシック音楽界を支えた指揮者であり、作曲家。東京藝術大学名誉教授。  

そのうち菅野さんとはフェイドアウトしていって、八城さんと大野さんとやることが多くなりました。八城さんは銀座の「ジャンク」で。名前がある方だから、みんなに「八城さんとやってるの? よかったな」とかいわれて。「あ、そういうもんなんだ」と思いました。大野さんとは「タロー」とか、六本木の地下に降りたところにある「きんや」って知ってます? そこが多かったですね。月に1、2回、だいたい歌伴だったですけど。

山本剛との出会い

——そうこうしているうちに山本剛(p)さんとやるようになる。

山ちゃんとも重なっているんですけど、そのころですね。

——「ミスティ」ができて、最初に菅野邦彦(p)さんが出ていて、そのあと、山ちゃんが専属になる(74年1月)。  

1年ぐらいしてぼくが入るんです。

——山ちゃんとはどこで知り合ったんですか?  

最初は「キャラヴァンサライ」という店ですね。それは山ちゃんのバンドじゃなくて、加藤さんというヴァイブのひとのバンド。そのバンドに1か月くらい入ったことがあって、そこで山ちゃんと会ったんです。

そのあと山ちゃんが「ミスティ」に入って、『ミッドナイト・シュガー』(スリー・ブラインド・マイス)(注16)がヒットして。そうしたらバンドが解散になったんです。ジローさん(小原哲次郎)(ds)と福井ちゃん(福井五十雄)(b)が辞めて。

(注16)『山本剛トリオ/ミッドナイト・シュガー』メンバー=山本剛(p) 福井五十雄(b) 小原哲次郎(ds) 74年3月1日 東京で録音  

山ちゃんとは「キャラヴァンサライ」で別れたけれど、そのときの音を覚えてくれていたんでしょうね。「大隅ちゃん、どうしてる?」って電話があったんです。「毎日できる?」「ああ、行くよ」「ギャラはこうだ」「エエッ! 絶対いく」(笑)。

「ミスティ」がどういうところか知らなかったけれど、山ちゃんだしね。彼のピアノも知ってたから。それで、連日やるようになったんです。そのときが29歳でした。25で石井音楽事務所に入って4年目ですか、いろいろな点で安定してきたのが。

それまでは不安の連続でしたから。雄二さんのところも八城さんのところも素晴らしいバンドで、ぼくの前にやっていた方を見ると、ぼくなんかとてもかなう相手じゃないのに、やらせてもらって。だけど、やっぱり不安でした。仕事もたまにしかないし、不安定ですもん。

雄二さんは自分でギャラを取らなかったですね。角川映画で忙しかったから、ギャラなんていいんです。ただやりたい。だから「お前らで分けろよ」といってくれて。

——それで「ミスティ」に入って、すぐに山ちゃんとレコーディング。

入ってすぐだったような気がします。だから、わけもわからず、曲目もわからず、アドリブがどうなるか、エンディングがどうなるかもわからず。あれ、クリスマス・セッションですよね(注17)。

(注17)『山本剛トリオ/ライヴ・アット・ミスティ』『山本剛/ブルース・フォー・ティー』『山本剛トリオ/ジ・イン・クラウド』(すべてスリー・ブラインド・マイス)のこと。メンバー=山本剛(p) 大由彰(b) 大隈寿男(ds) 森山浩二(conga) 74年12月25日 東京・六本木「ミスティ」でライヴ録音

——これが初レコーディング。大隅さんの当時の印象はスウィンガー。このレコードもそうでしたが、よくスウィングするドラムスで、山ちゃんにピッタリでした。

いや、最初のころは自信がなくて、不安で。余裕もなかったし、必死についていくだけでした。

——でも、山ちゃんを盛り上げていました。  

そうですか? 彼が乗ってくると、こっちはもっと行かなくちゃっていう気持ちになりますから。連日、そんなかけ合いでしたかね。

——結局、何年ぐらい?  

どうだったんだろう? そのうち山ちゃんはニューヨークに行くでしょ(77年)。それまでだから。

——バークリー音楽大学に入って、すぐ辞めて、ニューヨークに行ったんですよね。  

そう、それで大由(彰)(b)とぼくは「ミスティ」に残ったんです。オーナーが気に入ってくれて、「大隅、お前、好きなひと呼んでいいから、ブッキングしてくれ」。バンドがいなくなったんで、困ったんでしょうね。「ツヨシが帰ってくるまで、やってくれよ」というんで、ピアニストを集めて。大由君はそういうタイプじゃなかったんで、ぼくが呼んで。

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